第一話 ナイフ③
七
「え、すぐに部屋を出ろってどういうこと? 堂上くん」
「いまそっちに危ない奴が向かっているんです。とにかく、部屋を出てどこかに隠れてください。いいですね!」
堂上の電話は、そう言って切れた。
どういうことなのだろうと、恵は思った。
堂上の声は真剣だった。本気で自分の身を案じてくれていた。
なにかがあったのだ。きっとなにかが……。
先ほど、堂上に以前住んでいたところと、その場所を知っている元カレについて訊かれた。それと関係があるのかもしれない。
そういえば、堂上はミキのところへ行ったのだろうか?
ひどく切羽詰まっていた様子だったから、きっと行くのだろうと思い、恵はミキに電話をしておいた。それは、役に立っただろうか?
堂上のことだから、きっと行っただろう。
たぶん、そこでなにかがあったのだ。だからわたしに電話をかけてきたのだ。
『すぐに部屋を出てください』――堂上の声が脳内でリフレインする。
部屋を出る準備をする。直感がそうしろと告げていた。上着と財布。とりあえずそれを持って、近くのコンビニに行こう。明るいところに行けば、とりあえずは大丈夫だろう。少し経てば、また堂上が電話してくるに違いない。そこから改めて、どこへ逃げるかを考えよう。
そこでまた、電話が鳴った。
スマホの表示を見ると、ミキだった。
すぐに出る。ミキのところでなにかがあったのなら、ミキの安否も心配だった。
「もしもし、ミキ!? 堂上くんが行ったでしょ? そっちでなにかあったの!?」
しかし、返事は返ってこなかった。
電話の向こうは無言だった。
「ミキ? どうしたの? ミキ!?」
次の瞬間、いままでじわじわと体内で膨れ上がっていた不吉な予感が、激しい悪寒となって背筋を走り抜けた。
「――メ……グミ……」
男の声だった。聞き覚えがある。つい最近まで忘れていた――いや、忘れようとしていた男の声。堂上によって思い出してしまった、元彼氏の声だった。
「……やっと……ミツケタ……。もうスグ……ツクカラ……」
恵はスマートフォンを投げ出し、部屋の出口へと駆け出した。
実のところ恵には、なんとなくストーカーの犯人はわかっていたのだ。
恵は恋多き人生を歩んできた。付き合った男の数は、両手両足の指を足しても足りない。一夜限りの関係や、友人と肉体関係を結んだことなども枚挙にいとまがない。思春期に入ってすぐに自分には女としての魅力があることを自覚していたし、それを上手く利用したりもした。失敗したこともあるが、それは十代までで、二十代に入ってからは男とどのような距離感で付き合えば良いのかわかるようになっていた。
男にはそれぞれ、女に求める距離感がある。
近くで、甘く身を焦がすように恋愛をしたいのか。適度な距離を保って、落ち着いた日々を過ごしたいのか。それとも、一夜だけでいいのか。
恵は、それぞれの男たちに合わせて関係を持ち、それを自身は楽しんでいた。
人生を楽しく過ごすために、男を利用しない手はない。自分にはそういった才能があるし、それを利用してなにが悪いのだろう。いいではないか。相手の男も良い思いをしているのだから――。恵はそう考えていた。
旨味が無くなったら、次の男へ。男心を読むことに長けた恵は、別れるのも上手かった。ときには悪女を演じ。ときには純真な乙女を演じ、男の不満を逸らし、納得させながら次々と渡り歩いていった。
しかし、一回だけ失敗したことがある。
男の名前を思い出す――真西圭介。
