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ゴースト・セラピスト 前半

突然、電信柱が僕に話しかけて来た。

 「何してんの?」

電信柱のくせに、声がしっとりとしていて、おまけにちょっと楽しげである。

「こんな夜中に、風邪引くよ。」

 ぼんやりと顔を上げると、そこに電信柱はなかった。その代わりに、抜けるように背の高い男性が、僕を見下ろしている。しかし、顔や表情は見えない。何故なら周囲はとっぷりと暗いし、ずーっと上のほうに光る満月が、逆光となっている。そして、その満月が浮かんでいるのは、建物と建物の間に見える、まるで帯のような細い夜空。つまり、僕が今いるこの場所は、どこかの路地なんだ。

 「ふーん…ちょっと、となりに座ってもいいかな。実は飲み過ぎちゃってさ。」

 電信柱のような男性は、そう僕に懇願する。確かに、ここは見知らぬ方角から冷たい風が入り込んできて、心地よい。酔い覚ましにはいいかもしれない。断る理由もないので、どうぞ…とだけ呟いて、僕はまた目線を元に戻した。と言っても、何かを見ていたわけではない。叱られた子供が押し入れに逃げ込んだ時のように、しっかりと膝を抱えて、ただじっと、周囲に漂う虚空を見つめ続けているだけだ。その時の僕には、それしかすることがなかったし、考えるべき事柄も、何も持っていなかった。

 「そっか。じゃ、失礼…。」

 男性はそう言いながら、僕の隣に座りこみ、汚れるのも構わずに長い脚を放りだした。

 「あー…いい感じだなァ。もう少しこうしていよう。このまま帰ったら、また奥さんに叱られる。あんまり飲んでくるなって言われてるんだ。」

 「そうですか…。」

 僕はぼんやりと答えた。確かに、アルコールの匂いが強い。

 「それで?君は何してんの、ここで。もう十二時過ぎてるんだけど…。」

 「え、僕は…。」

 「家出?それとも、学校の寄宿舎が嫌になって、飛び出して来たとか。どちらにしろ、感心しないな。それとも、何か事件にでも巻き込まれたとか?」

 男性は足もとに落ちていたナイフ…刃を出すことも出来ないくらい錆びている…を拾い上げ、手の中で弄びながら言った。

 「がっこう…?」

 「ウン、だって君は学生だろ?」

 そう言われて、僕は膝を抱えていた腕を緩め、自分が着ているものを確認する。黒い詰襟に、金ボタン。

 「がく、せい…」

 そう繰り返す僕の髪を、風が柔らかく揺らした。学生服。そうだ、これはたしかに、学生服だけれど…。

 「反応が妙だなァ…。おい少年、名前は?どっから来たんだ?」

 心配しているような口ぶりだが、言葉尻がどことなく楽しそうである。面白い拾いものをした、とでも言わんばかりだ。

 「なまえ…僕の名前?」

 「そう、君の名前だ。」

 その時僕は、初めてその人物をまともに見つめ返した。シャープな形の、黒ぶちの眼鏡。その奥から、全てを見透かしているような、キラリとした瞳がじっとこちらを見つめている。尖った顎に、薄い唇。ややウェーブがかった髪の毛。年齢はたぶん、三十代の半ばか、後半。服装は、ワイシャツにループタイ、八分丈の春物コート。

 そんな風に人を観察しながら、まるで屋探しでもするかのように僕は必死で頭の中を引っ掻きまわした。じぶんのなまえ。どこにしまったんだろう。ジブンノナマエ。

 「わ…わかりません…。」

 そう口にしたとたん、だんだんと額に脂汗が滲み始め、体全体に重い疲労感が漂い始めた。

 「分からない?住所も?」

 僕は、黙ったままうなずいた。少しずつ動悸が大きくなり、言いようのない不安感が、足元からひたひたと這い上ってくる。背中には冷たい汗が流れ、座っているのもつらくなってくる。

 男性は様子がおかしくなった僕の顔を覗き込みながら、なおも質問を続ける。

 「へーぇ、困ったね。じゃあ、いつからここに座っていた?」

 いつから?いつからだろう。

 「気が付いたら…ここにいました…その前は…」

 どこに、いたのだろう。だんだん、動悸が大きくなる。息が苦しい。体が冷たい。

 「ん、いいよ。無理して思い出さなくても。とにかく、一度立ってみなさい…自分の足で歩けるかどうか…。」

 男性はそう言いながら、僕の体を支えながら、引き上げる。でも、無理だ。痺れているわけじゃないのに、どうしても足腰に力が入らない。無理に頭を上げると、立ちくらみがして、気が遠くなる。

 「あー…こりゃあ駄目だな。」

 すると、男性は手際よく僕の手首をつかみ、額に手の平を当て、更に喉のあたりを両手で触る。内ポケットからペンライトを出して僕の下まぶたを引っ張ったり、舌を出させたり…。

 「熱がある、へんとう腺も腫れている。それから大分疲労がたまっているし、栄養状態も悪い。よし、ウチで点滴の一本でも打とうじゃないか。あ、言い忘れたけど、僕は医者なんだ…。」

 言われなくても、ここまで手際よく診察されれば、それぐらい分かる。しかし、僕はその申し出に、思わず首を振った。

 「何で?あっ、分かった…酔っ払いに針を刺されるのが怖いんだろう。残念でした、実は心療内科医でね、もともと注射は得意じゃないよ。」

 僕はその言葉に、はァ、と返事をするしかなかった。本当は、どこの誰か分からない人間を拾ってしまったらご迷惑になるのではと言いたかったのだが、そんな言葉を口にする気力さえ、僕には残っていなかった。お金だって、きっと持っていない…と思う。それに本人の言うとおり、まともに針を刺して貰えるのかもわからないし、第一、精神科医って精神以外の治療はどれくらい出来るんだろう?そもそも、僕はどうして突然熱を出したのか?何だかもう、分からないことだらけだ。

 そんなことを朦朧とする頭の中で考えているうちに、突然ふわり、とした感覚を覚える。そして、体に伝わるリズミカルな振動…。どうやら、僕はその精神科医に負ぶわれてしまったらしい。

 「よし、イチカには『この男の子を介抱しているせいで遅くなった』って言おう。あ、イチカっていうのは奥さんの名前。」

 心地よい揺れに気の遠くなる中で、そんな言葉を聞く。男性は構わずに話を続ける。

 「それから、このナイフも持って帰ろう。どうにも落ちている物が欲しくなるんだ…他の人に言わせると、これはどうしようもない悪癖に見えるらしいけれど、君はどう思うかな…。」

 僕も、悪癖だと思う。錆びたナイフなんか、何の役にも立たない。いや、役に立たない拾いものは僕のほうだ。きっと、このナイフの持ち主のように、僕は名前をどこかの路地の片隅に、落としてしまったのだろう。

 そんなことを考えるうちに、とうとう、気を失った。


 僕が次に目を覚ましたのは、見知らぬベッドの中だった。天井の木目に、ベッドわきに設けられた丸窓、風に揺れるカーテン。

 どこだ、ここ。何が起こった?

 顔を傾けると、頭の下で、とぷん…と水枕の揺れる音がした。そして、丸椅子の上に行儀よく置かれた水差しや濡れ布巾、体温計。ベッドの上に投げ出された腕には、点滴用の針。

ということは、ここは…。

その時、風が丸窓のカーテンをふんわりと大きく膨らませた。その白くて薄い布が揺らめく様子は、まるで魂がこの世を去るのを惜しむかのように儚げで切なく、不気味だった。

 「気分はどう。」

 突然発せられたその声に、僕は吃驚して頭をもたげる。風が収まり、すっかりしぼんでしまったカーテンの向こう…僕の足元に置かれた椅子の上に、一人の女性が座っていた。

 薄いグレーのワンピースに、白いカーディガン。首の下あたりで切り揃えられた、まっすぐな黒髪。象牙色の肌をした、瓜実顔。手に持っていた文庫本のページが、窓から吹き込んだ朝の風をぺらぺらとめくれる…。

 いつ、部屋に入ってきたのだろう。ついさっきまで誰もいなかったではないか。ドアの開く音もしなかったし…。いや、手に文庫本を持っているということは、もっと前からここにいて、本を読んでいたのか?

 こちらの混乱などつゆほども気にせず、その女性はうっすらと上品にほほ笑んだ。

 「三日。」

 薄紅色の唇から、するっとそんな言葉が流れる。三日?三日って?

 「あなたが高熱でうなされた日数。」

 すると、その女性は音もなく立ちあがり、僕の額に白い手を乗せた。ひんやりとして、心地よかった。そして独り言のように、熱、下がったね…と呟く。

 「記憶がないんですって?うちの先生が路地で保護したそうだけど、そのことは覚えている?」

 僕はかすれた声で、ハイ、と返事をする。ただし、覚えているのは路地を抜けた辺りまでのことで、そこから先は分からない。

 「何があったのかは分からないけど…じゅうぶんな休養が必要なんですって。いま、先生は診察中だから、もう少し寝ていたら。また様子を見に来るから…。」

 額から手を離し、ドアへと向かう女性に向かって、ここは、どこですか?と尋ねる。

 「診療所の二階。普段はほとんど使わないから、遠慮しないで。」

 それだけ言うと、その女性は静かな足取りで部屋を出て行った。ドアが閉まるのを見ながら、しまった、と後悔する。三日も看病させたというのに、朝の挨拶どころかお礼も言っていない。しかし、でも、その時はまだ体の疲労が激しくて、起き上がって後を追うほどの体力はなかった。

 「ハイ、あーんして。」

 そういわれて、僕はおそるおそる口を開いた。

 「のどは腫れてないけど、口内炎があるなぁ…。虫歯もなさそうだ。まあ、あっても僕治療できないけど。」

 そんなことをぶつぶつ言いながら、先生はペンライトでまじまじと僕の口の中をみつめている。その光が眼鏡に移りこんで、何となく不気味だ。

 時刻は一二時。

 あの女性が部屋を去ったのち、再び眠りについた僕を起こしたのは、部屋のノック音だった。ドアが開いて、薄いグリーンの白衣を着た人が、ぬっと入ってきた。それはまさしく、あの夜僕を拾った人。明るいところで改めてみると、やはり身長が大きい。一九〇センチ近くあるかもしれない。

 「ありがとうございました…お世話に…」

 僕が体を起こそうとすると、おっと起きなくていいよ…と答え、ベッド脇の椅子に座った。あの女性には普通だったのに、この人物が座ると、やや小さく見える。話し方や声は酔っている時とあまり変わらなかった。

 「気分は、落ち着いたかな。ひとまず熱は下がったけど、もう二~三日寝てなさい。それから、もし食べられるようだったら、何か口にした方がいいね。やっぱりさ、人間は点滴じゃ駄目なんだよ。胃から栄養を吸収しないと。」

 そう言いながら、その人は懐から名刺を一枚取り出して僕に渡した。そこには、『歯車心療内科医院 歯車大輔』と印字されていた。そうか、本当に先生だったのか。歯車…は変わった名前だが、本名だろうか。

 「もともとは精神科医。でも、今の仕事内容はカウンセラーに近いね。」

 カウンセラー。心療内科に精神科。具体的に何が違うんだろう。

 「それから、このあたりには病院が無いから、近所の人たちは風邪引いたり怪我したりしても、みーんな、ウチに来ちゃうね。来ちゃったからには、診ないといけないだろ。」

 つまり、町医者みたいな感じだな…と、無くなりかけていた点滴のパックを、新しいものと交換しながら、「先生」は言った。

 「僕はどうして、熱を出したんでしょうか。どうして、こんなに体が重いんですか…。」

 空になったパックを医療用のトレイに入れながら、先生は、気だるげに首を傾けた。ウェーブの髪が、ゆら、と揺れる。

 「んー、どこから説明しよう。まず、体が重いのは高熱のせいだし…発熱の原因については、ハッキリしたことは分からない。ただ、君の体は酷く衰弱していたにも関わらず、あの場所で長時間、冷たい風に当たっていた。風邪をひいたことも確かだ。」

