新居 8
とうとうこの日がやって来た。そう。私が新居に引っ越す日が。今日まで暮らしたこのお部屋ともお別れか……。
昨日までにまとめておいた荷物を廊下に出し、せっせとお部屋を掃除する。床を拭いて、窓を拭いて、壁もついでに拭いておく。キッチンや洗面、お風呂もお掃除すれば、あっという間に約束の時間になった。
「アイリス。迎えに来ましたよ」
先生が開きっぱなしだった扉からひょっこりと顔を覗かせた。その後ろにはヴィルヘルムさんが控えている。
「は~い!」
私は使っていた雑巾とバケツを片付けると、窓の鍵を確認して廊下に出た。そして、お部屋の中に向かって頭を下げる。今日までお世話になりました、と。
「さ。アオイ様に挨拶をしに行きましょう」
先生がそう言って手を差し出す。私はその手を取ると、先生と二人、アオイのお部屋へと向かった。ヴィルヘルムさんは別行動。私の荷物を外の荷馬車に積んでおいてくれるらしい。
アオイや竜王様、ローザさん、ブロイエさん、近衛師団のみんなに二人で挨拶をして回る。アオイの、と言うか、シオン様のお世話は続けるから、みんなに会えなくなる訳じゃ無い。けど、それでもみんな、寂しくなるって私との別れを惜しんでくれた。
ベルちゃんに跨って新居に向かう。私は振り返って竜王城を仰ぎ見た。お城での生活は、長いようでいてあっという間だった。たくさんの事を見聞きして、学んで……。作った思い出も、出会ったたくさんの人達も、私にとっては大切な宝物だ。
「アイリス、泣いているのですか……?」
ベルちゃんと並んで歩くユニコーンに乗った先生が口を開く。私はその言葉で頬を伝う涙に気が付いた。
「泣いて……たみたいだね……」
決まり悪くてへへへと笑う。先生に指摘されるまで気が付かないとは。
「寂しいですか……?」
「ん~……。そうだね……。先生だって、緩衝地帯にお引っ越しする時、寂しかったでしょ?」
「それは、まあ……そう、ですね……」
住み慣れた我が家を離れるのは、多かれ少なかれ寂しいものだ。特に私の場合、母さんと離別した経験から、親しくなった人や思い出のつまった場所なんかから離れるのが人一倍苦手なんだと思う。
「私、泣き虫だから、涙、堪え切れなかったみたい。でも、大丈夫だから。先生が一緒にいてくれたら、この寂しさだって、すぐになくなっちゃうんだから!」
とは言うものの、この寂しさは、きっと、すぐには消えないと思う。でも、お城に二度と行けない訳じゃ無いし、親しくなった人達とも会えなくなる訳じゃ無い。新しい生活に慣れたら、少しずつ寂しさが消えていくと思う。だから、先生に余計な心配を掛けては駄目だ。
「それよりも! 先生。新居のお披露目、しないとね! 兄様達、来るの楽しみにしてたんだから」
「そうですね。折角ですから、竜王様夫妻や叔父上夫妻も呼んで、大々的にしましょうか?」
「ん!」
うふふ。お屋敷のお披露目パーティーだ。せっかくだから、みんなに泊まって行って欲しい。自慢したいところとか、た~くさんあるし!
