故郷 6
小さい頃住んでいた家は、まだそこにあった。無くなっていたらどうしようかと思ったけど、朽ちるに任せているらしい。庭も建物もろくに手入れがされてなくて、一目見て空き家だと分かる有様だ。
「中、入っても大丈夫かな……?」
色々と心配になってしまう。今、ここは誰の持ち物になっているのだろうか、とか。入った途端に崩れたりしないか、とか。家の周りの背の低い柵越しに家を眺めていると、バタンと勢い良く扉が開く音が響いた。驚いて音の方を見る。と、見覚えあるおばさんが隣の家から飛び出して来た。
「アイリス! アイリスだろ、あんた!」
おお。隣のおばさんだ。二人暮らしの母さんと私を心配して、色々親切にしてくれていたからよく覚えている。薪を分けてくれたり、食べ物や茶葉をくれたり。昼間独りで過ごしていた私を心配して、様子を見に来てくれたり。
「お久しぶふッ!」
駆けて来た勢いそのまま、隣のおばさんは私に抱き付いた。おばさんの豊かな胸に私の顔が埋まる。
「あんた、今までどこにいたんだよ! もう、心配したんだから!」
どこかで聞いた台詞がおばさんの口から出る。私はそれに答えようとして、すぐに断念した。もがいてみても、おばさんの腕から抜け出せない。……息が……。
「ふがふが……」
苦しいと訴えてみても、息の抜ける変な音にしかならない。
「シルビアの――お母さんの事はもう聞いたかい? 残念だったね……。でも、もう大丈夫だからね。何も心配いらないから。おばちゃんが何とかしてあげるから」
「ふがふが……ほがふが……」
「苦しい、おばさん」と訴えるも、全く伝わっていない。そろそろ限界が……。
「あの、すみません……。アイリスが……」
おずおずと先生が口を開く。おばさんは「え?」と小さく呟いた後、慌てて私から手を離した。苦しかった……。死ぬかと思った……。大きく息を吸って、吐いて、吸って、吐いてぇ……。
「いやだねぇ、あたしったら! 久しぶりだったから嬉しくって。ごめんねぇ、アイリス」
おばさんが誤魔化すように笑う。私はフルフルと首を横に振った。
「大丈夫……」
「ところで、アイリス? そっちの兄さんは? 前に、シルビアの事を聞いて回ってた人だと思うんだけど……」
「えっと、ですね……その……」
もごもごと言いよどむ。自分の小さい頃を知っている人に「婚約者です」って紹介するの、何だか無性に照れる。
「婚約者です。ラインヴァイスと申します」
もじもじする私に代わり、先生がにっこりと笑いながら言う。おばさんは呆気に取られたように私と先生を見比べていたが、すぐにパッと笑顔になった。
「そうかい。アイリスの好い人だったのかい!」
「ええ。先日お邪魔した時には、彼女の母上に挨拶をと思ったのですが、その……亡くなられていた事を家の者達、皆、存じ上げなくて……」
「連絡、取り合ってなかったのか……」
「はい。うちは商売をやっているもので、方々を飛び回って家を空ける事が多いので……」
「今回はシルビアの墓参りかい?」
「はい。一度、皆で揃って来よう、と」
「墓所は分かるのかい?」
先生がちらりと私を見る。私? 知らない、と思ったけど、昔、何回か母さんと一緒に父さんのお墓参りに行った事を思い出した。確か、村を出て、山の方に少し行った所に村の墓所があったはず。
「父さんのお墓の場所と同じ所なら、なんとなく……」
「そう言えば、あんた、シルビアと一緒によく墓参りに行ってたねぇ……。あんたの父さんの隣の墓がシルビアの墓だよ」
そっか。母さんと父さん、お隣同士にしてくれたんだ……。村の人達の気遣いに、胸がほっこりと温かくなる。けど、すぐ、ある事に気が付いた。
「でも、母さん、恋人いたんじゃ……」
父さんが死んで少しして、ある日突然、母さんが香油を付け始めた事を覚えている。村の男の人にもらったんだろうなって、父さんを裏切るみたいで嫌だなって思った事を、今でもはっきり覚えている。
