結婚 4
手を引かれるまま、やって来たのは主寝室。今日からここを使う事は織り込み済みだったのだろう。ベッドには真新しい寝具。暖炉にはご丁寧に火が入っている。たぶん、私達がお風呂に入っている間に、ヴィルヘルムさんが準備しておいてくれたんだと思う。
さて。やって来たは良いけど、この後どうすれば……? 戸惑っている私に気が付いたのだろう先生がくすりと笑った。
「緊張しますね」
「う、うん……」
「とりあえず、座りましょうか?」
「ん……」
おずおずとベッドに腰掛ける。と、先生が私のすぐ隣に腰を下ろした。思わず座り直し、先生と距離を取る。
「そんな警戒されると傷付くのですが……」
「ご、ごめん……。つい……」
「ま。冗談ですけど」
冗談なのか。そっか。冗談か。冗談……。
「緊張、解れませんか?」
「ん……」
この部屋に入った時から、私の心臓は早鐘を打っている。冷汗も出ている。ここまで緊張したの、人生で初めてかもしれない。
「緊張しないでというのも無理な話ですよね」
そう言った先生が苦笑する。私は俯き、小さく頷いた。
「こういう時、気の利いた一言でも言えれば良いのですけど、叔父上と違って、どうもそういうのは苦手で……」
「私は大丈夫、だから……。別に、嫌って訳じゃ無いから……」
先生の奥さんになるの、ずっと望んでいた事だもん。ただ、何分、初めての事でして、どうしても緊張してしまうと言いますか、何と言いますか、ごにょごにょごにょ……。
「大丈夫だから……。大丈夫……。大丈夫だよ……」
自分に言い聞かせるように大丈夫とくり返す。と、そんな私の頭を先生がポンポンとした。
「何か飲み物でも持って来ましょうか?」
「い、いい! 大丈夫だから!」
先生の寝巻の袖を掴み、フルフルと首を横に振る。そんな私を見て、先生はくすっと笑った。
「ねえ、アイリス? 折角ですし、お酒、飲んでみません? 僕の部屋に、叔父上からもらったベリー酒があるんです。それを飲みながら、少し話をしましょう?」
ベリー酒……。確か、ブロイエさんの領地の名産品で、アオイが好きなお酒だ。甘酸っぱくて美味しいとか何とか言っていたような……。ローザさんも好きだって言っていた気がする。思い出すと、何だか興味が湧いてきた。
「ね?」
「ん」
「少し待っていて下さい」
そう言って、先生はベッドから立ち上がった。そして、部屋を出て行く。私はそんな先生の背を見送ると、深く溜め息を吐いた。
先生に気を遣わせてしまった……。心の準備は出来ていたはずだったのに……。そりゃ、帰って来て早々で、ちょっと驚いたけどさ。想定外だったけどさ。でも、留学から帰って来たら結婚するって約束だったから、留学に行く前に心の準備はしていたんだ。なのに……。本当に弱虫だな、私……。
悶々としていると、先生が戻って来た。手にしたお盆には、ピンク色の液体で満たされたビン。そして、二つのグラス。更に、水差しと氷入れまである。先生はそれをサイドボードの上に置いた。そして、こちらを振り返る。
「水割りで良いですか?」
「ん」
私が頷くと、先生はにこりと笑い、慣れた様子でお酒を作ってくれた。手渡されたそれを、暖炉の火に翳してみる。オレンジ色の光と、お酒のピンク色が絶妙に混じり合い、そういう宝石か何かのよう。
「綺麗……」
「少し強めのお酒ですから、一気には飲まないで下さいね?」
そう言った先生は、自分のグラスを手に、私の隣に腰を下ろした。先生のグラスの液体は、私の持っているグラスの液体よりもだいぶ色が濃い。しかも、氷すら入れていない。
「先生、もしかして、それ……」
「薄めるのはあまり好きではないので」
「そ、そっか……」
先生は、お酒はそのまま飲む派なのか。これは、覚えておくべき、なのだろうか……? う~む……。