あの男は本当に最悪だった。有名なITベンチャー企業で働いていると言っていたし、性格も細やかで優しかったが、それも最初だけのことだった。実際は、良い会社に入ったものの仕事もできずクビ寸前の窓際社員。タイミング悪く、恵と付き合い始めたころにクビになると、荒んで暴力を振るうDV男となり下がった。結局、優しかったのは自身の軟弱さを隠すための仮面だったのだろう。優しく振る舞って余裕を見せていれば、デキる人間に見られるから。最悪だったのは、あの本性を見破れなかった自分もだが……。
それまで恵は、肉食で軽い男と多く付き合ってきた。愛が重く、思慮深い男は、付き合うのにも別れるのにも、ひどく時間と手間がかかる。それならば、手軽な男と付き合うほうが楽ではないか。そう思っていた。
だから、無駄に優しく、柔らかく接してくる圭介が新鮮だった。恵の方も、その頃は職場の人間関係が上手くいかず疲れていたせいもあるだろう。この人なら付き合ってもいいかも、と思った。いままで自分が付き合ってきたタイプとは違うが、たまにはこういう男もいいかな? 自分の経験にもなるし、押しに弱そうだから別れるときにもなんとかなるだろう。当時、そう思っていた自分を殴りたい。
「別れないでくれ!! 本気で恵が好きなんだ!!」
散々無体を働いた相手に、喫茶店でそう言って縋り付く圭介を見たとき、恵は自分が失敗したことを悟った。やっぱりこの男とは付き合うべきではなかった。出会った当初、「いいな」と思った自分は間違いだった。そして、この男も間違った。その軟弱な育ち方はもちろん、わたしみたいな百戦錬磨を相手にするべきじゃなかったのだ。わたしはそんなふうに縋られても、心変わりなんてしない。どんな男にも「さよなら」と言うことができるのだ。
そうして、恵は真西圭介を忘れた。男選びに失敗した経験だけを糧にして、次の男へと渡っていった。
何度も電話やメールが来たとき、恵は真っ先に圭介を思い浮かべた。こんなことをしそうな男は、自分の歴代の男の中では圭介だけだったからだ。ただ、悪戯や、男を寝取った相手の女からの嫌がらせの線は否定できない。なんにせよ、迷惑には違いなかった。電話を迷惑設定にしても、また違う番号やアドレスからかかってくる。なんとかしなければ、と考えた。
そんなとき出会ったのが、堂上だった。警察官だと言うではないか。
ラッキーだと思った。こいつをなんとか利用してやろう。でかくて、女に慣れてないのか挙動不審で、絶対に付き合いたくはない相手だが、利用するだけならちょろいもんだ。
実際以上に怖がって見せ、堂上に送り迎えをさせることに成功した。律儀に毎日迎えに来る。朝は自宅に、夜は会社に。なぜこんなにも自分に尽くしてくれるのか不思議だった。いままで自分が知っている男たちとは、明らかに違う。まあいい。なんにせよ、わたしは利用するだけだ。
携帯番号とアドレスを変えると、途端に電話とメールは来なくなった。番号とアドレスを変えてもかかってきたとしたら、自分の情報がかなり近いところまで知られているということになる。そうだと面倒だったが、どうやら大丈夫だったらしい。もしそれでも電話やメールが来たとしても、堂上を使ってなんとかするだけだったが。とにかく、取り越し苦労で良かった。念のため、堂上に送迎をしばらく継続してもらうことにする。
堂上はやはり少し変わった男で、興味を惹かれたりもしたが、やはりこの男と付き合う気にはなれない。ただの気の迷いだ。圭介の二の舞いにならないとも限らないので、自重することにする。
しかし、そんな折、堂上に意外なことを訊かれた。
過去に自分が住んでいたマンションについて。
マンション名と部屋を、二箇所ぴったり当てられた。連続事件が起きたらしい。
ひとつ目の部屋は、わたしが男漁りをしながら一人暮らしをしていたところ。しかし、ふたつ目が問題だった。そこはわたしが圭介と同棲をしていた部屋だった。なんだか胸さわぎがする。
わたしが住んでいた部屋で、立て続けに同じ内容の事件?
偶然?
