近衛師団長の憂鬱Ⅱ
僕は、階段に蹲って大泣きするアイリスを片腕で抱きかかえた。そして、彼女の部屋に入ると、そっと椅子に下ろす。アイリスはテーブルに顔を伏せると、声を上げて泣き続けた。
大方、アオイ様の部屋を訪ねた兄上と何かあったのだろう。今日の兄上は、機嫌が最悪だ。城中の者達が怯えるほどに。兄上の不穏な気配に当てられたのか……。
階段に放置したままになっていた荷物を取りに、僕はアイリスの部屋を出た。扉が閉まる寸前、アイリスの姿が目に入る。泣きじゃくるアイリスの姿に、胸が締め付けられた。彼女はここにいて幸せなのだろうか? 今後、こうして、辛い事がある度に泣き続ける事になるのでは? しかし、僕は彼女を手の届くところに置いてしまった。置けて、しまった……。もう、後戻りは出来ない。小さく溜め息を吐くと、階段の片隅に放置したままの荷物を持ち上げた。
アイリスの部屋の扉をノックする。しかし、中からの応答は無い。耳を澄ませると、部屋の中から僅かに嗚咽が漏れ聞こえて来た。幼子といっても、ここは女性の部屋。世話を任されているアオイ様の部屋とは訳が違う。一瞬、入るのを躊躇する。だが、部屋の主をこのままにする訳にもいかない。申し訳なく思いつつ扉を開くと、アイリスは未だ、テーブルに伏せて泣いていた。
手にしていた荷物を置き、中を漁る。目当ての物を取り出すと、僕はキッチンへと向かった。アイリスの為に用意したばかりの、真新しいティーセット。イリスの花が描かれているそれを、僕は一目見て気に入った。
イリスは、地域によってはアイリスとも呼ばれている。これほど彼女にピッタリのティーセットは無いだろう。他にも、ここで生活に必要な物を調達してきた。その為にアイリスをアオイ様の部屋に一人残したのだが、こんな事になるのならば行動を共にすべきだった。後悔先に立たず、か……。
湯を沸かし、ボットに茶葉と湯を入れ、部屋へと戻る。その僅かな間に少し落ち着いたのか、アイリスはテーブルから顔を上げていた。潤んだ瞳で僕を見上げている。その姿に、僕の鼓動が僅かに早くなった。
「何があったのです?」
ティーカップにお茶を淹れつつ、至極平静に、感情を外に出さないよう努めて問う。アイリスはギュッと拳を握り締め、再びポロポロと涙を流し始めた。僕はティーカップをアイリスの目の前に置き、彼女の正面に腰を下ろした。そして、自分自身の心を落ち着けるよう、僕の分として用意したお茶を一口飲む。
「これでも飲んで、少し落ち着きなさい。このまま泣いていても仕方ないでしょう?」
僕の呼びかけに、アイリスは小さく頷き、お茶に口を付けた。偉そうに言っている僕自身も心を落ち着けようとしていると知ったら、彼女は驚くだろうか? 目を丸くし、ジッと僕を、僕だけを見つめてくれるだろうか? それも悪くない、が、それはまた別の機会としよう。今は、打ちひしがれている彼女を慰める事が最優先なのだから。
「兄上と何かありました?」
そう問い掛けると、アイリスはキョトンとした眼差しで僕を見つめた。何を言われたか分からないと言う顔だ。そんなおかしな事を聞いただろうか? アイリスが泣いていた原因は、兄上ではなかったのだろうか?
