近衛師団長の憂鬱Ⅸ 2
バルトからの報告があってから数日が経ち、城の結界の増強は全て終わった。お披露目の準備と並行しての作業だったが、手抜かりは無いはずだ。そう思いつつ、一つ一つ魔法陣を見て回る。万が一にでも、城に被害を出す訳にはいかない。お披露目には、他国の要人も招いているのだから。
魔法陣を一通り確認し終わると、僕は商業区画へと向かった。遅い時間になってしまったが、今日取りに行くと伝えてあるし、まだ店を開けてくれているはずだ。もし、もう閉まっていたのなら、明日の昼にでも取りに行けば良い。ただ、そうなると、アイリスをどうするか……。一緒に取りに行くのは避けたい。出来れば、当日渡して驚かせたいし……。そんな事を考えながら廊下を進み、一枚の扉の前で足を止める。ノックをしてノブを引くと、カランコロンと小気味良い鐘の音が響いた。
次の日、久々にアイリスの勉強を見る事が出来た。昨日のうちに、結界の増強もお披露目の準備も完璧に終わらせた。中央神殿の奴らさえいなければ、このまま当日まで穏やかな時間が過ごせたというのに……。
あと十日程でお披露目だというのに、中央神殿の奴らの動きは掴めないでいる。叔父上が探索魔術で城付近を警戒しているのだから、人族の集団が紛れ込めばすぐに分かるはずだ。城の結界も罠も万全。僕も叔父上も、今日まで出来る限りの事をした。前線で戦う人選も、城から脱出する手はずとなっているアオイ様達の護衛も、あれが最高の組み合わせのはず……。
「先生?」
呼ばれて顔を上げると、アイリスが不思議そうに僕を見つめていた。暫く振りにアイリスの勉強を見ていたというのに、全く身が入っていなかった。
「どうしました? どこか、分からないところがありました?」
「ん~ん。先生、元気ない顔だったからね、具合悪いのかなって。お腹痛い? 頭痛い? あっ! 眠い? 私、治せるよ!」
「いえ。大丈夫ですよ」
僕は首を横に振り、笑って見せた。アイリスが安心したように息を吐く。
「よかったぁ」
花の咲いたような笑顔。この笑顔を守りたい。失いたくない、大切な人。
――ラインヴァイス。来い。
突如、兄上の声が頭の中に響く。ついに来たか……。椅子から立ち上がると、アイリスが驚いたように目を丸くし、僕を見上げた。
「アイリス。今から言う事をよく聞きなさい。この後、ここにバルトが迎えに来ます。彼と共にイェガーと合流し、アオイ様、ローザ様を連れ、アオイ様の白い獣で離宮に転移し、そこで城からの迎えを待ちなさい」
「先生?」
「アオイ様とローザ様を頼みます」
僕はそう言うと、アイリスに背を向けた。彼女には、今日まで何も伝えていない。本当は、全てを伝えた方が良かったのだろう。しかし、言えなかった。彼女が姉のように慕っているアオイ様をおとりにするなど、軽蔑して下さいと言っているようなものだから。
突然こんな状況になり、不安になるなと言うのは、幼いアイリスには酷な話だ。それも重々承知している。だから彼女に背を向けた。不安で泣きそうな彼女の顔を見たら、傍にいてあげたくなるから。後ろ髪を引かれる思いとは、こういう事を言うのだろう。
「先生!」
悲鳴のようなアイリスの声。それに送られ、僕は謁見の間の隣、控えの間へと降り立った。そこでは既に、兄上と叔父上が作戦の最終打ち合わせを行っていた。
「遅くなりました」
そう言って片膝を付こうとした僕を、兄上が手で制す。そして、口を開いた。
「アイリスは」
「大丈夫です」
「そうか。では、あちらを」
そう言って、兄上が顎をしゃくる。その先には謁見の間。アオイ様はまだそこにいるはずだ。最終打ち合わせが終わったら、叔父上がアオイ様を部屋に戻す手はずになっているのだから。その後、アイリス、ローザ様、バルト、イェガーと共に離宮へと脱出する予定だ。計画通りに事が進めば、彼女達の安全は確保される。大丈夫。そう、何も心配する必要は無い。
