リーラ 4
アオイがリーラ姫の事を知ってから、一月程が過ぎた。朝晩はめっきり冷え込むようになり、暖炉に火を入れないと凍えるような日が続いている。
リーラ姫の事を知った日のアオイは、薔薇園でずっと泣いていたらしく、魔術の勉強どころではなくなってしまった。部屋に戻って来てからも塞ぎ込んでいて、ずっと涙を流していた。そんな辛い思いをしたのに、アオイの記憶は戻らなかった。
一晩泣いて、泣き疲れて眠って……。そして、次の日から、アオイは何事も無かったかのように過ごし始めた。
けど、私は知っている。アオイがとっても悲しんでいる事を。時々、どうしようもなく悲しくなって、泣きそうになっている事を。でも、悲しんでいてもリーラ姫が戻って来る訳じゃ無いし、みんなに心配掛けるから笑顔でいようって頑張っている事を。
私はアオイのそういうところ、凄いと思う。私だったらきっと、毎日毎日泣いて過ごしているもん。私、アオイみたいに強くないんだもん……。
アオイはそんな状態だけど、お披露目の準備は着々と進んできている。お披露目用のアオイの真っ白いドレスも完成し、新たに部屋に運び込まれたクローゼットに収められた。でも、アオイはそのドレスを一回も着ていない。本当は手直しなんかの為に、一回は着た方が良いと思うんだけど、リーラ姫の事を考えると着る気になれないみたいだ。
私は魔道書から顔を上げ、溜め息を吐いた。私は今、図書室で独りぼっち。先生はいない。アオイの祝いの品が届いたからって、一人でそれをアオイの元に届けに行ってしまった。
私にとって、先生は一番。でも、先生にとって、アオイが一番。こういう時、それを思い知る。「一緒に行きましょう」って言って欲しかったのに、先生は私を置いて行ってしまった。一人でアオイの所に行ってしまった。先生にとって、私はお邪魔虫なんだ、きっと……。それが凄く悲しくて寂しくて、ジワリと目に涙が滲んだ。
ガチャリと扉が開く音がし、私は袖でごしごしと顔を拭いた。コツコツという靴音が静かな図書室に響く。私は、高ぶってしまった気持ちを落ち着けようと、深呼吸を数回繰り返した。
「どこまで進みました?」
先生の声が頭の上から降ってくる。いつも通り優しくて、大好きな声。顔を上げればきっと、先生は優しく微笑んでいるんだと思う。私に向かってじゃなくて、私に重ね合わせているリーラ姫に向かって……。涙で視界がぐにゃりと歪んだ。
「アイリス?」
怪訝そうな先生の声。顔を覗き込まれる前に、涙、引っ込めなくちゃ。それで、先生に「何でもないよ」って言わないと。分かっているのにそれが出来ない。ペンを握る私の手に、ぽたぽたと涙が落ちた。
「アイリス? 具合が悪いのですか?」
私のすぐ横に屈み込み、先生が私の顔を覗き込む。私はフルフルと首を横に振った。
「では、何故泣いて――」
先生が言い終わらないうち、私はガバッと先生に抱き付いた。具合なんて悪くないもん。先生がいけないんだもん。先生がアオイの所に行っちゃうから。私を独りぼっちにして行っちゃうから!
私がいきなり抱き付いて、声を上げて泣き出したからか、先生は戸惑ったように固まっていた。でも、すぐに背中をトントンしてくれる。
「ねえ、アイリス? 今日の勉強はもう終わりに――」
「嫌だ!」
勉強を終わりにしちゃったら、先生と一緒にいられないもん。そんなの嫌だもん!
「たまには気分転換をしましょう? ね?」
「やだぁあぁぁ~!」
私の頑なな態度に、先生が小さく溜め息を吐いた。そして、泣き止まない私を抱え上げると、そのまま図書室の扉に向かった。強制的に部屋に連れ戻すつもり?
良いもん。先生がそのつもりなら、私にだって考えがあるもん。このままずっと、しがみ付いててやるんだから! それで、部屋に着いても離してあげないんだもん。先生なんて、困れば良いんだもん! ギュッと腕に力を入れると、先生がクスリと笑った。
「そんなに必死にしがみ付かなくても、落としたりしませんよ?」
落とされるのなんて心配してないもん。先生、そんな事しないもん。分かってるもん。でも、離してあげない。私はフルフルと首を横に振った。
「さて、どこに行きましょうか? この時間なら夕焼けも見られそうですし、空中庭園で散歩? それとも、夕食前ですが食堂でお茶にします?」
あれ? 部屋に戻るんじゃないの? てっきり、このまま部屋に連れて行かれて、また独りぼっちにされるのかと思ってた……。
空中庭園と食堂かぁ……。今、リーラ姫の作った庭には行きたくない。だって、嫌でも私はリーラ姫の代わりなんだなって考えちゃうから。
「お茶……」
私がぼそりと呟くと、先生が頷いた。そして、私を抱きかかえたまま、食堂へと向かった。
先生に抱えられたまま食堂に入ると、たまたま食堂にいた人達が驚いた顔で私達を振り返った。半べその私と、それを抱きかかえる先生。見るなという方が無理なのかもしれない。
「ずいぶん大きな荷物を抱えていますね、団長」
そう声を掛けてきたのはバルトさん。彼の膝の上にはミーちゃんもいる。今日も二人、じゃなかった、一人と一匹はお散歩をして、その帰りに食堂に寄ってお茶をしていたらしい。バルトさんってば、ユニコーンのお世話はサボり?
