本当に悲しかったのは
Twitterより(加筆修正版)
お題提供→@odai_bot00様
一人の少女がいた。
傍から見れば、どこにでもいる普通の女の子だ。しかし、彼女の症状を知ることになれば、誰だって普通だとは思わないだろう。
少女はいつも、口癖のようにこう繰り返している。
「“かなしみ”って、なあに?」
少女は、喜怒哀楽の“哀”が著しく欠落している。というより、無いに等しい。
それを知ったのは、少女がまだ10歳の頃だ。
少女の母親は語る。
うちの子は幼少期から、他の子とは明らかに違っていた、と。
お気に入りのおもちゃを失くした時も、仲の良かった友達が遠くに引っ越した時も、普通の子供なら泣いて悲しむ場面で、少女は特にこれといった反応は見せなかった。
何年か前に少女の祖父が他界した際にも、周りで涙を流す大人達のなかで、ひとり無表情だった。生前はよく遊んでもらっていたというのに、まるで何事も無かったかのようにそこに立っていたのだ。
もちろん、自分に“哀”が無いとわかった時だって悲しみはしなかった。当然といえば当然なのだが。
悲しむ代わりに、少女は怒った。怒って怒って、怒り狂った。
どうして。どうしてわたしは他とは違うの。どうして、どうして。どうして。
少女は問う。空っぽの空間で、他の誰でもない空っぽの自分に、繰り返し繰り返し問う。
「“かなしみ”って、なあに?」
やがて少女の喉は枯れ、いつの間にか甲高い叫びになっていた無意味な問いは聞こえなくなる。
少女の瞳からとめどなく零れ落ちるのは、少女の頬を息をつくのも許さんばかりに伝っていくのは、透き通るような大粒の水滴。
涙だ。少女は泣いているのだ。
少女は混乱した。次から次へと溢れる涙を止める術、それを探すのも忘れて。
今までこんなことはなかったのに。物心ついた頃から、泣いたことなどなかったのに。
少女は知らない。
その涙が、悲しみの涙だということを。
悲しむことのできない自分を、悲しんでいるのだということを。