 そこまで話すと、白衣の胸ポケットから手鏡を取り出し、僕に持たせる。その鏡の中に移っていたのは、ふわふわとした栗色の髪、丸顔でアーモンド形の釣り眼、低い鼻。年齢は幾つくらいだろう?感じていたより、ずっと幼い。そして、先生が言うように、酷く疲れた顔をしていた。痩せて頬はこけているし、血色は悪いし、目は落ちくぼんでいる。

「どうかな、自分の顔。見覚えある?」

 僕は黙って、首を振った。どんなに見つめてみても、鏡に映っているのは、見ず知らずの病人に過ぎなかった。

 「ま、記憶障害の原因はいろいろあるから。例えば、強く頭を打った時。それから、強いストレス…戦争や災害に遭った時、誰かに乱暴されたり、犯罪に巻き込まれたりした時。」

 「でも、僕はどこも痛くなくて…。」

 「ウン、そこなんだよね。着ている服が綺麗だった。事件事故災害その他に遭遇したら、多少は汚れたり破けたりする。君の体にも、特に大きな傷は見当たらない。」

 先生は壁の方を指差した。そこには、新品同様の学生服がかけられている…ということは…たった一つの持ち物である制服が壁にかけれているなら…僕は何を着てるんだ?布団をめくってみると、それは、胸元に堂々とピンクのフリルがついた、どこからどう見ても女性ものだ。いくつになっても可愛いものが好きですって感じの、大人の女性用。

 「ああ、それはイチカに借りたんだ。気に入って買ったらしいんだけど、胸がぶかぶかなんだって。あ、余計なこと言ったかな…。」

 イチカ…?その名前に、膨らんだカーテンの揺らめきを思い出した。

 「今朝会ったろう。怒ると恐いから、取り扱いには十分注意しましょう。」

 怖い?そうだろうか。静かで穏やかな印象だったのに。

 「あの、それより僕…その、何もお礼出来ないんです…たぶん、本当に何も持っていないはずで…。」

 すると先生は、僕の耳に口を近づけて呟いた。

「さっき僕がイチカを怖いって言ったこと、黙ってて。それから胸がぶかぶかだってことも。」


 僕が、ようやく自分の足で母屋のキッチンに移動できるまでに回復したのは、それからさらに五日後のことであった。それまでは何とかスープをすするのが精いっぱいだったけれど、ようやく野菜サラダとトーストを口にする。

 果肉の残ったイチゴジャムは甘すぎることが無く、サラダに入った新鮮なきゅうりが、瑞々しくて美味しかった。しかし、作った本人…イチカさんの皿に乗るのはごく少量の野菜と食パン二分の一、そして、コップ一杯の水だけ。

 「ベジタリアンな上にものすごく小食なんだ。カタツムリみたいだ。」

 先生はパンをかじりながらそんなことを言った。時折、湯気の立つコーヒーをすすっている。カタツムリに例えられたイチカさんは、ふん、とそっぽを向いて答える。

 「私がカタツムリなら先生はカマキリでしょ…。ところで、学生さん。あなたは自分の好き嫌いに関しては、何か分かることがある?」

 「いえ、あの、何も…わかりません…。」

 第一お世話になっているのだから、好き嫌いなど言える立場ではない。

 「でも、不思議なんですよね…。」

 僕はパンの上に乗ったジャムをまじまじと見つめながら言った。

 「だって僕は何も自分のことは覚えていないのに、イチゴジャムの味はわかるんです。本当に、まったく何も覚えていなかったら、このイチゴジャムだって初めて食べる味だと思うはずなのに。野菜だってそうだ。いつか、どこかで、僕はこれらのものを食べたはずなんだ。」

 もう一口、トーストにザクっと噛みついてから、ミルクを一口飲んだ。

 「僕はどこの誰なんだろう。」

 すると、先生がふいにマグカップを置いた。

 「そのことなんだけど…ほら、君が来ていた制服をね、いろいろ調べてみたんだよね。でも君の個人名はもちろん、校章や学校名すら見当たらなかった。」

 露骨にがっかりしてしまった僕を、大丈夫よ、とイチカさんが励ました。

 「先生なら、記憶を取り戻すカウンセリングとかできるでしょ…?」

 すると、残り僅かになったコーヒーを、ずずっと啜りあげながら、先生はさらりと答えた。

 「出来ないよ。」

 「え…。」

 その言葉に、僕の顔からゆっくりと血の気が引く。イチカさんはじっと先生を見つめたあと、気の毒そうに続けた。

 「そう…やっぱり先生程度の力量じゃ無理なのね…」

 そう言いながら、トウモロコシを二、三粒、フォークにざくっと突き刺した。

 「あー…心が痛いなあ。僕の心は今まさにそのトウモロコシだよね。」

 「え、どういう意味?あなたの心は小さくて弱いってこと?」

 毒のない表情でそんなことを聞き返す奥さんを無視して、先生は僕に向き直る。

 「もともと、記憶喪失に対する具体的な治療法は見つかってない。しいていうなら、なるべく多くの物事に取り組んでみることかな。何が引き金になって、過去を思い出すか分からないし…。」

 そう言って、僕の傍らにもコーヒーを置いた。

 「コーヒーは刺激物だから、ブラックで飲むのはまだやめた方がいい。ミルクや砂糖を入れなさい。」

 僕は言われた通り、呑んでいたミルクを足して、一口すすった。そもそも僕は、ブラックは好きなんだろうか?

 「あ、ねえ、もう一度頭を殴ってみたら。」

 そんな提案を聞いて、一瞬あごに力がこもる。口の中のミニトマトがつぶれて、ぶちゅっと種が飛び出る。

 「それは説明したろ。殴られたわけじゃないんだよ。傷は無いんだから。」

 じゃあ、もし僕の頭に殴られた形跡があったとしたら、この夫婦は何の疑いもなく僕の頭を殴るのだろうか。

 ところで、と物騒な話題を切り替えるようにイチカさんが言った。ようやくサラダが空になっている。

「名前のことだけど。」

 ああ、と先生が気付いたように言う。

 「確かに、名前がいるね。ずーっと“きみ”ではちょっとね」

 ずっとじゃないでしょ、思い出すまでの間でしょ…と抗議しながら、イチカさんは冷えた水を飲む。よほど美味しいのか、ごくごくと喉を鳴らしている。

 「僕の名前…。」

 猫毛で丸顔で小柄だから…と先生が嫌な方向に想像を膨らませる。にゃん吉とか玉三郎などとつけられたら、どうしよう。甘んじて受け入れるべきか。

 「年頃の男の子に小柄とか言っちゃダメなの。それに、あなたと比べたら、大体の人が小柄じゃない。」

 えー、そうかなァと抗議する先生を尻目に、イチカさんは、大丈夫これからギュンギュン伸びるから…と僕を慰める。しかし、先生の言っていることは確かなのだ。僕は最初のうち、本当に先生が大きいだけだと思っていたけれど、歩けるようになって身体測定をして貰ったら、一六三センチしかなかった。これでは本当に女の子ではないか。ちなみに、イチカさんは女性にしては長身で一六七センチくらいある。だから、二人と並ぶと、本当に子供に見えてしまう。

 「ねえ、陸にしましょう。」

 使い終わった食器を重ねながら、イチカさんが言った。

 「広くて、ゆったりとしていて、安心するイメージ…どう?」

 先生は何も答えない。最終的に決定するのは僕だから。

 陸。

 男性のような女性のような名前だけれど、特別変でもないし、制服以外の持ち物が出来たことは嬉しい。

 「よし…では陸。ちょっと出かけよう。」

 十五分後、とりあえず例の制服を着て、僕は先生に促されるまま、建物の外へ出た。自分がいた病院を、改めて明るい場所で見る。二階建て、レンガ造りの尖った屋根のほうが母屋。母屋から渡り廊下でつながった円筒形の木造建築がクリニックだ。二つの建物の前には芝生の庭があり、低木が数本植えられ、鉄製の椅子が二脚と、小さなテーブルもある。

 先生はそれらを横目で見ながら、特に急ぐでもなく、やって来た春を味わうように、ゆらゆらと歩いて行く。その道は細く、曲がり角が多い。一人で歩いたら、迷ってしまいそうな感じだ。道の端では、その陽気に成長を促された、小さな植木鉢の住人や雑草が、空に向かって小さな新芽をつけていた。

 僕も彼らと同じだ。久しぶりに、陽の光を浴びた…と思う。記憶がないのだから、最後にこうして空の下を歩いたのがいつなのかわからない。しかし少なくとも、寝込んでいたこの十日間ほどは、ずっと薄暗い天井ばかりを眺めていたわけだし…。

 「静かだろ。」

 先生が欠伸をしながら言った。

 「いつもこうなんだ。でも、人はちゃんと住んでるよ。」

 そう言われて、改めて周囲を見回してみる。確かに、道路の両側に窮屈なくらいびっしりと建物が並んでいるけれど、まったく人気がない。試しに「鳥や」と書かれたお店を覗く。すると、見たこともないような美しい小鳥たちが、それぞれ籠の中で飼育されていた。しかし、管理者の姿はなく、鳥たちのさえずりや羽音だけが静かに響く。

 「さあ、着いた。」

 そこにあったのは、バンガロー風の小じんまりした建物だった。事務所のような雰囲気だが、看板にはきっちり、交番の文字。

 「一応、届けておかないとね。」

 すると、こちらから入ってくる前に、中からミニスカートの婦人警官が出てきて、大きな声を出した。

 「あら先生。やっと自首する気になった?」

 「相変わらず人聞きが悪いなァ。職業病?」

 先生は笑って答えるが、僕は思わず二人の顔を見比べる。

 「自首…じしゅって…。」

 すると、先生は長い体をまげて、口を僕の耳元まで持ってきた。そして、僕はこう見えてちょっとばかり素行が悪いんだ、と囁く。

 「その子は?先生の隠し子?」

 すると先生は、そうだよ、いいだろ?とふんぞり返った。

 「ふーん、その割に似てないね。」

 「そうかな、ちょっと似てるよ、鼻とか。」

 そう言って自分の鼻の頭をさすって見せる。全然違う。僕の鼻は小さいけど、先生は顔の中心を真っ直ぐ伸びている。婦警はあっさり、似てないってば…と言い返した。

 ああ、そうかァ…残念だなァ…返事をすると、いよいよ後ろに隠れていた僕を、その婦警の前にずい、と押し出した。

 「ま、冗談はさておき、この少年は十日ばかり前にこの町の路地で保護したんだ。住所不定、記憶喪失。」

 すると婦警はたちまち交番の中へと僕を押し込んだ。周囲には、雑然と積まれた書類の山や黒電話、ストーブの上に置かれた薬缶などなど…。

 婦警はそれらを押し分けるようにして、僕を椅子に座らせた。そして、テーブルを挟んだ向かい側に自分も座り、どこかから取り出した鉛筆数本と消しゴム、スケッチブックを広げる。

 「動かないでね。」

 そして、凄い速さで鉛筆を走らせ始め、あっという間に僕そっくりの似顔絵を描き上げてしまった。若干やつれている辺りまで良く描けている。

 「すごい。」

 「ここにはカメラが無くてね。近所に撮影技師がいるけど下手でさァ、ちっとも使い物になんないから。で、名前は?なんて呼べばいいの。」

 「ええと、り、陸です。」

 陸ね…と、婦警は似顔絵の下に、小さくメモを取った。

 その後、僕は一度交番を出されて、庭先に置かれた小さな植木鉢の群れを眺めることとなった。男性みたいにさっぱりした性格の人だけれど、花はきちんと手入れされている。振り返って交番の中を見ると、先生は僕と入れ替わりで椅子に座り、何やら書類を書いているようだった。おそらく、発見された時の状況に関することだろうと思う。その後、二人で何か話し合った後、先生は立ち上がって交番を出た。その後ろから婦警が僕に向かって声を張り上げる。

