アベル 1
夕ごはんの時間が近づき、外が夕日で赤く染まり始めた。本から顔を上げ、窓の外を見たアベル君が溜め息を吐く。と、そんな彼の様子に気が付いた兄様が書類から顔を上げた。
「心配せずとも、この後、じいがちゃんと家まで送って行くぞ?」
スマラクト兄様の言葉に、カインさんが真面目な顔で頷いた。兄様がいつもよりも集中してお仕事をしてくれたからだろうか、それともアベル君の里における状況を聞いたせいだろうか、カインさんのアベル君に対する敵意はなりを潜めている。平和が一番!
「うん……」
頷いたアベル君の表情は晴れない。どこか憂鬱そう。もしかして……?
「お家、帰りたくないの?」
アベル君の顔を見ていたら黙っていられなくて、思わずそう聞いてしまった。アベル君がハッとしたようにこちらを見て、ブンブンと首を横に振る。
「じ、じーちゃんが……心配する……から……」
最後の方は消え入りそうな声だった。俯いたアベル君の表情は暗い。これは、私の予想通り、家に帰りたくない病だな。うん。
家に帰りたくない病に罹ると、家にいたくなくなって、日がな一日どこかで時間を潰して過ごすようになる。そして、家に帰らなくちゃいけない時間になっても家に帰りたくなくなってしまうという、大変に恐ろしい病だ。私も罹った事があるからよ~く分かる。って、冗談を言っている場合ではない。
アベル君が家に帰りたくないのは、里での冷遇が一番の理由だろう。家に帰りたくないというよりは、里に帰りたくないというのが正しいんだと思う。
「ねーねー、兄様。アベル君、お泊りさせてあげれば? 明日、もう一回、ここまで来るの、大変だと思うし!」
「おお! そうだな!」
やった。兄様が乗り気だ。これなら、アベル君をお泊りさせてあげられる。と思ったのに、盛大な溜息が聞こえてきた。見ると、バルトさんが呆れ果てた顔をしていた。
「明日の準備があるだろうに……。下見に武器など、持って来て――」
「彼の魔力媒介ならば、私がお預かりしておりますが?」
カインさんがにっこり笑って口を開く。な、何と! カインさんも私達の味方っぽい! これは意外だ。
「アイリスが言っていた通り、明日またここまで来るのも大変でしょう。魔力媒介を持って来ているのならば、今日の所は泊まっていってもらっても良いと思いますよ?」
流石先生。話が分かる! ウルペスさんも先生の隣でうんうん頷いている。ただ、バルトさんだけはアベル君のお泊りに賛成出来ないらしい。そう顔に書いてある。まあ、バルトさんはアベル君の境遇を知らないから仕方ないんだろう。
「ちゃんと使いの人を出すんですから。領主代行のスマラクト様に気に入られたって説明すれば、誰も心配なんてしないと思いますよ、バルトさん」
ウルペスさんの言葉に、私もうんうんと頷いておく。兄様も一緒になって頷いていた。
「しかし――」
「それに、帰りたくないのには、それなりの理由があるんですよ」
私は再びうんうんと頷いた。正直、アベル君の話を聞いて、私はアベル君の里の人達が嫌いになった。アベル君が里に帰りたくないってなっても、仕方ないよねって思えるほどに。アベル君の話を聞いていた人達――バルトさんとミーちゃん以外の、この場にいる全員が、アベル君の里の人達に良い感情を抱いていないんだと思う。
「そうは言っても、これだけ幼いんだ。里の皆が心配しない訳が――」
「ど~でしょ~かねぇ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ。逆に聞きますけど、バルトさんが里に行った時、アベル君の姿が見えないって心配していた人、彼の面倒をみてるおじいさん以外にいました? 小さな村なんですよね? 村人の一人、しかもこんな幼い子がいなくなったら、普通、村中大騒ぎになると思うんですけど、なってました? 探しに行こうとしている人、いました?」
厳しい顔つきでウルペスさんが問う。バルトさんはしばし考えた後、緩々と首を横に振った。
「いや……」
「そーゆー事なんですよ」
そうそう。そういう事なの。誰だって、自分の事を除け者にする里には帰りたくないもん。寂しいし、悲しいだけだもん。そんな所、出て行きたいって思うの、当たり前だもん。
バルトさんはそれ以上は何も言わなかった。何となく、アベル君の里における状況を察してくれたんだと思う。後は――。自然と、この場にいる全員の視線がアベル君に集まる。
「あ、あの、えっと……。今晩、お世話になります……」
「うむ」
ぺこりと頭を下げたアベル君に、兄様が満足そうな顔で頷く。顔を上げたアベル君は、はにかんだ笑みを浮かべていた。あの顔、ちょっと可愛い。思わず守ってあげたくなるような、そんな可愛らしさだ。
はっ! これが母性本能というやつか! 本で読んだ時はぴんと来なかったけど、こういう事だったのか。一歩、大人に近づいた気分! くふふ。
「やけに嬉しそうですね」
そう言った先生に頷いて見せる。すると、先生が小さく溜め息を吐いた。何故か呆れられてしまったらしい。おかしい。私、先生に呆れられるような事、したかな? う~ん……。しばらく考えてみても、さっぱり分からなかった。
日が沈み、みんなで夕ごはんを食べた後、今日もウルペスさんでお化粧を練習させてもらう事となった。それを、他のみんなはボードゲームをしつつ見守る。
一通り、髪の毛とお化粧をし終わると、私は少し離れてその出来栄えを確かめた。今日は上手く出来た気がする。髪の毛もお化粧も華やかだし、性格も悪そうじゃない。
「出来たよ! 今日のは自信作!」
私だって、やれば出来るんだから。えっへんと胸を張り、みんなの評価を待つ。
「うむ。悪くない」
兄様的に合格点らしい。
「この短期間に、だいぶ上達しましたね」
先生的にも合格。よしっ!