私の一番のお勧めは大浴場。アオイのお部屋にあるお風呂よりも大きなお風呂が、うちにはあるのだ。何たって、湯船で泳げるんだから! 泳げるくらいのお風呂が欲しいって、半分以上冗談で言ったら、先生ってば本当に作ってくれるんだもんな。お屋敷の図面にそれが反映された時、思わず笑っちゃったのは私だけの秘密だ。
そんなこんなで、私が新居での生活に少し慣れた頃、新居のお披露目パーティーが開催された。招待客は、現在緩衝地帯に住んでいる人達及び、竜王様夫妻、ブロイエさん夫妻、兄様達御一行様。お屋敷の大広間で立食パーティーをみんなで楽しむ。
「すごいお屋敷だねぇ!」
そう言ったのはアベルちゃん。片手に飲み物、もう片方の手はカインさんと繋いでいて、ご機嫌そのものって顔をしている。
「お風呂がね、私一番の自慢なんだよ。今日、一緒に入ろうね!」
「うん!」
満面の笑みでアベルちゃんが頷く。くふふ。今日もアベルちゃんは可愛い。
「何? 風呂だと! 僕は風呂にはちと煩いぞ!」
そう言ったのは兄様だ。ヴィルヘルムさん特製のジズのローストを頬張りつつ、フォークをピコピコと上下に動かす。
「兄様にも満足してもらえると思うよ。と~っても広いお風呂なんだから!」
「ほう。それは楽しみだ!」
ベッドだかまくらだかが変わると眠れないとか言っていた兄様だけど、今日はお泊まりして行ってくれる。たまには違った場所で寝るのも悪くないって。
実は、今日のパーティーにご招待した人達の中で、お泊まりして行ってくれるのは、兄様達御一行様しかいなかったりする。みんな、住んでる場所が近いからね。仕方ないね。
「ところで、アイリス? 治癒術の方は順調なのか?」
兄様が思い出したように問う。私はちょっと眉を落としながら笑った。
順調か順調じゃないかと問われた、たぶん、第三者的には順調なんだと思う。もう少しで、先生の目を治せる術も組み上がるし。
ただ、私個人としては、もう少し早く術を習得するつもりでいたから、自信満々に順調だよとは言えない。本当なら、このお屋敷が出来上がる前に術を習得して、胸を張って先生と一緒に暮らし始める予定でいたんだけどな……。
そんなだから、先生とはまだ正式に結婚していないし、寝室だって別々だ。ヴィルヘルムさんは私の事を奥様って呼ぶけど、まだ奥様にはなれていない。二人で出した条件もあるし、ね……。
先生が出した、私が十六歳になるっていう条件は既に達成済みだ。私の方が出した、先生の目を治すまでっていう方の条件が達成出来ていないから、私達はまだ婚約者のまま。まさか、自分で出した条件をまるっと無視して、「奥さんにして下さい」だなんて言えないし、ねぇ……。
「僕がそっち方面に詳しかったら力になってやれたのになぁ……」
「まあ、ぼちぼち進んではいるから」
「あまり無理しすぎるなよ? アイリスに何かあったら、ラインヴァイス兄様が悲しむのだから」
「分かってる。先生に心配掛けるような事にはならないように気を付ける」
「うむ」
それなら良いとばかりに、兄様が大きく頷いた。と、そんな兄様の元にヴィルヘルムさんがやって来た。手にはラッセルボックの煮込み肉のお皿が乗ったお盆。見ると、兄様のお皿がいつの間にか空になっていた。
「スマラクト様、宜しければこちらを」
「うむ」
屈んだヴィルヘルムさんのお盆から、兄様がお皿を一枚取る。ヴィルヘルムさんは背が高いからね。身長差があるから、ヴィルヘルムさんが屈んでくれないと兄様はお皿を取れなかったりする。
「貴女も良かったら」
「わー。美味しそう!」
ヴィルヘルムさんはアベルちゃんにもお盆を差し出した。一瞬、ヴィルヘルムさんが凄く優しい目をして兄様とアベルちゃんを見つめていた。けど、すぐに何でもない顔になって去って行く。おや?
「ねーねー。カインさん?」
「はい? 何でしょう?」
「カインさんって、ヴィルヘルムさんの親戚なんだよね?」
「ええ。良くご存知で」
「ヴィルヘルムさんってさ、小さい子、好きだったりするの?」
あの一瞬見せた優しい目。バルトさんが獣たちを見る目に似ていた気がする。だから、ヴィルヘルムさんに一番詳しそうなカインさんに聞いてみる。
「はて……?」
カインさんはちょっと考える素振りを見せた。親戚と言っても遠縁って話だったし、あんまり交流が無い、とか……?
「言われてみれば、年少者の面倒をよく見ていましたね」
「あ。交流はあるんだ」
「ええ。一族の集まりには、私も彼も毎回出席していますので」
「ほ~」
一族の集まりかぁ。そういう、交流会的なものがあるんだぁ。こういうパーティーみたいなのをするのかな?