「君の記憶が戻るまで、引き続きこの先生が身元の引受人だからね。」

 「え、でも…」

 いいのだろうか、それで。僕はてっきり、このまま交番に保護されるか、しかるべき保護施設に引き渡されると思っていた。見上げると、先生は当然とばかりの表情だった。 帰り道、僕はおずおずと先生の背中に向かって、切りだしてみる。

 「あの僕は…これ以上お世話になるわけには…。」

 すると先生は、振り返らずに、ええ?と不満げな声を上げる。

 「どうしてお世話になっちゃいけないんだ。ウチには子供もいないし、一人増えたって大変じゃない。イチカだって嬉しそうだし。その証拠に君は名前を貰った。名前をつけるってことは、すぐには手放さないってことだ。」

 それは…そうかもしれないけれど。

 「それでも、君がウチで暮らすことに遠慮があるっていうなら…。」

 そこまで話すと、僕らはいつのまにか、病院の前に立っていた。先生が柵の門を押し開け、きぃ、ときしむ音が響く。

 「僕の助手になるっていうのはどうかな。医療免許がなくても出来る仕事って結構あるんだ。それなら居候じゃなくて、立派な住みこみ職員じゃないか。」

 

「いいんじゃないの、住み込み職員。」

 茶器を洗っていたイチカさんが、面白そうに言った。僕は、受け取った紅茶用の急須やカップを布巾で拭いて、盆に載せる。先生は交番から帰ってきてすぐに患者が来たので、先ほどから診察室に閉じこもっている。

 「僕なんかに務まるでしょうか…先生の手伝いとか、患者さんの相手とか…。」

 イチカさんはその質問に答える代りに、こんなことを言った。

 「茶器の扱いが丁寧だわ。拭き方も置き方も…まるで、どこに力を入れたら壊れてしまうか知っているみたい。きっと、物を大切に出来る人なのね。それはとても大切なことだと思うの。どんな小さなものだって、それを作った人がいるんだから…。」

 イチカさんは、なぜ僕にそんな話をしたのだろう。少なくとも、自分がそんな風に物を扱っているという自覚はなかった。

 「大丈夫。きっと、上手くできるから。ハイ、それじゃあ初仕事。患者さんに出してあげてね。」

 湯の入ったポットに、急須、カップ、砂糖壺。絵的には当たり前の組み合わせだが、盆に載せて運ぶには、コツがいる。何せ、ポットはくて、カップは軽いわけだから、盆が傾いてしまう。つい手をプルプルさせると、茶器同士がぶつかり合ってしまい、表面を傷つけてしまわないか、気が気ではない。そうしているうちに、今度は自分の足元に注意が行かなくなり、何かに躓きそうになる。

 「くそ…お茶を運ぶだけなのに…何でもちゃんとやろうとすると難しいんだな…。」

 そんなことを呟きながら、診療所へ続く渡り廊下を進む。池を覗くと、金魚が数匹遊んでいた。

 廊下を渡った先にある診療所のドアには、特に何も書いていない。軽くノックしたけれど、返事はなかった。

 入っていいのかな。

 そう思っておそるおそるドアを開けた瞬間、ドスッ、という鈍い音がした。目に飛び込んできたその光景に、思わずドアを大きく開いてしまう。抱えていた盆の食器が、ガチャガチャと音を立てた。

 そこには、湾曲した壁に押し付けられた見知らぬ初老の男性が、顔をゆがめて立っていた。顔は酒気を帯びたように赤く、恰幅が良く、中肉中背で、高そうな釣りズボンと革のジャケットを着ていた。その腹部には、やはり見知らぬ老婦人が、ロングスカートに薄いセーターという出で立ちで、すがりついている。しかし、もっと良く見ると、肩で息をしている老夫人の手には大ぶりのナイフがあり、それを男性の腹部にザックリと突き立てていたのだった。二人の足元には、そこから流れ落ちた鮮血が、歪な円を作り出している。

 「あわわ…い、一体何が…」

 先生はどこに?警察を呼んだ方がいいだろうか?いやその前に、イチカさんに…。思わず大きな声を上げようとした僕にむかって、男は震える手で口に人差し指をあてた。そして、その指をゆっくりと円形フロアの中央に置いてあった、テーブルの上に移動させた。そこには、対になるようにソファが二つ置かれている。

 え、何?黙って盆を置けってこと?

 僕は仕方なく、おそるおそる二人の前を通り抜け、指示通りにテーブルの上に茶器を置く。ようやく腕が軽くなる。それとほぼ同じタイミングで、声にならない悲鳴が上がった。

 「ああ、とうとう、刺してしまった…とうとう私…。」

 夫人は、刺さったままのナイフを握りながら、その場で立ちつくした。その口からは、だって、だって…あなたが悪いのよあなたが…という掠れた声が流れてくる。陸の立ち位置からはその表情が見えないが、きっと真っ青になっているはずだ。

 初老の男は、ナイフを引き抜こうとする女の手を、がしっと押さえると、僅かに前のめりになっていた体をゆっくりと起こした。

すると、初老だったはずの男は、姿勢を直していくに従って、ひょろりと背が伸び、そして首が伸びた。肥満だった体は薄くなり、髪の毛が生える。衣服も、よれたセーターから、白くて長いものへと変化していく。

 「あ、先生?」

 そう、そこに立っていたのは、いつもの薄いグリーンの白衣を着た先生だった。ただし、わき腹には女が持つナイフが深々と刺さったままだったし、大きな血の染みも、そのまま残っている。

 「ああ、私…あ、あなた…あなたが悪いんでしょう私を私を、く、苦しめるから。」

 相変わらず同じ姿勢のまま喚く女にむかって、先生はゆっくりと語りかけた。

 「ちゃんと目を開けて、よく見なさい。ほら…あなたの目の前にいるのは、誰ですか。」

 女は、そう言われてやっと顔を上げた。そして、再び小さく声を上げる。その声には、関係ない人間を指してしまったことへの、罪悪感のようなものが込められていた。

 「どうして?だって…。」

 「大丈夫です、おちついて。一度深呼吸をしたら、僕の話を聞きましょう。いいですか、あなたは誰のことも刺していない。」

 「でも、血が、血が流れてる!早く病院にっ!私どうして先生を刺したの?主人が目の前にいたと思って、それでとっさに体が。」

 「血?血なんてどこにあるんですか?」

 そう言われて、思わず目を疑ったのは、僕のだった。腹部にはナイフが刺さったままだが、一瞬前まで流れ出ていたあの鮮血は、いつの間にか消えている。陸も老婦人も、何が起こっているのか、まったく理解が出来ない。

「だって、血が、どうして?私は確かに主人を刺したのよ、今流れていたでしょう、血が!ナイフだって刺さったままで…。」

 先生は落ち着いた口調で夫人に語りかけた。

 「いいえ、刺さっているように見えるだけです。さあ、ナイフごと手をゆっくり引いて下さい…そうです…そしてナイフの先を、ゆっくり柄の中にしまって下さい。」

 女は震える手で、しかし言われた通りに、先生のわき腹からナイフを抜き、柄の中にパチンと折り込んだ。その腹部に傷はなく、白衣にも破れがなく、全て元通りになっている。

 「ね、ほら、刺さってない。あなたは誰も傷つけていない。その証拠に、ナイフの刃を、もう一度開いてみてください。出来ますか?」

 すると先生の言うとおり、夫人がどんなに頑張っても、もう一度刃を取り出すことは出来なかった。何故ならそれは相当に古いもので、すっかり錆つき、色あせてしまっている。まさか、あれって…僕を助けた時に拾った、あのナイフじゃ…?

 「ほらね。そのナイフは最初から使えないものなんです。」

 「どうしてなの…さっきまで、本物のナイフだったのに?確かに主人を刺してしまったと思ったのに?どういうこと…」

 そう話す女の瞳からは、大粒の涙がはらはらと落ちる。その言葉には、自分の体験した一連の出来事を、頭で理解できない苛立ちと、罪を犯さずに済んだことに対する安堵が混じっていた。

 「あなたがあまりにも、ご主人を殺さずにここへ来てしまったことを後悔されていたものだから、それならばと、擬似体験して頂いたんです。これは僕の特技で…ええと。」

 ここで先生は、またもや長い首を気だるげに傾けた。どうやら、考えている時の癖らしい。どう説明しようか迷っているような感じだ。

「つまり、患者さんが求めるものを、ぱっと目の前に作り出し、体験してもらうことが出来るんです。今のように、錆びたナイフを新品に見せることも、僕自身が誰かに化けることも容易です。」

 先生はそう説明しながら、夫人をソファへと座らせ、自分も向かい合って座った。そして呆然となっていた僕に、紅茶を入れるよう指示する。しかし、僕は手が小刻みに震えるせいで、ポットのお湯を急須に入れてからカップにお茶が注がれるまで、ずっと食器同士の触れあうカチカチという音が途切れなかった。幸いなことに、お湯は冷めておらず、その女性は、差し出した紅茶を半分ほど飲むと、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。任務を果たした僕は邪魔にならないよう、あわてて先生の背後へと移動する。

 「どうでしたか、幻とはいえ、人を刺すという体験は。」

 先生にそう聞かれた夫人は、戸惑ったように頷いた。

 「取り返しのつかない…恐ろしいことだわ。こんな、こんな気持ちになるなんて…。」

 そうでしょう、と先生は長い足を組みかえながら、頷いた。

 「あなたは、あなたを苦しめて来たご主人、ずっと殺意を持っていた。でも、とうとう最後まで、実行することはなかった。あなたはその理由を、『単に殺す勇気がなかったから』だと、僕に話しましたね。」

 しっとりと語りかけている先生の口調は、いつものように気だるげではなかった。あくまでも、まじめで優しい。

 「でも、今はどう感じていますか?『結局、殺さなかった』というあなたの選択、間違っていましたか?」

 「そうね…。」

 夫人は何度も何度も瞬きをしながら、膝の上で握りしめた両手を、じっと見つめている。

 「冷静になってみれば…もし、本当に実行していたら、単に恐ろしい思いをするだけじゃ済まなかった。私は今頃監獄行きだし、それに、娘だって孫だって、まともに社会生活を送れなくなる。犯罪を犯すのは、私だけの問題じゃないもの…。良かった、私…人を殺めずに済んで。私は、間違っていなかった。」

 そうでしょ、と先生は深くうなずいた。そして、先生は淡々と、そして提案でもするかのように、語り続ける。

 「それに、あなたの言う『勇気がなかった』という言葉…これは感違いだと思うなァ。」

 夫人は、おそるおそると言った感じで、どういう意味?と聞きかえした。

 「『殺さずに済んだ』という結果は、あなたのもつ理性が、殺意という衝動に勝ち続けて来た証拠なんです。理性が衝動に勝つ…これはなかなか、難しい。僕なんか自分に甘いので、我慢なんかできません。夕べだって隠れて夜中に…。」

 あぁ、いや、僕の話はいいです…と先生は咳払いをする。夜中に何をしたのか非常に気になるところだが。

 「まあ、とにかく、あなたは長い間、強い心を持ち続けてこられたわけですから、大したものです。」

 「そう、かしら。」

 ぬるくなった紅茶を一口飲みながら、夫人は呟く。

 「では、私は、勝ったの?あの人に?それとも自分に?」

 もちろん両方です、と先生は当然のように言った。夫人は俯きながら微笑むと、そうよね…と小さく漏らした。

 「そういう考え方もあるわよね。私、ずっと、あの人に…それから自分に、周囲の目に、負け続けながら生きて来たと、そう思っていたの。そして、最後には病気にまで負けちゃったって。負け続けの人生だったって。」

