ミモザの日
目の前の書類に、頭を抱える。
……全然、減っていない。
ここ最近特に忙しく、夜中まで仕事をしている日が連日続いていた。
ターニャが無理矢理ベットまで引きづってくれているおかげで最低限の睡眠時間は確保しているが、それでも精神的疲労も合わさって疲れが全然取れなかった。
「もしも魔法が使えたらなあ……」
思わず、そんな呟きをしてしまう。
異世界に転生したというのだから、魔法だとか不思議な力があっても良いのに。
……現実は、そんなに厳しくないということだ。
「……魔法、ですか?」
訝しげに、ターニャが問う。
「あ、ちょっとね。昔に読んだ本を思い出して。……もしも私が魔法を使えたらって想像しちゃったのよ」
この世界も、魔法という言葉はある。
ただし、前世の世界でいう中世のように魔法は魔の力でありそれを扱える者は異端だという考えが罷り通っていた。
人間、分からないものや摩訶不思議な現象については恐るというのはどの世界でも共通のもののようだ。
聞かれていたのがターニャだから良かったようなものだけれども、内心がダダ漏れにならないように気をつけなければ。
「もしもお嬢様が魔法を使えたら、どんな魔法を使っていらっしゃいましたか?」
思わぬ食いつきに少し面食らいながらも、私は考える。
ターニャから差し出される茶を見るに、少し話でもしながら休憩でもしようというメッセージなのだろう。
「んー……治癒効果の魔法が使えれば、領民たちを癒して回れたわよね。土に影響を及ぼす魔法が使えれば、今行なっている災害対策の工事も随分進められると思うし……」
あ、夢が広がるなあ。
魔法が一般的なら、それを広める学部を設立するのもありよね。
魔法を応用して、より便利な道具や設備を作ることだってできるかも。
そもそも魔法が使えたらなあっと呟いたのは、分身魔法なんかが使えたらなあ自分の分身を使って仕事を更に速くできるようにしたいということを考えていたのだけれども。
そんな青写真を描くことに夢中になっていた私は、気づかなかった。
「……夢のある話ですね」
クスクスと笑いながら、ディーンが話を聞いていたことを。
「ディ、ディーン!ど、どこから話を聞いて……」
「お嬢様が魔法を使えたらという話辺りからですね。ちゃんとノックしてターニャさんに扉を開けて貰って入ったのですが……」
「……ごめんなさい。忘れてちょうだい」
羞恥に顔が赤くなるのを自覚しながら、ディーンに懇願した。
「畏まりました。ですが、一つだけ。……もしもこの世界に魔法があるとして、それをお嬢様が使えないのは天の采配ですね」
「……私が魔法を使えないことが、天の采配?」
「貴女が魔法を使えたら、早々に過労死してしまいそうですよ。今ですらこうなのに、魔法なんて超常の力を手に入れたら、どんな対価が必要であれ、どんなに自身が追い込まれていたとしても、惜しみなく民の為に力を振るいそうですから」
「……買いかぶり過ぎよ。それより、貴方が来てくれて、助かったわ。実は風邪で体調不良でダウンしていた領官が多くて。もう皆治ったのだけど、止まっていた分、どっさりと決裁が回って来ちゃってたのよ」
「それは丁度良かったです。早速仕事に取り掛かりますので、こちらからお預かりしますね」
「ええ、ありがとう」
ディーンが書類の山を一つ持って行ったところで、ターニャを少しだけ睨む。
「……ターニャ。言ってくれても良かったじゃない。少し、恥ずかしかったわ」
「楽しげな様子でしたので。お止めするのも、どうかと……」
ターニャの言葉に、私は苦笑いを浮かべる。確かに、妄想していた時は夢を見ているようで楽しかったわね。
「……ま、良いわ。私も仕事に戻るからこのお茶を下げてちょうだい」
「畏まりました。……お嬢様、私からも一つだけ」
「なあに?」
「お嬢様は魔法を使えたらと仰っておりましたが、私からしたらお嬢様は魔法使いですよ。この領地に次々と新しい風を吹かせて、民の生活を少しでも良くしようとしているではないですか。きっと、皆も同じことを言うかと」
ターニャの言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
「……ありがとう。さて、なら尚のこと頑張らないとね」
