春の午後
《プロトコール=あらかじめ定められている規定、手順、試験/治療計画などのこと。》
医療用語など、分かりにくい表現は追って解説します。
<高村 学>
この日の俺は、珍しくもらった平日の半休を利用して、都心へ出かけることになっていた。駅へ徒歩で向かう。スーツのせいか身体が動きずらい。身体が重い。なんとなくこういう日は車を運転しないほうがいいのを知っている。どうせ、行く先は最寄駅の近く。なんら避けられるリスクはなるべく避けた方がいい。駅前の商店街のタバコ屋の前で足を止め、片隅で一服をする。ネクタイがキツイ。せっかくのタバコがうまく身体に取り込めない。そんな事を考えながら時計を見る。タバコ屋の灰皿でタバコを消すと、俺はまた駅へ向かい始めた。
人の流れに任せて駅の改札を抜ける。昼間の構内は、人もまばらだ。エスカレーターを降りて、2番線のプラットホームで新宿行きの電車を待つ。小さな駅の構内は、見渡しが良く、線路の隣の桜の並木がよく見える。風が暖かい。春になったんだなぁとぼんやり空を見上げて、ふと可笑しくなる。こんな俺にも、まだ春を感じる感覚が残っているのかと。
突然、この長閑なホームに、女性の悲鳴が響いた。
ー誰か救急車!!
自分の身体が勝手に動く。
何かあったと、悲鳴が聞こえた方へ向かって走る。
そこには気を失って倒れた男性の姿が見えた。
ベージュのスプリングコート、ジーンズに赤いチェックのネルシャツ、学生だろうか、明るい茶色の頭。
声を掛けても反応がないらしい。
「医者です!!」
俺はとっさに大きな声を上げ、人混みをかき分け、男に近ずき跪く。
腕を取る。
ー脈が触れない。
男性の首回りのボタンを外しながら、意識レベルを確認する。
「聞こえますか、どうしましたか、大丈夫ですか?」
ー反応がない。
「脈を取ります。」っと左の首筋に指三指を当てる。
ーない。
呼吸は…男性の口と鼻のあたりに自分の耳を当てる。
ーない。
ー心肺停止だ。
すぐに気道の確保、男性の下顎を上げ、口の中に異物がないか確認。
自分のスーツを脱ぎ捨て、ネクタイを外し、シャツの袖まくり上げる。
男性のシャツの上から胸骨剣状突起を探し、両手を胸の上に合わせ、心臓マッサージを開始する。
1、2、3、4、5…
次は、男性の鼻を指でつまみ、口から空気を送り込む。
フゥー、フゥー。
2回。
そしてまた、心臓マッサージに戻る。
1、2、3、4、5…
男性の鼻をつまみ、口から空気を送り込む。
肌は陶器のように白くなり、唇にはチアノーゼが現れ始めた。
もう一度、心臓マッサージをする。青紫がかった唇に、息を吹きかける。
ー戻れ!!!!
