虹の彼方へ
空に。
融ける。
虹の。
ように。
清く美しく生きていられたら。
日課の水やりは、好んで始めたわけではなかった。
クジで決まった緑化委員。じゃんけんで決まった水やり当番。サボる生徒の続出に、枯れていく花を見かねて手を出した。その回数は徐々に増えて、いつの頃からか毎朝毎夕花壇の植物に人工の雨を降らせている。
手元のレバーを押せば、数種の水流が選べるノズルがついたリールホース。使い古されて劣化し、砂を噛んだそれは存外重い。
手伝ってくれる人は一人もいない。労う声も。私は今、存在しているのだろうか。葉の上を滑る水流だけがそれを証明している。
ゆらゆら降り積もる心の澱が、何をきっかけに崩れたのかはわからない。わからないけれど、妙に腹立たしく、悔しくなって、手元のノズルを強く握りしめ、振り回した。
「うわっ!」
悲鳴をあげたのは栗毛の男子生徒で、濡れて透けた開襟シャツを身にまとい、髪から雫を滴らせていた。
「ごめんなさい!」
駆けよって謝ったけれど、男子生徒はなんの反応もせず、横をすり抜けてホースのノズルを拾い上げる。
レバーを押して、水が出ることに驚き、きょろきょろと辺りを見回した。
「もしかして、誰かいる?」
何かが頭の上に落ちてきた。
とても重いもの。
形のないもの。
どさりと落ちて、形もなく私を捉えて沈めるもの。
だって私はここにいるのに。ずっといるのに。
どうして。
「いるならさぁ、ちょっと避けてて」
そう言って少年は屈託のない笑顔を見せると、空に向けて水をばら撒いた。
太陽の光を反射して、きらきら光る。光の雨のよう。全身にそれを浴びて楽しそうに笑う少年と、それから。
「ほらほら、できた!」
折り重なって溶け合う、透明な彩のアーチ。
「ガキの頃は掴めるんじゃないかなんて思っててさー。探しに行ったりしなかった?虹の端」
きらきら。
きらきら。
まるで光が踊っているよう。
幼い頃に聞いたおとぎ話の一節の、母が歌った子守歌。
虹の向こうには夢の国があるのだと。
「答え知ってても、時々。掴めるんじゃないかって思うよ」
「そうね」
なぜだろう。今なら行ける気がする。
彼の創る虹の向こう。
くぐった先の、夢の国。
すれ違う刹那、確かに視線が交わった。
笑みを含んでいた少年の顔が、驚きに変わる。
「でも、それより私は、虹の向こうに行きたいわ」
「そう」
眩しげに、少年の目が細められる。
それは先ほどまでの子供のような無邪気な笑顔ではなくて。
ふわふわ天に昇るような心地で、私は足を踏み出した。
休み時間の教室は、話し声にあふれている。
目の前には、今日も今日とてお菓子をぱくつく美少女………に見える少年が二人。ああもったいない。女子なら放っておかないのに。いや、女子なら俺が放っておかれるか。
彰一は内心でまた繰言を思い、密かにため息をついた。
「そういえばさー。虹子さん、いなくなったんだって?」
「ななこさん?」
褐色肌緑髪ツインテ女子制服イケボな男の娘ハルミが言って、彰一は首をかしげた。
「旧校舎の花壇で毎日水やりしてる先輩」
「え、行方不明とかか?」
「彰一知らなかったっけ?」
顔色を変える彰一に、金髪美少年侑哉が白黒つけない系のコーヒー飲料を飲みながら、小首を傾げつつ聞いた。相変わらず、見た目だけでなく、仕草とチョイスがいちいち女子だ。
「どっかの地縛霊を供養のために連れてきたとかでさ。もう何年も高校二年生やってるらしいんだけど」
「それ、七不思議案件じゃね?」
「普通の学校ならね」
彰一がこぼした言葉に、侑哉がさらりと答える。
異能力を持つマレビトと、そもそもヒトではないアヤカシが集うこの学園では、幽霊さえも一生徒にすぎない。たとえそれが教室には一切入らない、同じことを毎日繰り返す〝事象〟のようなものだとしても。
「本人多分彷徨ってる自覚はないんだけど、朝と放課後だけ現れて、学校中の花壇に水をやるんだ」
「ありがたいな」
「ありがたいね」
「え、そこ?」
真顔で言った彰一の言葉に、侑哉もまた真顔で返す。横で聞いていたハルミが怪訝そうに 眉をひそめた。
放課後の花壇。水滴を浴びて、活き活きとした植物。放置されたリールホース。はにかむように微笑んだ彼女は、虹の向こうに何を見たのだろうか。
「そういや何日か前、おそろしく美人な幽霊に水ぶっかけられたな」
思い出して言った彰一の言葉に、二人がなんとも言えず嫌そうな顔で注目した。
「水色っぽい髪をハーフアップにした、セーラー服の」
「そうそう!虹の隙間に一瞬見えたんだけど。普段から見えないのもったいないよなー。あんな美人な幽霊この学校にいたんだな」
思い出して悦に浸る彰一に、侑哉とハルミが同時にため息をついて、
「なんだよ?」
彰一が不思議そうにまばたきをした。
「それ、虹子さん」
「ええっ⁉︎」
「今の流れで別の幽霊だと思える方がすごいわ」
ハルミの指摘に彰一は大げさに驚いて、侑哉があきれた様子でミニドーナツを口に放り込む。
「てことは成仏させたな、天然ゴーストバスター」
「緑化委員の仕事が激増するわね」
「まじでーー?せっかく美人とお近づきになれたと思ったのにー」
本気で嘆く様子の彰一に、ハルミと侑哉が顔を見合わせて肩をすくめた。
窓の外。深く澄んだ青い空から、眩むような日差しが今日も降り注いでいる。
数日ぶりに人工の雨を享受するであろう植物達は、彼女の姿を思い出すのだろうか。