仕事
「――リス。アイリス」
名前を呼ばれてる。誰? まだ眠いよ。もう少し寝てたいよ。起きたくないよ。薄ら目を開くと、部屋の中はまだ真っ暗だった。まだ早い。もう少し……。
「アイリス。そろそろ起きて下さい」
「んん~」
「朝食、食べる時間が無くなりますよ。アイリスッ!」
一際大きな声で名前を呼ばれ、私はがばっと跳び起きた。目の前にはラインヴァイス様の整った顔がある。私は手を伸ばし、その顔の大きな傷跡に触れた。驚いたように目を開いたラインヴァイス様だったけど、すぐに優しく微笑んでくれる。そして、白い手袋を取ると、私の手を握った。
「寝ぼけているのですか? シャキッとして下さい」
「ん……」
「着替えて朝食にしますよ」
ラインヴァイス様はそう言うと、私の頭を撫でた。そして、白手袋をはめ直し、大きな包みを私に差し出す。
「仕事着です。洗い替えで二着入っているはずですから」
包みを開くと、黒に近い紺色のシンプルな膝丈ドレスと、フリル付の白いエプロンが出て来た。ラインヴァイス様の言った通り、二着ずつ。白い靴下やちょっと変わった頭巾みたいな物、黒い靴まで入っている。
「ホワイトブリムまで……」
ラインヴァイス様が、ちょっと変わった頭巾みたいなのをつまみ上げ、呆れたように見つめている。あれ、ホワイトブリムって言うのか。ふむふむ。ラインヴァイス様の言い方からすると、あれはあっても無くても良い物っぽい。でも、せっかくノイモーントさんが用意してくれたんだし、ちゃんと付けておかないと! ノイモーントさんに怒られたら嫌だもん。
「私は部屋の外で待ってますから、着替えて――っ!」
ラインヴァイス様が言い終わらないうち、私は夜着を脱いだ。新しい服、早く着たいんだもん! こんな高級そうな服、初めて着る! 真新しいドレスを頭から被り、スポッと顔を出す。そのちょっとの間に、ラインヴァイス様は部屋からいなくなってた。さっき、外で待ってるって言ってたし、廊下にいるんだと思う。いなかったら困る。だって、食堂までの道、まだ覚えてないもん。朝ごはん、食べ損ねちゃう。
支度を済ませて部屋から出ると、ラインヴァイス様が扉の脇の壁に寄りかかっていた。腕を組んで、目を瞑っている。眉間に皺が寄って、難しい顔で何かを考えてるみたい。私が出て来た事に気が付いていないのか、全く動かない。寝てたりなんて、しないよね? マントの端を掴んでクイクイと引っ張ってみると、ゆっくりと目を開いたラインヴァイス様が私の方を見た。
「似合ってますね、その服。可愛らしいじゃないですか」
「へへへ。ありがと」
褒められちゃった。照れくさくて後ろ頭を掻く私を、ラインヴァイス様がジッと見つめている。あれぇ? 何か怒ってる?
「でもね、アイリス。さっきのは頂けません」
「さっきの?」
「着替え。異性の前でしてはいけません」
ん~? 異性の前? 女の子は、男の子の前で着替えちゃ駄目って事? 孤児院では男の子も同じ部屋だったから、気にした事が無かった。そういえば、少し大きな子達は、女の子と男の子で部屋が別れてたな……。そっか。大きくなると、女の子は男の子の前で着替えちゃ駄目。だから、部屋が別れてたのか。ふむふむ。
「ん。分かった」
大真面目な顔で頷くと、ラインヴァイス様が優しく笑ってくれた。そして、私の手を取る。私達はそのまま手を繋いで、食堂へと向かった。
食堂に入る前にキッチンに寄り、イェガーさんにアオイの朝ごはんの進み具合を確認する。そして、私達が食堂の前に来ると、中からガヤガヤと賑やかな声が聞こえて来た。昨日の夕ごはんの時にはあんまり人がいなかったけど、朝はたくさん人がいるみたい。まだ外、暗いのに……。みんな、こんな朝早くからお仕事があるんだぁ。大変だなぁ。
ラインヴァイス様が開けてくれた扉から一歩、食堂の中に入る。すると、中の人達がバッと一斉にこちらを向いた。ひいぃぃ! サッとラインヴァイス様の後ろに隠れ、恐る恐る様子を窺う。みんな、まだこっち見てるっ! 怖くなって、私はギュッとラインヴァイス様のマントを握り締めた。
「よう、チビ。その服、なかなか似合ってんな」
声を掛けてきたのはヴォルフさんだ。私のすぐ横にしゃがみ込み、人懐っこい笑みを浮かべている。彼の頭の上には、髪の毛と同じ茶色の毛が生えたフサフサの耳が、背中側には、これまた茶色の毛でフサフサの尻尾があった。昨日はあんな耳と尻尾、無かったのに! 普通の人だったのに! ヴォルフさんの視線から逃れようと、私はラインヴァイス様のマントの中に潜り込み、腰のあたりにしがみついた。
「あれ? 怯えてる? っかしいなぁ……」
「耳と尾が出てますよ、ヴォルフ」
ラインヴァイス様が静かな声で指摘する。そして、小さく溜め息を吐いた。
「何故、この様な時間帯にここまで混雑しているのです? 普段はいない者達までいるように見えるのは、私の気のせいですか?」
「気のせいじゃないっすよ。人族の女が城に来たと聞けば、大抵の奴らは落ち着かなくなりますって」
「そう、ですか……」
ラインヴァイス様が何かを考えるように言葉を切った。私は顔を上げ、そんなラインヴァイス様の様子を窺う。すると、ラインヴァイス様は私の頭を撫でながら口を開いた。
「皆、鍛え直す必要がありそうですね」
にっこりと満面の笑みを浮かべたラインヴァイス様を見て、ヴォルフさんが顔色を変える。顔面蒼白っていうのかな? 血の気が引いた顔をしている。ふと、食堂の中を見ると、みんながみんな、ヴォルフさんと同じように血の気の引いた白い顔をしていた。あ。ノイモーントさん、発見! フォーク持ったまま固まってる! あぁ! あっちのオールバックの金髪の人、フォーゲルシメーレさんだ! お茶、零しちゃってる! いけないんだぁ!