そんなわけない。特に二つ目の部屋は、自分の汚点とも言える真西圭介が深く関わっているのだ。それに、ひとつ目の部屋だって、圭介は知っているのだ。圭介と知り合ったのは、ふたつ目に引っ越す前だから……。
恵は、引っ越しも多く経験している。年に二回は部屋を変える。それは常に新鮮な気分を味わっていたいという気分的な理由と、男性関係をいったんリセットするためだ。多くの男は交際を解消したとしても、連絡が取れる限り、関係を続けようとする。つまり、元彼氏がセックス目当てに、部屋を訪ねてくることが度々あるのだ。しかし、それも住まいを変え、電話とメールを拒否設定にすれば終わることだ。そこで引きずらないような別れ方をするのも、多くの男と付き合っていく上でのテクニックだと恵は思っている。
恵は考える。もしこれが自分に関係がある事件だとするなら、どうしてそのふたつのマンションで事件が起きたのだろうと。
そのふたつだけに関係しているもの――そうすると、自然と真西圭介の名前が浮かんでくる。ひとつの部屋だけしか知らなかった男もいるし、逆に、長く付き合いを続け、みっつもよっつも自分の部屋を知っている男もいる。しかし、そのふたつだけしか知らなかった男といえば、真西圭介だけなのだ。
ストーカーと事件の犯人が、にわかに繋がって見えてきた。
……でも、なぜいまになってからなのだろう?
圭介と別れたのはもう二年以上前だ。追ってくるなら、もっと早くてもいいはずではないか? そこにはなにか理由でもあるのだろうか?
襲撃は、そんなことを考えている矢先の出来事だった。
閉じたドアの向こう側で、ガラスの割れる音が聞こえた。恵はいまマンションの廊下にいる。背後にはたったいま自分が閉めたばかりの部屋のドアがあった。そのドアの向こうには馴染み深い自分の自室があるのだ。部屋にはいま誰もいないはずだ。だって、いま自分が出てきたのだから……。遊びに来ていた友人もいない。男もいない。じゃあ、なぜ――ガラスの割れる音が……?
弾かれたように恵は走りだした。一刻も早く、部屋から離れるために。
本能的な恐怖がざわざわと体中を這いまわり、警鐘を鳴らす。
しかし逆にそのせいで足がもつれ、思うように先へ進まない。
階段を駆け下りる。エレベーターなど待っていられなかった。もつれた足で転倒しないことを神様に祈る。
恵の部屋がある三階から二階へ。
そして、一階。
外へ――。
幸運にも、転ぶことはなかった。自動ドアから出て、すぐに路地へと飛び込んで身を隠す。とてもじゃないが、広い通りなど歩けなかった。襲撃者はきっと自分を探しているのだ。見つからないように息を潜め、なるべく早く人がいる明るいところへ――。
しかし、そこで頭上に影が見えた。
落ちてくる。
目の前に大きなものが降り立った。
それは人だった。いや――本当に人なのだろうか?
身体がねじれていた。背骨がありえない方向へと歪み、ギリギリという音がいまにも聞こえてきそうだった。筋肉が脈打ち、ときおり激しく震え、痙攣する。血流が乱れているのか体の色がおかしく、異様に赤いところと、異様に白いところが斑模様となっていた。およそ人には見えなかったが、しかしそれには手があり、足があり、人のカタチはしているのだ。
見つめていると、気がおかしくなりそうだった。しかし、その衝撃から目が離せなかった。ただ幸いなことに、顔は見えなかった。異常な体勢により、頭が身体に隠れているのだ。頼むからこちらを見ないで欲しかった。顔を見てしまったら、わたしは……。
「メグミ……ヤット……ミツケタ……」
男が顔を向けた。
半開きとなって唾液が滴り落ちている口。
左右別々に動きまわり、どこを見ているのかわからない眼球。
表情筋は常にビクビクと脈打っているが、そこにあるのは間違いなく真西圭介の顔だった。
恵の口から叫びがほとばしった。
「ズット……サガシ……メグミ……アイシ……」
ジリジリと圭介が近寄ってくる。しかし、恵の足は動かなかった。気づけば、座り込んでしまっていた。本能がいくら離れなければと叫んでも、身体はいっこうに動いてはくれない。ただ呆然と圭介を見つめるだけ。
圭介が両手を前へと突き出した。その右手には銀色の光を放つ一本のナイフが握られている。左手はまるで恵を求めるかのように虚空を掻く。
あの手で、圭介はわたしを抱きしめるつもりなのだろうか?
