近衛師団長の憂鬱Ⅷ
アオイ様と兄上の夕食が終わり、向かった先は厨房。使用済みの食器をイェガーに手渡した。
「今日はもう終わりですか?」
「いえ。書類が少し溜まってしまったので、この後、執務室で書類整理です」
食器を受け取るイェガーに問われ、僕はにこやかにそう答えた。すると、イェガーが気の毒そうな顔をし、頭を下げる。「頑張って下さい」とか、そういう意味なのだろう。
イェガーは料理長の他に、第一連隊の副長付きも長年務めている。役職付きの者には権限と、それに見合った責任と役務が伴うという事をよく理解している、彼らしい応援の仕方だ。
「もし、小腹が空いたら、遠慮なく当番の料理人に声を掛けて下さい」
「はい。そうさせてもらいます」
とは言いつつ、深夜に食堂を訪れるつもりは無い。当番の料理人に手間を掛けさせるのも悪いし、空腹でもあまり気にならない性質だから。
「あと、ちゃんと寝て下さいよ。あまり無理すると、いつか身体を壊しますから」
「分かっていますって」
「そうは言っても、もっとご自身の身体を労わって――」
その後、イェガーから延々と説教されてしまった。やれ早く寝ろだの、湯にゆっくり浸かって疲れを取れだの、成長期なんだから食事量を増やせだの。心配してくれるのは非常に有り難いのだが、いかんせん、彼の説教時間は長い。それに、言う事がどこか母親じみている。年若い者の面倒を見ているせいなのだろうか? まさか、皆の母を目指しているなんて事は……。考えるのは止めよう。あんな強面の母、想像するだけで精神力が削られる。
厨房を後にし、執務室へと向かう。厨房からだと、東の塔に引き返すよりも、ノイモーントの工房やウルペスの店がある商業区画を抜けて執務室に向かう方がいくらか近い。大した差ではないのだが、今日はアイリスが一緒にいる訳でもないし、敢えて遠回りする意味が無い。
角を曲がり、階段を下りると、まっすぐ伸びる廊下を進む。突き当りを左に進み、二つ目の角を曲がると、ウルペスが腕を組み、壁にもたれるように立っていた。思わぬ待ち伏せに、僕は思わず足を止めた。
ウルペスが殺気を放ちながら、鋭い目で僕を睨む。こうして、温厚なウルペスが怒りをあらわにする事は非常に珍しい。先の大戦でリーラが死した時以来だろうか? 彼がこうなる原因に、僕は心当たりがあった。
知られてしまった……。アオイ様が攫われた際、浄化術でリーラが引き剥された事を。出来れば隠し通したかった……。
ウルペスがリーラの後を追おうとしなかったのは、リーラの魂がどんな形であれ、この世界にとどまっていたからだ。話も出来ず、触れる事も叶わなくなっても、それでもリーラの魂があり続けている事で、彼は何とか心の均衡を保っていた。
「何で嘘吐いた?」
ウルペスが静かに問う。僕は何も答えられなかった。僕はただ、彼の心を守りたかった。しかし、これは僕のエゴだ。リーラに続き、ウルペスまで失いたくないという、自分勝手な僕の……。
「面白かった? 俺を騙して。単純で、馬鹿が付くほどお人好しだって思った?」
「そんな事は――」
「おかしいとは思ったんだよね。お忙しいはずの団長様が、最近、ちょくちょく会いに来るようになって。もっと早く気付くべきだった!」
ウルペスが叫び、拳を壁に叩き付ける。そして、ゆらりとこちらに向き直った。
「何が、リーラもアオイ様の記憶を取り戻そうと頑張っています、だよ。アオイ様の手に、リーラ姫の紋章、無くなってんじゃないか!」
「アオイ様と……会ったのですか……?」
いつ、どこで? アオイ様が攫われて以降、ウルペスがアオイ様に会う機会は無かったはずだ。彼らが顔を合わせる事が無いように、近衛師団長の権限まで使った。真実を知っている者への根回しだって完璧だったはずだ。それなのに……。
「今日、偶然、廊下ですれ違ったよ! 俺をアオイ様と会わせさえしなければ、嘘がばれないと思ってたみたいだけど、残念だったな!」
ウルペスが憎悪に染まった眼差しで僕を睨む。その視線に耐え切れず、僕は彼から視線を逸らすように俯いた。
