治癒術師見習い 1
この一年の間、ウルペスさんの調べ物はあまり進んでいないようだった。屍霊術に関係する本は全部目を通し終わったらしく、今はその他の魔術の資料を読んでいるみたい。朝早くから図書室に来て調べ物をしては、お昼前に本を借りて帰っていく生活を続けている。きっと、お店を開いている間も、暇を見つけては調べ物をしてるんだろう。
「こうも変わるものとは……」
本を借りて帰るウルペスさんの背を見送り、先生がポツリと呟いた。私が首を傾げると、先生がにこりと笑う。
「やる事があれば、朝に弱くとも早く起きられるのだな、と」
「そっか。そういえば、お昼からお店開くくらい早起き苦手だったね、ウルペスさん」
「ええ。ただ、以前と変わらず夜遅くまで起きているようなので、健康的な生活とは言えないんですよね……」
「それ、先生が言ったらダメだと思う」
先生だって、夜更かししてるし、下手したら寝てない時だってあるくせに。ウルペスさんだって、先生にだけは不健康って言われたくないと思う。
「ですね」
そう言って、先生がクスクスと笑う。でもね、先生。笑い事じゃないんだよ。先生が倒れたら、みんな、心配するんだよ。それこそ、大騒ぎになるんだよ。そこのことろ、ちゃんと分かってる?
「あんまり無理しちゃダメなんだよ?」
「分かっています」
「ホント?」
「ええ」
本当かな? あんまり分かってないように思うんだけどな。私は小さく溜め息を吐くと、既に描き終わっている魔法陣の確認を始めた。
この魔法陣の魔術が終わったら、とうとう初級魔術教本が全部終わりになる。つまり、私は治癒術師見習いになって、明日からは本格的に治癒術の勉強が始まるって事。言い換えると、先生に魔術を教えてもらう機会がほとんど無くなるという事で……。今みたいに、二人で勉強するなんて出来ないんだろうなぁ。そう思うと、完成した魔法陣を先生に見せるのが嫌。だから、いつもよりず~っと時間をかけて魔法陣を確認していく。教本を読み直して、魔法陣を指でなぞって――。
「アイリス」
名前を呼ばれて顔を上げると、先生が優しく微笑みながら手を出した。魔法陣を見せてって事っぽい。魔法陣が完成してたの、分かっちゃったんだ……。魔法陣を描いた写本を先生に手渡し、こっそりと溜め息を吐く。先生が魔法陣を確認し終わって、魔術を発動させて魔力媒介に記録したら終わり。先生との勉強は……終わり……。
「よく描けてますね」
いつも通り先生が褒めてくれたけど、私はそれを心から喜ぶ事が出来なかった。それどころか、今日は何だか悲しくなってしまった。笑う先生の顔を見ていられなくて、俯き、膝の上に重ねた手の甲をジッと見つめる。
「アイリス?」
先生に呼ばれても、顔を上げる事が出来なかった。ずっと、先生に勉強を教えてもらえたら良かったのに……。ずっと、ず~っと……。
「ねえ、アイリス? 初級魔術教本を終わらせたご褒美、欲しくないですか?」
「欲しい……」
「何にしましょうか?」
今、私が欲しい物……。色々思い浮かんでは消えていく。
「ゆっくり考えて良いですよ。決まったら教えて下さい」
私は顔を上げ、優しく笑う先生を見つめた。今、私が一番欲しいのは――。
「先生と一緒に、どっか行きたい」
先生と一緒にいる時間が欲しい。明日からは、もう、ほとんど一緒にいられないんだもん。だから、一日だけで良い。先生との時間が欲しい。
「どこか、ですか?」
「ん」
頷き、ジッと先生を見つめる。先生は何かを難しい顔で考えていた。と思ったら、「あっ!」と何かに気が付いたような顔で、ポンと手を打った。
「そう言えば、りょこうが途中でしたね」
「……離宮の?」
「ええ。あの時、休暇が立ち消えになっていた事、すっかり忘れていました」
言われてみれば、アオイが中央神殿に攫われて、離宮へのりょこうが途中で切り上げになっていた。ついでに、私のお休みも先生のお休みも、いつの間にか無かった事になっていた。危ない! お休み、損するところだった!
