彼がずっと言いたかった言葉
昔、爺ちゃんと神様のお話をした事がある。
神様はこの九つに分けられた世界に沢山いて……その存在とは、僕の居る所から遠い……星に触れる程の彼方に居るかと思えば、眠っている僕の産毛を撫でる程近くにも居ると言う。
僕には難しく、その言葉の本当の意味が分からなかった……。ただ始めて聞くそのお話に夢中になって、一言一句言葉を漏らさぬように真剣に相槌を打ったんだ。
「グラーズ、神とは何だと思う」
「……うーーん、……分からないや。爺ちゃんは分かる?」
「……そうだな。儂にも、はっきりとは分からない。我々の言葉では収まりきらない余りある存在なんだ。……ただ、そんな存在だからこそ、その御技が起こす物を奇跡と呼ぶのだろう」
「奇跡……?」
「儂達に出来る事なんて、たかが知れてる。限度が知れてるんだよ、そんなどうしようもない、限界の向こう側で起こる説明のしようがない出来事……とでも、言えば分かるか?いや、例えが難しいな、小さなお前には」
「奇跡は僕達にも起こるのかな?」
「あんな物は大体英雄に大盤振る舞いされるもんだ。大体、お前は分からねえが儂みたいなどうしようもない老ぼれにゃてんで、起きない物だ」
爺ちゃんは自分の墓にもたれるように倒れ掛かり、空を見上げて目を細めた。
「グラーズ、お前はやがて大人になる。お前の命は儂を置いて行く程に短いがそれでも……いつか、心の底から助けを求める事がある。もし神が気紛れでも起こしてお前に奇跡を起こしたら、ちゃんとお礼を言うんだぞ」
爺ちゃんはとても珍しい事に、僕の頭上で撫でるような仕草を取ると風に揺れる草花を見ていた。爺ちゃんに撫でられる事なんて、本当に久し振りで。
その時僕は何となく、爺ちゃんは祈りを捧げてる人なのだと思った。
爺ちゃんの願いとは何なのだろう……"誰に"爺ちゃんはその細い枯れ枝の様な身体を折り、どうしようもない現実の果てにある物を願っているのだろう。
そんな既に忘れた筈の昔の記憶がふと蘇り、僕は森の中を走った。地面からはみ出す木の根に足を取られて転ぼうとも構わず走り続けた……いつもお兄さんが腰をかけている、僕としがない話をする所へと。
そこへ辿り着くと、僕の探していた人物はいつものように悠々と腰を下ろして足を組んで目を閉じていた。
ゼエゼエと壊れたラッパのような息を吐きながら震える脚を動かし歩を進めると、お兄さんはゆっくりと目を開く。
「どうしたんだい、君は苔を見て歩く趣味はなかった筈だが?」
「お兄さん……お願い……お願いなんだ……」
ーーー僕の神様になって。
その時のお兄さんの顔は、僕の行動が想像出来ていたようで驚きもせず、ただ少しつまらなさそうに微笑んだ。
「……いいよ。グラーズ、君が望むなら」
夕暮れから夕闇になるその一時の瞬間を黄昏と言うならば、正に今がその美しくも儚い瞬間だった。
天空から黄金の矢が降り注ぐように染められた空の色は只々眩しく、決して手が届かぬ天空の……その遥か先へ向けて手を伸ばすと、空から刺すその光の一片がその手を射る。
老人は自身の墓に腰をかけたまま光を掴むように腕を伸ばしていた。
光は老人を透過し、その足下の花々を照らす。老人は空を見つめたまま目を細めると、一瞬だけ自身の眼前に広がる黄金の世界が揺らいだように感じ、細く皮が何度も捲れ、表面がまるで鱗のように分厚く固くなった指で目を擦る。偶にあるのだ。苦しく腹底から肺を押し上げるような感覚、とうの昔に身体等無くなってしまった。それでも感じるこの感覚は、肉体がなくとも確かにこの世界に自分が存在している証のように感じると老人は浅く息を吐いた。
足音が聞こえた、老人はグラーズがまたやって来たのかと思い目下の苔を見たまま顔を上げようとしなかった。
その足音はやがてこちらへ近付いて来た。
しかし老人は一向に顔を上げようともせずに項垂れていた。
足音の中に、小さくて鉄が擦れるような金属音が混じるのを感じた。苔の上を歩くその足取りも……一歩一歩が重く、踏んだ苔からじんわりと水が吹き、足跡となった。
老人は初めて自身の墓に近付く者がグラーズでない事に気が付くと面を上げて自分に近付く者の顔を見る。
とても背の高く、その大きな巨躯を包むのは純白の鎧。そして上背に背負うは自身の巨躯に見合わぬ更に巨大な大剣であった。
黄昏の光によって自分を見下ろすの者の顔は見えなかったがそれでも老人には一瞬で分かった。一体"誰が"自分の元へとやって来たのかを。
「ぁ……ぁ……お、前……どうして……」
老人は立ち上がりその者へと二歩三歩と近寄るが相手は眉一つ動かさない……かと思えば視線を老人の墓へと泳がせると深く目を閉じ、踵を返して立ち去ろうとする。
「鎧のお兄さん……!」
