近衛師団長の憂鬱Ⅲ
僕は図書室最奥の閲覧室に入ると、初級魔術教本の写本と準備しておいた杖を手に取った。僕が幼い時分に使っていた杖。被っていた埃は綺麗に拭き取った。大きな傷も見当たらない。これなら大丈夫だろう。
昨晩、これを探す為に、僕は宝物庫を訪れた。宝物庫を訪れる者は限られている。その上、皆が寝静まった頃合いを見計らった。宝物庫へ向かう目的を皆に知られたくなかったから。その甲斐あってか、宝物庫までの道のりで誰かと出会ってしまうような事は無かった。まあ、人の気配が近づく度に身を隠していたせいもあるのだが……。
扉を開くと、埃とカビの臭いが鼻を突いた。宝物庫とは名ばかりの倉庫。ここに僕の目当ての物がある。どこに置いただろうか? 遠い日の記憶を呼び覚ます。
「リヒト」
掲げた剣に光を灯し、ゆっくりと室内を照らした。使われなくなった武器や防具、魔道具が、棚に雑然と並べられている。何かの折に使えるからと保管してあるが、数が数だ。一度、大々的に処分した方が良いだろう。これでは、どこに何があるのか分からない。
棚を一つ一つ見て回る。僕の剣が元々置いてあった場所に、代わりにと納めたはずだ。剣を取ったあの日、本当は捨てようと思っていた。だが、出来なかった。魔術を習い始めた時、母上が僕の為にと用意してくれた杖だったから。だから、人目に付かないこの場所に、隠すように納めた。必ず兄上の剣になるとの誓いを立てて。
大切な杖だからこそ、彼女に渡したい。傍らに置いて欲しい。彼女を想う僕の代わりに。
「あった……」
手を伸ばした先には懐かしい杖。世界一硬いと言われている鉱物アダマンティンで出来ており、木の枝とそれに絡まる蔦を模している。先端には光の魔石が蔦に守られるように嵌められている。植物をこよなく愛した母上が、僕の為にと自らデザインしたらしい。被った埃が、放置された年月の長さを物語っている。アダマンティン独特の光沢はなりをひそめ、光の魔石もくすんでしまっている。
この杖を手に取る事など、二度と無いと思っていた。再びこれを手にする時、僕は兄上の剣ではなくなると思っていたから。こんな日が来るとは、夢にも思ってもいなかった。
杖を手に宝物庫から出ると、兄上が腕を組んで壁にもたれ掛っていた。そして、僕の手の中の杖を見て、驚いたように目を見張る。しかし、その表情はすぐに笑みに変わった。
「随分懐かしい杖だな」
「ええ。私も久しぶりに手に取りました」
廊下の明かりに照らされ、杖が埃まみれになっている事がよく分かる。今夜はこれを綺麗にして、初級魔術教本の写本を二冊、用意しなければならない。やらなくてはならない事が増えていく。しかし、これもアイリスの為だと思うと、面倒だとか、大変だとか思わないから不思議だ。
「ところで、竜王様はどうしてこちらに?」
アオイ様の魔力媒介は、兄上が以前、渡している。魔鉱石の短剣を。護身用の短剣として渡したのだが、あれも魔力媒介に使える武器だ。兄上がここに来る必要など無いはずなのだが……。不思議に思って首を傾げる僕に、兄上は無言で首を横に振った。
兄上はあまり口数が多くない。興味がある事しか尋ねず、必要な事以外、多くを語ろうとはしない。逆を言えば、兄上の発言を辿れば、興味があるものや必要な事がすぐに分かる。
こうして、何も語らないという事は、兄上の用事は済んだという事だろう。わざわざ足を運んだが、ここに用は無くなった……? ふむ……。
ああ、そうか。そういう事か。兄上は、アイリスに貸す魔力媒介を探しに来たのだ。しかし、僕が一足先に宝物庫に来ていて、杖を持って出て来た、と。アイリスに魔術を習う機会を与えた手前、必要な物は用意するつもりでいたのだ。面倒見の良さは、僕に剣を教えてくれた頃から全く変わっていない。僕が笑みを零すと、兄上が怪訝そうに眉を顰めた。