 じっと二人の会話を聞いていた僕の頭に、言いようのない疑問が浮かぶ。カウンセリングが本業だと聞いていたから、てっきり誰かの悩みを聞いて、生きる糸口や希望のようなものを一緒に探すのだと、そう思っていたのに、何かが違う気がする。いや、会話の流れはそれっぽいけれど、なぜ、彼女の話す内容は過去形なんだ?最後まで実行しなかった?病気に負けちゃった?人生正しかったかどうか?これではまるで、相手がすでに死んでいるようではないか…。

 「ああ、なんだか少し、心が軽くなった気がする。勇気を出してここへきてよかった。」

 そう話す夫人の表情は、さっきと違って晴れやかだった。まるで憑き物が落ちてしまったような。

 「そうですか、そう言って戴ければ、僕も本望です。紅茶、もう一杯いかがですか。」

 確かに、ポットの中には、もう一度飲めるくらいのお湯が残っている。しかし、夫人はゆっくりと首を横に振る。

 「そろそろ行くわ。向こうで母と妹が待ってるの。笑顔で会えそうだから、良かった。先生のおかげね。主人はまだもう少し寿命が残っているようだけど、いつか再会する日が来たら、手ひどく振ってやるつもり。」

 そう言って立ち上がった彼女からは、かすかに、南国の花のような、熟した果実のような、甘い香りがした。

 「『街の奥』までお送りしましょうか?」

 一緒に立ち上がった先生が、その肩を支えながら言った。

 「いいえ、大丈夫。一人で行けるから。」

 夫人が円形フロアの出口へとむかうにつれて、その体の周囲には、銀の粉のような美しい何かが、キラキラと取り巻くように輝き始めた。僕は、先生が座っていた椅子から、一歩も動けないまま、その様子を凝視している。

 「道中、お気をつけて。」

 そう言いながら、先生がドアを開けた。日光が庭の木々を照らし、キラキラとした木漏れ日が、芝生の上にまだらの影模様をつくるのが見える。

 「ありがとう。」

 それだけ言って、夫人はその春の景色へと、歩きだした。後ろ姿を見送るようにドアが閉まり、やがて夫人の足音は遠ざかって行った。

 呆然としている僕のところへ、やれやれと言った感じで先生が歩み寄ってくる。そして、今まで夫人が座っていたソファにどさっと腰かけると、足を組んだ。

 「あー、痛かった。」

 まるでドアに指でも挟んだかのような口調で、先生はわき腹をさする。

 「いくら幻でもさ、僕自身にはちゃんと痛みがあるんだから不思議だなァ。」

 そう言いながら、先生は盛大に伸びをして、そのまま頭部を背もたれの上に乗せた。顔がすっかり上向きになる。きっとその視界には円形の天井がすっぽり見えていることだろう。僕には喉仏と顎しか見えないけれど。

 「君も座りなさい。それから、ポットのお湯、残ってたね。ちょっと持ち上げてみて。」

 突然の言葉に、僕はへっとまぬけな声を出した。訊きたいことは一杯あったが、どこから聞けばいいのか分からない。でも、今は先生に言われた通り、ソファに座って、片手でポットを持ち上げてみる。じゃらり。

 「あれ?」

 その手ごたえは、液体の持つそれではなかった。何か、固形物のような、金属製の物のような…。ためしに振ってみると、やはりガチャガチャと鳴り響いた。

 「何だこれ…お湯が入ってたんじゃ?」

 「開けてみなよ。」

 先生は真上を見つめたまま、言った。その右手はまるで煙草でも探すかのようにうちポケットをまさぐり、やがて透明な液体の入った一つの小瓶を取り出した。目線を天井に向けたまま器用にその瓶の蓋をあけ、別なポケットから取り出した妙な形のストローをそれに浸し、そのまま口に咥える。僕はその動作を気にしながらも、おそるおそるポットのふたを開け、中を覗く。

 「あっ…?」

 僕があんぐりと口を開けたのと、先生の咥えたストローの先端から大きなシャボン玉が、湧き上がったのとは、ほぼ同時だった。そこには…ポットの中には、お湯の残量と同じくらいの金貨が、ぎっしりと詰まっていた。

 「世に言う、ろくもんせん…ってヤツ。」

 その時、僕の目の前に飛んできたシャボン玉が、パチンとはじける。石鹸の匂いがほんのりと香る。先生は、上を向いたまま、再びストローをシャボン液につける。

 「ろくもんせんって、何ですか。」

 すると、先生は肺にのこっていた空気を一気に口から吐き出した。さっきとは違って、小さなシャボン玉がたくさん飛び出る。

 「死者が、あの世とこの世を分けている川を渡るとき、船の船頭に渡すと言われている金だ。うちでは診療費って呼んでるけど。」

 僕は、ポットをテーブルの上に置きながら、ごくり、と生唾を飲んだ。

 「じゃあの、単刀直入に、聞きますけど…さっきのご婦人って…やっぱり…。」。

 すると先生は突然、がばっと上体を起こして僕と向き合った。そして口の端を釣り上げながら、分かってるくせに、と笑う。ストローは、煙草を持つように指の間に挟んでいる。

 「亡者、死んだ人間、霊体、あるいは肉体から切り離された魂…表現はいろいろあるね。あ、幽霊って言い方も…。」

 「ゆっ。

 まあ、この町では生きた人間とほとんど変わりなく存在出来るけどね…と小瓶やストローをポケットにしまいながら先生は言う。周囲にはまだ僅かに、シャボン玉が漂っていた。

 「おいおい、まさか怖いのか?今からそんなに青くなっていたら、務まらないぞ…」

 「いや、だって、あの…。」

 口を金魚みたいにパクパクさせている僕を尻目に、先生は何やら考え込んでいる。

 「あー…さて、どこから説明しようかな。」

 そして、たった今シャボン玉を閉まったばかりの内ポケットから、今度は小さなメモ帳とペンを出してテーブルに置く。そのポケットは、他人から見たら何も入っていないように感じるほどペッタンコなのに、どうして次から次へと立体物が出てくるんだろう。

 「まず、ここが、僕らが住んでいる街。」

 そう言いながら、まっさらなページに紡錘型の図形を一つ描き、その中にざざっと斜線を入れる。

 「その名も、『路地裏の街』だ。」

 次に、東西南北を示す地図記号。上のとがった方が北を示している。さらに、図形の形に沿って、両側に湾曲した縦線をそれぞれ引く。印象としては、一本の道路が路地裏の街を避けるように二つに分かれ、町を通り過ぎた辺りで再び一つに合流する…といった具合。

 「この街はね、市場通りと呼ばれる、ある大きな通りの中に存在する。詳しい理由はわからないけど、こうして図にしてみると最初にこの町があって、それを避けるように市場通りが造られている。街の大きな特徴としては、区画面積が狭い上に建物も住民も多いから、道が細くて迷路みたいにごちゃごちゃだ。うちの病院は、だいたい、ここらへん。」

 先生が示した場所は、紡錘型のほぼ中心。

 「ちなみに、この病院はすっかり東の方向を向いているから、庭を出てまっすぐの方向へ歩けば…」

 「先生。その話は本当なんですか?」

 僕は、唐突に先生の言葉を遮って、言った。

 テーブルから顔を上げた先生が、茶色の瞳でじっとこちらを見つめ返した。そこに強い好奇心が宿っている。

 「本当ですかって、何が?」

 「はい、あの…この町の外にも、世界はあるんですか?」

 「え?どういう意味?」

 「僕は、どこまで行っても、この町が広がっているんだろうと、そう思っていました。」

 僕はその時、いたって真面目に、本気でそう思い込んでいた。世界の全てがこの町のような構造をしていて、そして全てがつながっているのだろうと…。そんな話をすると、先生はたちまち笑い出した。

 「いや、悪い悪い。もし世界のすべてがこの街のようだったら?それはとても面白い考えだけど、恐ろしいね。」

 「そうでしょうか…。」

 そうとも…と、先生は砂糖壺から角砂糖を一個取り出して口に運び、噛み砕く。

 「想像してごらんよ、一枚の布に、紡錘型の穴があいている。向こう側へ行くために、たくさんのものがその穴を通り抜ける。しかし、君はこう想像する…『この布全てが穴だと思っていたのに』。面白いね、論理的というか哲学的というか。」

 ちょっと、ちょっと待って欲しい。僕の思考は付いて行けない。

 「すみません、意味がわかりません。今の話だと、この町はまるで何か大きなものに出来た裂け目か、あるいは入口のようなもの…という印象です。でも、ここはただの路地裏で…あれ…?」

 君は思ったより鋭いな…と、ゆるゆるした髪の毛に手を置きながら、先生は笑う。

 「君の考えで合っている。ここはさ、この世界に出来た裂け目というか、トンネルというか…まァ、そんなところだ。別な世界に行くための通過地点なんだよ。」

 僕は、ちょっと背中に冷たいものを感じながら、もしかしてあの世ですか…?と尋ねる。

 「まあ、簡単に言うとそういうことだ。」

 僕は、どうしたらいいか分からずに、はは、と乾いた笑いを作った。先ほどの婦人がキラキラと輝いていたこと、向こう側へ行ったら妹や母がいる…などと語ったことが思い出される。もしかして、僕ってとんでもない場所に来てしまったんじゃないだろうか。

 「陸、もう少し詳しい構造を説明しようか。ここにやってくる亡者たちにとって、この町への入り口はもっぱら東側。そしてこの町を通過し、西側にあるあの世への入り口へと向かうんだ。でもね、どうやら亡者っていうのは、心に『現世への未練』や『満たされない思い』を抱えていると、すんなりこの町を通過することが出来ないらしい。迷って迷って、永久的に同じ道をぐるぐると歩き続ける。その姿はあまりに、哀れだ。」

 それは苦しいだろうな…と、僕は心の片隅で思った。願いはかなわない、行きたい所への道は分からない。明けても暮れても、抜けられない迷路の中を歩き続ける…。

 「だから、この路地裏の街の住民たちは、それぞれの自分が持っている職業を活かして、亡者たちの未練を晴らしてやろう…ということになったわけだ。そして、うまく未練を晴らしてあげることが出来れば…。」

 そう話しながら、先生はポットを軽く持ち上げる。

 「彼らはきちんと、代金を支払ってくれる。そんなわけだから、この路地裏の街にすむ住民のほとんどは、第六感とでも言えばいいのか、亡者と語り合える力を持つ。」

 「ええっ?じゃあ、僕もっ?さっきのお婆さん、僕にも見えましたよ?」

 すると先生はまた、はははっと笑い声を上げる。そうだね、君もだね…と。

 「ちなみに僕の役目は、心にトラウマを抱えた人、抑え込んでいた感情を吐き出したい人、悩みを解決しないままここへ来てしまった人たちの話を、聞いてあげること…。」

 器用なことに、先生はそんな話をしながら、ひい、ふう、みい…と金貨を数える。

 「そんなわけで、僕の肩書きはゴースト・セラピスト。君の仕事はその助手だ。」


 僕はその晩、なかなか寝付けなかった。昼間先生から聞いた話や、幽霊婦人のカウンセリングのことが、繰り返し頭に浮かんでは消えて行くのを、止められなかった。

 死者と生者が、対等に存在できる空間なんて…そんな、まさか…。

 天井から目をそらして寝返りを打ち、カーテン付きの丸窓を見る。部屋は結局、僕が寝付いていた診療所の二階を、そのまま使わせて貰うことになった。隣には先生の書斎があって、こうして陸が電気を消しても、しばらくは物音が聞こえてくる。

 僕は、寝る前に診療所を閉める時、先生にある質問をした。どうしても、気になっていたことだ。

「あの、教えてください。この町の人々は、全員生きた人間なんですよね。」

 すると、診療所のうち鍵をかけようとしていた先生の指先が、一瞬動きを止めた。

 「そりゃあ、ね。生きた人間だからこそ、亡者を慰められるんじゃないかな。」

 そう言いながら、かちゃん、と軽い音を響かせて、鍵が閉まる。

 「それじゃあ、もしこの町の人々や、外からやってきた生きた人間が、路地裏の西側までずーっと歩いて行ったら、何が見られるんですか?」

 僕は、この質問にどんな答えが返ってくるのか、緊張していた。あの世につながっている話が本当なら、誰にでもその入り口が見えるのではないのか?

