近衛師団長の憂鬱Ⅶ
ノックの音が響き、僕は本から顔を上げた。アイリス、ではないはずだ。彼女は今、部屋で昼寝をしているのだから。午前中にはしゃぎすぎて、うたた寝をし始めた彼女を部屋に送ったのはつい先ほど。起きて来るには早すぎる。誰が……? そう思いながら扉を開くと、ノイモーントが小箱を手に立っていた。
「おくつろぎの所、申し訳ありません。遅くなりましたが、頼まれていた品を届けに参りました」
そう言ったノイモーントを部屋に招き入れてソファへ案内すると、二人分のお茶を淹れた。そして、ノイモーントの前にお茶を置き、自分のを手に、ソファへと腰を下ろす。
「妙な時間に届けに来ましたね。今は昼休憩ですか?」
僕がそう言うと、ノイモーントが苦笑しながら口を開いた。
「ええ。この後、また出ないといけませんので。これを逃したら、次にいつ手が空くか分からなかったものですから」
ノイモーントが忙しくなった理由。それは、僕達が朝食を食べている最中、中央神殿の聖騎士と思しき人物がこの近くで目撃されたからだ。アオイ様を探しているとみて、まず間違いない。そんな者がいると分かっていて、彼女をいつまでもここに滞在させておく訳にはいかない。アオイ様は今日か、遅くても明日には竜王城へ帰るだろう。だがその前に、彼女がここに来たがっていた目的の品――絵の具の回収を、兄上がノイモーントに命じたらしい。画材の取りこぼしが無いようにと、家具以外の物全てを運び込ませているのだから、一回画家の家に足を運んだだけで終わる訳が無く。結果、ノイモーント含めて数人が、画家の家と離宮とを行ったり来たりする破目になった。
「貴重な休憩中に、あまり時間を取らせるのも申し訳ないですね。納品書は?」
「こちらです」
ノイモーントが差し出した書類に、サインをして返す。そして、鞄の中に入れてあった包みを彼に渡し、小箱を手に取った。
「……護符を、確認しないのですか?」
「信用していますから」
僕は手にした小箱をそっと撫でた。アイリスの為に、ノイモーントに作らせた石化の護符。僕の代わりに、彼女を守る護符。リボンの時のように、彼女は喜んでくれるだろうか?
――バルトがアイリスのパンツ、見たんだよ! リタイアする時!
御前試合の後、アオイ様に言われた事が頭を過る。バルトへの聴取の結果、故意ではなかった事は分かった。それに、バルトはエルフ族。人族嫌いの彼が、人族の女性に邪な感情を抱く事はほぼ無いと言って良い。今回は相手が良かった。そう、今回は。
次が起きた時、誰がアイリスを守れる? もし、僕が側にいなかったら……。彼女が傷つく様など見たくない。僕は彼女を誰よりも愛しているから。
「発動条件は要望から変えさせて頂きました。流石に、邪な考えを持つ者が近づいた場合では、見境が無さ過ぎますから」
「そうですか。設定した発動条件は?」
「所持者が著しい恐怖を感じた場合です。それならば魔物に対しても発動しますし、所持者の身を守る護符と言う点では妥当かと。それにしても思い切りましたねぇ。雪狼の毛皮を護符の対価に出すなんて。てっきり、求婚の際に贈るのかと思っていました」
「もしもその時が来れば、別の物を渡すつもりです。長年の愛用品を渡すのが、ドラゴン族含め、獣人種のしきたりみたいなものですから」
僕はそっと上着のポケットに触れ、それの感触を確かめた。これを見た時の彼女の顔。目を輝かせ、ジッと見つめる姿。これを渡したら、彼女はどんな顔をするのだろうか? 驚いて目を丸くする? それとも、嬉しそうに笑ってくれる? つき返されたりなんて事は……。考えるのは止そう。精神衛生上、宜しくない。
「そうでしたね。失念していました」
ノイモーントが小さく頭を下げる。僕は苦笑しながら首を横に振った。
文化の差なのか何なのか、求婚の際に渡す物は、種族によってちょっとした差異がある。ノイモーントのインキュバス族を含めた悪魔種の場合、とにかく高価な物を渡す傾向があったはず。今回の対価で渡した雪狼の毛皮はきっと、彼がフランソワーズ嬢に求婚する際に使う事になるだろう。
対価の雪狼の毛皮は、アイリスを襲い、僕の左目を奪った雪狼のものだ。僕が仕留めたのを聞きつけたヴォルフが回収、加工してくれた。その対価として半分はヴォルフに持って行かれたが、それでもこうして、ノイモーントに石化の護符を作ってもらうには十分な量が手元に残った。僕の役に立ち、ノイモーントの役に立ち、更にフランソワーズ嬢やヴォルフの役にも立つのだから、あの時の雪狼も浮かばれるだろう。
「では、私はこれで」
「ええ。わざわざありがとうございました」