もしくは、殺すつもりなのだろうか?
「メ、メグ……、メメメメメメメメ……」
ああ、両方か――と、恵は思った。左手が自分を包み込み、右手が腹へとするりと滑り込んできた。ここで死ぬのだ、わたしは。これが男を弄んだ報いというものなのだろうか。わからない。ただこの左手は温かい。異様な手なのに不思議だ。一方右手のナイフはなんて禍々しい光を放つのだろう――。人の命を吸い取る魔性の輝き。その輝きがいま、わたしの腹に届こうと――。
その瞬間、衝撃があった。
男が離れる。いや、吹き飛んだのだ。背中から路面へと落ちた。
恵には、なにが起きたのかわからなかった。ただ、なんとなくうしろを振り向くと、堂上が立っていた。
八
間に合った!! と、堂上は思った。
路地に飛び込む恵を見て、車を降りて追いかけると、危うく恵が刺されそうになっていた。それを見て慌てて駆け寄り、男の顔面に蹴りを叩き込んだのだ。
男が吹き飛んだ。
恵を見ると、呆然としている。刺された様子はなさそうだ。内心胸をなでおろす。
しかし、のんびりしている暇はなかった。男が立ち上がったのだ。
「オマエ……オマエハ……」
何ごとかをつぶやきながら、堂上へと飛びかかってきた。ナイフを逆手に握った腕が振り下ろされる。堂上はそれを、両腕を交差させる形で受け止めた。全力で踏ん張る――が、超人的な力を発揮した男のほうが強く、すぐに押し倒されてしまった。アスファルトに打ち付けられた背中に痛みが走る。
ナイフが目の前でギラギラと光っていた。顔面数センチのところで、堂上の腕力がそれを押しとどめている。男は体重をかけながら、歯をむき出しにして吠えた。
「オマエハダレダ!! オマエハダレダ!! オマエハダレダ!!」
――お前はだれだ。
そのとき、堂上の頭に閃くものがあった。目の前のこの元彼氏に襲われた被害者の男たちのことだ。
元彼氏は、被害者の男たちに嫉妬したのではないか……?
恵がいると思って入った部屋に男がいたら、それが恵の男だと思ってしまうのも無理もない話ではないか? ましてや、この目の前の元彼氏は、正気を失くしかけているのだ。自分の女の部屋に知らない男がいたとしたら、怒りもするだろう。堂上は女性と付き合ったことはないが、自然とその気持ちは想像できた。しかし、なぜ被害者の男たちが殺されなかったのだろうか? 考えても答えは出なかったが、それが男に残った、たった一欠片の良心だったのかもしれない……。
哀れだった。
この男はただ、恵を探していただけだったのだ。自分の愛しい人を……。
取り憑いた妖刀が、男の抑えていた恋心の枷を外し、想い人を求めて彷徨う鬼へと変えてしまった。今回の事件まで、男から恵へ二年間も連絡が無かったという事実から、本当は、男は恵を諦めようとしていたのではないかと、堂上は考えた。『恵が本当に好きなんだ』――恵が別れ際に聞いた男の声が、目の前の男からいまも聞こえるようだった。
男はすぐ背後で呆然としている恵よりも、堂上を殺そうとしてくる。振り向けば簡単に恵を殺せるのに、そうしない。そこに妖刀へと抵抗する男の最後の心を感じた。
しかし、それももう限界だと、堂上は思う。
先ほど恵を殺そうとしていたではないか。左手は優しく恵を抱きしめようとしていたのに、右手はまっすぐ恵の腹を突こうとしていた。妖刀が命を求め、男の身体を奪ってしまっている。こうなるともう、男が乗っ取られてしまうのに一刻の猶予もない。
ここで止めてあげなければ。
