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レイム・グレー(石灰色)

作者: bono

 朝起きたとき、昨日までの記憶がうまく頭に戻ってこなかったらどうしようって思ったことない? 僕はあるよ。それで次に、「そりゃ、さぞかしスッとすることだろう」とか思ったり。強がりかもしんないけど。

  今朝戻ってきた記憶はこう。僕はロックファッションを扱う服屋の店員で、世界から香り立つアスファルトの匂いは、それぞれの場所で昨日と同じだった。

  二間のアパートのテーブルには、コーラのペットボトルがキャップを開けたまま置きっ放しになってる。中にはまだコップ一杯分くらい残ってたけど、もう炭酸なんて全部抜けちまったあとだ。それを流しに捨てて、洗って立てた。

  部屋にはときどき誰かが来ていることもある。古かったり新しかったりする友人。今朝は僕ヒトリみたいだ。

  電話が震えている。僕はそれをベッドの横から拾い上げる。女からだ。朝に掛かってきたということは、“酔っ払った”女なのだろう。少し耳に障るかもしれない。でもその女のことは嫌いではなかった。僕は画面に触れた。

「もしもし、タックン? お寝坊さんだな。何回も掛けたぞ」

  一度耳から離してサイドボタンを押した。7時12分。

「そんなに遅くないよ。そっちはまだ昨日なんだろ?」

  その女との電話は日付の変更をまたぐ。あっちはナイトクラブで夕方からせっせと働いているからだ。

「そうだよ〜。ね、海連れてって、海」

「寒いぜ」

  街は海辺にある。すぐだ。

「いいの」

  家まで送れと言わないだけ、まだ可愛気がある。・・ちゃんとしている。

  電話を切ってから、僕は口をすすいでミントガムを二つ放り込み、服掛けから二つのヘルメットを取った。片方には安物のダウンジャケットが突っ込んである。丸めるとビックリするくらい小さくなるヤツ。それから自分の上着を掴んで、部屋の下の車置き場に向かった。


  空にふた塊の大きな雲が浮かんでいた。あとは青く晴れている。いつもの年より一週間近く、梅雨入りは遅れていた。駅前、飲屋街の端まで、僕は自分のアパートからバイクで向かった。外はもう思ったほど寒くない。得物えものは800ccの古いトライアンフ。足蹴り始動型。ほぼ唯一の希少性財産だ。一週間以内に同じモデルを10台集めるのは不可能。・・一ヶ月とたっぷりの金があれば、あるいは可能かもしれない。そんなところだ。ヘルメットを入れるために、片側にだけ大きなサイドバッグを付けている。バイク好きの仲間には、それが野暮だと不評。

  とにかく僕はそのバイクに乗って、女を迎えに行った。2年来の付き合い。最初のうちにだけ、体の交渉を設ける(ひどいな)(・・だが事実)。女はよくこうして、店がはけた後に仲間内で酒を飲み、それから僕に電話をかけてきた。

  僕は店の前まで行ってバイクを止め、そこでタバコを二本吸った。彼女はTシャツとジーンズの姿だった。僕は聞いた。

「他は?」

「もう少しやって行くって」

「いいの?」

「うん」

  彼女はたくましいな。僕はよくそう思う。細っこい体で、僕の三倍くらいの社会貢献をしてるんじゃないかな。僕は女にダウンジャケットを放って渡した。それからもう一度エンジンを掛け、トラ公を走らせた。トライアンフ。


  街には戦争中に飛行機を作っていた工場の建物がある。ほとんどの棟は取り壊されて、今は組み立てに使っていた工作棟がダダッ広い資料館として一つ残っているだけだ。星型のエンジンが一機、翼が一枚(片方)。あとは小さなヒンジとか、骨組みの一部(というか、あれはカケラだな)、そして写真資料が残っているだけだ。熱心に見ようと思っても(思うほど)、二、三回行くと飽きてしまう。けれどもとにかく、この街に住んでいるとときどき飛行機のことを思い出した。・・思い出す種類の人間もいた。僕らは二人乗りで、その資料館の横の広い道を走り抜けて港へ行った。貧相な松林に挟まれた小さな駐車場に停める。その周りは石畳敷きの公園と、後から砂を運び込んだ惨めな砂浜があるだけだ。少し先の岸壁に立ったクレーンが何本も見える。女はヘルメットを脱いで、ショートの頭をハラハラと振った。

