出会い 1
白い雪に覆われた木が立ち並ぶ薄暗い森の奥から、ギャーギャーと獣の声が聞こえてくる。とっても不気味。生まれ育った村の近くにも森はあったけど、こんなんじゃなかった。もっと明るくてキラキラしてて、可愛い小さな獣が木から木へと飛び移ったりしていた。この森は、何でこんな嫌な雰囲気なのかな? ここが、竜王城のすぐ近くだからなのかな?
目をやった先、遠目に見える不気味なお城。あれが竜王城らしい。大きな塔や小さな塔がたくさん突き出ていて、初めて見た時は針山みたいだなって思った。あそこに竜王様が住んでいるって話だ。
この国を治める王様が竜王様。会った事は無い。けど、とっても怖い人なんだ。だって、魔人族はとっても怖いんだって、母さんが教えてくれたんだもん。悪い事をすると、夜、魔人族が攫いに来るんだって、攫った人族を食べちゃうんだって、何度も何度も言ってたんだもん。その話を聞く度に怖くなって、母さんに泣きついたのは、私と母さんだけの秘密なんだ。
私はかじかむ手をすり合わせながら、母さんの姿を探した。今日こそは来てくれるはずなんだ。だって、約束したんだもん。絶対に迎えに来てくれるって。母さん、言ってたんだもん。良い子で待ってなさいって。だから私、寂しくても泣かないで待ってるんだよ。だから早く迎えに来てよ、母さん……。
突然、森の奥から聞こえていた獣の鳴き声がぴたりと止んだ。辺りがシンと静まり返る。張りつめた空気。肌がピリピリする。今、動いちゃ駄目だ。どうしてか、自然とそう思った。心臓がバクバクする。嫌な汗が背中を伝ったその時、新雪を踏みしめるような微かな音が聞こえた。目だけ動かして音の方を見ると、木々の隙間から白い影が見えた。大人の背丈よりも大きな身体。魔物だ! 理解するより早く、私は怖くなって駆け出した。一目散に逃げる私を追って来るような気配。追いつかれたら食べられちゃう! そんなの、絶対に嫌だ!
「あっ!」
私は雪のくぼみに足を取られ、盛大に転んだ。もう駄目だ! 私はギュッと目を閉じ、両手で頭を覆った。母さん。助けて、母さん!
何の前触れも無く、私の腕を誰かが引っ張り、私は雪の中から引き上げられるように立たされた。母さん? そう思って私を助け起こした人を見上げる。……母さんじゃなかった。間違えた。全然知らない人だった……。
つり上がった眉と意志の強そうな黒い瞳。不機嫌そうに曲がった口。綺麗な長い黒髪。高級そうな白いマントと青いドレスに包まれたその身体は、少し凹凸に乏しい。全体的に幼いように見えるけど、表情は大人の女の人にも見えた。年齢がよく分からない人だ。
黒髪の女の人は、私を背に庇ってくれた。私達と魔物の間にもう一人、剣を構えて立っている人がいる。風になびく白いマントと、日の光を反射して光る鱗模様の白銀の鎧。剣持っているし、男の人なのかな? けど、目の前の女の人と同じくらいの背丈しかない。あの人、まだ子どもなんじゃ……。
鎧の人は動かない。剣を構えたまま、魔物の出方を窺っているみたい。私を庇っている女の人がじりじりと後ろに下がる。私は彼女の影に隠れながら魔物を覗き見た。どんな魔物なのかなぁ、なんて……。ひいぃぃ! やっぱり、見なきゃ良かった!
真っ白い毛に覆われた魔物の身体は、とっても大きかった。見上げるような位置にある頭の上には大きな耳。それがどんな音も聞き逃さないとするようにピンと立っている。大きく裂けた口から覗く白い牙。あれに噛まれたら痛いと思う。ううん。痛いと思う前に死んじゃう! 太い足には鋭い爪。あれでひっかかれたらどうなるんだろう……? ぼろ布みたいになっちゃうんじゃ……! うう……。考えるだけで怖いよぉ!