 「何が見られますかって…」

 先生はぽかんとした表情で振り返る。

 「反対側の通りに出るだけじゃないか。普通に生きている人間にとって、ここは単なる街でしかない。死者と同じように東側から町に入って、奥…あ、僕らはみんな西側の果てことを『奥』と呼ぶんだけど…に出たとしても、そこには日常の続きがあるだけだ。」

「なんだ、そうなんですか…。」

 僕は少しがっかりしながら、乱れていた二脚のソファを綺麗に揃えた。そして、電気を消して二階へと上がっていく先生の背中に、最後の質問をする。

 「この世界には…。この路地裏のような場所が、他にもあるんでしょうか。」

 先生は階段の中腹で体ごと振り返り、僕をじっと見下ろした。

 「もちろん、たくさんあるんだろう。でも、見つけるのは至難の業じゃないかな。そんなことに時間と労力をかけるくらいなら、本の一冊でも読むべきだ。」…

 僕は、そんな先生の言葉を反芻しながら、再び仰向けになった。天井に向かって自分の手を伸ばしてみる。握ったり開いたり…そこには確かに肉や皮膚の感覚がある。しかし、先生はこう言った。『ここでは、生者と亡者がほぼ変わりなく存在出来る』。

 本当にそうだとしたら…。

 僕だって自分のことが何も分からないまま、この街にいた。僕が死者でないという証拠はどこにあるだろう。

僅かに動悸が早くなったのを意識しながら、僕は瞼を閉じた。

 

 僕が助手をするようになって、僅かばかりの日数が経った。外の気温は段々と上がり、庭の花壇や診療所の周囲に植えられた花たちが、今を盛りと咲き誇っている。

 僕の体力も人並みとなり、先生の言う『たくさんある細々とした仕事』を何とかこなしている。イチカさんの家事を手伝うとか、診療所のカルテの整理とか、医薬品の手配(といっても消毒薬や包帯、脱脂綿などの簡単なもの)とか…。まあ、言い換えればほとんど雑務に近い。でも、そのおかげで朝起きる時間や、一日のスケジュール、眠る時間が何となく決まり、生活リズムが整ってきた感じだ。

 まず、朝は大体六時ころ起きる…はずなのだが、その日に限っては、まだ日も昇らない時刻に目が覚めた。

がしゃん。誰かが勢いよく庭の門を開ける音がする。この診療所は、建物にこそ鍵をかけるが、基本的には出入り自由なのである。驚いて頭を上げると、まだ四時前。すると誰かが、激しく診療所の入り口を叩いている。

 「先生っ麻衣が…」

 女の人の声だった。急いで起きて、カーディガンを羽織り、部屋のドアを開けた。すると、勢いよく開けられたらしい、隣にある先生の書斎のドアが、ゆっくりと閉まって行くところだった。僕が階段の上から下を覗くと、先生がTシャツの上に白衣を羽織りながら、一階へと降りたところだった。やがて電気が付き、診療所の入口が開く。慌てた様子で、一人の母親が入ってくる。まだ若く、腕に真っ赤な顔をした赤ん坊を抱いていた。先生は相変わらずの気だるい調子で、どうしましたァ、などと言う。

 「む、娘が…夜中に突然熱を出して…下がらなくて。この時間に、み、診てくれる病院も無くて…。」

 半泣きでそう訴える相手を、先生はしれっとした表情で中に招き入れる。

 「いいですよ、中へどうぞ。」

 そして、陸!と僕の方を向いて叫ぶと、大人用の毛布とホットミルクを蜂蜜入りで用意するよう言いつける。

 「毛布、何に使うんだろ?」

 僕は急いで母屋の台所へ走ると、鍋に牛乳を注ぎ入れながら呟いた。一階のフロアにも、患者用のベッドと、横になるための毛布が用意してあるのに。ちなみに、ホットミルクはあの母親の気持ちを落ち着かせるため、だと思う。甘いものや乳製品は精神安定になるのだと、つい最近教わったばかりだ。

 コンロの火を弱火にし、その足でもう一度診療所に戻り、今度は二階へと駆け上がる。二階には僕の部屋と書斎のほかに、医薬品や毛布などをしまっておく倉庫がある。そこから最近干したばかりの毛布を持ち出して、もう一度下に降りた。先生は、ベッドに仰向けに寝かせた子供の胸に、聴診器をあてて胸の音を聞いていた。

 「呼吸の音が綺麗だから、肺炎じゃないですね。子供は夜中に突然熱出したりすることは結構にあるし…念のために座薬を入れて、ここで少し様子を見ましょうか。」

 その瞬間、子供は火が付いたようにわんわんと泣きだした。先生はよしよし、とその赤い頬を人差し指でつつく。

 「それだけ泣く元気があれば大丈夫だ。」

 僕は、その様子を見ながら、やっと先生が毛布を用意するように言った意味を理解した。急いで出て来たのだろう母親は、薄いカーディガン以外、何も羽織っていなかった。僕が後ろからその肩を毛布で巻くと、母親は申し訳なさそうに頭を下げる。

 「あ、鍋。」

 そろそろ煮たつ頃…だと思う。僕はまたもや、急いで診療所を出た。

やがて、僕が差し出した甘いホットミルクで落ち着きを取り戻した母親は、三十分程診療所で仮眠を取ったのち、熱の落ち着いた子供を抱いて帰って行った。陽が白々と明け始めた頃のことだ。何度も何度も頭を下げていたようだったが、治療費のことではいささか揉めた。それでは困ると母親が抗議しているのに、先生はまったく聞く耳を持たなかった。

 「いいんですってば。」

 先生はまたもやしれっとした表情で答える。

 「ウチは誰からも治療費貰ってないから。」

 正直、これには僕も驚いた。何時に誰が来ても、どんな症状でも、設備が可能な限り先生は診察をしている。専門が精神科だという事実を疑いたくなるほどだ。しかし、本人はそのことで儲ける気は無いという。先生曰く、死んだ人間より生きている人間が大事…とのこと。確かに、この間の老婦人のごとく、彼ら亡者が置いて行く金貨の枚数は、一度にかなりの額に達する。僕も含めて三人での生活はごくシンプルなものだったし、差し引いた額を町の住人のために使うのは、間違いでは

ないだろう。


 「んー…。」

 僕がようやくうつらうつらし始めたのは、周囲がすっかり明るくなってからのこと。座っていた受付用のイスと机に、ちょうど陽の光が当たって心地よい。

 「眠い…。」

 先生には部屋に戻って寝直していいと言われたけれど、もう一度布団に入ったら、きっと昼まで寝過ごしてしまいそうな気がする。そんなとき、誰かが僕の眉間をつい、と指で押した。ハッと目を開けると、僕の目線まで屈みこんだイチカさんが、朝ごはんですけど…と微笑む。

 「ちょうど、八時半から小麦市なの。」

診療所を出ながら、イチカさんが言った。

「悪いんだけど、食パンが一斤欲しいの。お使いに行って貰えないかしら。」

 小麦市とは、市場通りで午前中に開かれている市のことで、名前の通り、小麦粉やパン、パスタ、麺類、などが並ぶ。大体三時間ほどで終了し、店主たちは見事な手際の良さで片づけを終了させ、あっという間に立ち去ってしまう。そして、今度はまた別の種類の市がたつ。そうして、その日その時間によって様々な市場が開かれるのが、市場通りの名前の由来だ。時間さえ逃さなければあらゆるものが手に入るので、路地裏の住人たちも多く活用している。

 「そうそう、それから、パスタを一袋。陸の好きなやつでいいから。昨日買ったトマトがあるでしょう、あれを…。」

 そう話す後ろ姿は、相変わらず細い。薄い春物のセーターに、スリムパンツを履いて僕の目の前を歩いているが、本当にその場に存在しているのかと思う程、足音が静かだ。

 「イチカさん、あれ…。」

 渡り廊下を歩く途中、池の端にしゃがんで金魚を覗き込んでいる一人の女の子がいた。ピンクのスカートに薄いセーターを着ている。

 「おはよう、どうしたの。」

 イチカさんが声をかける。

 「…転んだの…。」

 顔をちょっとだけあげて、小さな声でそう答えた。表情が暗い。

 「どこか痛いの?先生に診てもらう?」

 「膝…擦り剥いちゃった。」

 女の子はそう呟いたけれど、スカートから見える膝には怪我をした跡はない。

 「陸、私はちょっと自分の部屋に行ってくるから、診療所に連れて来てあげて。」


 「どっちの膝をすり向いたの?」

 ソファに座った女の子に僕が聞くと、かすれた声で、右…という返事が返ってきた。でも、正直右の膝に怪我をした様子はない。

 「そっか…どこで転んだの?」

 「…。」

 床につかない両足をぷらぷらさせるだけで、少女は何も答えない。それを見て、何だか妙な気もちになった。こんな朝の時間に一人でいるのも、不思議である。一体どこから来たのだろう?ちょっとした怪我なら家で絆創膏を貼ってもいいのに。

 「はい、お待たせ。」

 再び診療所に入ってきたイチカさんは、チョコレートの赤い缶を手にしていた。そして、ソファの前に屈みこむと、もう一度僕と同じ質問をする。

 「どこが痛いのかな。」

 「…左の膝…」

 僕はかくっと肩の力が抜ける。さっきは右と言ったのに。

 「そう、じゃあ消毒しましょうか。」

 それだけ言って、脱脂綿で左の膝を拭うと、赤い缶からハート形の大きなシールを取りだした。ピンク色の、女の子が好きそうなデザインだった。

 「はい、ばんそうこう。可愛いでしょう。」

 そう言って、消毒したばかりの場所に貼りつける。

 「痛くなくなったら、自分で取ってね。」

 女の子は、かすれた声で、ありがとう…と呟くと、ひょいとソファから立ち上がった。

 「そうそう、おばさん、お願いがあるんだけどな。」

 イチカさんにそう言われた女の子は、不思議そうな顔をして彼女を見つめ返した。

 「春になるとね、海岸に空色の貝殻が転がっていることがあるの。手の平に乗るくらいの大きさなんだけど。」

 女の子はその話を黙って聞いている。イチカさんは、どうして急にそんな話を始めたのだろうか。

 「おばさんそれが欲しいんだけど、時間があったら探して来てくれない?あ、海の中や波打ち際にはいないのよ。水から離れた場所の、乾いた砂の上に転がっているの。」

 「うん、いいよ。」

 女の子は膝に張ったシールを見ながら、先ほどよりも大きな声でそう答え、やがて診療所を出て行った。

この町の近くには、海があるのだろうか?


 朝食後に病院を出て、細い道を縫うように進んだ後、青いレンガ造りの二階へあがる。そこは観賞用の水草を取り扱う店が五、六軒も入っている。どの水槽を覗いても青やグリーンの光ばかりが目立ち、動物の気配がない、美しいけれども気味の悪い場所である。そのフロアの真ん中を突っ切ると、ある扉が見えてくる。それを開けると、橋のような通路がある。それを利用して隣のコンクリート製の建物の二階へ移動し、古ぼけた絵ばかり飾っている画廊から、螺旋階段を一階まで降りる。

 ああ、なんて複雑な町なんだろう。食パンとパスタを買うだけなのに。

 ここでため息を一つついて、僕はポケットに入れた方位磁石を取り出してみた。大丈夫、ちゃんと市場通りに出る方向に進んでいる。 それにしても…と、町の下を通る地下通路に降りながら、先ほどのことを考えた。それは、膝にシールを貼って貰ったあの子のこと。

 あの子は生きた人間なのだろうか?