「サンキュ。コーヒーは? コーラ?」

つめティー」

  女はいつもの通りに、僕に飲み物を買ってくれた。

(「ねえ、いつまでもオンナオンナってひどくない?」)

  然り。その名をチサトと呼ぶ。半分で割れば美人の部類だ(「・・・」)。僕はチサトと砂浜の方へ歩いて行って、座ってペット茶を飲んだ。彼女は四月くらいからいつもそうするように、靴と靴下を脱いで波打ち際を行ったり来たりした。15年も前に流行って、毎年夏にラジオで流れるようになった外国のポップスを鼻歌で歌った。巨大な記録装置の中に紛れ込んだ、あまり役に立たないデータの連なりのように、その景色は僕の記憶に書き足された。


  チサトを部屋まで送り届けたあと、僕はそのまま足を伸ばした。海沿いの高架道路から、隣の大きな街まで走る。平日午前の道は空いていた。目の端ではビルと防音版で途切れ途切れの海が、小さな波頭を延々遠くまで白や銀に光らせている。雲は少しばかり増え、白い腹の底を重くかげらせる逆さまの連なりになって、そちらもやはりずっと遠くまで続いていた。高架道路は緩い登りに差し掛かり、そのコールタールの背中の向こうから密集した高層ビル群の頭や肩が立ち上がってくる。二車線反時計回りの巨大なスロープの頭と尾が交差してる部分を超え、小気味好く車体を傾けて下りのループ旋回に入る。石灰色の尖塔は、視界の中で斜めに空を指し示し、それらがまた、手前の低い建物の向こうに一度隠れる。バイクでやってくると、このスロープを回って下をくぐった場所から隣町の空間が始まっているような感じが、僕にはいつもする。何となく、身体を囲んでいる気配がスッと変わるような気がするのだ。ギアを落として、街を区切る縦横の道に僕は降りていった。


  中心街の駐車場にバイクを置いて、その近くのハンバーガーショップで遅い朝食をる。広い鉄板で厚いパテを焼く、すごくいい匂いのする店だ。ポテトと瓶ビールを一本付ける。映画を一本観て、服や靴の店をグルリと冷やかして回るまでは、僕は駐車場からバイクを出して帰らない。今日は遅い時間に少し店に立って働くだけだ。都合が重なって臨時の変則シフトが組まれている。

  その服屋での仕事は長い。経営者が学生時代の友人で、僕は一度会社に就職してから辞め(そのときはモメににモメた)、そして彼の店に転がり込んでいたのである。

  ハンバーガーを食べ終わってから僕は映画を観に行った。それほどのビッグタイトルではない。固定の支持層を持つイギリス人の映画監督が作ったギャング・ジャズ映画だ。評点としては中の上というところだった。テーマとしては多少の目新しさがあるものの、中身はその監督の得意とする手管てくだで手堅くまとめられていた。外野手は早足で落下点に入り、そこへ美しく打球は収まる。そういったカンジ。・・ここ10年来、映画トレーラーは内容を写しすぎているんじゃないかと思う。

  それから何軒か服屋を見て(さすがに大きな街の店は流行の追従にタイトだ。競争が激しい)。路地裏の小さな革靴専門店を見る。何足か買い物をしたことがある店だ。同じ場所でずいぶん長いことやっている落ち着いた店。扉の上のオーニングは日に焼けて色がずいぶん褪せている。

  戸を(木の引き開けドア!)開けて中に入ると、見たことのない若い女が一人で店の番をしていた。

  「いらっしゃいませ」

  うむ。通常対応。女はしまのサマーセーターの上に店のサロンを付けていた。髪は首の後ろで纏められている。明るい色の樹脂縁の眼鏡。・・いつもはスカ・バンドみたいな格好の兄さんが店を見ているはずなんだけどな。彼とは何度か話したことがあった。

  店の飾り棚に口の低いブーツが置いてあった。有名なヨーロッパブランドのシリーズのようだが、見たことがない仕様だった。

「すみません。これ、新しいモデル?」

  僕はその女に聞いた。

「ハイ、そちらは国内工房のカスタマイズなんです」

  女はそこで一度言葉を切って待った。それから言った。

「よかったら、お試しになってみますか?」

  僕の顔色に合わせて、20種類くらいの対応の中から一つ選んだみたいな言い方だった。僕は言った。

「じゃあ、UKで8.5のヤツ試してみていい?」

「ハイ、お待ちくださいね」

  女は飾り棚の下の空箱を見てUKサイズ表記があるか確かめ、それから天井近くの在庫スペースに積んである箱の列を見上げた。箱は真ん中あたりにあった。女が店の中を見回したときに問題が露見ろけんした。踏み台がない。それほど手間取っていたわけではなかったので、僕は隅に立って様子を眺めていた。彼女はレジ台の後ろから車輪付きの丸椅子を持ち出して、在庫の下に位置を決めた。