堂上は、鋭く息を吐くと、交差させた両腕を伸ばして捻るように男の腕を捕らえ、引くと同時に腹を跳ね上げた。そうしてできた隙間に足を差し込んで、男の身体を蹴り飛ばす。その隙に堂上は、捕らえていた男の腕を離し、素早く離れた。
しかし、男の身体能力は人間を超越していた。投げられた不安定な体勢から猫のように身体を捻ることで、両足から地面へと着地したのだ。
直後、すぐに堂上へとふたたびナイフを振るってくる。妖刀によって超人的な速度と力を発揮した怒涛の連続攻撃だった。それを堂上は紙一重で避けていく。身体を傾け、ときに転がり、どうしてもかわしきれない攻撃は、相手の腕を叩いて逸らしていく。
しかし、まずい、と堂上は思っていた。
このままではジリ貧だ。
男をどうにかしてやりたいという気持ちが、いまの堂上にはある。
しかし、どうにもできなかった。
その理由は、堂上に攻撃手段がないからだ。
妖刀に取り憑かれた人間を無力化する方法は、ふたつある。
一、手から『妖刀』を離す。
二、『妖刀』を破壊する。
どちらも、いまの堂上にはできなかった。
妖刀によって肉体のリミッターが外された人間の身体は、信じられないような握力を発揮しており、そこからナイフをもぎ取ることは難しい。また、素手で金属製のナイフを破壊することは不可能だ。なにかにぶつけて破壊させるという手はあるが、それには工夫がいる。立地や周辺状況が重要になる。これもまた難しい。
なにより、この斬撃の嵐の中では、避けるので精一杯なのだった。
刀があればな……と、堂上は思った。
堂上は、剣術を六歳から十八年間やってきた。
これほどの年月、なぜ自分が剣術を続けてきたのかは、やはりわからない。
しかし、ひとつだけわかることがある。
そんなふうに剣道一筋だったせいで、自分は剣術しか取り柄のない人間になってしまったということだ。
この現代社会で、剣術ができていったい何の役に立つというのだろう。
身体だけが育っても、勉強ができず、対人スキルもない自分はいったいどうすればよいのだろうか?
進学や就職などの人生の岐路に立ったとき、理由もなく剣術にのめり込んだ過去の自分を呪ったこともあった。
でも……。
いま、刀があれば、怯えている女の子を守れるではないか。
目の前の狂いかけている男を救うことができるではないか。
――この手に、刀さえあれば。
「こころちゃん!!」
突然、少女の声が響いた。
堂上の背後からだった。
聞き覚えのある声だった。
堂上は男を突き飛ばし、大きく後ろへと下がると、その勢いを利用して背後へと振り返った。すると、黒く細長い棒状のものが、堂上の胸元へと飛び込んできた。それを堂上は掴んだ。ふたたび男へ向き直ると、男が堂上に向かって突っ込んで来ていた。堂上の隙を見ての渾身の一撃だった。それを堂上は、いとも簡単に手にしたもので打ち払い、続けて胴体と首へとカウンターを打ち込んだ。
堂上の突然の反撃に、男が初めて後ろへと下がった。
自分がいまなにをされたのかわからないといった様子だった。
「まったく、こころちゃんは、世話が焼けるんだからさっ」
堂上が隣を見ると、そこには円がいた。なにやら呆れている様子だった。
「比嘉に連れられて来てみれば、こころちゃんが『妖刀』相手に素手で戦ってるし、まったく焦っちゃったよ」
円の背後には、少し距離をおいて比嘉がいた。赤いバイクに乗っている。それで円を連れて来てくれたらしい。円の家からここまで距離があり、間に合うか賭けだったが、比嘉に連絡し、頼んで良かった、と堂上は思った。
「助かったよ、円」堂上は、手にした物の重みを確かめながら言った。