"鎧のお兄さん"……そう呼んだ青年の前にグラーズが立ちはだかると緊張した様子で鼻を引くつかせた。
「お願い……もう少し、ここに居て下さい」
グラーズが必死に鳴くと、青年は背負う大剣を地面に突き刺し膝を折って目線を合わせ、安心させるように頭を撫でてほのかに口角を上げる。
老人の時とは違い、確かな感触がそこにはあるが、どこか恐る恐る撫でているような、そんな感覚が読み取れ(もし、爺ちゃんが僕を撫でるとしたら、こんな感じがする)とグラーズは緊張をなくしてジっと顔を見上げた。
「私は、もうここに二度と戻らない……そう思っていたんだ」
老人に背中を向けたままグラーズにそう話す青年。彼の背中越しに見える老人の顔は、どこか納得しているようで、グラーズは2人を見比べると悲しげに息を漏らす。
「お兄さん……お兄さんは、そんなにお墓の人が嫌い……? 二度と戻らないと思う程、許せなくて、憎いの……?」
「……そうだね。憎んでいたし、確固たる殺意を持って、殺してしまったんだ」
「殺した……もし、その殺した相手がお兄さんともう一度会いたがっていたって言ったら……信じてくれる?」
その時グラーズを撫でる青年の手がぴたりと止まった。
「もしもの事なんて、考えたくもない。私はあの人を殺した、その事実に綺麗事を並べて過去を美化したくはない」
グラーズは呆気に取られると思わず笑みを零す。
ーー親子そっくり。
グラーズの言葉を聞いた青年は初めて今までの穏やかだがどこか逆らえない、凛とした空気を崩した。
「君は不思議な子だね、子熊の坊や」
青年は再びグラーズの頭を撫でた、風にたなびく焦げ茶色の獣毛を搔きわけるように、そしてそのまま掌を滑らせると半月型の耳をなぞる。
「ただ、偶に思う事もあるんだ。もし、違う未来を辿ったとしたら……私は英雄と呼ばれる存在にはならなかったかもしれない」
「それは、どうして?」
グラーズは前足を青年の膝に乗せると耳をパタリと倒して首を傾げた。
青年はグラーズの前足を持つと二本足でグラーズを立たせた、グラーズは二、三歩その場でよろけたが青年に前足を支えられてる為転ぶ事もなく、背筋を伸ばして直立する。
「あの人……口ばかり強いけど身体は決して強くないんだ」
『ーーーーーー!』
青年の言葉を皮切りに、老人は小さな身体を丸めて顔を両手で覆う。すると足先から光に包まれ、小さな光の粒子となり世界へ解けていく。何度も何度も同じ言葉を繰り返し叫ぶ老人、グラーズはその言葉が何かとても大切な意味を持った物のように感じて、代わりに青年に伝えたかったが、嗚咽混じりに聞こえるソレの意味を理解する事が出来ず、ただ目を見開いて消えゆくその姿を青年越しに見ていた。
繰り返し、繰り返し叫ぶ老人の腹部まで光に包まれ、散り散りになって行く時、老人は青年の頭へと手を伸ばす。伸ばした手は青年を透過してしまい、決して撫でる事も叶わないが、それでも手を動かし最後に撫でる動作をすると、爪先まで光に照らされ消えて無くなった。
ーー爺ちゃん。
残ったのは墓だけだった。いつもグラーズと老人がたわいもない事を話すそこは、グラーズにとって墓ではなく、まるで待ち合わせ場所のように思っていたが、今は本当に只の墓標になってしまった。グラーズは小さな尾を丸めて鼻を引くつかせると天を仰いでおいおいと声を上げて鳴き出し、青年はグラーズの前足を離すと何が起きたか分からず只々困惑した顔でその光景を見ている事しか出来ずにいた。
やがて鎧の青年と別れたグラーズの前に現れたのは、彼の願いを聞き入れて奇跡を起こした張本人だった。
「グラーズ、君はあの老人を本当の意味で見送ったんだね。……君は可哀想だ、君を見送ってくれる人は誰もいないのだから」
「僕は可哀想じゃなかったよ、奇跡が起きたんだから。僕の力だけじゃ、叶える事の出来ないその先にある願いが叶ったんだから。……ありがとう、神様。とっても優しい僕の神様」
グラーズの身体は地面へ倒れ、短く呼吸を繰り返すとやがて……その目から光は消え、呼吸が繰り返される度に上下していた身体も動かなくなった。
神と呼ばれた青年は、グラーズの亡骸を抱くと目を開いたまま事切れた彼の顔を手で覆い、瞳を閉じさせた。
黄昏の空に混じる雲の切れ間から刺す光はまるで、一線の道のようにグラーズと青年を照らし、残された彼の者は一人、黄金の空を見上げたのだった。
最後なっっが!!ここまでお読み下さり誠にありがとうございます。すみません、最終話だけすごく長文になり、バランスが悪くなりました……しかし二ページに分けるのも……ううんと迷った結果全部1ページに詰め込むと言う作に。
これを読んだ皆様が少しでもお楽しみ頂けたなら幸いです、もしよろしければご感想お待ちしております。