「また離宮に行くというのは難しいでしょうけど、アイリスが行って楽しい所なら心当たりがあります。目的地は任せてもらっても?」
「ん!」
「では、そろそろ魔術を発動させて、勉強を終わりにしましょうか? 今日は午後からアオイ様が孤児院に行きますし、忙しくなりますから」
「ん」
先生が差し出した写本を受け取ると、最後の初級魔術を発動させ、魔力媒介に記録した。これで、私は明日から治癒術師見習い。先生の目を治すという目標に一歩近づけた。先生との勉強が終わりになるのは寂しいけど、そう思ってこれからも頑張ろう。
アオイのお昼ごはんのお世話が終わると、私と先生、アオイの三人は孤児院へと向かった。この一年で、孤児院の周りはだいぶ変わった。遠目に孤児院と、以前は勝手に孤児院の物置として使っていた三軒の建物、そして、新たに作った畑が見えてくる。畑の収穫は終わってしまったから今は何も植わっていないけど、まだ畝の形が残っている。
孤児院の周りが変わった理由。それは、ここが魔人族と人族の緩衝地帯になったからだ。魔人族と人族が手を取り合って暮らせるようにと、アオイが提案した緩衝地帯。ここほど、うってつけの場所は無いだろう。だって、竜王城から見える場所だし、何かあったらすぐに駆けつけられるもん。まあ、今のところ、何かが起こるような心配はあんまりないんだけど。
この緩衝地帯には、三人の魔人族が住んでいる。ノイモーントさんとフォーゲルシメーレさんとヴォルフさんの隊長さん三人組。彼らは結婚して、孤児院の物置になっていた建物を改修した家に住んでいる。改修と言っても、孤児院の物置として使っていた建物は、元々は人が住んでいた家だったらしく、生活に必要な設備は整っていた。だから、痛んだ場所を少し手直しするだけで済んだらしい。まあ、ノイモーントさんの家もフォーゲルシメーレさんの家も、その後、建物一棟分近く増築したけど。それはお仕事の為だから仕方ない。
最初に結婚したのは、ノイモーントさんとフランソワーズだった。アオイのお披露目パーティーの少し後に、ノイモーントさんがフランソワーズに結婚を申し込んだらしい。その頃は、孤児院の周りは緩衝地帯じゃなかったし、ちょっとした騒ぎになった。主に、孤児院内で。フランソワーズが出て行っちゃうって。フランソワーズからの結婚報告の時、アオイがいて良かったのかもしれない。そのお蔭で緩衝地帯の設置が本格的に動き出したんだもん。それに、リリーとミーナも、このままみんなで暮らせるならって、安心したから結婚出来たんだもん。
「申し訳ありませんが、私はノイモーントの工房に寄ってから参ります」
そう言って、先生がアオイに頭を下げた。アオイがノイモーントさんのお家兼工房と先生を見比べ、首を傾げる。
ノイモーントさんの工房は、つい最近、ここに移転した。フォーゲルシメーレさんが診療所を緩衝地帯に開いたり、ヴォルフさんがお城の農場の仕事を辞めて孤児院の周りを耕して畑にし始めたりしているのを見て影響されたらしい。それまでは、毎日ユニコーンに乗ってお城に通って仕立ての仕事を続けていた。けど、今は、お城からの呼び出しや、騎士の仕事がある時以外はお城に来ていない。フォーゲルシメーレさんもヴォルフさんもそう。それが許されるのも、お城のすぐ近くに緩衝地帯を作ったお蔭だ。
それに、ノイモーントさんの工房も、フォーゲルシメーレさんの診療所も、一番のお得意さんは竜王城だったりするし、今までとやっている事はあんまり変わっていない。お仕事をする場所を、ほんのちょっと移動しただけだ。
「ノイモーントのお店なの? フォーゲルシメーレの診療所じゃなくて?」
アオイの疑問はもっともだった。実は先生、フォーゲルシメーレさんの診療所の常連さんだったりする。緩衝地帯に来ると、フォーゲルシメーレさんの診療所に必ずと言って良いほど顔を出している。気付け薬とか胃薬とかをもらう為に。徹夜、良くない!
