結婚 3
ごはんを食べ終わって食堂を出る。と、スーちゃんが私の後をくっ付いて来た。ほほう。私の行動に興味があるのか。そうか、そうか。ちょっとした悪戯心が芽生える。
「スーちゃん、一緒にお風呂入ってみる?」
「キャン!」
よく分かっていないだろうに、スーちゃんは嬉しそうに一声鳴いた。自分でお返事したんだ。もう後戻りは出来ないぞ。くふふ。私はそっとスーちゃんと抱き上げると、お風呂場へと向かった。
脱衣所からお風呂場へ繋がる扉を開くと、もわっと湯気が漂ってきた。スーちゃんは興味津々でお風呂場を覗き込んでいる。はてさて。スーちゃんはお風呂好きか否か。まさか、家に帰って来てすぐに試す事が出来るとは。スーちゃんを下ろすと、私は服を脱ぎ、お風呂場に入った。スーちゃんもおっかなびっくりという感じで付いて来る。湿ったタイルも温かい湯気も、スーちゃんは今のところ平気らしい。
湯船からお湯を汲み、髪と身体を洗う。と、跳ねるお湯が嫌だったのか、スーちゃんは私から少し離れていった。けど、何しているんだろうくらいの顔をして、ジッとこちらを見ている。私はそんなスーちゃんを横目で捉えつつ、たらいに石鹸を入れて湯船のすぐ脇に置いた。そうして湯船に入る。くぅ~。冷えた身体にお湯が染みるぅ。けど、それが良いんだ。はぁ~。生き返る~! さて、と。
「スーちゃん」
ここからが今日の本題。スーちゃんは身体を洗わせてくれるのか? 少し離れた所でこちらを見るスーちゃんを呼ぶと、スーちゃんはへっぴり腰になりながらもこちらに近づいて来た。私は石鹸を湯船の縁に置き、たらいにお湯を汲む。いざ!
「スーちゃん、動いたら駄目だからね? お湯、かけるよ?」
湯船に浸かったまま、まずはスーちゃんの足元にお湯を流してみる。スーちゃんはちょっと驚いたみたいだけど、逃げ出す事はなかった。次に足。うん。逃げない。最後に背中から。おお。逃げなかった。スーちゃんってば、お風呂、平気なのね。
それにしても……。私はずぶ濡れのスーちゃんを見て苦笑した。丸っこいシルエットは鳴りを潜めている。身体のボリューム、半分以下になっちゃった。体積に占める毛の割合が凄いね、ケルベロスって。
「良い子だねぇ。じゃあ、次は石鹸ね」
湯船の縁に置いておいた石鹸を手で泡立て、スーちゃんの背中を洗う。ちょっとだけ嫌そうにも見えるけど、大人しいものだ。足、お腹、お尻、尻尾と全身を洗って、と。
「じゃあ、流しま~す!」
ザバッとお湯をかけると、スーちゃんが目を細めた。あら。意外と気持ち良さそう。お湯をかけられるのは好きなの? ほうほう。じゃあ、遠慮なく。私はザバザバとスーちゃんにお湯をかけた。
ふぅ。一仕事した。そう思って湯船の中で伸びをする。とたん、スーちゃんがブルブルと身体を震わせ、毛に付いた水を飛ばした。私のすぐ傍――顔の高さにいたスーちゃんが水を飛ばすとどうなるか。正解は、私の顔に水がかかる。
「冷たッ!」
んもぉ。私は湯船のお湯を手で掬うと、バシャバシャと顔を洗った。
「さて。そろそろ出よっか?」
ザバッと湯船から上がり、脱衣所に繋がる扉に向かう。と、スーちゃんが待ってましたとばかりに扉に向かって走った。そして、扉の前でクルクル回る。まるで、私を急かすように。お風呂、嫌いではないけど大好きでもないらしい。ま、嫌がって逃げ回らないだけでも良いか。そう思いながら扉を開く。とたん、スーちゃんは駆け出した。そして、脱衣所の中を駆け回る。こ、これは……?