そもそも、生者と亡者が同じように存在するのなら、その二つはどうやって見分けるのだろう。何か、特別な印があるとか?あえていうなら、あの独特の甘い匂いとか…?

 やがて地下通路に明るい光が差し込み、僕は地上へ出た。とたんに生気に満ちた雑踏と賑わいが聞こえて来る。それぞれの店名を印刷した小さな露店が立ち並び、パン、製麺、焼き菓子、ケーキの材料、おおかた女性が喜びそうな品物がそろっている。その中かから、ナッツの混じった食パンを一斤買った。そして、ようやくパスタを取り扱っている露店を覗き込んだ時、お店の人が陸の顔を見て、驚きの声を上げた。

 「あら、あなた今朝のっ?」

 赤いエプロンに三角巾をかぶったその女店主は、まぎれもなく、早朝に子供を抱えてやってきた、あの若い母親だった。これには陸も驚きを隠せない。こちらが間抜けな顔で口を開けていると、本当に助かったのよ、ありがとう…と、その人はもう一度頭を下げる。

 「ホットミルクも美味しかったわ。ええと、あの病院の先生の…息子さん?にしては大きいわよね。甥っ子さんかしら。」

 陸は曖昧に返事をした後、助手なんです…とだけ答える。

 「それにしても凄い偶然ですね、ええと、もう娘さんは大丈夫ですか?」

 「おかげさまでもうすっかり。あんなに大騒ぎしたのにね。でも、念のために知人に預けて来たの。いつもは連れて来るんだけど。」

 それなら良かった。帰ったら先生に話そう。

 「今日はお使い?どんなパスタを買いに来たのかしら。」


 ああ、重い…。食パン一斤に、紙袋どっさりのペンネ。そして複雑な道のり。診療所の庭先に帰った時には、陸はすっかりへとへとだった。時刻は…十時ころだろうか。診療所に診察中の札がかかっているところを見ると、先生はカウンセリング中のようだ。

 「しまったなァ…叱られないかな。」

 別に悪いことをしたわけではないのだが、何だか申し訳ないようなことをした気分…。実はこのパスタ、今朝のお礼にと、タダで貰ってしまったのだった。一応断ったのだが、結局は押し切られてしまった。困ったな…と思いながら敷地の門を通った時、自分の足元にぬっと大きな真っ黒い影がさし込んだ。

 「おい。」

 その、どすの利いた良く通る声に、陸は思わず、びくりとなる。おそるおそる振り返ると、そこには先生ほどに背の高い、真っ黒な服を着た人物が立っていた。

「なんだ、お前は」

 突然、何だお前はと言われても困る。

 逆光になっていて見にくいが、その男はどう見ても堅気の人間には見えなかった。春の陽気がうららかだというのに、全身真っ黒なスーツに黒い帽子、革のトランク。おまけにサングラスまでかけている。眉間に深い皺を刻みながら、鋭い眼でこちらをじっと見つめ、患者か、と聞いた。そういう本人はどう見ても患者には見えない。

 「あ、いえ、違いますけど…僕はここの、せ、先生の助手で…。」

 すると、男は喉の奥でふん、と小さく言って僕を追い越し、庭へと入って行った。慣れた足取りで、庭に置いてあるテーブルにどっかりとトランクを乗せ、足を組んで椅子に座る。帽子をとると、見事なスキンヘッド。

 「あの、どちら様ですか?先生を知ってるんでしょうか?今診察中なんですが…」

 男はその質問に答えないまま、もう一度サングラスの奥から、こちらをギロリと睨んだ。

 「それなら、その診察が終わるまでここで待っててやる。だから今すぐ歯車に伝えろ。いい加減払うもんを払って貰わねぇと困るってな。」

 男はそれだけ言うと、僕から目を離して、煙草を口の端に咥えた。懐からライターをとり出して、その先端に火をつける。

 こ、この人もしかして、借金取りじゃ…。

 二,三歩よろよろっと後ずさった僕の腕から、乾いたペンネがばらばらとこぼれ落ちる。

 「おい、なにか落ちたぞ。」

 ドスの利いた声でそんなこと言われたって、怖いだけだ。それに今、僕の頭の中では、前に先生が言った、『僕はこれで素行が悪いからさ』という言葉がぐるぐると回っている。きっと、お酒を飲んだ勢いで賭け事にでも手を出したのかもしれない。確かに、あの先生は見た目こそ弱そうだけど、ヤクザでもチンピラでもビビらない感じがある。

 僕は、落ちたパスタには目もくれず、一目散にその場をかけ出した。その後ろでは、紫の煙を不味そうに吐き出したその男が、面倒臭そうに芝生の上に屈みこんでいた。

 僕はひとまずキッチンに駆け込み、イチカさんに事情を話してペンネと食パンを渡した。

 「こんなにくれたの?しばらくは持つわね。それより、青い顔してどうしたの。」

 ここで、僕はあの怖い客人のことをぐっと飲み込む。とにかく先生に伝えるのが先だ。不思議な顔をしているイチカさんをキッチンに残し、踵を返して診療所へ向かう。

 しかし、扉を開けた先には、さらに奇妙な光景が広がっていた。

 ソファの前には、いつも通りのテーブル。その上に乗せられているのは、ドーム型の銀食器。レストランなんかで、料理にかぶせて使うやつだ。先生はそのドームのてっぺんにあるつまみを持って、意気揚々と持ち上げる。ふわりとした湯気が立ち上り、中から大ぶりの鳥の丸焼きが姿を現した…のだが、僕の鼻には何の香りもしない。

 「さて、心ゆくまで食べなさい。」

 先生がそう言うと、向かい合って座っていた男性が、素っ頓狂な声を上げて、素手のまま、その肉にかぶりつく。四十代くらいの、痩せこけて顔色が悪い男性だ。口のまわりが汚れるのも回りに飛び散るのも構わずに、肉に食らいついている。その様子は、あまり見ていて心地よいものではない。先生はというと、平然とした顔で、いつもの白衣姿をきて、その様子を観察していた。

 「あの…これは、どういう…。」

 僕が近づいて行って小声でそう尋ねると、先生はあけすけな口調で、食に未練があるらしいね、と答えた。

 「それよりどう、この銀食器。」

 そう言って、例のドームをこちらに見せる。

 「ひ、拾ったんですか?」

 「もちろん、買うわけないだろ、こんな高いの。」

 「拾った食器なんか、嫌だなあ僕…。」

 「当たり前じゃないか、実際の食事には使わないとも。だからこうして治療用にしてるんだ。」

 「じゃあ、あの鳥の丸焼は幻ですか。」

 なるほど、だから何の香りもしないし、周囲が汚れたって構わないのか。

 「とにかく、ご馳走が食べたくて食べたくてしょうがないんだってさ。ご馳走依存症とでも言うのかな…。まあ、すでに肉体もないし、食べ物も本物じゃないんだし、ここでいくら食べたっていいんだけど…。」

 だからと言って、いつまでもこうしているわけにもいかない。他に患者さんも来るし、どうすれば過食が収まるのか、調べなければ。

 「ちがう…。」

 あっという間に鳥一羽を骨だけにしてしまったその男性は、そう呟いた。

 「これじゃない…これじゃないんだ。こんな、こんな料理じゃないんですよ、先生」

 先生は、ゆらっと首を傾ける。

 「僕の想像できるご馳走は出したんだけどね、肉料理、魚料理、山菜…。そもそも、あなたの場合、食欲を満足させることが目的じゃないんですよ。心の中にある満たされない欲求が何なのか、それが問題なわけです。」

 そう言いながら、先生は皿にのこったバラバラの骨を隠すように、銀のドームを被せた。

 「それじゃあ、こんなのはどうかなー…。」

 そう言って再び、つまみを握ってドームを開ける。そこには採れたて、茹でたてのトウモロコシ、ブロッコリー、ジャガイモにサツマイモ、青青としたアスパラガスまである。

 「採れたて新鮮温野菜、ペンネとタルタルソース付き。」

 僕には十分美味しそうに見えるのだが…きっとイチカさんも好きだろう…男性患者は微妙な表情で首をかしげる。

 「我がまま言わないで食べなさい、美味しいから。何がきっかけで解決するか分からないんだし…」

 先生のそんな説得を遮るように、僕はああっと大きな声を出した。

 「ペンネ!忘れてた!」

 先生がキョトンとして僕を見る。患者はすでにこちらに興味はなく、一心不乱にトウモロコシにかぶりついていた。それをいいことに、僕は先生を問い詰める。

 「か、賭け事に手を出しましたね?しかも負けたでしょう!お、表に…ヤクザが…。」

 突然何言ってるんだ陸…と先生は訝しげな声を上げる。

 「そんなことあるわけないだろ。」

 トウモロコシを食べ終えた患者は、こちらのそんなには目もくれずに、次はサツマイモを片づけ始めている。水が無くて食べにくくないのだろうか。 

「僕はこれまで一度だって負けたことなんかない。困るなァ、見くびって貰っちゃ…。」

 で、ヤクザが何だって?と、先生は欠伸をしながら聞いた時、患者はいよいよペンネに取りかかり始めた。そのときの時刻はまだ、十時半。なんだか、長い一日になりそうだ。


 「何だ…誰かと思ったら青じゃないか。」

 先生は、診療所から庭に出るなり、つまらなそうに言った。目線の先には、相変わらず口の端に煙草を咥えたままのあの男が、どっぷりと文庫本を読み耽っていた。正直、ものすごくに合わなかった。そしてテーブルの上には、僕が先ほど落としたはずのペンネがちゃんと拾い上げられていた。

 ちなみに、あの厄介なご馳走好きの患者は、また明日来るようにと言って追い出した。追い出した、という表現はあまり良くないが、いつまでもああしていられるのも、困りものだ。亡者は帰る家を持たないのだから、きっとこの町のどこかで一晩を過ごすのだろう。

 「『何だ』じゃないだろうが、ヤブ医者め。」

 青、と呼ばれた男はそう言って先生を凄む。

 「お、言うじゃないか。借金取りのヤクザのくせに」

 「黙れ。いいからさっさとツケを払え。こっちも商売なんだぞ。」

 そんな軽口をたたきながら、先生は男の向かい側に座る。僕は先生の一メートル後ろで、何が起きているのか分からずにいた。ツケを払う、って何のこと?

 「あー…陸、こっちにおいで。はは、この人は見た目こそ怖いけど、ヤクザじゃなくて、薬売りの篠澤青さん。ウチで飲み薬を出す時には、この人から仕入れたものを渡すことにしててね。薬草を粉にしたやつなんだけど。」

 で、いくらだっけ…と言いながら、ウチポケットからガマ口を取りだした。男に言われるままの金額をポンと支払う。

 「この間薬を買った時、ちょうど持ち合わせがなくてさ、ツケておいて貰ったんだ、すっかり忘れてた。」

 男…青は代金を懐にしまいながら、トランクから紙袋を取り出して、テーブルの上に置く。先生は中身を確認した後、よしよし…と受け取った。

 「なあ、お兄さんは元気?最近ウチに来ないんだけど。」

 すると、青の眉間のしわが少し緩む。やがて呟くように、兄はもう来ない…と言った。

 「他の仲間から出入り禁止にされたんだ。兄は最初の頃、この町に出入りするのはアンタの顔を見るためだと周囲に話していたようだが?」

 そうだね、と先生が答える。

 「僕にもそう言っていた。この路地裏に来るのは、僕の顔が見たいからだって。でも本当の目的は他にあったみたいだ。僕にもすぐわかったよ。『あの掟』を破ったら、しばらくは亡者の匂いが取れないから。」

 ああ、と青は低い声で頷く。

『あの掟』って何だろう?亡者の匂い?それって、あの果実が熟した匂いのこと?