「しかし、懐かれるという感じではないので、アイリス様に指摘されるまで気が付きませんでした」
「面倒見るのに懐かれないの? 何で?」
「あの雰囲気ですからね。仕方ないのではないですか?」
カインさんが苦笑しながらヴィルヘルムさんの方を見る。私もそれにつられるようにヴィルヘルムさんを見た。ヴィルヘルムさんは粛々とお仕事をしている。勿論、無表情で。良く言えば真面目、悪く言えば愛想が無い。うん。子どもに懐かれる訳がないね。
「思ったのだが」
兄様が声を上げる。私はそんな兄様に視線を移した。カインさんも兄様を見る。
「あれは何故ここで働いているのだ? 幼子好きならば、城にシオン様がおるだろう。そっちの世話係りでもやった方が良いのではないか?」
「シオン様のお世話係りなら私がいるし……」
「何人いても問題無いだろう。次代の竜王様なのだし」
「それは……まあ、そう、だね……」
「アイリスはもう幼子ではないしなぁ……。よっぽど、ラインヴァイス兄様と仲が良いのか?」
「仲が悪くは無いけど……」
飛び抜けて良い訳でもない。先生が親友って呼べるのは、ウルペスさんくらいなものだ。良くも悪くも、先生はお城の人達にとって特別な存在だから。
「僕、分かっちゃったかもしれない!」
アベルちゃんが叫ぶ。その顔は自信満々。そんなアベルちゃんを見て、兄様が面白そうに片眉を上げた。
「何が分かったのだ?」
「あのね、あのね、きっとね、あの人、アイリスちゃんの赤ちゃんのお世話したいんだよ!」
アベルちゃんの言葉に、兄様がポンと手を打った。アベルちゃんは兄様に賛同してもらえたからだろう、満足げににんまりしている。アベルちゃんのこの顔、可愛い。可愛いんだけど……。
「いや、あの、私の赤ちゃんって……?」
そんな、まだいもしない子を目当てに働きに来るって……。おかしくない? と思ったのは私だけだったらしい。カインさんまで「なるほど、なるほど」と頷いている。
「ここならね、赤ちゃんが生まれたら独り占め出来るんだよ! だって、お城と違って他に使用人さんいないもん!」
「で、でも……。あ。ほら! 寄宿舎の子達が来るから! 独り占めは出来ないんじゃ――」
「それは見習いであろう? お前は見習いに大事な我が子を預けるのか?」
そう言ったのは兄様だ。う~ん……。まあ、確かに、寄宿舎の子達――使用人さん見習いに赤ちゃんを預けるのは不安だ。それなら、ヴィルヘルムさん主導で赤ちゃんのお世話をしてもらった方が安心ではある、ような……?
「未来を見据えての就職ですか。あれも意外と強かですね」
「じいに強かとは言われたくないと思うぞ。案外、じいを手本にしているのではないか?」
「私の場合は、少々目論見が外れただけです。まさか、旦那様がご結婚される日が来るなど、城を出た日には夢にも思っておりませんでしたから。穏やかな老後は、夢のまた夢になりました……」
「あ、うん……。そうだよな。普通は大人しく隠居生活をすると思うよな……。穏やかな老後の夢、うちの父上が壊して悪かったな……」
世間一般では、ブロイエさんはお城を追放された身だからね。大人しく田舎で暮らして、本当ならもう表舞台には出て来ない人になるはずだった。なのに、結婚はするわ、子どもは作るわ、挙句に、竜王様に乞われて宰相に復帰するわ……。自由過ぎる……。
それにしても、言われるまで、ヴィルヘルムさんが何でここで働こうと思ったのか考えた事も無かった。ヴィルヘルムさんは第二連隊の副長さんで、竜王様のお世話係りもしていて……。たぶん、本人が希望したら、シオン様のお世話係りにだってなれたはず。なのに、お城の仕事を辞めて、ここで働いてくれている。
待遇は、どう考えてもお城の方が良い。ヴィルヘルムさんがここで働くメリットって……? まさか、ね。アベルちゃんの言う通りだったりしないよね?