「言う程、大きくないですよ?」
先生がにこやかにそう答える。でもね、先生。それは、私がチビって言ってるようなものなんだよ! ふんっ! そうやって、いつも私を子ども扱いして!
「それより、バルト。その獣、どうにかなりません?」
先生はそう言い、溜め息を吐いた。見ると、バルトさんの膝の上で、ミーちゃんが毛を逆立て、先生に向かって唸っている。鼻の頭に皺を寄せ、牙を剥き出しにする姿は、小さくても迫力満点だ。
「敵愾心を持たれている気がしてならないのですが……」
「完全に嫌わていますよね。ミーに何したんですか?」
「何もしていませんよ。ある夜、執務室に訪ねて来たと思ったら、急に巨大化して襲い掛かってきて……。強いて言うのなら、その時、小さくなるまで絶対障壁に閉じ込めましたけど、そうでもしないとこちらの身が危うかった訳で……。それに、その時には既に嫌われていたと思いますし……」
先生の身が危ういって……。ミーちゃん、どんな攻撃したの? 先生が絶対障壁を使うくらいだし、魔術使った攻撃だって事? あれぇ? でも、ミーちゃんが使える魔術って、転移魔術だけじゃないの? てっきり、それ以外の魔術って使えないと思ってたけど、違かったのかな?
それよりも、ミーちゃんって大きくなれたのか。知らなかった。大きくなるとどんな感じなのかな? 背中、乗れたりなんてするのかな? ちょっと乗ってみたい……。
そんな事を考えながらジーッとミーちゃんを見つめていると、それに気が付いたミーちゃんが唸るのを止め、「みゃ~」と可愛らしく鳴いた。そして、唸っていたのを誤魔化すように、前足を舐めて顔を擦り始める。くふふ。ミーちゃんのこういうところ、凄く可愛い。
バルトさんは先生と二言三言言葉を交わすと、ミーちゃんを抱っこして席を立った。やっとお仕事に戻るらしい。ミーちゃんのお世話も大事だけど、ユニコーンのお世話も忘れないであげてね、バルトさん。私が手を振ると、バルトさんも小さく手を挙げ、それに答えてくれた。
先生はバルトさんが座っていた席に私を下ろすと、くるりと背を向けた。慌てて、先生のマントの端を握り締める。
「お茶とお茶菓子を取りに行くだけですから」
「ん」
分かったと頷き、立ち上がる。すると、先生は少し困ったように笑いながらも、それ以上は何も言わず、食堂の端の大きなテーブルに向かった。私も先生のマントの端を握り締めたまま、その後に続いた。
二人でお茶を飲みながらまったりしていると、ウルペスさんが食堂に入ってきた。きょろきょろと辺りを見回していたかと思うと、私達に目を留め、急ぎ足でこちらに向かって来る。
「こんな所にいたのか。図書室行っても、誰もいないんだもんなぁ……」
ウルペスさんは疲れ切ったようにそう言うと、私の隣の席に腰を下ろした。そして、私の小皿のお茶菓子に手を伸ばす。あげないもん! 私はサッとお皿を引き寄せた。
「何故、人の菓子を取ろうとするのですか……。昔、リーラにもそれをやって喧嘩になったでしょうに……」
先生は溜め息交じりにそう言うと、ウルペスさんにお茶菓子の乗った小皿を差し出した。ウルペスさんが照れたように笑いながらそのお皿を受け取る。
喧嘩をしていた先生とウルペスさんだけど、少し前に仲直りする事が出来た。最終的に、二人の魔術の先生であるブロイエさんが間に入ってくれて、長い時間お話し合いをして――。そうしてやっと、今まで通りになったみたい。良かった、良かった。
「それより、何か用があったのですよね? どうしました?」
先生が不思議そうな顔で口を開く。すると、ウルペスさんはお茶菓子を食べる手を止め、少し難しい顔をした。私がいたら言いにくい? 私、お邪魔虫?
「ここで話し難いようでしたら、夜にでも時間を取りますが……」
「いや……。俺さ、アオイ様のお披露目が終わったら、メーア大陸に渡りたいんだ……」
「リーラの事、確かめに行くつもりですか?」
「うん。目の色も髪の色も、憑依でどうにでも出来るし……。だから、騎士を除名して欲しい。無責任なのも身勝手なのも分かってる。だけど……!」
「分かりました。ただ、僕の一存でそれは出来ません。竜王様と叔父上と相談するとしか、今は言えません」
「宜しくお願いします」
ウルペスさんは深々と先生に頭を下げると、椅子から立ち上がった。そして、私の頭をポンポンとして背を向ける。その顔はどこか吹っ切れたようなもので、前よりもずっと力強い目をしていた。でも……。
「先生……」
もし、リーラ姫が消滅していたら、ウルペスさんはどうするの? どうなるの? そう考えると、不安がドッと押し寄せてくる。引っ込んでいた涙が、また出て来てしまった。