立ち上がったノイモーントを戸口まで見送り、僕はソファに戻ると、読みかけになっていた本を手に取った。本の表紙には何も書かれていない。題が決められなかったんだと、ウルペスは言っていた。僕に考えて欲しいとも。
ウルペスがリーラへの想いを昇華させるために書いた本。彼が望んだ世界。早く読んで、彼に題名を伝えなければ……。
僕とアイリス、兄上、アオイ様四人での夕食が終わり、僕は一旦部屋に戻ると、すぐさまアイリスの部屋へと向かった。彼女の部屋の扉をノックする。しかし、中からの応答は無い。中庭にでも出ているのだろうか? そう思って中庭に回ってみるも、見える場所に彼女の姿は無い。湖にでも行っているのだろうか? それとも、離宮の中を探索でもしているのだろうか? ……とりあえず、湖の周りを一周してみるか。
月明かりに照らされ、湖が幻想的に輝いている。風が無いからか、湖面には綺麗に夜空が映し出されていた。竜王城に飾られているこの湖の昼間の絵を見て、アオイ様が書きたくなったという夜の湖の風景。確かに、これならば魅惑的な絵になりそうだ。
今ここに、アイリスがいない事が口惜しい。彼女はこの風景を見て、どんな顔をするだろう? 瞳を輝かせ、愛らし顔で笑うだろうか? それとも、魅入られたように湖を見つめる? 明日、誘って――。
「あれ? ラインヴァイス様?」
名を呼ばれ、反射的に振り返る。すると、ウルペスが満面の笑みでこちらに駆け寄って来た。
「どうしたの、こんな所で。散歩?」
「ええ、まあ……。ウルペスこそ、こんな所で何を?」
「俺? 俺は仕事! 中庭の夜間警備! これなら、みんな安心して寝られるでしょ?」
そう言い、ウルペスが誇らしげに胸を張る。確かに、ウルペスが夜間警備に当たってくれるのは心強い。彼が実力者だからというだけでなく、屍霊術師でもあるからだ。不浄の者に闇など関係無い。ウルペスが夜間警備に就いている限り、いかなる者も闇夜に紛れて忍び込むなど不可能と言って良い。
だが、ウルペスが夜間警備を引き受けた理由は皆の為だけじゃない。朝に弱い彼の事。きっと、朝早くに起きる必要が無いからと、夜間警備を引き受けたはず。大手を振って昼間に寝る事が出来ると、内心喜んでいるはずだ。僕はウルペスに笑顔を向け、口を開いた。
「自堕落な生活が、偶には役に立つのですね」
「自堕落とか言わないで! 駄目なヤツにしか聞こえないから!」
どちらからともなく声を出して笑う。こうして二人で笑い合っていると、リーラが生きていた頃に戻ったようだ。人族との戦さえ無ければ……。リーラさえ、生きていてくれたのなら……。ウルペスが書いた、あの物語のように……。
「本、読みました。まさかこんな所で会うとは思っていなかったので、部屋に――」
「あ。あれさ、ラインヴァイス様が持っててよ」
「え……?」
「読み返すとさ、嫌でもリーラ姫の事、思い出しそうじゃん? 書いている最中は元気なリーラ姫に会えた気がして楽しかったんだけど、手元に置いておくとなると、ね……」
少し寂しそうな顔でウルペスが笑う。そんな彼に、僕は返す言葉が見つからなかった。
「また書くつもりだから、出来上がったら読んでよ。名付けて、リーラ姫の冒険シリーズ!」
僕が頷くと、ウルペスが嬉しそうに笑った。リーラが死んでしまってからというもの、抜け殻のようになっていたウルペスだったが、やっと生きがいを見つけてくれたみたいだ。
魔人族の多くが、生涯一人の女性を想い続ける。ウルペスも例外ではない。彼の心には、いつまでもリーラが住み続ける。だから彼は、リーラへの想いを物語につづる事にした。リーラが生きている世界を書き続ける事にした。そんなウルペスの生き方を、僕は支え続けよう。友として。
「ただ、そのリーラ姫の冒険シリーズというのは、センスが無さ過ぎますよ、ウルペス」
「知ってる! だから、ラインヴァイス様に題名考えてって言ったの」
「……戦姫の涙」
ポツリと呟く。すると、ウルペスが瞳を輝かせた。
「おお! もう考えてくれたの?」
「ええ。ただ、リーラには少々、不似合かとも思うのですが……。戦姫では、戦を愛する姫みたいですよね」
「そんな事無いよ! リーラ姫にはピッタリだよ! 戦姫! 格好良いっ!」
「そう、ですか……?」
「そうだよ! ありがと、ラインヴァイス様!」
ウルペスが満面の笑みで僕の手を握り、激しく上下させる。正直、こんなに喜んでくれるとは思わなかった。僕は物語を書いた事が無いから良く分からないが、題名を付けた事で、やっと物語が完成したという事なのだろうか?