 僕は思わず口を開いた。

「あの、さ、時間は掛かっていいから車輪のない台を探してみて。嫌な予感がするんだ」

  彼女はハッと僕の顔を見た。僕はなるべく友好的な微笑みを浮かべた。彼女は恥ずかしそうに笑った。

「すみません、そうします」

  そうやって笑った時の彼女の顔をよく覚えている。頭の中の電話帳の顔写真のところに、それはずっと貼りっぱなしになった。さて、他の靴を探した時にそうなったのだろう。上と横に上手いこと箱が重なって、店の隅に台が隠れていた。彼女はそれを使ってUK8.5の靴を取り出し、手早く紐を通して僕を椅子に案内してくれた。この店には、足置き型の斜めの試し台がある。それは、椅子の横にすぐに見つかっった。

「一つトナリのサイズを試しますか?」

  僕が両足を履いて試しに歩いてみてから、彼女はそう言った。

「大きさは大丈夫。・・あとは予算の面で、ちょっと検討させてもらうよ」

  そう。ちゃんとした靴の値段がする。それはちゃんと、高くてモノの良い靴なのだ。僕は彼女に礼を言ってから店を出た。靴の形を思い浮かべながら何日か過ごすことは、他にもオートバイや洋服や、買うのを迷うもののことを考えながら何日か過ごすことは、僕は割に好きだ。時々一緒に車輪のついた丸椅子を思い出した。踏み台を思い出した。それから女の顔も思い出した。


  さかいのこちら側。頭の片隅に靴の形がある世界。僕はバイクに乗りながら、酒を飲みながら、服屋に仕事で立ちながら、あのなまめかしい照り返しを持った平たいつま先のことを考える。隙間風のように忍び込み、辛子の瓶を開けた時の香りみたいにスッといなくなってしまう、気まぐれな記憶の欠片かけらと同居する。

  薄い板のテーブルの向こうでチサトが何か言っている。

「え、ゴメンよく聞こえなかった」

  僕がそう言うと、彼女は小さく息をついて言い直した。

「もう一本いこうか って聞いたの」

  赤ワインのボトルが空になっていた。僕らはたくさんの種類のさかなを出す安い店にいた。チサトの仕事は休みで、夕方から僕らは酒を飲みに繰り出している。

「いいね 行こう。君はいつもいつも気の利いたことを思いつく。僕より先にね」

  僕が適当なことを言う。ぼくらの緩衝地帯なのだ。いつかチサトのほうがこう言ったことがある。「だって 本気でムカつくヒトに向かって冗談なんかわざわざ言う? それなら紙に書いてゴミ箱に捨てたほうがいいわよ」 そのとき僕は大いに賛同した。

  彼女は小さく肩を落とし、安いほうの(三種類しかない)ワインのボトルを追加した。何品かの大皿のツマミを、僕らは食べ散らかしていた。ボトルが運ばれてくる前に、チサトは次のタバコに火を点けた。さっき一度変えてもらったので、灰皿には僕と彼女とで2、3本の吸い殻しかなかった。

「ねえ? わたし分かるのよ。大したことじゃないけど、タックン今なにかで迷ってるでしょう。どちらかというと慢性質のやつ」

  僕は小さく笑って答えた。

「そういうのが一つもない人間なんて、天然記念物だ」

  僕もタバコを一本咥え、テーブルの上にあったチサトのライターを取って点けた。

「そうね、確かに」

「20ミリの機関砲で狙われたパイロットの気持ちを考えたことある?」

  僕は話を変えた。

「そんなの ないわよ。だいたい、20ミリって大きいのか小さいのかも・・」

  ワインが運ばれてきた。僕は彼女の言葉尻から話を続けた。

「大きいよ。アメリカ空軍は13ミリくらいのやつで、第二次の終戦まで済ませてる。20ってのは『とっておき』なんだ」

  すぐ空になってしまったワイングラスに、チサトが注いでくれた。

「ありがとう」

  チサト、軽く首を振る。

「じゃ、狙われた方はヤバいって思うのね。小さい方ならよかったって」

「いや、思わない」

  チサト、首をかしげる。

「弾丸がね、飛んでくるまで どっちだか分からないんだよ。最初から当たれば『もうおしまいだ』と思う。最初が外れたら、一旦そこで追いかけるのをやめて避ける。『ああ、危なかった。オレはついてる』と思う。・・つまり20ミリをただ向けられてる時の気持ちは、いつもと一緒さ」