「では、乾杯」
「ん。乾杯」
二人でグラスを重ねると、チンという涼やかな音が室内に響いた。
先にグラスに口を付けたのは先生だった。僅かに口に含む感じで一口飲む。どれ、私も。恐る恐るグラスに口を付け、ほんのちょびっと口に含む。飲むというよりは、舐めるといった感じだ。
口の中にふわっとベリーの香りが広がる。ほんのりとベリーの甘酸っぱさもあって、確かに美味しいかもしれない。でも、口の中と喉がほんのちょっと熱くて変な感じだ。それに、何だかほろ苦い後味もする。どれ、もう一口。
「どうです?」
「う~ん……。美味しいけど、私は果実水の方が好きかも……。喉が熱くて変な感じもするし……」
「そのうち、身体も熱くなってきますよ」
「そうなの? 酔うとそうなるの?」
「ええ。冬、冷え込んだ夜なんかは、温まる為に飲んだりも――」
ここまで言って、先生は不自然に言葉を切った。先生を見ると、少しバツの悪そうな顔をしている。これは……。
「先生、もしかして、今まで私に隠れてお酒、飲んでたの?」
ジトッとした目で先生を睨む。と、先生が苦笑した。
「実は」
「んもぉ!」
「温まる為にですから。酔わない程度だったのですから大目に見て下さい。ね?」
「仕方ないなぁ」
今まで気が付かなかったんだから、本当に少量しか飲んでいないんだろう。そう信じよう。うん。私は先生の奥さんになるんだから。ちゃんと信じてあげないとね。そんな事を考えながら、ちびちびとお酒を飲む。
「……先生はさ、いつも、このお酒飲んでるの?」
「いえ。いつもはもう少し強いものを飲んでいますね」
「それも甘いの?」
「甘味は無いですよ。興味があるのなら持って来ますけど?」
「ん~ん。それはまた今度で良いや」
たぶんだけど、私はこの一杯すら飲みきれない気がする。だって、さっき先生が言っていたように、身体が熱くなってきたから。きっと、私はお酒に弱い性質なんだと思う。
「では、また今度、こうして一緒に飲みましょうね」
「ん!」
先生と約束をするのは好きだ。楽しみが一つ増えるから。どんな些細な約束だって、その日が来るのを待ち遠しく思える。そんな事を考えながら、ちびちび、ちびちびとお酒を飲む。時々、思い出したように先生と言葉を交わしながら。すると、だんだん頭がフワフワして、良い気分になって来た。
「……さて。アイリス」
呼ばれて先生を見る。先生は真剣な眼差しで私を見つめていた。と思ったら、私の手の中のグラスを取って立ち上がり、それをサイドボードの上に置いた。先生のグラスも置いたところを見ると、とうとうらしい。
「先にこれを」
そう言って、先生がサイドボードの引き出しから出したのは契約印だった。アオイやローザさんがしているものとよく似た意匠の指輪だけど、決定的に違う点が一つ。石の色だ。まるで、先生を表すかのような真っ白い石が嵌っている。
「これが与える影響は知っていますよね?」
「ん。寿命が延びる、でしょぉ。あと、先生に私の居場所が分かるんだっけ? あとあと、呼んだら来てくれる!」
「呼んだら来るって……。便利な召喚具ではないのですが……」
「でも! アオイが呼んだら竜王様が来るし、ローザさんが呼んだらブロイエさんが来るもん!」
「ま、まあ、そうなんですけど……。正しくは、声が届く、ですよ。離れすぎていると聞こえないらしいので、僕が緩衝地帯にいて、アイリスが城にいる時は届かないかもしれません」
「えぇ~。そうなの? つまんな~い!」
「……アイリス。もしかして、結構酔っています?」
「酔ってないよ」
即答したのは、私はいつも通りだから。強がりでもなんでもない。うん。いつもこんな感じだよ。酔ってるだなんて失礼しちゃう!