「スーちゃん……?」
声を掛けてみるも、興奮状態のスーちゃんの耳には届いていないらしい。う~む……。私は手ぬぐいでさっと身体を拭くと、慌てて服を着た。そして、濡れた髪もそのまま、スーちゃんの捕獲に乗り出す。
床に膝を付いて手ぬぐいを広げ、スーちゃんの進路に立ちふさがる。よし。そのまま。今だ! と思った瞬間、スーちゃんがキュッと進路を変えた。手ぬぐいを持つ手が空を切る。んもぉ!
小さいスーちゃんは目にも止まらぬ速さで走る訳ではない。だから、捕まえる手段は他にもある。私は立ち上がると、走り回るスーちゃんにふわっと手ぬぐいを被せた。上という死角から被せられた手ぬぐいをスーちゃんが避けられる訳も無く。ふっ。あっけない。手ぬぐいのなかでもぞもぞ動くスーちゃんを、手ぬぐいごと抱え上げる。と、プハッとスーちゃんが手ぬぐいから顔を出した。
「身体拭いて乾かそうね」
そうして私は、スーちゃんを抱えて洗面台に向かった。洗面台の前に置いてある椅子に座り、膝の上に乗せたスーちゃんを手ぬぐいで拭く。そして、温風が出る魔術でスーちゃんの毛を乾かした。洗ったお蔭でスーちゃんの毛のモフモフ具合が倍増し、洗う前よりも丸っこくなった。
私にされるがままになっていたスーちゃんだけど、床に下ろしたとたん、また駆け出した。脱衣所の中を所狭しと駆け回るスーちゃん。まるで、毛玉が高速で転がっているみたい。ふふふと笑いながら、私は自分の髪を乾かし始めた。
手ぬぐいを肩に羽織って、香油を髪に馴染ませる。そうして温風を当て始めて少し。スーちゃんが鼻を鳴らし始めた。見ると、脱衣所の扉の前にお座りし、何かを訴えかける目でこちらを見ている。
「もう飽きちゃったの?」
さっきまで駆け回って大興奮だったくせに。んもぉ。髪、まだ生乾きなんだけど……。私は渋々洗面台の前の椅子から立ち上がり、使いかけの手ぬぐいを肩に羽織ったまま脱衣所を後にした。
やって来たのは家族用の居間。お風呂上がりの私と先生が冷えないように、ヴィルヘルムさんが暖炉に火を入れてくれていたから暖かい。
「スーを見掛けないと思ったら、アイリスと一緒だったのですか」
そう言った先生の元にスーちゃんが駆けて行った。そして、先生の足に頭を擦り付ける。まるで、イライラしているように。
「スー?」
先生が不思議そうに首を傾げた。私はそんな先生のお隣に腰を下ろす。
「奥様。お飲み物は?」
「温かいのをお願いします」
「かしこまりました」
ヴィルヘルムさんが部屋の隅に置いてあったカートの上のティーセットでお茶の準備を始める。いつもなら、お風呂上がりには冷たい飲み物派なんだけど、今日は特別。髪が生乾きのせいで温かいのが欲しい気分。
「やっぱり、スーちゃん、お風呂嫌いなのかなぁ……?」
嫌がってるようには見えなかったんだけどなぁ……。大人しかったのは、初めての事に戸惑っているだけだったのかなぁ?