「何だ」
「いえ。相変わらずお優しいのだな、と」
僕の返事を聞き、兄上が舌打ちをして目を逸らす。僕に行動を読まれた事が面白くない、いや、照れくさいらしい。しかし、付き合いの長さを考えると、これくらい読めない方がおかしい。僕は生まれてからずっと、兄上と共にあったのだから。
「行くぞ」
「はい」
本当に兄上は分かりやすい。アオイ様との話し合いは上手くいったのだろう。もしかしたら、兄上とアオイ様は――。もしそうだったのならば、明日、指示があるはずだ。アオイ様のお披露目をする、と。何も指示が無いのならば、何も無かったという事だろう。いずれにせよ、明日になってみない事には何とも言えないが……。
そんな事を考えながら兄上の後を付いて行く。すると、兄上は一つの扉の前で足を止めた。そこは、予想通りと言えば予想通りの場所だった。アイリスの魔力媒介を用意しに来た兄上が、僕にわざわざ声を掛けて向かう先など一つしか無い。図書室だ。
図書室の荘厳な扉が僕らを出迎える。兄上が軽く扉を押すと、それは音も無く開いた。この図書室には、一族の蔵書が納めてある。一部は城の外に持ち出されているし、僕の蔵書の殆どが僕の私室にあるが、それ以外は全てここにある。一族の者が亡くなる度、その蔵書を納めた結果、天井まである本棚がいくつあっても足りないような、膨大な量になった。
ここに納めてある蔵書は、全て兄上の物と言って良い。先代や先々代、一族の者達から受け継いだ財産。兄上はそれを、城の者達が閲覧出来るように解放している。だから、禁術の類の魔道書は、図書室の奥深く――兄上専用の閲覧室に保管しなければならなくなった。だが、兄上がその手間を惜しまなかったのは、皆が自由に知識を得る場を提供したかったからなのだろう。しかし、この図書室を訪れる者はそう多くない。上級騎士団員の極一部の者が時折使う程度で、普段はほぼ無人だ。
兄上が図書室を横切り、その奥へと足を向ける。向かう先は兄上専用の閲覧室だろう。兄上が中央の閲覧スペースを使う事は殆ど無い。閲覧スペースの椅子がお気に召さないらしい。最近では、アオイ様をここに招いた際に使ったくらいだろうか?
図書室の最奥――兄上専用の閲覧スペースには、初級魔術教本の原本と重厚な革の装丁が施された写本が二冊、羽ペンが二本置いてあった。兄上の準備の良さに、笑いが込み上げてくる。アオイ様の魔術習得を反対していたと思ったら、掌を返したように、アオイ様とアイリスの分の写本を用意してくれている。アオイ様とどのような話し合いをしたかは分からないが、随分機嫌が良くなったものだ。アオイ様に感謝しなければならないだろう。
「何だ」
「いえ。何も」
椅子に腰を下ろした兄上が怪訝そうに眉を顰める。僕は笑いながら首を横に振り、椅子に座った。そして、杖の手入れを始める。兄上もそれ以上は何も言わず、初級魔術教本の転写を始めた。
昨晩、僕と兄上が転写した初級魔術教本と、僕が準備した白紙の写本を手に、アイリスとアオイ様が待つ中央の閲覧スペースへと戻る。二人は隣同士に座り、今か今かと僕の帰りを待っていた。僕の姿を見とめた二人の目が期待に輝く。
「お二人とも、魔術を習える事、そんなに嬉しいですか?」
『嬉しい!』
アイリスとアオイ様が声を揃えて答える。僕が笑うと、二人は顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。
二人はまるで、仲の良い姉妹のようだ。アイリスはアオイ様を姉のように慕っているし、アオイ様はアイリスを妹のように可愛がっている。この世界で寄る辺の無い二人にとって、互いに掛け替えのない存在なのだろう。微笑ましくあると共に、アオイ様が少し羨ましくもある。僕もいつか、アイリスの掛け替えのない存在になれるのだろうか?