「恋人? 誰だい?」
「それは分からないけど……香油……スズランの……」
「スズランの香油? ああ……。あんた、それ、誤解だよ、誤解。あれはね、あたしがあげたの。うちの父ちゃんが町に出た時に買って来たは良いけど、あたしには合わなくてね。無駄になるのももったいないってんで、シルビアにあげたんだよ。あの子、旦那が亡くなってから、洒落っ気の一つも無くなっちまったからさ。まあ、それだけ生活が厳しかったっていうのもあるんだろうけど……。すまなかったね、助けてあげられなくて……」
申し訳なさそうに目を伏せたおばさんに、私は小さく首を横に振った。お隣さんには良くしてもらった記憶しかない。貧しいこの村で、私と母さん二人だけでも何とか生活出来ていたのは、助けてくれたお隣さんや食堂のご夫婦のお蔭だと思う。自分達だって、決して裕福じゃないのに……。
……ああ、そうか。やっと、母さんが私を遠い孤児院に置いて来た理由が分かった。母さんはこの村の人に迷惑をかけたくない一心だったんだ……。
母さんが死んでしまった後も、独り残された私を、この村の人達は何とか助けようとしてくれただろう。たとえ、それで自分達の生活が苦しくなってしまっても。
この村に、裕福な家は一軒も無い。みんなギリギリのところで生活している。それでもこの村の人達は、孤児になった私を見捨てるなんて出来ない優しい人達ばかり。みんなでアイリスを養っていこうって、自然となったはずだ。
母さんはそれが心苦しかった。だから、何とか旅に耐えられる身体のうちに、私を孤児院に置いて来たんだと思う。
「おばさんにはお世話になった記憶しかありません。いつも助けてくれてありがとうございました」
「立派になったねぇ……。シルビアにも見せてやりたかったよぉ……」
そう言って、おばさんはエプロンの裾で目元を拭った。私は小さく首を横に振る。
「いえ、そんな事……。ところで、この家の中って、入っても平気ですか……? 少し見たいなって思ったんですけど……」
「あんたの家なんだから、自由に見て回って大丈夫だよ。ただ、所々床が腐ってるかもしれないから、踏み抜かないように気を付けてね。……ああ、そうだ。明日にでも、薬師のばあちゃんに顔見せてやってよ。家は分かるだろ?」
ちょっと涙声のおばさんに問われ、私はこくりと頷いた。病気だった母さんが一番お世話になっただろう人に挨拶に行くのは、娘である私の務めだ。明日、行って来よう。
私達はお隣のおばさんに別れを告げると、荒れ果てた庭を抜け、家の中に入った。埃とカビの臭いが鼻を突く。空き家特有の臭いだろうそれは、ここが何年も前に無人になった事を物語っていた。
家具に被せてあった埃除けの布をそっと取る。暖炉前のロッキングチェアー。母さんと二人、ここで掛け布に包まって、冬の寒さをしのいだものだ。元々は、確か、父さんのお気に入りだったはず。夏でも冬でも、夕ごはんの後はここで寛いでいた記憶が、おぼろげながらにある。冬は、この椅子に座る父さんのお膝の上が私の特等席だったな……。
こっちは……。ダイニングセットだ。一枚板のテーブルは、埃除けの布があったお蔭か、傷みは少ない。天板をそっと撫でながら、幼い日の記憶を辿る。
父さんが元気だった頃は家族三人で、父さんが死んでしまってからは母さんと二人、ここで毎日ごはんを食べていた。お世辞にも豪華とは言えないごはんだったけど、母さんが毎日真心を込めて作ってくれたから、とっても美味しかった。母さんのごはん、もう一度食べたかったな……。
寂しい。懐かしい。恋しい。色んな感情がぐちゃぐちゃになって、私の頬を涙が伝った。
「アイリス……」
先生が後ろからそっと抱きしめてくれる。泣くつもりなんてなかったのに……。涙、止まらない……。私はしばらくの間、先生の腕の中で涙を流し続けた。