「何とか見られるな」
「んにゃ」
おお! バルトさんとミーちゃんからも合格もらった!
「大変お上手です」
カインさんからも! くふふ。髪型もお化粧も、研究した甲斐があった!
「僕も! 僕も!」
ん? 思わず、謎発言をしたアベル君を見る。すると、彼は目をキラキラ輝かせ、私を見つめていた。ええっと……。僕もって、僕もやってって事……?
「アベル君も、お化粧、して欲しいの……?」
「うん! やって!」
ど、どうしよう……。普通、お化粧って、女の人にするものだし。でも、これだけやって欲しがってるし……。兄様を見ると、兄様も困惑気味にアベル君を見ていた。兄様だけじゃない。この場にいる全員が、戸惑った顔でアベル君を見つめていた。
「あ、あのね、アベル君。お化粧はね、女の人以外には普通はしないんだよ? ウルペスさんは、私の練習台になってくれてるだけなんだよ?」
「うん。でも、僕、女の子だよ。だからやって!」
『え……』
場の空気が凍るとは、正にこの事を言うんだと思う。アベル君は今、何と言っていた? 女の子? 誰が……? 僕……?
ちょっと待った。少し落ち着こう。深呼吸、深呼吸……。ええっと、アベル君は、女の子……? アベル君じゃなくて、アベルちゃん? でも、アベルって名前、男の子の名前だと思うけど……。エルフ族では、アベルは女の子の名前なのかな?
まじまじとアベル君を見る。髪は短い。服は男の子用。顔は、女の子にも男の子にも見える、かな? う~ん……。
「少し確認させてもらいたいのだが?」
声を上げたのはバルトさん。頭痛を堪えるかのように、こめかみの辺りを押さえている。
「アベルとは、男の名だと思うのだが? 服や髪も、男にしか見えない。話し方もそうだ」
「うん。僕が女の子だって分かると都合が悪いんだって。だからね、母さんもじーちゃんも、男の子として振る舞いなさいって。里の人には、絶対に女の子だって分かったら駄目なんだって」
「何故とは、聞くまでもない、か……」
バルトさんは苦虫を噛み潰したような顔でそう呟いた。みんな気まずそうな顔をしている。こんな時こそ、私がしっかりせねば!
「アベルちゃんの髪は短いから、あんまり凝った感じに出来ないけど良い?」
「うん!」
凄く嬉しそうな顔で頷くアベルちゃん。もしかしなくても、女の子なのに男の子の格好をさせられている事に不満を持っていたんだろうな。折角だし、出来る限り可愛くしてあげたい!
「服も女の子のにしたいよね。兄様。女の子用の服、無い?」
「母上のでは流石に大きいし、アベルのサイズの服など、僕の物しか無いぞ」
「そっかぁ。私のも、ちょっと大きそうだしぃ……」
服を摘まんで見つめる。お城になら、小さくなったメイド服があるんだけどなぁ。一張羅メイド服とか、アベルちゃん、似合いそうなんだけどな。う~ん……。あ。そうだ! こんな時こそ、彼女の出番!
「ミーちゃん! お城にちょっと帰りたい! 私のお部屋。転移出来る?」
「んにゃ!」
「では、彼女の髪は、私が担当致しましょう」
おお。カインさんが髪をやってくれるなら心強い。きっと、私がやるよりも可愛く仕上げてくれるはず。何たって、カインさんは私のお化粧と髪結いの師匠だもん。
「じゃあ、カインさんお願いします」
「かしこまりました」
ミーちゃんを抱き上げ、頭を下げているカインさんに手を振る。とたん、ミーちゃんが長く鳴き、私の足元に転移魔法陣が広がった。目を丸くしているアベルちゃんにも手を振ると、ぐらりと目の前が揺れる。次の瞬間には、私は見慣れた自室に降り立っていた。
クローゼットを開き、一張羅メイド服を取り出す。これはあんまり着る機会が無かったからなぁ。数えるくらいしか着ていないからまだまだ綺麗なのに、いつの間にか小さくなって着られなくなってしまった。でも、取っておいて良かった。アベルちゃん、喜んでくれるかな? 他に必要そうな物は、と……。ごそごそとクローゼットを漁り、一張羅メイド服用のブラウスやホワイトブリム、靴下を取り出す。
こんなものかな……。他には……。ふと目をやった先、開きっぱなしのクローゼットに掛かっているドレスに目が留まる。そういえば、これも小さくなっちゃったな。立ち上がり、ドレスを手に取る。
アオイのお披露目パーティーで、一回だけ着たドレス。先生がくれた、私のドレス……。アベルちゃんんが着たら、きっと、とっても似合うと思う。でも……。
やっぱり、これは駄目! あげない! ドレスをクローゼットに戻し、バタンと勢い良くその扉を閉める。すると、ベッドの上で寛いでいたミーちゃんが驚いたように飛び起き、こちらを見た。
「驚かしてごめんね。もうちょっとで準備出来るからね」
「んにゃ」
頷いたミーちゃんが、再びベッドの上で丸くなる。それを横目で見ながら、取り出した一張羅メイド服やブラウスなどをたたんだ。そうして準備が整うと、ミーちゃんに声を掛け、お屋敷へと転移で戻った。