「戦姫シリーズかぁ。今から書くのが楽しみだなぁ」
「リーラの元気な姿、たくさん見せて下さい」
「もちろん! 次回作はね、もう考えてあるんだ! 恋物語なん――」
「兄として、それは許可出来かねます」
「そんなぁ!」
叫び、ウルペスがガックリと項垂れた。目に光るものが溜まっていたところを見ると、本気でショックを受けているらしい。
本心では、いつかそんな物語も読んでみたい。リーラとウルペスが幸せになる物語を。共に手を取り合い、誰よりも幸せに笑っている物語を。だが、あえてそれは口にしない。ウルペスの事だ。言ったが最後、調子に乗って何作も書く事が分かっているから。
ウルペスに別れを告げ、僕は再びアイリスの部屋を訪れた。どこかに行っていたとしても、そろそろ戻って来ているかもしれない。これで留守だったら、明日にでも渡す事にしよう。
扉をノックする。すると、中からアイリスの声が聞こえた。パタパタと扉に駆け寄る足音に続き、勢い良く扉が開く。
「あ! 先生!」
パッと顔を輝かせるアイリスは、既に寝る準備を終えていた。寝間着に身を包み、普段は二つに結っている髪を下ろしている。先程訪ねた際に応答が無かったのは、入浴でもしていたからなのだろうか?
「先生、お茶しよう! お茶!」
そう言って、アイリスが僕の腕を引く。歓迎してくれるのは嬉しい。しかし、この無防備な姿……。
「アイリス、お茶はまた明日――」
「えぇ~。先生と一緒にお茶、したかったのにぃ……」
こうして残念そうな顔をされると弱い。僕は小さく溜め息を吐き、上着を脱いだ。そして、それをアイリスの肩に掛ける。
「一杯だけですよ」
「んっ!」
嬉しそうに頷いたアイリスは、僕をソファに案内すると、いそいそとお茶の準備を始めた。護符の小箱をローテーブルに置き、そんなアイリスを見つめる。
アオイ様のメイドになりたての頃は、お茶を淹れる手つきも危なっかしかった。いつティーカップを落とすか、湯で火傷をするか、ハラハラとしながら見守っていたものだ。しかし、今ではもう慣れたもの。お茶を淹れる姿も様になっている。
アイリスはすぐにお茶を淹れ終え、ソファ座る僕の前にそれを置いた。そして、自身のを手に、僕の正面の席へと腰を下ろす。
「やけに早く寝るつもりだったのですね。疲れましたか?」
「ん~ん。明日ね、寝坊しないようになの! 空からの夜明け、先生と一緒に見るんだもん!」
あの約束を、こんなにも楽しみにしてくれているとは。しかし、彼女が楽しみにしているのは空からの夜明けであって、僕と共に過ごす時ではない。そう分かっていても、嬉しさが込み上げてくる。
「雲があまり出ないと良いですね」
「んっ!」
笑顔のアイリスに僕も笑みを返すと、彼女が淹れてくれたお茶に手を伸ばした。それを見ていたアイリスが、ふと、小箱に目を留めた。
「先生、その箱、なぁに?」
「護符です。アイリスの身を守る為の。ノイモーントに頼んでいた物が、今日、出来上がったので」
アイリスに小箱を差し出すと、彼女は興味津々の面持ちでそれを受け取り、蓋を開けた。そして、目を輝かせ、小箱から護符を取り出す。
「うわぁ! きれ~い! ブローチ!」
護符を見つめるアイリスの頬は、興奮したように赤みを帯びていた。喜んでくれたようだ。幼いといっても女性だし、装飾品の類は好きだろうと思ったが、間違いではなかったらしい。細工物も得意なノイモーントに、護符の作成を頼んだ甲斐があった。
「先生、ありがと!」
弾けるように笑うアイリスを見て、僕の胸が早鐘を打った。
アイリスのこの笑顔、誰にも見せたくない。いや。笑顔だけじゃない。彼女を、他の誰の目にも触れさせたくない。僕だけが見つめていたい。
僕だけに笑いかけて。僕だけを見つめていて。僕だけを愛して。それが叶わぬのなら、いっそ、どこにも行かせず、閉じ込め――。
何を考えている。そんな事、許される訳が無い。分かっているのに、本能が僕に呼び掛ける。奪われるぞ、と。大切な者を失いたいのか、と。誰の目にも触れぬよう、隠しておくべきだ、と。
僕は、護符を掲げて嬉しそうにそれを見つめるアイリスに手を伸ばそうとし、すんでのところで思い留まった。何かを感じ取ったのだろう。アイリスが不思議そうに僕を見つめている。その視線から逃れるように、僕はソファから立ち上がると彼女に背を向けた。
「先生?」
「そろそろ部屋に戻ります」
そう宣言し、足早に扉へと向かう。そして、ノブに手を伸ばし、思い出したように口を開いた。
「言い忘れる所でした。今後、寝間着姿で男を部屋に入れないように」
思いがけず、冷たい声色になってしまった。……傷つけて、しまっただろうか? アイリスの表情を確かめるのが怖くて、僕は逃げるように彼女の部屋を後にした。