「ほどほどに、ですよ」
ディーンが来てくれたおかげで、仕事の処理速度が格段に速くなり、あれだけあった仕事が嘘のように速く終わった。
1+1=2ではなく、どうやら3にでも4にでもなるらしい。
「……今回も本当に助かったわ。ありがとう、ディーン」
書類の山が小山ぐらい……つまりは通常の量ぐらいになったところで、私はホッと息を吐きつつディーン礼を言った。
「いえ、礼には及びません。そういえば、お嬢様。最近何やら新しいお酒を作っているらしいですね」
「……よく知っているわね。貴方の耳はよほど大きいのかしら」
最近アズータ商会では、カクテルやなるものを手がけている。
ホットレモネードワインをプレゼンで出して、女の方でも飲みやすいものを手がけたいと言ったところ、開発部門の面々が面白がって随分推し進めてくれている。
ベースのお酒は一からだからまだまだ全く手探り状態での開発中というところだが。
「いや、さっき開発部門の者に会った時に何か良い原料を知らないかと聞かれまして」
……アズータ商会の面々もディーンには随分気を許している。普通開発途中の話をすることはないのだが、元々私の下で働いているという認識が皆の中にあるし、更に、以前たまたまアズータ商会の商品開発で行き詰まっていた時に、話し合いに居合わせていたディーンが良い案を出してくれたのだ。
「……原料は知らないですが、そういう趣旨ならこういうのはどうかと思いまして。仕事終わりにどうかとお嬢様にお持ちしたのです」
そうしてディーンが取り出したのは、シャンパンとオレンジジュースだった。
彼はグラスにシャンパンを注ぎ、オレンジジュースを注いだ。
「……ミモザだわ」
それはまさしく、ミモザと呼ばれるカクテルだった。
「……は?」
「あ、いえ……なんでもないの。まるでミモザの花のように美しいと思って」
「ああ、確かにそうですね」
ディーンが差し出したそれを、私は躊躇いもなく飲む。
「……美味しいわ。このレシピ、いただいても良いのかしら?」
「ええ、勿論」
「報酬は、どうしようかしら?」
「必要ありませんよ」
「そういう訳にはいかないわ。賃金に上乗せしておくわね」
「……では、遠慮なく」
ディーンは困ったように笑っていた。これ以上、辞退する方が失礼だなとでも思っているのだろう。
「……もう少し、お飲みになられますか?」
早々に空いたグラスを見て、ディーンが問う。
「どうしようかしら?……まあ、仕事もひと段落ついたし。今日ぐらい休んでも、バチは当たらないわよね?」
「そう思いますよ。日頃頑張っていらっしゃる分の、細やかなお休みで自分へのご褒美に」
「……そうね。なら、ディーン。貴方も一緒に飲みましょう」
「ええ」
私とディーンは、二人で乾杯をしてミモザを飲む。
「そういえば、お嬢様、先ほど、これをミモザと呼びましたよね?」
「え、ええ……」
「実は試しに作った時に、私もそうだと思ったんです。それで、少し安直ですが……」
そうして彼は、ミモザの花を花束にしたものを渡してくれた。
先ほどから良い匂いがすると思ったが、これのことか。
「日頃の感謝を込めまして」
そうして渡されたミモザに、私は思わず驚き……そして瞳に涙が溜まった。
「感謝だなんて……私の方こそ、貴方には感謝してもしきれないというのに」
オロオロしつつ、差し出されたそれを受け取る。
見れば見るほど、美しい黄色が私の心を癒してくれる心地がした。
「……本当に、ありがとう。とても……とても嬉しいわ」
ディーンが退席した後、私は二つのことを思い出していた。
一つは、前世における記念日。
それは、ミモザの日。
かつて女性が政治的自由と平等を獲得するために戦ったことを記念し、国際的に定められた女性の日。
つまり、働く女性のための日。
……奇しくも、今日は3月の始めだ。
そしてもう一つ。
ミモザの花言葉。
友情・真実の恋・秘めやかな愛・エレガンス・堅実・神秘・豊かな感受性……と7つある。
果たして彼はどんな意味を込めてくれたのか……そもそもそんな意図はないだろう。
単純に、ミモザのカクテルを見て思い立ったというのが真実。
けれども、魔法と同じようについつい夢想してしまう。
彼が私と同じ思いであれば良いのに……と。