「ボクのありがたみに気づいたかい? 君の刀を持ってきてやったんだ、もっと感謝するといいよ。投げたのも実に良い判断だったろう? やはりこころちゃんは、付き合いが長いぼくと一緒にいるべきなんだよ……」
円がぶつぶつと言っていたが、無視して棒状のものを掴み、引きぬくような動作をすると、そこから銀色に鈍く光る刃が現れた。堂上に向かって飛んできた黒く細長いものの正体は、鞘に納まった刀だったのだ。鞘を円に預け、両手で構えると、なんとも言いがたい安心感が堂上の心のなかを満たした。
堂上がそろりと足を進めると、男が下がった。いままでとは人が違ったような雰囲気に、気圧されているようだった。しかし鋭い眼光を堂上へと向け、機をうかがっている。
男に対し、堂上は柔らかく構えていた。飛びかかって来られたとき、どのようにでも対応できるように。
「メグミ……メグミ……」男がつぶやく。
そして、来た。男の疾走はまるで地を這うようだった。一瞬で五メートルほどの距離が詰まる。ナイフが稲妻のような速度で、堂上の胸へと突き出された。必中の速度と間合いだ。並の人間ならば、それで即死だったろう。
しかし、その一撃を堂上は弾いた。
刀身をナイフへと沿わせ、一瞬のひねりをもって突きの軌道を変えたのだ。
刀対ナイフ。一見リーチ差によりナイフより刀のほうが有利に見えるが、実際は違う。超人のスピードを発揮する相手は数メートルの間合いなど、一瞬にして無くしてしまう。懐に潜られてしまえばそれでおわり。気がつけば、胸にナイフが突き立っているということもあり得るのである。だからこそ堂上は、相手が攻撃に移る一瞬の気配に神経を研ぎ澄ませ、凌いだのだった。
男の狂気に歪んだ顔が、いま堂上の目の前にあった。必殺の一撃を避けられた怒りからか、表情がさらに歪み、男がさらに妖刀に飲まれていくのが、堂上には見て取れた。
崩れた体勢から、男がさらに連続で斬り込んでくる。堂上は、そのことごとくを弾き逸らした。懐に入られた不利な状況からでも、刀をまるで自分の一部のように振るい、男をあしらう。柱のようにまっすぐ突き立った堂上の姿勢はまったくと言っていいほど揺るがず、川面に浮かぶ笹舟のような滑らかな足さばきは、驚異的な男の踏み込みすべてを受け流していた。
『松風流』――というのが、堂上の修めた剣術だった。
……じいちゃんから習った、堂上の家に伝えられた剣術である。
男がくるりと後ろを向いた。回転と身体のバネを利用した渾身の一撃――。振り返るようにして、男の最強の一撃が堂上へと打ち込まれる。
――ここだ。
堂上は身をかがめて男の一撃を避ける体勢に入ると同時に、頭上を通り過ぎるナイフへと刀を沿わせた。いままでは、そこでひねりを入れて攻撃を逸らしていたが、今度はナイフを加速させる方向へと刀を振るった。足腰の回転を使い、堂上の力をも上乗せする。
『妖刀』で強化されていた握力も、自身の全力に堂上の一撃も加えられてしまっては、さすがに堪えられなかった。すさまじい速度でナイフが男の手から離れ、路地を囲む塀へと当たり、乾いた金属音を立てて転がった。
『妖刀憑き』を無力化する方法――『妖刀』を肌から離すこと。
堂上が狙っていたのは、それだった。
男は崩れるようにして倒れた。
路地の端を見ると、それまで呆然と座り込んでいた恵が、危機が去ったとともに正気へと戻り、怯え声を上げながら地を掻いて男から後ずさっていた。
堂上は、やはり男を哀れと思わずにはいられなかった。
九