「い、いや、ちょっと――」
「午後、いや、夜からにしましょうか。こんな早朝に起きられるくらい、体力が有り余っているようですし」
「まっ――!」
「本日から日替わりで、第三連隊、第一連隊、第二連隊。この順で実施。期間は一月。異論は認めません。アイリス。朝食にしましょう」
「ん!」
何だかよく分からないけど、食堂のみんなの注目が私から逸れた。と言うか、みんな、魂が抜けたみたいな顔でがっくりしてる。うん。これなら怖くない。私が朝ごはん食べ終わるまで、そのままでいてね。お願いね?
朝ごはんを食べ終えると、私とラインヴァイス様はアオイの部屋へと向かった。やっとお日様が昇ってきて、空が明るくなってきた。ん~。眠い。でも、お仕事、頑張らないと!
ラインヴァイス様がコンコンとアオイの部屋の扉をノックする。私は扉に駆け寄ると、耳をくっつけて中の様子を窺った。中からの応答、無し……。アオイってば、まだ寝てるらしい。ラインヴァイス様の顔を見ると、彼は私に微笑みかけ、小さく頷いた。中、入って良いらしい。お邪魔しま~す!
アオイの部屋は、窓にカーテンが引かれてるせいで薄暗かった。ラインヴァイス様と手分けをして、カーテンを開けていく。その間も、アオイの寝ているベッドからは、スヤスヤと寝息が聞こえてきていた。
明るくなったのに、アオイってば全然起きない! と思ったけど、ベッドの天蓋、引いたままだった。これじゃ、ベッドの中、暗いままだ。私は天蓋の中をそっと覗き込んだ。広いベッドの上で、アオイが気持ち良さそうに寝ている。
天蓋を開けてそれを紐で止めると、アオイが起きるのを待つ。でも、アオイは頭から掛け布を被って寝返りを打ち、再びスヤスヤと寝息を立て始めた。……起きない。
ラインヴァイス様の元へ駆けて行き、彼のマントの端をクイクイと引っ張る。朝ごはんの準備をしていたラインヴァイス様が手を止め、不思議そうに私を見た。
「どうしました?」
「アオイ、起きないの!」
「ああ……。声を掛けて差し上げないと起きませんよ。朝はあまりお強くないようですから」
「分かった!」
そう返事をした私は、アオイのベッドへと駆け戻った。アオイも朝が苦手なんて、私と一緒。それが何だかとっても嬉しい。私は靴がベッドに触れないよう、ベッドの縁に膝立ちになった。
「朝ですよ。起きて下さい」
ラインヴァイス様の話し方を真似してみる。ふふふ。お仕事、してるって感じ。これでアオイが起きてくれたらバッチリ!
「アイリス、あと五分……」
起きない。
「ごふんって何? アオイ、起きて?」
「じゃあ、あと十分……」
起きない!
「ア~オ~イ~!」
ゆさゆさとアオイの身体を揺すってみる。けど、全然起きない! アオイのこれ、あんまり朝が強くないってレベルじゃない。すご~く弱いの間違いだ!
「むぅぅぅ!」
頬を膨らませ、アオイを睨む。アオイは掛け布を被ったまま、全く動かない。起きる気、無いなッ!
「アオイ!」
とうッ! と心の中で叫びながら、私はアオイの身体目掛けてダイブした。アオイから「ぐぇっ」という奇妙な悲鳴が上がる。優しく起こしてる間に起きないアオイが悪い!
「起きろー!」
「アイリス、主人に何て事を……」
アオイの耳元で叫ぶ私に、ラインヴァイス様が溜め息交じりにそう言った。でもでも! 起きない方が悪いと思うの! それに、こうでもしないとアオイ、起きないと思うの!