「AEDを…!!」っと、叫んだ瞬間、その男性が息を吹き返した。男性の胸がかすかに上下に動き、呼吸が戻ったのがわかる。
スゥーっと自分の身体中の筋肉の緊張が解けるのがわかる。
ー最悪の事態は免れた。
意識レベルはまだ低い、朦朧としているようだ。脈を再度確認する。徐脈だ。PVC*かなんらかのブロックか、不整脈がある。携帯電話を取り出し、ライトで瞳孔を確認する。拡大、左右差はない。
脳ではなさそうだ、心臓だとほぼ確信する。
「わかりますか?」
「大丈夫ですか?」
「あなたは、駅のホームで倒れたんです。」
「安静にしててください、これから、救急隊が来て病院へ搬送します。」
早口に説明していると、駅員が「道を開けてくださいー」と大声で叫びながら、救急隊を誘導しながらこちらに向かってきた。
ストレッチャーに男性を乗せ、改札を抜け、エレベーターで救急車ま運ぶ。
「◯◯病院、循環器内科の医師高村です、同乗します。
病院へは私が連絡を取りますので、お手数ですが◯◯病院へ搬送してください。」と救急隊に伝え、さらに、モニターと酸素の指示をする。
携帯で、病棟へ直通電話。
「高村です、師長はいますか?これから一人急患を連れて行くので、リカバリーでも何でもいい、ベッドを空けておいてください。」
そのまま放射線科にも電話。
「これから緊急カテが入る、準備をお願いする。」
ひと息ついて、救急車内のイスに腰掛けようとすと、男性の冷たい弱々しい手が俺の手を掴んでいるのに気がついた。
無碍にも払えず、俺は黙ってその手を握り返した。
ー安心しろ、一緒に行くから。
俺は心の中で呟いた。
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<深海 直政>
病院の匂いがする。どうやら僕は病院にいるんだと気がついた。
白く光る照明が目に刺さる。モニターの音がピコピコと規則正しく鳴っている。
僕は、半ば朦朧とした意識の中、高村という医師にあった。彼は挨拶をすると、僕の腕を取り脈を測った。そして、シャツを開け、聴診器を胸に押し当てた。
彼の長い前髪が僕に近づいた。
変わったタバコの匂いが微かにする。
彼はモニターをチェックし、何か記録を書き、どこかへ行ってしまった。
ーさっきの匂いを知っている。
僕は、ぼんやりそんな事を思いながら再び目を瞑った。
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<高村先生>
驚いたことに、俺が駅で助けた患者はうちの病院の医者だった。
心療内科医師、深海直政、30歳、同い年。2年前から、ここで働いていたらしい。全く知らなかった。
ナースステーションの隅で、患者の記録をカルテに書き込みながら思う。結局、半休の数時間も消化できずに救急隊と共に自分の勤めている病院に舞い戻ってしまった。
部長の武藤先生には笑われるし、カテ室の放射線科スタッフにはびっくりされた。
それでも、患者は適切な処置によって患者の命は助かった。俺の半休も無駄ではなかったと、自分を納得させる。
緊急の新患が入ると病棟は嵐の中のようになる。ナースステーションにはカルテや患者のネームプレート、血液検査データー、記録用紙が散乱し。ナースが行ったり来たりする。
「看護婦さん。深海さんの酸素1リットル、カヌラ*で始めておいて。」適当にそこにいる看護師に声を掛けて、抜けている指示を出す。
緊急カテも自分の手で行い、病棟へ患者を送り届け、状態が安定したのも確認した。記録も書き終わり、指示も出した。他に何か忘れたことは無いかと頭の中を整理する。
すると俺を見つけた武藤部長が「今日は俺が当直だ、お前は帰れ。」と叫ぶ。
俺は、おもむろに椅子から立ち上がり、上着をとって「お先に失礼します。」と挨拶をし、殺伐とした病棟を後にした。
エレベーターに乗り1階へ、病院の職員用エントランスを出る。もう夕方だ。外の空気が冷たい。
俺の興奮はまだ冷めない。身体中が熱い。皮膚はしっとりと汗をかいている。
久しぶりに想定外の急変に当たった俺は、躁状態にあった。人命救助は一分一秒を争う。初期対応で患者の予後は大きく変わる。体内の緊張がアドレナリン呼び起こし、それが爆発する。血液を介し全身を駆け巡り、指の先から髪の毛の一本に至るまで残すところなく、俺を支配し興奮させる。
ポケットからタバコを取り出し火をつける。最初の一口をしっかり味わうように、肺全体に煙を吸い込む。独特の香りが脳に響く。ニコチンが肺へ、そして肺胞へ沁み渡る。俺は、俺の中を駆け巡っているアグレッシブな興奮を抑えつけようと、もう一度タバコを吸う。そして、その興奮を体外にリリースするように、ゆっくりと煙を吐き出す。
もう一度、タバコを吸う。そして、俺は院内の寮にある自宅へ向けてゆっくり歩き出した。
初心者です。いろいろワタワタしています。