 そこへ、初夏の匂いを含んだ強めの風が、どっと庭を通り過ぎた。青の煙草の先にあった灰が、はらり、と落ちる。

 「まぁ…お久しぶりです。来ているなら教えてくれれば良かったのに。」

 いつの間にか…本当にいつの間にか…僕らの傍らに立っていたイチカさんが、にこやかにほほ笑みながら、テーブルの上に灰皿を置く。歩く音も静かだけれど、神出鬼没と言うか…なんというか…。

 青はぐっと目を細めて彼女を見上げると、どうも…とだけ言った。やがて彼女は、先生が先ほど買った薬草を持ち上げて、ゆっくりして行って下さいねと、母屋へ戻る。

 「変わらないな。」

 え、何が?と先生は微笑む。青は先生の目

をじっと見返したまま、視線を離さない。

 「お前の女房…いつ会っても変わらない。」

 先生はその言葉に、伝えておくよ…とだけ言って笑った。僕はその表情を見て、心の隅っこに、ほんの少し冷たいものを感じざるを得なかった。それはたった一瞬のことだが、口の両端を釣り上げるようにして笑ったその感じが、どうしても怖かった。

 「どうした、陸?」

 そう振り返った先生の顔はいつもと同じ。

 「え?あ、僕…お茶を貰ってきます。」

 

「おい…あの子供はなんだ?」

 走って行く陸の背中を見ながら、青が言った。歯車は、言っておくけど隠し子じゃないぞ…と答えた。

 「面倒臭ぇな…んなこと言ってないだろ。」

 青はますます眉間のしわを深くするが、歯車は慣れたものである。ケロリとした表情でかくかくしかじかと、陸の事情を説明して見せた。

 「記憶を取り戻す方法ってさ、具体的なものはないんだ。だから、まあ、色々とやらせてみようとは思ってるんだけど。」

 「ふん、白々しいな。本当は分かってるんだろう。」

 「何が?」

 とぼけんな…と青は短くなった煙草を揉み消した。

 「あの子供の正体。」

 それ、この町の婦警にも言われたよ…と、歯車は人差し指をたてて見せる。もちろん、内緒…と言う意味ではない。それを見た青は軽く舌打ちして、自分の煙草を一本放ってよこした。ついでに火も借りる。

 「相変わらず素行の悪い『先生』だな。」

 「君には言われたくないよね。これでも普段はシャボン玉で我慢してるんだ。」

 歯車がそう笑うと、青は馬鹿馬鹿しい、といった具合で、奥歯を噛みしめる。それを見ながら、歯車は煙を吐いた。久々に吸うたばこは上手い…と思いたかったが、いかんせん、この男の吸う者は苦くていけない。

「君のところの薬にはさ、一発で記憶が戻るようなものはない?」

 「あるわけないだろ。健忘症に聞く奴ならあるけどな。薬で何でも解決できるなら医者は要らないんだ。」

 そう、その通りだ。記憶は簡単に戻るものではないし、戻って貰っては困る。もうしばらくは、あの子を手放すわけにはいかない。

 「仕事はどうだ。」

 ゆるゆると流れいく雲を見つめていた歯車に、青が尋ねる。

 「ま、そこそこに順調かな。君こそどうなんだ、旅暮らしは疲れるだろう。」

 俺のことはいい、と青は吐き捨てる。

 「それよりな、死人相手に商売することを、不謹慎だと思わねぇのか。」

 そりゃ思うよ…と歯車は煙草の残り火をじりじりと揉み消しながら答えた。

 「しかしね、どうせあの世に金品も未練も持ち込めない。だったらここに全部置いて行けばいい。それだけのことさ。」

 未練か…と、青は足を組み直した。また、風が吹き抜ける。

「あの女房を…手離す気はないのか?」

すると歯車は、誰がそんなことするもんか…笑った。

「なぁ、青。何度も言うけど僕らは夫婦なんだ。どうなったって、一緒にいるのが当たり前だ。」

 青はその言葉に、サングラスの向こうで、ギュッと目を瞑る。ひと呼吸置いて、物悲しそうにため息を漏らした。

 「俺はお前にために言ってるんだぞ。」

 青という男は、陸が勘違いしたように、一見して堅気の人間には見えないが、その中身は真面目で優しい。歯車は、分かってるよ…

とだけ答えておいた

 

僕がようやく、庭のテーブルにコーヒーと砂糖壺を置いた時、灰皿の中には吸い殻が三本あった。もちろん、一本吸い終わるのにどれくらいの時間を要するか知らない。でも、少なくとも青一人で三本も吸う程、自分は時間を開けただろうか…?

 「もしかして先生…。」

 青は黙ったまま、砂糖なしのコーヒーをすすっている。先生はいつものように首を傾けると、よしてくれよ…と言った。右手で砂糖壺から角砂糖を三つ取り出し、二つをコーヒーに放り込む。

 「僕が煙草なんか吸うわけないだろ。」

 残った一つはそのまま右手で弄び、左手でゆっくりとコーヒーをかき混ぜる。

 「これは全部青が吸ったんだ。」

 そう言われて青の方を見たが、サングラスのせいで表情がよくわからなかった。

 先生がようやくコーヒーを口にし始めたころ、青は、また来る…と立ち上がった。

 「もう、帰るんですか。」

 青はそれには答えず、帽子をかぶり、足もとにあったトランクを持ち上げた。

 「あの、青さん…。すみません、僕…失礼なことを言って。」

 すると、それに応える代りに、彼はこんなことを言い残した。

 「図書館に行ってみろ。」

 「え…。」

 「この病院の持ち主は新聞なぞ読まないようだが、図書館にいけば数年分保管されている。お前に関わりがある記事が見つかるかもしれない。」

 その瞬間、どこかでボロリ…と何かが潰れる音がした。それは、粉々になった角砂糖が、先生の手から崩れ落ちる音だった。

 昼食は、濃厚なトマトソースがかかった、ペンネを食べた。とろけたチーズとも絡み合って、とても美味しい。

 「なあ、イチカ。」

 いつもと同じように、一つのペンネ(チーズなし)を二つにも三つにも切っていたイチカさんが、黙って先生の顔を見つめ直した。

 「図書館はどっちの方向だったかな。」

僕は、そっと隣に座っている先生の表情を盗み見る。表面上はいつもと変わらないように見えるけれど、もしかして苛立っている?

 「そうね…小さいのが何軒かあったと思うけど、でも…。」

 先生は、僅かに首をひねって、窓の外を見る。先ほどまでの天気の良さとはうって変わって、今にも降り出しそうな空模様だ。心なしか、窓から入ってくる空気にも、雨の匂いが混じっている。

 「この暗さだと、雷が鳴るかもしれないね。陸、出かけるのは、少し待った方がいいかもしれないな。」

 何の本を借りるの?と、イチカさんが僕を見て言った。

 「ええと、新聞を見てみようかなと。青さんが、僕のことが何か分かるかもしれないって。」

 それに学生服を着ていた以上は、記憶が戻って学校へ行くようになった時のことを考えて、本の一冊も開かねばならないだろう。

 「先生の書斎のね、窓側にある本棚の、一番下の列を探すと、素肌に毛皮を着た美女の写真集が出てくるわよ。『オカ・リナ』っていう題名の。」

 イチカさんの突然の言葉に、僕は思わずせき込みそうになる。

 「十代を前にしてそんな表現はきわどいと思うよ。」

 先生の言葉に、だって本当でしょ、と澄ました顔でイチカさんが答える。

 「そもそも、何で君がそんなことを知ってるんだい。」

 「私は何でも知ってるの。」

何やら、ハラハラする空気をまとった昼食を終えた後、先生は客人があったので診療所へ。イチカさんは居間で、午前中のうちに取りこんだ洗濯物に、アイロンをかけている。僕はソファによりかかるようにして床に座り込み、その様子をじっと見つめている。外の天気は、先生が予想した通り遠雷を響かせながらの激しい雨脚だ。

 「先生はあの体型でしょう…。」

 イチカさんはその細長い指先で、折り紙を折るように、丁寧に先生のワイシャツにアイロンをかけている。その穏やかな光景が、僕をうつらうつらさせた。朝からの疲れと満腹感のせいだと思う。激しい雨音も、今となっては、耳を安心させる。

 「白衣とかジャケットとか、合うサイズが見つからないの。」

 夢見心地の僕に向かって、イチカさんはひとり言のように言った。そのせいか、僕の眠気は一瞬遠のき、代わりに、僅かな切なさをもたらした。もし、僕に記憶があったなら、アイロンをかけているイチカさんを見て、母親みたいだとか、姉のようだとか、そんなごく当たり前の感情が持てたはずだ。でも、今の僕には、思い出す存在も、懐かしむものも、何もない。そのことが無性に寂しかった。

 イチカさんは続ける。

 「そんなだから、一度気に入ると、洗わずにずーっとそればっかり着るの。ジャケットはまだしも、白衣はやめて欲しいな…。」

 そう言いながら折りたたんでいるのは、妙に丈の短い白衣である。

 「どうしたの陸、そんな顔して。はい、これはあなたのぶん。普段着の上にこれを着ていたら、患者さんたちもあなたが職員だってわかるでしょう。」

 え、僕が着ていいんですかと、思わずたたんだばかりのものを広げてしまう。

 「新しいものじゃないけどね、一応手直しはしたから。」


 さっそくその白衣を着て、診療所にお茶を持っていくと、すでに客人はない。先生もいない。しかたなく、お茶を持ったまま、僕は二階の書斎のドアをノックした。すぐにドアを開けて出てきた先生は、なかなか似合うね、と微笑む。

 先生の部屋の中は、古書とインクの混じったにおいがした。本棚の隙間や上、足もとなどに、たくさんのがらくたが置かれてある。

 「これ、みんな拾ったものですか。」

 「そうとも、なかなかいいだろう。」

 何が『なかなかいい』のか良く分からないが、とりあえず一つひとつ、洗って保管されているようだった。その中にはこの間拾ったナイフもある。

 机の上には、カルテや殴り書きのようなメモ、異国の言葉で書かれた医学書のようなものが乱雑に広げられていた。先生はそれをざざっと片づけると、盆に乗ったポットとお茶を置く。僕の目は自然と…その、窓際の一番下の列に目が行く。誓って、別にその、変な意味じゃない。

 「読みたい本があったら持って行っていいよ。」

 これ見よがしに先生がそんなことを言う。読みたい本と言われても、この本棚に入っているものは、ちょっと僕には難しそうだ。

 「ああっ!」

 のんきに紅茶をすすっていた先生が、突然素っ頓狂な声を上げた僕を振り返って、もしかして見た?と聞く。

 「ばっちり見ましたよ。『オカ・リナ』って、猫の写真じゃないですか!」

 その本の表紙を飾っていたのは、スマートなシャム猫。もちろん、本の中でメインとして写っているのも、このシャム猫だ。別にがっかりしたわけじゃない。ただ、この期に及んでイチカさんと先生にからかわれたことに気付いた自分が恥ずかしい。

 「誰も人間の女だなんて言ってないだろ。ああ、もしかして裸に毛皮のコートでも着た女の人でも写ってると思った?馬鹿だな―。」

 僕は丸い頬をますます丸くさせると、改めてぱらぱらとページをめくる。

 「それはさ、愛猫家のカメラマンが自分で飼っている猫を写したもので…人から貰ったんだよ。良かったらあげるけど。」

 いらないです、と言いながら、オカリナを元の場所に戻し、僕は先生の背中に向かって、ずっと気になっていたことを聞いた。

 「青さんてお兄さんがいるんですか?」

 ああ、と先生は思い出したような声を出した。

 「その人がこの街の掟を破ったと言ってましたけど、この町には何か特別な決まりごとがあるんですか?」

 空になったティーカップを盆に戻す先生の手が、一瞬止まった。そして唐突に、ここは特殊な町だろ…と言った。

 「人間と亡者との間にトラブルが起きないようにするための、いわば法律のようなものがあるんだ。」

 先生はくるりと椅子を回転させて、僕に向き直る。

 「『死者を探してはならない』。つまり、家族や恋人や、友人…亡くなった人にもう一度会いたいがゆえに、この町を訪れ、その魂を探し求めてはいけない。青の兄という人は、それを破ったんだよ。昔失くした想い人を、どうしても忘れられなくてね…。それから、『亡者から金品を奪ってはならない』とか、『亡者を辱めてはならない』とかね…。僕はこの診療所で、彼らと普通に接しているけれど、それは、単に僕がそういう役目だから。本来、死者というのは、とても神聖な存在なんだ。」