「アンタに騙されるなんて思ってもみなかった。でも、騙される方が馬鹿なんだろ?」
「……」
「何とか言えよっ!」
「……すみません」
絞り出すようにそう言った瞬間、顔面を衝撃が襲った。たたらを踏み、壁に肩が触れる。不思議と、殴られた痛みはあまり感じなかった。しかし、口の中に血の鉄臭い味が広がる。
「先生っ!」
突然、アイリスの叫び声が響き、小さな影が飛び出して来た。僕を庇うようにウルペスと僕との間に両手を広げて立つ彼女は、きっと、ウルペスを睨んでいるのだろう。
「今、大事な話してんだ。あっち行って」
「嫌だもん! ウルペスさん、先生、ぶつもん!」
「退いて」
「嫌!」
「退いて!」
「嫌だ!」
「退けって言ってんだろっ!」
ウルペスが苛立ったように叫ぶと、アイリスの小さな肩がビクリと震えた。ウルペスの威嚇のせいか、彼女の足が小刻みに震えている。それでも、僕を庇うように立ち続けている。僕はそんな彼女の両肩を掴み、そっと脇に退けた。
「先生……」
アイリスが僕を見上げる。その目にいっぱい、涙を溜めて。きっと彼女は、獣人種の者から本気の威嚇を受けたのは初めてだっただろう。しかし、恐怖で逃げ出す事も無く、殴られた僕を庇ってくれた。何と優しく、何と強い子なのだろう。
僕にも彼女のような心の強さがあったら、ウルペスと向き合えたのだろうか? 支える事が出来たのだろうか? 今回も。そして、リーラが死した時も。
「下がっていなさい」
「でも……」
「大丈夫ですから。ね?」
アイリスに笑いかけると、彼女は小さく頷き、渋々ながらその場を退いた。
真っ直ぐウルペスを見つめる。すると、彼も僕を見つめ返した。依然として視線は鋭い。ウルペスにこんな顔をさせてしまったのは僕だ。どうしようもなく浅はかで、馬鹿な事をした……。
「リーラの事、弁明のしようがありません。ただ、一つだけ分かって欲しい。僕にとって、貴方は掛け替えのない友人です。僕は友人が悲しむ様を見たくなかった。真実を告げ、貴方を苦しめたくなかった」
「その結果がこれかよ! 俺が余計に苦しむだけだって、何で分かんないんだよ!」
「馬鹿な事をしたと、そう思っています……」
「アンタは、俺の信頼を裏切ったんだ! 何が、掛け替えのない友人だ! 笑わせんなっ!」
「……すみません」
「謝って済む問題じゃねぇだろっ!」
叫び、ウルペスが拳を振り上げる。感情的になっている者の拳など、避けるのは容易い。しかし、避けようという気が全く起こらなかった。彼が僕を殴りたくなる気持ちも分かるから。
「は~い、そこまで! ウルペス、ちょ~っと落ち着こうねぇ」
突然、叔父上の声が廊下に響き、ウルペスが不自然な体勢で動きを止めた。見ると、ウルペスの足元に魔法陣が浮かび上がっている。しかし、それも一瞬の事。瞬きする間にも魔法陣は消え、ウルペスがバランスを崩してよろけた。
「流石にこれは不味いでしょ? いくらお馬鹿さんのウルペスでも、それくらい分かるよねぇ?」
そう言いながら、叔父上がゆっくりとこちらに向かって来る。その後ろには、不安そうな顔でこちらを見つめるローザ様が立っていた。きっと、彼女はアイリスと一緒にいたのだろう。それで、僕とウルペスの喧嘩を見かねて、仲裁役として叔父上を契約印で呼んだ、と。
「ウルペス、少し話をしよう。ローザさんも一緒に来てくれるかな? あと、ラインヴァイスはアイリスと一緒に、ノイモーントの工房に行ったげて」
そう言い、叔父上がウルペスの腕を掴むと杖を掲げた。とたん、彼らの足元に転移魔法陣が広がる。ローザ様が慌てて叔父上に駆け寄ると、叔父上が展開した魔法陣が眩い光を放ち、三人の姿が消えた。
「先生ぇ……」
呼ばれて振り返ると、アイリスがギュッとエプロンの端を握り締め、不安そうな面持ちで僕を見つめていた。彼女にまで、こんな顔をさせてしまう事になるとは……。本当に、僕はどうしようもない馬鹿だ。