「・・生牡蠣たべる時と同じね。それなりに心配するけど、まあ大丈夫だろうと思ってる」

  僕は感心した。

「実にそうだね」

  僕はこの瞬間の納得でもって、例の靴を買うことを決めた。


  別の夕方(おおよそ70時間後だ)、僕は仕事を終えて隣町へのバイパスラインに上がる。朝と夜とでは同じエンジンでも響き方がちがう。それは、ヒトの脳が朝と夜とで働きに差があるためだ。事実だ。

  前線基地から闇を突き刺す夜間戦闘機のように、・・とは行かないまでも、僕の800ccは調子よく夜風をいていく。冷えた空気と、露がゆっくり降りかかる道路。ループを回って見えない境界を飛び越え、僕は靴屋の前まで直接に道を進む(昼と夜とでは交通の事情も違う)。靴屋はまだ開いていた。店の向かいに停めてイグニッションを切る。ドアを開けると、いつもいる方の男の店員が店の中にいた。彼は言った。

「やあ、久しぶりですね」

「別の誰かがやってるときに、ちょっと寄ったばかりなんだ」

「ああ、女の子でしょ? ・・ところで、この時間に来るんでは、もうモノが決まってるんじゃないですか?」

  彼は僕の行動パターンを読んでいる。遠くの飛行機がちょっと進んだ場所に砲弾を撃ち込み、そこで鉢合わせるように狙いをつけるのを偏差射撃という。僕はそれを思い出した。飾台の上には前と同じに例の靴が置いてあった。

「そう。そこに飾ってる特注品のやつ、この前UK8.5のを試したんだ。それは残ってる?」

「はい、ちょっと待ってくださいね。・・あれ?」

  彼の視線を追った。在庫の棚の上には、8.5のサイズの箱がなかった。店員はレジ裏に積んである取り置き在庫を調べた。大した数じゃない。5箱か6箱だ。件の靴は、その中にあった。

「あれ? 予約なんてあったかな。ちょっと、リストを調べます」

  彼はレジ裏から紙挟みを出して、上から順番に記録を確かめた。

「おかしいな。名前が書いてない。・・すみません、今日の分の記録で、まだ新しく書き込まれてないのかもしれない。後で連絡させてもらってもいいですか?」

  まあ、こういうこともあるだろう。

「うん。構わないよ」

「すみませんね。せっかく来てくれたのに」

  僕は番号を残してからバイクに乗って帰った。惜しいなあ。せっかく決めたのに。けれどまあ、それほど数を作っていないものだから こういうこともある。追い越し車線に出て、紺塗りの長距離バスが二台連なって走っているのをまとめて抜かした。それらは足の遅い夜間爆撃機のように、真っ黒い使命感をグツグツと燃やしながら黙って東へ向かって走っているように見えた。客室のほとんどの窓はシェードが引かれていた。先行車の真ん中あたり、一つだけは中から読書灯の明かりが溢れていた。風が鋭い口笛を吹きながら、襟の隙間を通り抜けた。


  翌日に靴屋から電話が掛かってきた。なんと、そういうことだったか。僕は礼を言って電話を切った。それから二日、通しシフトの連勤だったので、僕はせっせと働いた。半日だけ雨が降った。一度バイクにガソリンを入れ、四回の外食をした。

  新作のシャツが入荷した。厚くて強い生地を使ったボタンダウンの長袖だ。腕まくり用の留めボタンと、胸に小さく動物の頭蓋骨の刺繍が入っていた。虎の頭だということだ。下顎は省略されている。スポーツカーのボンネットのように綺麗な流線をしている。僕はそれが気に入って、従業員割引で一枚買い、それを着て接客をした。家で洗濯できるというのがいい。そのシャツは連勤の間にSが一枚お客に売れた。