「はい。今日はこちらに用がありますので」
「そっか。分かった。先行ってるね」
「申し訳ありません」
もう一度頭を下げる先生にヒラヒラと手を振り、アオイはスタスタと孤児院へと向かった。私もその後に続く。アオイはアオイで、先を急ぎたい理由がある。何たって、孤児院にはアオイのお母さん――サクラさんと、アオイのお父さん――ヒロシさんがいるんだから。早く会いたいんだろう。
サクラさんとヒロシさんは孤児院に住み込んでいる。大人がいた方が子ども達も安心するだろうからと、アオイが二人に頼んでくれた。サクラさんもヒロシさんも、この世界での仕事を探し始めようかというタイミングだったから、アオイの申し出を快く引き受けてくれた。
今は、ヒロシさんが孤児院の責任者だ。だからこそ、この一年の間に、フランソワーズもリリーもミーナも、すんなり結婚出来た面もある。サクラさんとヒロシさんには、みんなとっても感謝してるんだ。
アオイは孤児院に着くと、玄関ドアをノックした。「は~い」という間延びした返事と共に、パタパタと駆けて来る足音が聞こえる。扉を開いたのはサクラさん。アオイの顔を見て、嬉しそうに笑う。アオイも笑顔を返した。
「また来ちゃった!」
「今日は遅かったのね。忙しかったの?」
「そうなのぉ! 今日は私も謁見に出たからさぁ。疲れちゃった」
「王妃様も大変だわねぇ。クッキー焼けてるわよ。みんなでお茶にしましょ」
「うん!」
いつもより子どもっぽく笑うアオイ。竜王城では見られない笑い方だ。きっと、サクラさんの前だからだろう。お母さん、か……。
「アイリスちゃんも、た~くさん食べていきなさいね。いっぱい焼いたから」
「はい」
先を歩き始めたサクラさんとアオイにくっ付いて、談話室に向かう。みんなでって事は、今は休憩時間なのかな? アクトがいたら嫌だな……。意地悪言われる前に、ノイモーントさんのお店に行って、先生と合流しようかな……? それとも、フォーゲルシメーレさんの診療所に行って、薬の本でも見せてもらう……? 勉強するって言えば、アオイもサクラさんも変に思わないかな?
談話室に入ると、私の予想通り休憩時間だったらしく、大勢の子ども達がおしゃべりをしながらお茶を飲んだりクッキーを食べたりしていた。ヒロシさんも暖炉前のソファ席で、小さな子達に囲まれてくつろいでいる。そして、部屋の一角。アクトをリーダーとした男の子達のグループもいた。
「あの、アオイ……」
「ん? 何? どしたの?」
「あのね、私ね、フォーゲルシメーレさんの所、行って来る」
「へ? 何で? クッキー、一緒に食べようよ」
「えぇっとね、私ね、今日で初級魔術教本終わったの。だから――」
「何だってぇ!」
アオイの叫び声で、談話室にいる子達の目が一斉にこちらを向いた。みんな、「何だ?」「どうした?」と興味津々。もちろん、アクトも。嫌な汗ぶわっと噴き出してきた。
「何でそんな大事な事、今の今まで言わないの!」
「だってぇ……」
わざわざ言う程の事じゃ無いと思ったんだもん……。そんな、怒らなくても良いと思う。
「急いでお祝いの準備しないと! ごめん、お母さん、お父さん。今日、もう帰るわ!」
「そうね」
サクラさんが少しだけ肩を落とす。ちょっと悪い事しちゃった気分……。しゅんとして俯いていると、サクラさんが私の前にしゃがみ込み、頭を撫でてくれた。
「今度、私達にもお祝いさせてね。アイリスちゃんはどんな食べ物が好き?」
「お芋……」
「あらぁ。私と一緒! お芋料理には自信があるのよ。楽しみにしててね」
そう言って、サクラさんがにこりと笑う。私のせいで、すぐにアオイが帰る事になっちゃったのに……。ごめんなさい、サクラさん、ヒロシさん。
アオイに手を引かれて向かった先は、孤児院のすぐ隣にあるノイモーントさんの工房だった。先生はアオイの護衛だし、一緒に帰らないといけないからだろう。そうしないと、後で先生が、竜王様とかブロイエさんとかローザさんに怒られちゃう。
アオイが乱暴に工房の扉を開く。工房の端っこにある応接セットでは、先生とノイモーントさんが向かい合わせに座っていた。お茶してたのかな? 手元にティーカップがあるし。
二人は、突然乱入したアオイを呆気に取られた顔で見つめていた。アオイがそんな二人を見て、フンと鼻を鳴らす。
「ちょっと、ラインヴァイス! 何でアイリスが初級魔術教本終わったの、黙ってたのよ!」
「その件でしたら、今夜にでもご報告を、と」
「そういう事はすぐに教えなさいよ! 帰って、お祝いするわよ!」
「かしこまりました。では、ノイモーント。先程の件、お願いします」
そう言いながら、先生がソファから立ち上がる。ノイモーントさんも立ち上がり、深々と頭を下げた。
「何の話?」
アオイが不思議そうな顔で先生とノイモーントさんを見比べる。先生は曖昧に笑うと、私達の脇を抜け、何も言わずに外に出てしまった。話したくない、と言うか話せないのかな? もしかしたら、騎士のお仕事に関係する話なのかもしれない。私達に関係する事だったらちゃんとお話があるだろうし、追及するのは良くない。私は、なおも不思議そうな顔をして突っ立っているアオイの手をグイッと引っ張り、先生の後を追った。