「ノイモーントの工房はこちらですよ。さ、行きましょう」
無理矢理笑みを作り、アイリスに手を差し出す。すると、彼女はフルフルと首を横に振った。
「ここ、切れてる……」
アイリスはそう言うと、自身の口の端を指差した。アイリスが示す箇所に触れてみる。すると、鈍い痛みが走り、僕は思わず顔を顰めた。触れた指を見ると、微かに血が付いている。
「痛い?」
「ええ……。思いきり殴られましたからね……」
「私、治せるよ」
アイリスが腰の杖を抜き、僕を手招きする。彼女が使える治癒術は、ごくごく軽い傷を治癒させる初級の術だけ。擦り傷や浅い切り傷などの治療に使う術で、日常生活での汎用性は高い。これくらいの傷だったら、目立たない程度に治す事は可能だろう。
そういえば、生まれてからこの方、治癒術をかけてもらうのはこれが初めてだ。まさか、初体験が喧嘩での怪我とは……。みっともないな……。僕は前髪を掻き上げるフリをしながら苦笑を漏らした。
「お願いします」
アイリスと目線を合わせるように片膝を付く。すると、彼女は傷に触れるか触れないかという位置に手を翳し、魔法陣を展開した。
「ハイレン!」
アイリスが発動言語を口にすると、魔法陣が淡く光りだした。初めて治癒術をかけてもらったが、不思議な感覚だ。この光、湯に浸かっているような温かさがある。
そのまま動かずに待っていると、治療が終わったのか、アイリスが魔法陣を消した。真剣な眼差しで、傷があった箇所を観察している。もう痛みは無いし、治ったと思うのだが、如何せん、鏡が無いせいで自分では確認出来ない。
「ん~」
アイリスが小さく唸りながら僕の口の端に触れる。小さい手。細い指。僕が守りたい、大切な人。それなのに、今日は逆に守られてしまった……。
「もうちょっとだったかなぁ……? ハイレン!」
アイリスは再び魔法陣を展開すると、治癒術を発動させた。彼女的に、納得出来ない治し方だったらしい。触れられても痛みは無かったが、もしかしたら、痣か何かが残っていたのかもしれない。顔は目立つ場所だし、綺麗に治してもらえるのならそれに越した事は無い。この傷に気が付いた者に、事情を説明する訳にもいかないのだから。
暫く治療終わりを待っていると、徐にアイリスが魔法陣を消した。そして、満足そうに一つ頷く。
「治りました?」
「ん。綺麗になった」
「ありがとうございます。何か、お礼をしないとですね」
そう言うと、アイリスが慌てたように首を横に振った。思わぬ反応に僕が首を傾げると、彼女が口を開く。
「お礼なんていい」
「何故です?」
「だって、ちっちゃい傷だったもん。それに、一回で治せなかったもん」
ふむ……。アイリスの言いたい事も分からなくはない。初級の術で治せる傷ならば、放っておいても数日すれば完治もするし、命に関わるような事も無い。それに、もう少し魔術の扱いに慣れていれば、かけ直しをせずに一回で治す事も可能だったはずだ。逆に、一回目は不完全な状態で治療を終え、失敗したとも言える。だが――。
「アイリス。それでは自分で自分の術の価値を貶めてしまっています。魔人族は治癒術が使えないのですから、簡単な術だったとしても、治癒術を使える事に自信を持ちなさい。それにね、僕の顔に殴られたような傷があったら、皆が不審に思うでしょう? どうしたのか聞かれても、ウルペスに殴られたとは口が裂けても言えません。ですから、アイリスが治してくれて、僕はとても助かりました」
「本当? 私、先生の役に立った?」
「ええ」
微笑みながら頷くと、アイリスが花の咲いたような笑みを浮かべた。今やっと、治癒術で人の役に立てたと実感出来たのだろう。だが、嬉しそうなアイリスの笑顔を見ても、僕の心は晴れなかった。
僕は手の届く所に想い人がいる。しかし、ウルペスは二度も想い人を失い、悲しみと絶望の底にいる。そして、僕はそんな彼を支えるどころか、余計に苦しめるような事をしてしまった。恨まれても、憎まれても仕方ない……。本当に、僕は救いようの無い馬鹿だ……。