  また夜に靴屋を訪ねると、こんどは女の子の店員がいた。

「ごめんなさいね。わたしが記録のつけ方を勘違いしていたもので」

「いや、いいよ。それでちゃんと、僕は靴を手に入れる」

  彼女は自分が間違えたのだと言ったが、それは方便なのだと思う。本当は勘が働いたのだ。取り置きの客は「僕」だった。僕が靴を買うのに決めるのだと彼女が思って、靴をとって置いてくれたのだ。まんまと予想通りだ。

「一応、もう一度試してみませんか? 夜だと血液が降りてサイズ感も変わりますから」

 彼女の親切に従って、僕は店の中でもう一度靴を履いた。紐を軽く結んでみるときに、それを一緒に覗き込んでいた彼女の髪が照明をかたち良く受けているのが見えた。

  「うん。大丈夫みたいだ。これください」

「ハイ、どうもありがとうございます。・・あの、ご迷惑をかけてしまったので、クリームをサービスさせてください」

  彼女は続きを小さな声で言った。

「初めてのお客さんにオマケであげてるやつじゃなくて、これ、だいぶイイやつなんです」

「ホントに? じゃ遠慮なく」

  僕がそう言うと彼女は安心したように笑った。

「新しいのを履いて行きますか?」

  僕は答えた。

「いや、いきなりバイクで傷むの嫌だからさ、柔らかくなるまで、明日からゆっくり歩いて馴らすよ」

「へえ、今日乗って来てるんですか? 見せてください」

  まあ、リップサービスだ。

「いいよ。古くさいやつだけど」

  靴の箱を包んで、彼女は店の外まで付いてきた。僕はそれを受け取って、サイドバックにいれた。それからヘルメットをつける。

「こうやってエンジンを掛けるんで、新しい靴だとつま先にいきなり皺が走ったりするからさ・・」

  実際に知り合いがそういうケースを体験していた。僕はレバーを起こして足をかけ、踏み下ろしてエンジンを掛けた。体重を一瞬だけのせてタメを作る。ちょっとしたコツがいる。まだ暖かいエンジンは一発で掛かり、ダクダクと乾いたアイドリングをする。

「わあ、すごい」

  彼女は、・・本当に驚いているように見えた。

「このバイクは、二人乗りができるんですか?」

「できるよ。そんなに快適なもんじゃないけどね」

「もしわたしが『こんど乗せてください』って頼んだら?」

  彼女は店から漏れる明かりとヘッドライトの照り返しの中で僕の顔を見た。滑らかな鼻筋が光りと影を分けていた。

「そりゃ、ホントに頼まれるまで分かんないな」

  僕は調子に乗ってイジワルを言った。言ってしまったあとで、僕が本当に言いたかったのは真逆のことだと気付いた。けれど種明かしとして、そのイジワルは後日に功を奏した。


「功を奏する」ってのは、実にステキな日本語だな。


  新しい靴のことを空想しながら過ごすのと、それが実際手に入ってからの暮らしっていうのは、まるで月の表裏のような関係性に思える。アポロ8号で人類が月の裏を回ったあとの世界だ。欲しいものが手に入り、世界は順調に一歩前に進む。・・ロマンが三歩ばかり減退する。

  ここだけの話、僕は11号の話よりも8号のそれの方が好きだ。月の裏を最初に人類が回り、それくらいの距離から「最初に人が乗って帰ってきた」計画とその宇宙船だ。「月の裏からの帰還」 乗り組んだ三人、ラヴェル、アンダース、ボーマン。帰ってきたあとで、君たちはほんとうに、その、君たちなのかい?

「そうだよ? ウソだとしたら、いったい月の裏で何が起きたというんだよ」彼ら三人は笑った。


  僕の靴は満月の下で、何周期かに一度くらいだけど、そんな風に笑うように見えた。それはすこし先の話。まず僕は、買ったばかりの靴でチョットだけ歩き、オイルを塗り、また歩いた。塗膜から内側に、徐々に徐々に成分が差していく。詩的な革製品売りが、それを「皮膚からヤクを吸うみたく」と言った。尊敬すべきスカポンだ。未だによくオランダへ行っている。

  さておき、僕はゆっくりと靴を慣らし、シャツに洗いを通していった。そしてある朝、硬いサナギにピリッと亀裂がおきるような感じがする。夏の前にはいろんなものが、勘になってメッセージになって、路地や人の頭の中を駆け抜けるらしい。それは靴の声のようであり、シャツの胸に付いた虎の頭蓋骨のであるとも思えた。両方かも。後から混同して馴染んでしまった記憶みたい。あるいは本当にそうなのかもしれない。