「アオイ! 起きてってば!」
「んん~……。分かったわよ……。起きる……」
私の身体の下で、アオイがもぞもぞと動いた。起きる? 起きるの? 私が身体をどかすと、アオイがむっくりと起き上る。そして、ボーっとした顔で口を開いた。
「アイリス、おはよ……」
「おはよ。アオイ、寝起き悪い!」
毎日これじゃ、先が思いやられるよ! 私がぷ~っと頬を膨らませると、アオイが照れたように笑った。
「うん。ごめん、ごめん。昨日、遅かったからさぁ。ふあぁぁ~」
口元を手で押さえ、アオイが大あくびをする。そっか。寝るのが遅かったのか。なら、仕方ない。今日だけは許してあげる!
もしかして、昨日、アオイは私が帰った後、竜王様と話し合いでもしてたのかな? 竜王様は、とっても優しいラインヴァイス様のお兄さんらしいし、話し合えば分かってくれる人なのかな、なんて。だって、よ~く考えてみると、私の事だって騎士に出来ないって言ったのに、こうしてお城で受け入れてくれてるし。
ふと、ラインヴァイス様を見ると、アオイを見つめて微笑んでいた。私に向けるのとは少し違う笑い方をしてる。上手く言えないけど、凄く温かい笑い方……。何か、面白くないッ!
「何?」
アオイがそんなラインヴァイス様を見て、不機嫌そうに問う。ラインヴァイス様は小さく頭を振った。
「いえ。昨日は遅かったのか、と」
「そうよ。なかなか寝られなかったんだもん……」
もごもごとアオイが答える。夜更かしして朝寝坊したの、恥ずかしいのかな?
「湯浴み、されます?」
小首を傾げながら言ったラインヴァイス様の言葉で、アオイがクンクンと自分の匂いを嗅ぎ始めた。大丈夫だよ。臭くないよ。バラの良い匂いしかしてないよ。でも、一応、聞いてみる。
「アオイ、お風呂沸かすの?」
沸かすんなら、すぐに支度するよ? だって、私、アオイのメイドだもん! 私が小首を傾げると、アオイの目尻が下がった。アオイは時々、こういう顔をする。デレッとしてて、締りが無い。でも、私、アオイのこの顔、嫌いじゃないんだ。だって、こういう顔をする時のアオイ、とっても優しいんだもん。
「アイリス、今日は一段と可愛いねぇ! メイド服、よく似合ってるじゃない!」
私に飛びついてきたアオイが、ギュッと私を抱きしめてくれる。私はきゃ~っと悲鳴を上げながらも、アオイを抱きしめ返した。私とアオイ、挨拶代わりに抱き合う事、多いな。でも、こうしてアオイに抱きしめられるのは好き。だって、母さんに抱きしめられた時みたいに安心するんだもん。だから、何でも良いや!
「もう、食べちゃいたいくらい可愛い!」
「ほう……。アオイの世界では、同族を食べるのか」
抱き合う私達のすぐ脇に人の気配が突然現れる。そして、頭の上から声が降ってきた。聞いただけで身体が震えるこの低い声、聞き間違えるはずが無い。竜王様だっ!
「シュヴァルツ。お、おはよ……?」
裏返った声で挨拶をするアオイ。私はその腕の中で身を縮めた。昨日とは違って、竜王様から怖い空気は出てない。それでも、昨日の恐怖を思い出し、私の身体は強張っていた。
「ああ」
竜王様が短く返事を返した。と思た瞬間、ぐいっと私の身体が引っ張られた。首根っこを掴まれるとはこういう事を言うのかもしれない。エプロンの肩ひもが交差する辺りを掴まれ、アオイから引き剥がされる。やったのはもちろん、竜王様だ。彼はそのまま私の身体を持ち上げると、ラインヴァイス様の元へと向かった。それを見たラインヴァイス様が困ったように笑いながら私の方へ両手を伸ばす。
ラインヴァイス様の腕が私の身体に回った瞬間、それを見計らったように竜王様の手がパッと離れた。反射的に、私はラインヴァイス様の首に腕を回し、その身体にしがみつく。ラインヴァイス様も私をしっかりと抱き留めてくれた。
竜王様に持ち上げられた瞬間、床に投げ捨てられるのかと思った。邪魔だって。でも、ちゃんとラインヴァイス様の所に届けてもらえて良かった。運び方は乱暴だったけど。竜王様って、ただ怖い人ってだけじゃないんだ、やっぱり。何と言っても、ラインヴァイス様のお兄さんだし!
ラインヴァイス様にそっと床に下ろされ、私が後ろを振り返ると、何やらアオイと竜王様がいちゃついていた。竜王様がアオイのベッドに片膝を付いて身を乗り出し、アオイを抱きしめている。ほうほう。ああしてると、ちゃんと恋人同士に見え――。
突然、ラインヴァイス様が私の両目を手で覆い、目の前が真っ暗になった。何? 何で? 何するの? 私、ちゃんと大人しくしてるよ? 黙って見守ってるよ。それくらい、出来るんだからっ! 離してよぉ! もぉ~!