魔物は警戒するようにグルルルと低く唸り声を上げていた。鎧の人をジッと見ている。魔物は獣より賢いんだって、ずっと前、母さんが言ってた。剣が危ない物なんだって分かってるんだ、きっと。
突然、魔物が吼えた。そして、鎧の人に突進する。は、早っ! あんな大きな身体なのに! 鎧の人が剣を振るも、魔物は軽々とそれを避けた。魔物が鎧の人に向かって前足を振り下ろす。その攻撃を剣で受け止めきれなくて、鎧の人が雪の中を転がった。そして、魔物がこちらを見る。とても怖くって、私は身を竦めた。
魔物がこちらに向かって突進してくる。私はギュッと目を閉じた。母さん! 助けて、母さん! と思った瞬間、ドンと身体が何かにぶつかった。ゴロゴロと雪の中を転がり、上も下も分からなくなる。柔らかい雪の上で助かった。これが硬い地面だったら、今ので死んじゃってたかもしれないもん。
「ひいぃぃ!」
女の人の悲鳴が聞こえる。首だけ起こすと、少し離れた所で、魔物が雪の中の何かに前足を振り下ろそうとしていた。きらりと、鋭い爪が日の光を反射して光る。もしかして、あそこにさっきの女の人が――! 私が悲鳴を上げそうになった瞬間、ドンと鈍い音が響き、魔物が遠くに跳ね飛ばされた。何が起こったの? そう思ってぐるっと周りを見る。すると、丁度、鎧の人がいた辺りに、雪のように真っ白な鱗を持った巨大な獣がいた。長い尻尾がユラユラと揺れている。
また魔物! ……あれ? でも、あの姿……。母さんが話してくれた魔人族のお話にあったような……。大きな身体には鱗があって、長い尻尾と大きな翼があって……。あの話は確か……ドラゴン族? そうだ! 竜王様と同じ、ドラゴン族だ!
ドラゴン族は、魔人族の中でも特に大きな身体を持っていて、とても強くてとても怖い部族なんだ。彼らが本気を出せば、この世界なんてあっという間に無くなってしまうんだ。ずっと昔の人族との戦争で、ドラゴン族の口から吐き出された消滅の光が、魔大陸の一部を消し飛ばしたんだ。だから魔大陸には大きな入り江があるんだって、母さんが言ってた。ドラゴン族を怒らせたら絶対に駄目なんだって。この国の人族は、竜王様に逆らってはいけないんだって。逆らいさえしなければ、恩恵を与えてくれる存在だから、大人しく従っているのが一番なんだって言ってた!
白いドラゴンは、グルグルと低く唸りながら魔物と向かい合っていた。身体の大きさはドラゴンの勝ち。でも、あの魔物はとっても素早かった。牙も爪も魔物の方が鋭そうだし……。でも、ドラゴンには硬そうな鱗があるし……。魔物の方は毛皮だけだし……。
魔物が勝てば、私はきっと魔物に食べられちゃう。ドラゴンが勝てば、ねぐらに連れ去られて食べられちゃう。……あれぇ? これじゃ、どっちが勝っても、私、食べられちゃう!
ドラゴンが吼えると魔物も吼えた。そして、魔物の姿が一瞬消える。次の瞬間、ドラゴンが悲鳴みたいな鳴き声を上げた。見ると、ドラゴンの左目辺りが血で真っ赤になっていた。雪の上に着地した魔物が飛び上がり、ドラゴンの首を狙って襲い掛かる。そんな魔物をドラゴンが尻尾で叩き落とし、二匹は再び雪の中で睨み合った。
二匹が同時に吼える。狙うはお互いの首。勝負は一瞬だった。魔物の首に、ドラゴンの牙が食い込んでいる。魔物の首の骨が砕ける音がここまで届いてきて、私の背筋にゾッと怖気が走った。
ドラゴンは魔物を口から放ると、白い光を放った。光が消えた後には一人の少年。白い髪、金色の瞳。彼の顔の左半分は血まみれで、目を庇うように手で押さえている。みるみるうちに、白い服に赤い模様が増えていった。
「アオイ様! お怪我は!」
そう叫んで白髪の人が向かった先には、薄紫色の鎧に身を包んだ人が蹲っていた。薄紫色の鎧の人が震える手を伸ばすと、その手を白髪の人がそっと握る。二人は何かを話し、ぐるりと辺りを見回した。もしかして、私を探してるんじゃ……? に、逃げないと!
私がそっと立ち上がると、二人の顔が同時にこちらを向いた。見つかった! 私は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。立ち上がった薄紫色の鎧の人が光を放つ。すると、私を庇ってくれた女の人の姿に戻った。この人もドラゴン族だったんだ! 怖くて震える足を何とか動かして、私はじりじりと後退った。
「ねえ――!」
「アオイ様」
こっちに来ようと一歩踏み出した女の人を、白髪の人が腕を掴んで止める。振り返った女の人に向かって、白髪の人が首を横に振った。
「行きましょう。怖がっています」
あれ? あの白髪の人、私を攫う気、無いの? そうなの? よ、良かったぁ。と思っていたら、女の人がこちらを睨んだ。
「ちょっとアンタ!」
「ひぃ……」
白髪の人は見逃してくれる気でいたみたいだけど、女の人はそうじゃないらしい。再び、私の足がガクガクと震えだした。私なんて食べても美味しくないよ。食べる所なんて殆どないんだから。ジワリと視界が涙で滲む。
「助けてもらったら、お礼くらい言いなさい! アンタの親、どんな教育してんのよ!」
親……。教育……。今、母さんの悪口言った……? 母さんを馬鹿にした?