「酔ってないと言い張るのなら、僕はそれで良いのですが……。気分は悪くないですか?」
「ん! 良い気分!」
「そ、そう、ですか……」
変な先生。何だか無性に可笑しくなって、ケラケラと笑う。と、先生は少し困ったように私を見て言った。
「ええと……。続けても?」
「ん!」
「では」
気を取り直すようにこほんと一つ咳ばらいをした先生が口を開く。
「契約印によって、貴女は人族とは違う時の流れを生きる事となります。長い生の中で、親しくなった友を看取る事も、一度や二度ではないでしょう。故郷の村に帰って、ご両親の墓前に花を供える事も、頻繁には出来なくなります。もし、それでも良いと、僕の妻になってくれると言うのなら、僕は命に代えても貴女を守ります。幸せにします。ですから、どうか――」
先生はそう言って私の正面に跪くと、私の左手を取った。そして、私の中指に契約印を嵌める。
「僕の妻になって下さい」
私を見上げる先生の顔は強張っていた。心なしか、手も震えている。くふふ。先生が緊張してる。普段は完璧超人で、余裕綽々の先生の、人らしい姿。可愛い。
「はい。喜んで!」
満面の笑みで頷くと、先生もパッと顔を輝かせた。私の答えなんて分かってるはずなのにね。こんなに喜ばれると私も嬉しい。
先生は私の左手を取ると、契約印にそっと口づけを落とした。とたん、契約印から魔術紋様が這い出るように手の甲広がる。と同時に、激痛が走った。骨が軋むような、筋肉が引き攣れるような、皮膚が焼けただれるような、そんな痛み。
「ぅくっ……!」
魔術紋様が手の甲から手首、腕へと広がるにつれ、激痛が走る場所も徐々に広がる。あまりの痛さに、冷汗がドッと噴き出した。じわりと目に涙が滲み、視界が歪む。
「アイリス。少し口を開けて」
無理。無理無理無理! 歯を食いしばってないと、嗚咽、と言うか悲鳴が漏れそう。だから、私はフルフルと首を横に振った。そんな私を先生がベッドに押し倒す。
「大丈夫ですから。口を」
再度促され、薄らと口を開く。と、先生が私に口付けた。温かい何かが注ぎ込まれ、私の中の何かが満たされていくような感覚が広がる。と同時に、あれだけの激痛が嘘のように治まった。
「まだ痛いですか?」
「ん~ん……。先生、今、何したの?」
「魔力譲渡。契約印の魔術は身体への負担が大きいのですが、術者の魔力を媒介として注ぎ込むと、その負担が大幅に軽減されると書物で読んだので」
「へ~」
「一度に大量の魔力を注ぐと、逆に身体への負担が大きくなるらしいので、数回に分けて行います。また痛みが出て来たら教えて下さい」
「ん。分かった」
服の下、いや、皮膚の下、いやいや、もっと奥深くの所で、もぞもぞと何かが這いまわるような不思議な感覚がある。たぶん、魔術が広がっている感覚なんだろう。う~ん……。痛くはないけど、変な感じだ。
「どうしました? 変な顔をして」
「ん~。何かね、もぞもぞムズムズするなって……。くすぐったいと言うか、痒いと言うか……。我慢出来ない訳じゃ無いんだけど、変な感覚だなって……」
「へぇ……。ねえ、アイリス?」
「ん?」
「どうなっているのか見ても良いですか?」
そう聞きながら、先生が私の腰のリボンに手を掛けた。良いですかと聞く割に、私の答えを待つ気は無いらしい。まあ、心の準備は出来てるから、嫌だと言うつもりも、待ってと言うつもりも無いんだけど。でも――。
「口付け、してくれたら良いよ……」
消え入りそうな声だったと思う。けど、先生にはちゃんと聞こえていたらしい。
「喜んで」
そう言ってにっこりと笑った先生は、私に口付けの雨を降らせてくれた。