「よう堂上。恵ちゃんとはどうなった? ……え、なにもなかった? まったくヘタレなやつだなぁ、もったいない。ストーカーから守ってやったんだろ。恩を使って押せばベッドインなんてすぐそこじゃないか。……え、あれから連絡がとれない? それに、自分には女の子と付き合うのはまだ早いって? なにも俺は付き合えとは言ってないぞ。……どういうことかって? あの子はかなり男癖が悪いらしい、知り合いのあいだじゃ有名な話だ。でも、だからこそ、ベッドインまでのハードルが低い! この機会に童貞卒業すれば良かったのに」
友人に――以前の合コンの幹事に――そう言われて、堂上は脱力した。
さらに聞くと、恵がストーカーに悩まされていたことは友人も知っていたらしい。友人も相談されたことがあったらしいが、恵の性格を知っていたため深入りはしなかったそうだ。しかしそこで、堂上の名前が脳裏に浮かんだ。――そうだ、アイツに任せてみよう。警察官だし。上手く行けば、堂上も美味しい目を見られるだろう。と、そういう思惑が、あの合コンの裏にはあったらしい。
余計なお世話だと、堂上は一言言って電話を切った。
その会話を横で聞いていた円が、腹を抱えて笑っている。
「こころちゃんはいい友達を持っているね」
「うるさい。あいつも、お前も、人をおもちゃにしやがって」
「こころちゃんおもしろいんだもの」
そう言って笑う円は、本当に楽しそうだった。
「でもね、本当はこころちゃんが取られちゃうんじゃないかって、ぼくは実のところヒヤヒヤしていたんだよ」
「どうしておれが取られちゃ不味いんだ?」
「それは……いじり甲斐がなくなるからさ! それに、ここに来る頻度も減っちゃうかもしれないじゃないか」そう言って、円は部屋の中を見渡した。
平日の昼下がり、堂上と円は、『久遠堂』の縁側でお茶を飲んでいた。堂上は、先日の事件の報告を円にしに来たのだった。
「あの男の人はどうなったの? 真西圭介って言ったっけ?」
「正気を取り戻して、いまは取り調べを受けてるよ。『妖刀』に憑かれていたときの記憶もおぼろげにだけどあるらしい。素直に話してくれてる」
やはり円にストーカーをしていたのは真西だったらしい。事件の後、真西の部屋を調べたところ、恵への連絡履歴が大量に残った携帯電話がいくつか見つかった。それで番号を変えメールアドレスを変え、繰り返し連絡をしていたらしい。
本人に訊くところによると、妖刀に憑かれる前まではやはり恵を諦めようとしていたそうだ。すぐに暴力を振るってしまう荒んだ自分では、恵と関係を戻したとしても、また同じようになるだけだと、自身に言い聞かせていたらしい。
しかし、真西の恋心は萎えること無く膨らみ続けた。そこを『妖刀』に憑かれてしまった、というわけだった。
あとは溜まりに溜まった欲求不満のまま、恵へと接触を図り、今回の事件となる。
「いじらしい事件だね」
円がお茶を飲みながら言った。
「そうだな」
同意する。しかし、堂上の表情は渋い。
「だけど――」円が湯のみを置いた。「疑問が残るね」
そう、ひとつ謎がある。
真西が持っていた妖刀の入手経路だ。
「真西は以前人を殺したことがあるらしい」
円をちらりと見ると、ただ静かに庭を見つめていた。
「恵に振られ今回の事件に至るまでの二年のあいだに、ホームレスをひとり殺している。生活が上手くいかず荒んでいたところ、たまたま街にいたホームレスとぶつかり喧嘩になったらしい。そこで持っていたナイフで殺してしまった」
自分はやはりこんな事をしでかしてしまう、愚かな人間なのだ――と、真西はそのとき自分に深く絶望したらしい。やはり恵とは付き合えない、自分では恵を不幸にするだけだと、自分に言い聞かせ続けた。それが別れてから二年間、恵に連絡がなかった真相……。