  僕はまた、休みに朝から靴屋のある街に出かけた。バイクを駐車場に止め、歩いて靴屋の路地に向かった。戸口が開け放しになっていて、僕はそっと、そこに寄りかかった。中では彼女が、ちゃんと車輪なしの踏み台に上って箱の埃をハタいていた。

「やあ」

  しばらく見ていてから僕は声をかけた。彼女はハッとして振り返り、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。

「やだ。のぞいていたんですか?」

「機織りでもするんじゃないかと思ってさ」

  僕らは笑った。ヒドい冗談に果敢にな姿勢を示すことは、あらゆるレールが敷かれた現代に残されている数少ない勇敢な行いの一つだ。

「乗ってみない? 今日終わった後にでも」

  その瞬間に、彼女が何かの境界をプツリと突き破ったのが見えた。僕が手を引いて、そうさせたのだ。

「ありがとう! イジワル言うから、絶対にそう言ってくれないかと思ってたんです」

  僕は首を振った。また時間になったら来ると言って、僕はハンバーガーと映画に出かけた。映画はハリウッドが金をかけて作った、「金のかかったハリウッド映画」だった。派手なCGで、あとほんの少しだけ僕はスカッとした。それほどには、もう頭に埃が残ってなかったから。


  夜に彼女を乗せて走った。彼女は片手を恐々(こわごわ)僕の腹にまわして、もう片方はしっかりとシート横のバーを掴んでいた。だらしなさでほとんど崩れ去ろうとしてるライダーが、後席への乗り方をちゃんと教える姿は格好がいい。その逆はダメだ。金持ちでもハンサムでも。・・「ギュッと僕を掴んで」はクソだってこと。

  靴屋から一回りして、彼女の部屋の近くだというゲームセンターに下ろした。アイスクリームの自動販売機で、彼女は僕に一つ奢ってくれた。ずいぶん久しぶりに、僕はそういうのを食べた。

「まるで飛んでいるみたい」

  彼女は興奮して言った。僕らは、止めたバイクがよく見えるベンチに座ってアイスクリームを食べていた。

「ほとんどそうなんだよ。前と後ろでバネが支えてるだけだから。空中ブランコで飛び移る瞬間、ヒトの体は跳ねてるのと落ちてるのとで丁度中間になる」

  彼女はアイスクリームを食べながら理解に努めた。

「そうやって、前後で柔らかいものにぶら下がってるだけなんだ。石ころを踏んでも、体はそれほどには揺れない。それは、オートバイと僕らが少しは飛んでるからなんだ」

「なんか詩みたい」

  ・ ・ ・

  そりゃいい、そうしよう。なんか詩みたいなことを、免許と中古で誰でも手に入れられる。


  チサトが僕の靴に目を止めたところからだと思う。2人で酒を飲んでる時に、靴屋の彼女の話になった。

「へーぇ」

  チサトは感心してみせてから、煙草のモヤを斜めに吹き出した。

「ちゃんとやりなさいよ? 色男」

「茶化すんじゃないぜ、イジワルバアサン」

「グッフフ」

  チサトは下品な笑い声を上げる。僕らはその晩、もうだいぶ酒を飲んでいた。

「タックン、一発で10ペナルティです。テキーラを二杯頼んでください」

  僕らは店員がショットグラスを持ってくると、それをぶつけて飲み干した。チサトは、僕がウィスキーの飲み切りボトル(そういう、便利で文化レベルの低いものが 安い店に限って置いてある)に使っていた割のものの水を、何かで(なんだっけ。1時間以上前の遺産だ)残っていた空のグラス2つに注ぎ、その両方の口を手のひらで覆って数字を20から逆に数え始めた。僕はデタラメな数字を言った。8 16 3 20 11・・。チサトは僕の脹脛ふくらはぎを蹴った。