玉座の後ろで室内警護をしていた者に、城門の応援を命じる。ふと、玉座に目を向けると、アオイ様が玉座から身を乗り出して振り返り、こちらをジッと見つめていた。彼女の表情から、僅かに不安の色が窺える。
今から何が起ころうとしているのか、彼女は兄上から何も聞かされてはいない。おとりにしてしまう後ろめたさかと、初めはそう思ったが、たぶん違う。中央神殿の奴らが来ると分かったら、彼女は兄上と共に戦おうとする。そういう人だと分かっているから、兄上は何も伝えなかったのだろう。
ギリギリまで何も言わず、その時になったら必要最小限の事を伝える。そうすれば、思い迷う暇は無い。いくらアオイ様でも言われるがまま、アイリスとローザ様を連れて大人しく離宮に脱出するだろうと、兄上はそう踏んでいる。そうなってもらわないと困る。
僕がにこりと微笑みかけると、アオイ様の口の端が僅かに上がった。それを確認し、警護担当の者と立ち位置を変わる。この後、ノイモーントとフォーゲルシメーレがここに、ヴォルフが城門警護の応援に行く手はずとなっている。上級騎士団員の面々も、要所の警護に立つ。叔父上や兄上と、今日までに何度も協議した配置だ。対策は全て講じた。この竜王城が落とされるなど、あってはならない事だから。
暫くすると、ノイモーントとフォーゲルシメーレが謁見の間に入って来た。腰には剣を帯び、普段より幾分か表情が硬い。これから起こる事を考えると、それも仕方の無い事だ。今この状況で、気楽な顔が出来る者がいたとしたら、それは相当の大物だ。色々な意味で、僕の手に負えない。
ノイモーントとフォーゲルシメーレが僕に倣うよう、静かに玉座の後ろに控える。それを見たアオイ様の眉根が寄った。不審そうに僕らを見比べていたかと思うと、口を開く。
「あの――」
アオイ様が言葉を発したその時、兄上と叔父上が謁見の間に戻って来た。流石の兄上も、今日ばかりは表情が硬い。それを見て、アオイ様の顔が強張った。
「アオイ。話がある」
兄上は玉座に座るアオイ様の前に仁王立ちすると、そう切り出した。
「は、話? 何でしょーか……?」
「謁見を待つ者の中に、中央神殿の者が紛れ込んだ可能性が高い」
「……え? シュヴァルツ、それ……」
「アオイが狙いとみて間違い無い。ブロイエと共に部屋に戻れ」
「え……。あの……」
アオイ様が頷くより早く、叔父上がアオイ様の手を引いて強引に立ち上がらせた。そして、杖を掲げ、転移魔法陣を展開する。
「ちょ――」
アオイ様が言い終わらないうち、二人の姿が掻き消えた。アオイ様の事は、バルトとイェガーに任せれば問題無いはずだ。それに、白い獣もいる。アオイ様にとって、あれ程、心強い護衛はいないはず。
一度だけ、あの獣に襲われた時にその実力の一端を見たが、あれは規格外の召喚獣だ。魔人族でも扱うのが難しいはずの空間操作術を自在に操れる召喚獣など、今まで聞いた事が無い。初めは、転移専用の召喚獣かと思っていた。だから、城の中でも転移が出来るのだと。まさか、叔父上並に実力があるとは……。あれが味方で良かったと、今なら心底そう思える。
そんな事を考えていると、叔父上が姿を現した。アオイ様に指示だけ出して戻って来たのだろう。叔父上は兄上に小さく頷くと、防具錬成を行った。叔父上の全身が深い水底色の鎧に包まれる。兄上も防具錬成を行い、漆黒の鎧を身に纏うと、腰の剣を抜いた。僕もそれに倣い、防具錬成をし、腰の剣を抜く。ノイモーントとフォーゲルシメーレも剣を抜き、僕達は来るべき時を待った。