「一緒に入っていたのですか?」
「うん。身体、洗ってみた。しつけの本にもね、家の中で飼う子は、お風呂、定期的に入れた方が良いって書いてあったし」
「何も、こんな時間から入れなくても……」
「そうなんだけどさ。興味津々で付いて来たからね、つい」
「好奇心が仇になったみたいですね、スー」
先生がそう言ってクスクス笑う。スーちゃんはというと、手あたり次第、至る所に頭を擦り付けていた。本格的にイライラしてるっぽい。
「スーはしばらくそっとしておくとして。アイリス?」
「ん?」
「髪、濡れていません?」
「あ~……。髪乾かしてる途中で、スーちゃんが出たがったから……」
「きちんと乾かさないと風邪をひきますよ? だいぶ冷え込んでいるのですから」
「大丈夫だよ」
暖炉がついてるから、このお部屋、暖かいし。
「奥様。風邪を召されてから後悔しても遅いのですよ?」
そう言ったヴィルヘルムさんがお茶を手渡してくれる。むむむ。私の味方がいない。
「分かった。じゃあ、先生が乾かしてよ」
悔しいからちょっと甘えてみる。と、先生が驚いたように目を丸くした。
「僕が?」
「そう。嫌だったら別に良いよ。このままでいるから」
先生の事だから、嫌だとは言わないだろう。案の定、先生はくすりと笑うとソファから立ち上がった。そして、私の後ろに回る。そんな先生の元に、ヴィルヘルムさんが椅子を持って来てくれた。
椅子に座った先生が私の髪を乾かし始めた。温風が出る魔術で風を当てつつ、手櫛で髪を梳く。くふふ。頭、撫でてもらってるみた~い!
「ご機嫌ですね」
「ん!」
先生の言葉に素直に頷く。と、先生がクスクス笑った。
「うちの奥様はご機嫌で、うちのお嬢様はご機嫌斜めのようですね」
見ると、スーちゃんがおもちゃを口に咥えて振り回していた。確かに、ご機嫌斜めのようだ。
「嫌がってる素振り、無かったんだけどなぁ……」
「極限まで我慢して、イライラが爆発したのか……。もしかしたら、嫌がっているサインを見逃していたのかもしれませんね」
「あ~。そっか。その可能性があるかぁ」
まだ、スーちゃんとは付き合い始めて数日だからね。スーちゃんが嫌がってるサイン、本で読んだ代表的なのしか知らないや。尻尾を下げる、とかね。
「ただ、スーは室内で飼うのでしょう?」
「ん」
「だったら、入浴には慣れてもらわないとですね。嫌がってもある程度は入浴させないとですし。嫌がるから入れないという訳にはいかないですよね」
「だよね。スーちゃん、こっちおいで」
呼ぶと、スーちゃんはおもちゃを離し、トテトテと私の足元までやって来た。そんなスーちゃんを抱き上げ、膝に乗せる。と、スーちゃんが私のお腹に頭を擦り付け始めた。何だろうね、この行動。やっぱりイライラしてるのかな? スーちゃんの背中を、なだめるように撫でる。
少しして、やっと落ち着いたのか、スーちゃんは私のお腹に頭を擦り付けるのを止めた。と思ったら、私の肩に掛かっていた手ぬぐいを咥え、私の膝から飛び降りた。不思議に思ってスーちゃんを見守る。
スーちゃんは私から奪った手ぬぐいを咥えたまま、暖炉脇に置いてあったスーちゃん専用敷物まで行った。そして、手ぬぐいを敷物の上に置いて、その上に寝転がる。何故か、誇らしげな顔でこっち見てるんだけど……?
「今日は手ぬぐいと一緒に寝たいみたいですね」
「そうなの?」
「たぶん。と言うか、僕の願望ですかね。寝室に付いて来られても困るので」
寝室……? ハッとして振り返る。と、先生が悪戯っぽく笑っていた。
「約束、忘れました?」
「忘れて、ない……けど……」
約束とは、言わずもがな、結婚の事だ。忘れる訳は無いんだけど……!
「きょ、今日なの?」
「今日では駄目な理由が? あれば聞きますけど」
「……ない」
無いよ。ある訳が無い。そんな都合良く、結婚を延期出来るような理由なんて湧いて出て来ないよ。
「では、話もまとまったところで。今日は早々に引き上げましょうか? ヴィルヘルム、貴方も上がって下さい」
「かしこまりました」
先生の言葉に、ヴィルヘルムさんは深々と頭を下げると、ティーセットを片付け始めた。私は残っていたお茶を慌てて飲み干し、ヴィルヘルムさんの元にカップを届ける。
「では、アイリス。行きましょうか?」
先生が微笑みながら手を差し出した。私はおずおずとその手を握る。そうして先生に手を引かれ、私は居間を後にした。