「2、1、ヨシ!」

  僕らはグラスの水を飲んだ。僕は二口、チサトは全部。僕は言った。

「低ナトリウム血症というのがある。水の大量摂取中毒。だからね、水は一度に3リットル。インターバルは4時間。いいね?」

「そんなに入りっこないわよ」

  それで死んだ友人はいない。・・けれども、知り合いの知り合いくらいなら、根気よく探して見つからなくはない数値だと思った。まあどこまで本当かも分からないけど。

「ねえねえ、出勤中隕石性 頭部強打というのがあるわ。死んじゃうの」

「ッハハ、そりゃお手上げだ」

  チサトは、一度空になった水のグラスの底に降りて集まった雫で唇を湿めして言った。

「お手上げよ、生まれたときから。割りを食う運命の人はその運命に、金持ちだって金持ちの憂鬱の運命に、足を取られたまま、最初からおしまいよ」

  僕らは少しだけ黙った。

「そういうこと言っちまったときの君は、それ以外の時よりチョット綺麗だよ」

「ハッハ」

  チサトは店員を呼ぶブザーを押した。

「聞こえないわ。そういう恥ずっかしいやつはね」


  かつて人々には太陽を見送る意識というものがあった。今はない。現代病の一種だ。1日は0時から24時までに切り刻まれているべきものではない。


  明け方に、空気でできた翼の夢を見た。透明な力が何かを持ち上げようとする夢。僕は丘の上に立ち、それを緩い斜め上から見下ろしていた。何か、正体のはっきりしない高揚がそこにはあった。宇宙の一部が祝祭的に解放され、観測不能の笑い声を上げているような。

  あるいはそんな宇宙的祝祭の磁力が、透明な翼を天井へと引き上げているのかもしれない。空気の翼は空き地の真ん中で、空気中に漂う様々なエネルギーの分子を片端から吸い込んで大きく拡大していた。翼は拡大の早さにきしみを上げるように光を放った。

「美しい。ねえ」

  僕が隣に話しかけると、そこには案山子かかしが立っていた。空のように青いワンピースを着て、その中身は川鵜かわうの姿形をしている。僕が案山子を抱き寄せると、女物の香水の匂いがフッと立ち上ったような気がした。・・僕はそこで目を覚ました。

「君は、一体誰だい」

  光の気配が、閉じたカーテンの外側で壁や屋根を包んでいる。鳥の声が、現実の朝の鳥の声がピリピリと鳴き交わしていた。

  空気の翼は、狭い航空母艦の中に押し込められる飛行機たちのそれのように小さく縮こめられていたのかもしれない。船に乗せられた飛行機たちは、甲板の上に引き出され、ギアや油圧の力によって飛行機の形に復元される。翼の縁の一辺がピシリと合わさって一直線になる。その様子は、・・水鳥がバタバタやるのよりもノロマで不器用だ。

  靴屋の彼女は連絡を取り合ううちに、飛行機の博物館に行きたがった。

「大したものは、本当に何もないと思うけれど・・」

「いいんです。見てみないと、つまらないかどうかは分からないわ」

  確かにそうかもしれない。何が見えるかまではアドバイスになったとしても、何を思うかは個人が実際に経験するまで分からない。そうするまで確かなことは言えないし、一度そうしても、何年かで思うところは変わったりもする。それは良くできた物語の本を、久しぶりに開いてみたりすると時々起こることだ。別の教訓を得る。人物が一つだけついた嘘がどれだか分かるようになる。誰に肩入れするかも変わる。

  海上消火船のデモンストレーションを見たことがある。青い海の上に、放水の白い放物線が何重にも掛かり、風が吹くと、その端は見えない手が遊ぶように散らされた。飛沫しぶきは随分遠くの閲覧席まで、絨毯をまくるような風に乗って届いた。そんな感じの雲が、青い空に走って跡を付けている天気だった。僕と靴屋の彼女は休みを合わせ、朝から迎えに行って、小さな方の僕の街に舞い降りていた。高架道路をいつものボソボソというエンジン音で降りてくるときに、彼女が後ろに乗っていることによって、五感はすべて特別なものを感じているような気がした。ロマンチックな「気のせい」。

  いくつかの曲がり角を抜けて、博物館の駐車場(代わりの、ただの空き地だ)にやってきた。その端にある自動販売機で僕はコーラを買って飲み、彼女は自分のバッグに入れていたミネラルウォーターの縁を唇につけた。光が当たったときにだけ見える薄いピンク色の色差しが、彼女の唇にはしてあった。

  すごく小さな、チケットの自動販売機がある。田舎のバスの整理券みたいなヤツ。僕はそれで二枚の券を買って一枚を彼女に渡す。1人か2人の職員がいつも敷地を見回ったり掃除をしたりしているが、彼ら(一人は年老いた男である。他の何人かが、割にころころと入れ替わりながら入っている)はゲートを空にしていた。奥の大倉庫だった部屋へ入る前のところに、引き戸と椅子が置いてあるだけだ。もうすぐ扇風機も。冬には石油ストーブ。

