承
彼はきわめて善良な男であった。彼がコリシダ系アカント人(祖父がコリシダ人)であるために、彼を毛嫌いする者もいないわけではないが、彼の穏やかな性格を村の人間は知っており、コリシダ王国との紛争後であっても彼にあからさまな嫌がらせをするものはいなかった。
彼は妻子がいた。妻は純アカント人であり、彼にはもったいない美人の女性であった。金の豊かな髪を持ち、村一番の美女と言われた彼女との間に授かった三歳の息子の存在は、売れない画家志望の彼の心の清涼剤であった。
そんな彼の日常は、あっけなく崩れ去ることとなった。
アレゴリカ歴764年、12月。あの「銀水晶」事件がきっかけであった。
事件は帝国内のとある街で起こった。コリシダ系アカント人の男数人が酒に酔い、アカント人夫婦の家に押し入り、アカント人の妻と、十三歳の娘に性的暴行を働いた、という事件が発生したのだ。
下手人として逮捕された男たちに対し、アカント人妻の夫は制裁を叫んだ。それに呼応して、アカント人たちは下手人たちのいるルケイエ監獄を襲撃し、事件に無関係なコリシダ系アカント人、コリシダ人を含む28名を死傷させた。
これに呼応して各地でもコリシダ人への迫害運動が発生し、いわれもない罪で逮捕されるものや、私刑で嬲り頃される事件が帝国各地で発生した。
彼が逮捕されたのも、同時期の事であった。
隣家の男性が留守にする、ということで妻が一人残っていた。彼はその妻に呼ばれて、壊れた家具の修理を行っていた。時折こうして村の物の家具を修理することで、彼はどうにか家族を養っていたのだ。
だが、その日、隣家に行くと、そこには秘密警察が待っていた。そして彼に「アカント人に対する強姦罪」によって逮捕することが通告された。全く抵抗する間もなく、殴られ意識を失った彼は、遠く離れた地へと護送された。
銀水晶事件(銀水晶の夜)後、逮捕され溢れだすコリシダ人を収容するための施設が帝国各地に作られた。主導は帝国宰相リヒトホーフェンの直轄である親衛隊と、警察機構を取り締まる法務局であった。実際は法務局は親衛隊による傀儡であった。
政治犯収容所または強制収容所と呼ばれるそこに入れられた彼がその場所の名前を知ったのは、三日後の事であった。
キンメル政治犯収容所。それが、彼の入れられた地獄の名前であった。
そこはまさに、この世の地獄であった。
血液の採取、強制労働、一日一食、それも少量の食事。それに加え、連日謎の実験で人は減っていく。
夜中、遠くで響く絶叫の声が、耳を離れない。女子どもの泣く声すらする。
ここにいるのは、人間ではない。けだものだ。アカント人の看守たちは、恐ろしい怪物に見えた。
幸せだった記憶のみが、彼の希望であった。再び妻子と会うことだけが、彼の望みであった。
皆がそのような願いを思い浮かべ、そしてねじ伏せられていった。
虐待で死ぬ者、栄養失調で最終的に死んだ者。腐敗した死体を運ばされることも多々あった。燃やされる死体の匂いは、服にこびりついて落ちなかった。
毎日誰かがいなくなる。怪しげな実験によって死んだのだ、とは専らの噂であった。宰相の直属の親衛隊の秘密の実験場の一つが、このキンメルなのだ、と。
やがてそれが事実だと彼は知った。ほかならぬ、彼が被験者として選ばれたからだ。
看守によって、監獄を出て実験棟に移される。
寝台に寝かされ、四肢を拘束される。怪しげな部屋、拷問器具と見たこともない機材がおかれている。床には乾いて黒ずんだ血の跡。天井は、それとは打って変わって綺麗なものだった。
彼と同じように十人ほどの人間が同じように拘束されてこの部屋にいる。女性も一人、混じっていた。
そうして十数分が過ぎた。
談笑の声とともに扉が開かれ、彼らが入ってくる。
怪しげな格好の医者たちは、その手に怪しげな薬を持つ。そして、血の色の液体を注射器に入れて、彼に突き刺してくる。
彼以外の者も同じように薬を打たれた。
みんな、狂っていった。
一日目、隣の部屋のカールトンが発狂し、自分の手首の欠陥を噛み千切り、その血で壁に大きく神の絵を描いて絶命した。
翌日、同じ部屋のミルトンが血を吐いて死んだ。彼の頭は血管が浮き出ており、彼の死とともに血が噴き出し、萎んだ風船のようになった。
三日目、唯一の女性被験者であったリンダが死んだ。美しい赤茶の髪はすべて抜け落ち、体は黒い斑点だらけであった。前日までは、極めて健康体であったにもかかわらず、である。
四日目、一気に七人が死んだ。うち三人は前日までは健康体であった。これで被験者は二人となった。
七日目、彼のみになった。もう一人生き残っていた男は、体の細胞が崩壊し、まるで泥のように溶けてしまい、骨すらなくなっていたという。
そんな死の恐怖に怯えながらも、彼は正気を保っていた。いや、この時点ですでに彼は狂っていたのかもしれない。
妻と子どもを思い浮かべ、眠る。脳裏に響く声。嘆きの声は、彼を恨むかのようであった。