「あに、うえ……?」
「ええ」
暫し、アイリスと見つめ合う。そして、気が付いた。アイリスは、僕と兄上の関係を知らないのだ。この城では、僕が兄上――竜王様の実弟だという事は広く知られている。知らない者を探す方が困難だろう。当たり前すぎて、アイリスが知らない事を失念していた。
「竜王様です。何かあったのでしょう?」
改めて問うと、アイリスが逡巡するように視線を彷徨わせた。彼女の反応を見る限り、僕の予想は遠からずというところか。
兄上の、不機嫌な時のあの雰囲気、どうにかならないものだろうか? アイリスだけでなく、アオイ様も怯えるだろうに……。もし、アオイ様に愛想を尽かされても、あれでは自業自得としか言いようがないと思う。
「私……」
アイリスが消え入りそうな声で呟く。先を促すように、僕は微笑を浮かべて頷いた。アイリスの顔が、今にも泣き出しそうに歪む。
「アオイの役に立ちたかったのに……竜王様、怒ってても……何も、出来なかったの……。このままじゃ、いらないって言われちゃうの……」
「アオイ様に?」
「ん……。だって、私、いらない子なんだもん……」
そう言って、アイリスは嗚咽を漏らし始めた。アイリスの話から察するに、不機嫌な兄上からアオイ様を守って差し上げたかったのだろう。しかし、あの兄上相手だ。女性で、しかも未だ幼いアイリスには、兄上の前に立ちはだかるなど無理な話だ。それが出来るのは、女性にしておくには勿体ない程の胆力の持ち主だけだ。僕の妹、リーラのような。アイリスには、絶対にああなって欲しくは無い。
それにしても、いらない子、ね……。アイリスが孤児院にいた理由はアオイ様から伺ってはいる。母に捨てられる事がどれほどの苦しみか、捨てられた事のない僕には本当の意味でその辛さを分かってはあげられない。推察しか出来ない。だから、辛いだろう、苦しいだろうと言葉を掛けたところで、それは慰めにもならない。幼子には、母という存在が世界の全てと言って良い程、大きなものだから……。
「アイリス。この城に来た目的を忘れてはいませんか?」
俯いていたアイリスが上目でこちらを見る。僕はあえて笑みを消し、アイリスを見つめた。
「治癒術師になるのでしょう? そして、僕の目を、治してくれるのではなかったのですか?」
アイリスがハッとしたように顔を上げた。メイドという仕事を与えられ、それしか見えなくなっていたのだろう。しかし、アイリスの本来の目的はメイドになる事ではない。治癒術師になる事だ。
「この国には治癒術師はいないと、そう話しましたね?」
「ん」
「それがどういう事か分かりますか? 貴女は、薬師ではどうにもならない患者達にとって、いえ、この国に住む全ての者にとって、希望なのですよ?」
「希望……」
「そうです。もし、誰かに必要とされたいのならば、これから死ぬ気で勉強をしなさい。そして、この国初の治癒術師になりなさい。そうすれば、多くの患者やその縁者達が貴女を必要としてくれます。病や怪我に苦しむ者を、悲しむ者を、貴女のその手で救ってあげなさい」
「ん」
「いらない子などと、二度と口にしてはいけません。期待を一身に受けている、その自覚を持ちなさい」
「んっ!」
アイリスの瞳に光が宿る。そう。それで良い。真っ直ぐ前を、前だけを向いて歩いて行けば良い。アイリスの行く手を阻む障害は僕が取り除く。降りかかる火の粉は僕が払う。疲れたら背中も押してあげる。だから――。
僕はお茶を一口飲み、小さく息を吐いた。最近、やっと、アオイ様に執着する兄上の気持ちが分かるようになった。守ってあげたい、力になってあげたい、支えてあげたい。そんな気持ちが、目の前の少女を見つめる度に湧いてくる。それと同時に、仄暗い感情も渦巻くようになった。誰の目にも触れさせたくない。僕だけを見ていて欲しい。しかし、それは無理な相談だろう。今は。僕は渦巻く黒い感情を取り払うように、にっこりと笑った。
「明日から朝早く起きなくてはなりません。湯浴みをして、就寝の準備をして下さい。僕は、この荷物を片付けて帰りますから」
「ん。それ、なぁに?」
「ここでの生活に必要そうな物を見繕ってきました。夜着と代えの下着はノイモーントから預かっていますから、湯浴み後はこれに着替えて下さい」
アイリスに小さな包みを差し出す。すると、彼女はいそいそとそれを開け、テーブルに並べ始めた。僕はそれを見ないように努めながらティーカップを回収し、キッチンへと向かった。
僕は、アイリスに異性として認識されていないらしい。彼女はまだ幼い。それも仕方ない事だと分かっている。分かっているのに、何故、こんなにも虚しくなるのだろう? ティーカップを洗う手を止め、小さく溜め息を吐く。期待、していたのだろうか……? アイリスが僕を意識してくれる事を。
突如、クイクイとマントを引っ張られ、僕は驚いて振り返った。僕を上目で窺うアイリスがすぐ後ろに立っている。この状況。どう見ても、アイリスがマントを引っ張ったのだろう。こうして、自ら僕の元にやって来てくれるとは。こんな些細な事ですら、アイリスが絡むと心躍る。僕はアイリスに微笑みかけた。
「どうしました?」
「あのね、ありがと。さっき、なぐさめてくれて。私、もう、いらない子って言わないよ。勉強、頑張るからね。それでね、治癒術師になってね、目、治してあげるからね」
アイリスは照れたように頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべた。そして、くるりと踵を返し、パタパタと駆けていく。その背を見送り、僕はキッチンの床に崩れ落ちた。駄目だ。今のは……アイリスが……可愛すぎる……!




