香油
アオイの寝る準備が整い、私とラインヴァイス先生は揃ってアオイの部屋を出た。ついさっきまで竜王様がアオイの部屋にいたから、お仕事が終わる時間が昨日より少し遅くなちゃった。でも、とっても良い事を聞けたから大満足なんだ。
竜王様とラインヴァイス先生は、この国に学校を作りたいらしい。学校というのは、アオイの生まれ故郷にあった、子ども達が勉強する場所だ。この国にはそういう場所は無いし、私も出来るなら通ってみたいなぁ、なんて。でも、学校が出来るのは私の魔術習得が終わって、ラインヴァイス先生の手が空いてかららしい。つまり、私は学校に通えない。でも、良いんだもん。だって、私は学校に通わなくても、ラインヴァイス先生に字も魔術も教えてもらえるんだもん! 杖だって貰っちゃったし!
ラインヴァイス先生に今日貰った杖は、エプロンの腰紐に差している。だから、ちょっと階段が下りにくい。階段を一段下りるたび、杖が床に当たってカッツンコッツンと音がする。
階段を下りきり、先生の後に続いて廊下を進む。杖が床に擦れて、ズリズリガリガリと変な音がする。杖、大丈夫かな? 傷が付いたら悲しいな。せっかく、先生がくれたのに……。
「さっきから変な音がしていると思ったら、原因はそれでしたか」
ラインヴァイス先生が振り返り、私の腰の杖を見た。そして、廊下の隅にお盆を置くと、私のすぐ横にしゃがみ込む。
「アイリスには、杖が少し長いみたいですね」
「そんな事無いもん!」
もう少し背が伸びたらこんな音、しなくなるもん。すぐに背、伸びるもん。いつまでもチビじゃないんだもん! ぷ~っと頬を膨らますと、ラインヴァイス先生が白い手袋を取り、私の頭を撫でながら笑った。
「エプロンの紐だけではずり落ちてしまうみたいですし、杖が固定出来るホルダーも必要でしたね」
「ホルダー?」
「これ」
ラインヴァイス先生が腰の剣の柄をコンコンと叩く。私はまじまじと先生の剣を見た。そう言えば、鞘を固定するように、ズボンのベルトとは別のベルトがあるけど……。これがホルダー?
「このベルト?」
「ええ。幼子用もあると思うんですよね」
幼子……。そりゃ、確かに私はチビだけど、ラインヴァイス先生に言われると何だかとっても悲しくなる。
「すぐに大人になるもん!」
「そうですね。すぐ私に追いついてしまうんでしょうね」
そう言って、ラインヴァイス先生は少し寂しそうな顔をした。何でそんな顔するの? 私、言っちゃいけない事、言った? そんな顔しないで。どうしたら良いか分からなくなっちゃうから。何だか胸が苦しい……。
「この後、ホルダーを買いに行かないといけませんね。あとは――。何か足りない物、ありました?」
「香油っ!」
すかさず叫ぶ。すると、ラインヴァイス先生が不思議そうに首を傾げた。
「香油なんて必要ですか?」
「ん!」
必要だもん。雨の日に、髪の毛がボンってならなくなるもん、きっと。
「アイリスにはまだ早い気が――」
「そんな事無いもん!」
「そうですか? まあ、どうしても欲しいのなら準備しますけど……」
ラインヴァイス先生はそう言うと、手袋を嵌め直し、廊下の隅に置いてあったお盆を手に立ち上がった。そして、ゆっくりと歩き出す。私も先生に並んで廊下を進んだ。
「香りは、何でも良いのですか?」
思い出したようにラインヴァイス先生が問う。私は頷きかけ、慌ててフルフルと首を振った。
「すずらんだけは駄目!」
「すずらん、嫌いですか? あの甘い香りは苦手?」
「ん。だって、母さんが使ってたんだもん」
大真面目な顔で頷く。すると、ラインヴァイス先生が悲しそうな顔をした。まただ。また、胸の奥が苦しくなった。何だろう、これ……。
「母上を思い出すのは辛いですか?」
「ん~ん」
本当は、母さんを思い出すのは少しだけ辛い。だって、寂しくなるんだもん。でも、一時期よりマシになった。だって、今はアオイがいて、ラインヴァイス先生がいて、お仕事があって、自分だけの部屋があって、夢まであるんだもん!