「か、母さんの悪口、言うな!」
理解した瞬間、私は叫んでいた。この人達の事はとっても怖いけど、それよりも母さんを馬鹿にされた怒りが勝ったんだと思う。キッと女の人を睨むと、彼女も私を睨み返した。
「言われたくなかったら、お礼くらい言いなさいよ! 人として当たり前の事でしょ!」
人として? 魔人族のくせに! 人族の何が分かるんだッ!
「うるさい! 魔人族のくせに偉そうに!」
「常識が無い人族より、魔人族の方がよっぽど偉いわよ! それと、私、魔人族じゃないから」
一瞬、女の人が言った事が理解出来なかった。魔人族じゃない? でも、さっき、白髪の人みたいに鎧、出してたのに……。あ。分かった! この人、嘘吐いてるんだ!
「嘘だ!」
「嘘じゃない。私は魔人族じゃない」
「う、嘘だ、嘘だ! 魔人族はそうやって騙して、女の子を攫うんだ!」
「これ、見なさい!」
そう叫んで、女の人が左手を掲げた。その手の甲には、薄紫色の痣のようなもの。羽と尻尾がある獣の形みたいだけど……。さっきの白いドラゴンの形に似てるような気も……。
「何、それ……」
「精霊と契約した紋章よ! 精霊と契約出来るのは人族だけでしょ!」
精霊……? じゃあ、この人、精霊持ちの魔術師なの? 魂の綺麗な人族じゃないと精霊に認められないって母さんが言ってたし、精霊持ちの魔術師って、もっと、こう、違う感じだと思ってた。
そう言えば、精霊持ちの魔術師の左手の甲には紋章があるって話だった。紋章は精霊の生前の部族を表す形をしていて、精霊の魔力の色で紋章の色が決まるとか何とか……。という事は、あの女の人の紋章は、ドラゴン族だった精霊を宿している証? あれ? じゃあ、そうすると、あの女の人は本当に人族だって事? あれ? あれ? じゃ、じゃあ、間違っていたのは、私……?
「ごめん、なさい……」
本当は謝りたくなんてない。だって、この女の人は母さんを馬鹿にしたんだもん。でも、魔人族と間違えたのは私だし……。ちょっと……ほんのちょっとだけ、悪い事したかなぁなんて……。
私と女の人の間に沈黙が流れた。女の人は何も言わない。ただ、私をジッと睨んでる。と思ったら、つかつかと私の目の前まで来た。女の人の手が私の頬に触れる。何? と思った瞬間、思いっきり頬をつねられた。
「いひゃい、いひゃいぃっ!」
あまりの痛さに、目から涙が溢れてきた。そんな私を見て、女の人が手を離す。私は痛む頬を押さえ、女の人を見つめた。何でつねるの? 私、謝ったのに。顔、怖いよ……。いくら魔人族と間違えたからって、そんなに怒らなくても……。
そもそも、魔人族と間違えられるような行動をしたのはこの女の人の方なんだ。間違えられるのが嫌だったら、鎧なんて出さなければ良いんだ! うん。そうだ、そうだ!
「ラインヴァイスはね、アンタを助ける為に怪我までしてんの! 私に謝るより、ラインヴァイスにお礼くらい言いなさい!」
ラインヴァイス? 怪我……。
「アンタさっき、母さんの悪口言うなって言ったけど、言われたくなかったら礼儀の一つ二つ覚えなさいよ! 命を助けられたらお礼を言うくらい、アンタより小さい子だって出来るわよ!」
命を、助けられた……? ……そっか。この人達がいなかったら、私、魔物に食べられちゃってたかもしれないんだ。あれ? でも、そうすると魔人族って――。
「アオイ様、もう、その辺で……」
戸惑う私と鼻息荒くする女の人の間に、スッと白い影が割って入った。白髪の人だ。女の人の方を向いているからその顔は見えない。ふと、足元に目を落とすと、赤い血が点々と雪の上に落ちていた。次から次に、雪の上の赤い模様が増えていく。これ……? そうだ。この人、さっき左目が――!
「ラインヴァイス、ごめん……。お城、戻ろう……」
申し訳なさそうに俯いた女の人に、白髪の人が無言で頷く。女の人が踵を返し、白髪の人が後に続いた。二人が去った後、雪の上には点々と赤い模様が残っていた。