しかし、そのあいだにホームレスの血を吸ったナイフは『妖刀化』した。ナイフは真西がホームレスを殺してしまったあと持ち帰っていた。それが十分な力を得たあと、真西の抑えていた思いに取り憑き、その気持ちを利用して人を殺そうとした。妖刀は波長の合う人間に取り憑くものだが、強い気持ちを持っている者は波長が合いやすくなる。それが妖刀化のきっかけになったときの持ち主なら、なおさらだ。
男が持っていた妖刀のナイフは、いまこの久遠堂の蔵へと収められている。
その蔵には、円が知る陰陽の術が施されており、封印状態を保ちながら年月をかけて妖刀化を解除する仕組みとなっている。
その蔵がいま視界の端に見えている。白い蔵だ。その中には数々の妖刀が存在している。
人の闇がその中に凝縮され、渦巻いている。
それが外へと出ないように、封印しているのが円の役目だ。
円はその蔵に入るとき、妖刀に向き合うとき、不敵に笑う――。それは決して楽しいわけではなく、『妖刀』の恐ろしさを肌身にしみて知っているからこそ、無理矢理に強がって笑うのだ。負けないように、強く在れるように、彼女は自分を戒めている。それもすべては、霊能力を持って生まれてしまった自身の不幸と向き合い、できるだけ幸せに、そして平穏に生きるためだ。
――ふと、昔のことが思い出された。円の過去だ。堂上と円が初めて出会ってからもうじき三年が経とうとしている。それ以来、円はおれに、恋心らしきものを抱いているらしかった。本人は隠しているつもりらしいが、態度でわかる。バレバレだ。女性経験のないおれでもわかるほどに。しかし、円と堂上とのあいだには一言では言えない、複雑な過去がある。それが、二人の関係を通常ならざるものにしている。だから、おいそれと円とは恋人や家族になどなれない。もしかしたら一生……。しかし、ずっと深いところで繋がっている実感が、円との間にはある。きっとどういう間柄であれ、ずっと円とは関わっていくことになる予感が、堂上の中にはあった。
――腐れ縁だな、と堂上は思った。自分たちを言い表すなら、その言葉が一番近い気がした。
始まりは三年前のある雪の日。
――初めて堂上が人を斬ったあの日。
横を見ると、円は無表情に庭を見つめていた。なにを考えているのか堂上にはわからなかった。が、無性に頭を撫でたくなり、その衝動にしたがって小さな頭へと手をやった。荒っぽく撫でると、円が身に着けている鈴がチリンチリンと鳴った。
「あの女より、こころちゃんは、やっぱりぼくのほうが良いらしい」嬉しそうに、円が目を細めた。
「うっさいばか。普通の女の子は駄目なのに、なんでお前にだけは気安く接していられるんだろうなあ。子供だからか?」
「子供じゃないよ! 背は小さいけどさ、これでも十七歳なんだから」
円は背が低く、顔は幼く、どう見ても歳相応には見えない。だけど、これでも『妖刀』という人の罪に向きあおうとしているのだ。堂上たちの仕事は『妖刀』の回収まで。回収してからのその後の管理、封印は円の仕事だ。そういう契約になっている。『妖刀』がただの道具に戻るまでは何年も、何十年もかかる。それを円はずっと見ていなければならない。自分たちは、その小さな身体にどれほどの苦悩を強いているのだろうか……。
しかし、仕事はまっとうしなければ。円も覚悟のうえである。それは、三年前のふたりの約束に基づいている。
ふと、後ろを振り返ると、部屋の床の間に一本の刀が置かれていた。
堂上の刀だ。
それがカチャリと、音を立てた気がした。
【了】