「では、何故?」
ラインヴァイス先生が不思議そうに首を傾げる。言っても良いのかな? ラインヴァイス先生、変に思うかな?
「あのね、母さんがね、村の男の人に貰ってたの。だから嫌いなの」
「そう、でしたか……」
ラインヴァイス先生が少し困ったように眉を下げた。変には思わなかったみたいだけど、反応に困ったらしい。困らせるつもりは無かったんだけどな。今度から、こういう事は言わない方が良いみたいだな。
「では、すずらんの香油だけは避けますね」
「ん!」
こくこくと頷くと、ラインヴァイス先生がにこりと笑った。私も笑顔を返す。ラインヴァイス先生の笑顔は大好き。心がポカポカと温かくなるから。だから、先生には笑ってて欲しいんだ。先生を悲しませたり困らせたりすることは、もう絶対に言わないんだ。気を付けないと!
先生と一緒にキッチンに入る。すると、イェガーさんが私達の前に立ちはだかった。腕を組んで、とってもおっかない顔をしてる。ひいぃぃぃ! サッとラインヴァイス先生の後ろに隠れ、恐る恐る顔を覗かせると、イェガーさんはジッと私を睨んでいた。な、何? 何? ちゃんとお皿、持って帰って来たよ? 落として割ったりなんてしてないよ?
イェガーさんが私のすぐ目の前にしゃがみ込んだ。そして、こちらに手を伸ばす。身体がガタガタと震え、持っているお盆の上のお皿がカチャカチャと音を立てた。
「ひんッ……!」
「そんな泣きそうな顔されると、いくら俺でも傷付くんだけどな」
イェガーさんはそう言って、私の手の中のお盆をそっと取った。ただ単に、お皿を回収しに来ただけだったらしい。でもでも! 顔、おっかなかったんだもん! 齧られるのかと思ったんだもん!
「まだ二日目ですから。そう簡単には慣れませんよ。私に慣れるのだって、結構な時間が掛かったのですから」
そう言って、ラインヴァイス先生が笑った。そうだよ。まだ二日目だもん。そのおっかない顔、簡単には慣れないよ。キッチンに入るの、ドキドキするんだから!
ラインヴァイス先生のお盆をイェガーさんが受け取る。イェガーさんは二つのお盆をそのまま流しに入れると、一つの小さな籠を持って来た。持ち手にピンクのリボンが結んであって、とっても可愛い。籠の中には何かが入っているらしく、赤いチェックの布が被せてあった。
「駄賃だ」
そう言いながら、イェガーさんが私に籠を差し出す。おっかない顔で。これ、私にくれるの? 貰って良いの? そう思ってラインヴァイス先生を見上げると、先生が笑いながらこくりと頷いた。貰って良いらしい! やったぁ!
「ありがと!」
中身、何かなぁ? イェガーさんは料理長さんだし、食べ物かな? 籠を受け取り、被せてある布をそっと捲る。籠の中に入っていたのは、一口サイズの固焼きパンみたいな物だった。それが籠にぎっしり入っている。
「アオイ様の好きな茶菓子のクッキーだ。腹減ったら食べろ」
お茶菓子! むふふっ! 部屋に帰ったらさっそく食べようっと!
「いくら怯えられているからとはいえ、餌付けとは……」
ラインヴァイス先生が呆れたように呟く。それを聞いたイェガーさんがフンッと鼻を鳴らした。そして、私の前に屈み込み、口を開く。
「嬢ちゃん。団長の見た目に騙されんなよ。この人、こう見えて、俺よりずっとおっかないからな」
ラインヴァイス先生、おっかないの? そう思って先生を見上げる。すると、先生は笑顔でイェガーさんを見つめていた。でも、先生からヒンヤリとした怖い空気が出ている。うん。これは確かにおっかない。背中がゾクゾクする。今度から、先生を怒らするような事を言うのも止めよう。うん。そうしよう。
「イェガー?」
「お~。怖い怖い」
イェガーさんが自分の身体を抱きしめ、震える真似をする。でも、その顔はちっとも怖がっていなかった。目を細めて笑っている。部下って言うより、お兄さんみたい。ううん。イェガーさんの見た目を考えると、叔父さんみたい。ノイモーントさんもそうだったけど、先生はみんなに慕われてるんだな。とっても大事にされてるんだな。何だか良いな、こういう関係。