  仕方なく買ったままの大きさの券を持ったまま中に入る。

長閑のどかね」

「戦争が終わってから長い時間が経った」

「・・小さな物語の始まりみたい」

「大きな世代記サーガのエピローグかもしれない」

  戸をくぐると、広く薄暗い空間が広がっていた。展示物のところにだけ小さく光が盛られていて、その輪郭りんかくが破れた卵黄のように闇に溶け出していた。

「すてき! ここに泊まりたいです」

「・・きっと夜は薄気味悪いぜ。まあ、ゆっくり見ようよ」

  中にはもちろん僕らしかいなかった。彼女は時間を掛けて、端の資料から立ててある一枚の翼から、全部を見た。僕は真ん中のエンジンの前にあるベンチに座り、その造形を離れたところから指でなぞった。絵描きが構図を確かめるようにして。何種類かの金属を組み合わされて造られた複雑な装置は、その昔に燃焼ガスのリズムを抱え、プロペラを回して大空を駆け抜けたはずのものだ。今は、石を削って外形を整えたオブジェのようにも見える。メッキがしていないので、明るいところで見れば粉っぽい腐蝕に覆われているだろう。僕は目の前のそれを頭に模写するのではなく、かつてのイメージを想像する。レーシングカーとか、工事に使うアスファルト破砕機とか、そんな実用的な装置がいくつも組み合わさって、それが飛行機だったのだ。

「あの、『オイル』って飛行機に塗るんですか?」

  靴屋の彼女が隣に来ていて、僕にそう聞いた。

「え? ・・あっはは、違うよ」

  靴に塗るのも、料理に使うのもオイルだ。彼女は自分なりに考えてから質問したのだ。何かの解説を読んでいてつまづいたのだ。僕は教えてやった。

「血液みたいにね、エンジンや何やの機械の中に入ってる。歯車が削れないように湿らせていたり、ポンプで循環して熱いところを冷やしたり。ね、血と似てるだろ?」

「ガソリンとは違うのね」

「うん。そっちは『食事』で、呼吸と合わさって、動くんだよ。これが」

  僕はエンジンを指差した。

「空気も、吸うんですか?」

「吸うよ。こっちに来て」

  飛行機の全体が写っている写真のところへ行って、指差して教えた。とてもたくさんの言葉を、初めて彼女に渡した。それがただの飛行機の話だとしても。


  靴屋の彼女の名前はキユキといった。

「変わった名前だね」

「父親が色々と気難しい人で、それでわたしの名前がこうなっちゃったんです」

「・・なるほど」


  博物館を見学し終えてから、美味いピザを出す小さなレストランに寄った。その時キユキは、何か飛行機が出てくる映画を勧めてほしいと言った。

「そうだなー・・」

  僕は電話を出してボリュームを下げ、何本かの予告編をキユキに見せた。便利な時代になったらしい。不便な頃をよく知らないのでピンとこない。

  映画の予告編、というものは不思議な感じがするものだ。見たことのあるやつでも、シーンのつなぎ合わせかたによって別のストーリーに見える。同じことでも伝え手によって印象はまるっきり違う。これは、とてもたくさんの種類のものに言えると思う。ヒトは伝達に関して抜群の進化をし、世界を少しづつ捻じ曲げていくことを覚えた。無自覚にでも。この前映画館でトレーラーを見た時とは別の感想を抱いている。脳の中の電子はシナプスのサーキットを気まぐれに回る。ヒトは簡単な機械ではない。多重分岐性の、・・ただの複雑な機械だ。それから僕は、暗くなりだした道の上を、キユキを送っていった。


  彼女の心の中に、あやふやな原形質の飛行機が飛び始めた。余計なものを背負ってしまった、他のどんな識者しきしゃのイメージよりも、無知ゆえ自由に。そして多重的に、その飛行機は僕の中にも感じられていた。職場近くの駐車場でトラ・バイクに寄りかかって煙草を吸いながら、夕焼けを見ているときにでも。耳の奥、空の向こうから、本物の飛行機の鉄の翼の前縁が、空気を押し裂いて唸りを上げる音が聞こえた。僕は喉の奥、鼻歌の音のようにして、その音程を探してみた。なんヘルツ? それはこの夏の基準音だ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公がキユキにオイルの説明をしている表現がうまい。 作者はこの言い回しをするために主人公を動かしていたのかと感心した [気になる点] 文と文の間隔ですかね [一言] 私の能力不足で全くこ…
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