「痛い」「痛い」「死にたくない」「タスケテ」「いやだ」「苦しい」「苦しい」「熱い」「息ができない」「苦しい」「痛い」「母さん」「カアサン」「嫌だ」「クルシイ」「やめて」「やめて」「痛い」「寒い」「つらい」「どうして」「しにたくない」「死にたくない」「死にたくない」「死にたくない」
「死にたくない」
彼は生き残った。彼は死を超越し、恐怖を超越したのだ。
生き残った彼は、実験棟から出ると、ふらふらと建物の周辺を歩いていた。握力や身体能力のテスト、知能検査などの記録をとる作業で三日ほど閉じ込められていた。陽の光を浴びるのは、実に三週間ぶりであった。
そんな彼を、サディストで有名な看守が見つけた。看守は警棒でいきなり彼をどついた。だが、彼は警棒を受けたにもかかわらずケロッとしてこちらを見ていたので、彼は怒りだして、容赦なくその警棒を振るった。無気力な彼は、無抵抗で警棒による攻撃を受け続けた。
数分後、血まみれで倒れた彼が、医師たちによって発見され、治療室に運ばれた。
顔面の骨は砕け、目は陥没し、鼻は折れていた。そのほかの身体の部位も、相当な怪我であった。死んでいないのが不思議なくらいであった。
この患者の死は、当然と思われた。処置こそしたが、生き残ったところでどうせ長くはない、と。
だが、彼はその僅か二日後には傷が感知し、日常生活に全く支障のない体になっていたのだった。
目覚めた彼は、自分の持つ力を正確に自覚した。そして、この力を生かさない手はない、と考えたのだ。
このキンメル収容所を抜け出し、妻子にただ会う。そのためだけに、彼はこの力を行使しようと考えていた。
親衛隊副隊長ルパート・ランスマンが訪れた際、彼は看守たちを皆殺しにし、捕まっていた同胞たちを解放した。そして、ともに逃げようとした。だが。
燃え盛る収容所から出た彼らを待ち構えていたのは、弓矢と剣を構えて立ちふさがる親衛隊であった。
「逃げ出そうというのか、愚かなる劣等種たちよ」
アカント人ランスマンが弓を弾く合図を出す。弓からはやが放たれ、その矢は正確にコリシダ人の心臓を、頭を、首を貫いた。
そしてまた、彼だけが生き残る。
首を一本の矢が貫いたが、彼は死ななかった。彼は走る。途中で見つけた、手斧を拾い上げると、その人間離れした力で投げた。それは、回転し、一人のアカント人弓兵の首を切り落とした。
彼を止めようと、無数の矢がランスマンの号令で放たれる。だが、もう彼に矢は当たらなかった。
首に刺さった矢を抜くと、接近して兵士の右目に突き刺す。そしてそのまま首を掴むと、力任せに引き抜いた。脊椎がだらりと垂れ、血しぶきが舞う。
「ば、化け物・・・!」
誰かが言う。彼は笑う。真紅の瞳が、怪しく輝いた。
逃げようとする兵士を叱咤するランスマン。
悲鳴、絶叫が響く。超人となった彼は、一人の逃走も許しはしなかった。顔面を潰し、目をくりぬき、殴り殺す。数分の間に、三十名の屍を築いた彼に、ランスマンは恐怖のあまり失禁していた。
「や、やめてくれ、やめろ、やめろぉぉおおおおおお!!」
叫ぶランスマンに、彼は言った。
「嫌なことだね」
そして、彼の首を掴み――――。
ランスマンの首を麻袋に入れ、彼は妻子の待つ村へと向かう。四日の放浪を経て村へと戻った。だが、すでにその光景は変わっていた。およそ8か月の間に、村の雰囲気は変わっていたのだ。
そして彼は知る。妻子がすでにこの世にはいないことを。
妻は死の寸前、村の男たちによって乱暴されたという。最愛の夫の名を叫びながら、彼女は息子を守ろうとした。だが、彼女の死も無駄となった。
コリシダ人の血を引く子どもとされた三歳の息子は、燃え盛る炎の中に投げ捨てられ、生きながら焼き殺されたのだ。
彼は涙を流した。そんな彼を村人が見つける。誰かが秘密警察を、と叫ぶ。彼は、我を忘れて狂った。
意識を取り戻した時、村は屍で溢れていた。血にまみれた自分の手。考えるまでもなく、自分のやったことなのだ、と。
彼は彷徨った。何も食べず、飲まずに、睡眠さえとらず。なのにこの肉体は死ぬことを許さない。傷はたちどころに治っていく。
全てを失った今、何をするべきか。彼は考えた。
「ああ、そうだ」
この事態を招いた男に復讐するのだ、と。
毎晩、眠れないこの体の耳の奥、頭の中で響く無数の声。怨嗟の声は、いつも言っていたではないか。
『復讐しろ』『恨みを晴らせ』と。
妻子の仇、そして、死んでいった同胞たちの仇。それを果たせるのは、自分だけだ、と。
これは、この力は悪魔からの贈り物ではない。神から自分に与えられた使命なのだ、と。
これは「聖戦」なのだ。
彼は自分が生まれ変わったのを感じた。今までの「彼」は死んだ。彼はあのキンメルで死んだのだ。
今の自分は「K」だ。復讐者Kなのだ。
Kは帝都に向かった。そして、宰相リヒトホーフェンの殺害を考えたが、その時宰相は部屋にいなかった。Kはリヒトホーフェンへのメッセージを残すことに決めた。
保存していたランスマンの首と、そして自分の血でしたためた手紙を。
Kは帝都を後にした。彼にはやることがあった。各地の同胞を解放するのだ。そして、コリシダ人の手で、この悪魔の時代を終わらせるのだ、と。