 そんな決まりがあるんだ、全然知らなかった…先生ももっと早く教えてくれれば…。

 その瞬間、突然ピィィィン、という金属音が頭の中で鳴り響いた。

 「うわっ…。」

 「ん、どうした?」

 「あの、耳鳴りが…!」

 先生はハッとして、周囲を見渡す。

 「まずい」

 「え、まずいって何が。」

 僕も真似して、先生の書斎を見渡してみる。すると、本棚やその中に置かれた書籍、がらくた、先生の机、デスクライト、窓などが、カタカタと小刻みに振動している。

 「え、なんですか、地震?」

 いや違うよ…と、先生がその振動の中、のんびりと立ちあがる。確かに、物は揺れているが、床は揺れていない。窓の外の木々 や隣の建物も何ともない。

 「ウーン…僕何かしたかな。」

 先生がいつものように長い首をひねっている間も、その振動はどんどん大きくなる。やがて机のデスクライトの電球が、パン、と音を立ててはじけ飛び、僕は思わず腕で顔を覆った。そして、書斎のドアがひとりでにバタン、と大きな音を立てて開く…。

 その向こうには、青い顔をしたイチカさんが、まっすぐに先生を見つめて立っていた。

 「あ、イチカ…。」

 椅子が勝手に回転し始め、本棚から勝手に書籍が転がり出たかと思うと、部屋の中をびゅんびゅん飛ぶ。先生はそれを器用によけながら、じっと佇んでいるイチカさんに話しかける。

 「えっと…もしかして怒ってる?」

 「怒ってるわ。」

 部屋の隅にしゃがみ込みんだ僕は、呆然と頭を抱えながら、周囲の成り行きを見守るしかなかった。

 「あー…食事の後片付けとか…」

 「それは私の仕事だからいいの。」

 カーテンが勝手に開いたり閉じたりする、浮き上がったお茶の盆が、僕の頭すれすれに飛んできて、けたたましい音を上げる。壁に掛けてあった先生の上着が落ちる…。

 「こ、こういうのなんて言うんだっけ…」

 イチカさんは瞬きもせずに、黙って先生にジャケットを差し出した。開いたカーテンの向こうで、かっと雷が光る。僕と初めて会った日に、路地で着ていたものだ。

 「襟の汚れが上手く落ちてなかったの。」

 そう話すイチカさんの目は冷たくてまっすぐで、まるでガラス玉のようだった。

 「襟?」

 「汚れと一緒に口紅が付いてたの。言っておくけど私のリップじゃない…。こんな色、持ってない。」

 「あ、それはさ、イチカ…。」

 そう言った瞬間、窓が勝手に開いて、本が三冊と鉛筆が吹っ飛んだ。

 「それは患者さんのじゃないかなー…。前に医院の前で貧血起こして倒れた女の子いただろ?僕が背負って診察室に入れたんじゃなかったっけ。原因はコルセットの締めすぎで、君が服を脱がせたんじゃないか。あの時、そのジャケットを着ていたような。」

 すると、ほんの少しの間をおいて、そう言えばそんなことあったわね…とイチカさんが呟く。すると、空中にあった品物達が突然力を失ったように床へと落ちた。イチカさんの顔にも赤みが戻り、先ほどのような鬼気迫る雰囲気は消えている。

 「もう一度洗い直すから、それまで別なのを着てて…。」

 それだけ言って、イチカさんが二階を降り、母屋へと戻ったのを確認すると、先生は呆然としゃがみ込んだままの僕を見た。

 「な、イチカって恐いだろ。怒るとああなんだ。まあ、大体僕が怒らせるんだけど。」

 これを片づけるのがまた大変なんだよなぁ…と、周囲を見回している先生を尻目に、僕はそろそろと立ち上がり、散乱した書籍やら何やらを踏まないようにして部屋を出た。

 「あの、庭に落ちた物を取ってきますね。」

 背中でよろしく、という先生の返事を聞きながら、そそくさと一階へ降りる。

 なんだ、アレは。怒ると恐い?怖いなんてもんじゃない。僕はてっきり、とんでもないヒステリーを起こすとか、そんな話だと思っていたのに。

 診察室の出入り口でサンダルに履き替えて、外に出ると、いつの間にか雨が止んでいた。雲が切れ、夕暮れ前の日差しが庭に差し込む。雨の匂いが残る空気を吸い込みながら、ようやく飛び出してしまった本とペンを見つけたが、どちらもドロドロだ。

 「あれ。」

 ふと顔を見上げると、門のところに、今朝の女の子が立っていた。雨が止んだことに気づかないのか、傘を差したまま、こちらをじっと見つめている。左足には、まだ例のハートのシールが貼ってあった。

 「どうしたの。」

 僕がそう話しかけても、返事がない。

 「あ、膝…もう大丈夫?」

 女の子は黙って頷くと、履いていた長靴を元気よく水たまりに突っ込みながら、こちらへ駆け寄ってきた。ばしゃばしゃと水音が鳴るたび、丸い雫が周囲に飛んでキラキラと光る。

 「これ。」

 そう言って僕の目の前に、握ったこぶしが差し出された。その中から、巻き貝が一つ転がりでる。

 「おばさんにあげて。」

 それだけ言うと、その子はあっという間に、走り去ってしまった。その表情は、今朝会ったときよりも、ほんの少し晴れやかだった。

 「あ、しまった。何か言うべきだった。確かに渡すからねとか、ありがとうとか。」

 ぶつぶつと独り言を言いながら改めて手の平を開けてみる。すると、それは巻き貝に水色の絵の具を塗ったものだった。

 「貝、見つからなかったのかな…。」

 「いいのよそれで」

 後ろから突然そんな声がした。慌てて振り向くと、女の子が走り去った方向をじっと見つめている、イチカさんが立っていた。

 「あれは私がついた嘘。最初から青い巻き貝なんかないんだもの。」

 そう語るイチカさんの表情には、先ほどのような怖さはなく、いたっていつも通り…。

 「嘘だったんですか、あの巻き貝の話…。」

 すると、後ろ手に隠し持っていた先生のジャケットを見つめながら、ほんのりとほほ笑んだ。

 「あの子、この辺りに住んでいるみたい。」

 その言葉に、僕は内心ぎょっとする。実のところ、生きた人間ではないのでは?…と疑っていたのだ。あの子の前でそれを口にしなくて良かった。

 「ああして、いつも一人で散歩していることが多いの。今朝、この病院に来た時、あの子は誰かに構って貰いたかったんじゃないかしら…。子供って大人からきちんと頼みごとをされると、嬉しいものじゃない?自分が大人に認めて貰えてるって気がして…。」

 でも、その依頼内容が嘘だったら、かえって傷つくんじゃないだろうか…それとも、七~八歳くらいの少女の心理は、また違うとか…?僕のそんな考えを見透かすように、イチカさんはこう話した。

 「人はね、落ち込んだ時とか、寂しい時、自然の中をゆっくり歩くと気持ちが晴れるの。それから、まったく悩み事とは違うことに没頭してみるとか…ね。」

 そう言われて、僕は空を見上げる。雲はすっかりまばらになり、雨上がりの、桃色に近い夕暮れがとても美しい。

 「そうか…今日は午前中天気が良かったから…砂浜で貝殻さがしに没頭したら…少しはさっぱりするかもしれませんね。」

 そう言えば、僕だってあの子の表情が今朝に比べて和らいでいたことに気付いた。

 「でも、きっとあの子は、今朝の私の話が嘘だって、気付いたんじゃないかしら。だから、こうしてわざわざ、偽物の貝殻を持って届けに来てくれたんでしょ。」

 嬉しい嘘を貰ったから、嬉しい嘘でお返しした?首をかしげていたところに、ふわりと大きなシャボン玉が飛んできた。イチカさんが指先でつつくと、ポッと微かな音を立てて、消えた。出所は分かっている。開け放たれた先生の書斎の窓だ。

 「綺麗ね。」

 イチカさんが、雨上がりの庭を見て、ぽつりと言った。風が吹いて、裏返った庭木の葉から雫が散る。いつの間にか、西の空が桃色から茜に変わりつつある。

 「子供は、砂浜を歩くだけで表情が変わる。見慣れた庭だって、雨が降るだけで、こんな風に変わる。そうやって世界は少しずつ、変わって行くんだわ。何だか、寂しいわね」

 僕は、手の中の貝殻を何度も握りながら、そんなことを言うイチカさんを見た。

 「変わらないものも、あると思います…。」

 「そう?そうかもね。でも…」

 再び、二つ三つのシャボン玉が、頭の上から降り注いできた。しかし、今度は風に乗って、飛ばされていく。

 「周りがどんどん変わって行くのに、自分だけ置いて行かれるのは、寂しいわ。」

 その貝殻は、陸にあげる…そう言い残して、イチカさんは母屋へと戻っていく。僕はその後ろ姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

 その夜、妙な夢を見た。

 おそらく、遅くまでまんじりとも出来なかったせいだと思う。何故なら、昼間起こったあらゆることが、いつまでもぐるぐると頭を駆け巡って、体は疲れているのにちっとも眠くならない。ようやくうつらうつらし始めてからは、一日の出来事がごっちゃになったような場面が、繰り返し現れては消えた。

 診療室でたった一人、無心に料理を食べ続ける先生、『掟を破った』のはお前だと怖い顔でにらむ青、抱えていたペンネの袋がどんどん重くなって動けなくなる中、飛び回る本や文房具の中に佇むあの絆創膏の女の子に向かって、こういう現象のこと、なんて言うんだっけ?と尋ねる。すると、いつの間にか少女はイチカさんにすり替わっている。

 ポルターガイストでしょ、陸。

 はっと目を覚ました時は、汗でぐっしょり。何だか、とても怖いものを見たような、妙な目覚めだった。


 「そうだ、今日の市場街は山菜市やるんだってさ。」

 丼の中で大ぶりの梅干しを潰しながら、先生が言った。今日の主食は、パン食の多いこの家にしては珍しく、白粥だった。数種類の野菜の漬物と梅干しと、キノコを甘辛く煮たものをおかずにする。いつも通りの朝、いつも通りの朝食。

 「季節だものね。コゴミが食べたいわ。」

 僕が買い物に行きましょうか…と、人参の漬物をパリパリ言わせながら名乗り出た。すると、あっという間に頭の中の買い物リストがパンクした。

 「小ぶりのタケノコがあったら食べたいなァ。掘りたてだったら、刺身にしよう。」

 「ウドの芽も買ってきて、コゴミとウルイと…それからフキノトウも。天ぷらにしましょう。あら、確か山菜市の後って魚市じゃなかったかしら。鰹節が切れちゃったの。」

 あまり食に関心を示さないイチカさんにしては、珍しい反応だ。


 一時間後、やっと市場の人ごみと迷路のような道順から帰宅した僕を、悪かったね、と先生が迎える。

 「おかえり。頼んだ山菜、ちゃんと分かった?」

 「たけのこ、重かっただろう。」

 わざわざ夫婦二人で出迎えたのを見て、僕はあれ?と声を上げる。

 「先生、昨日の患者さんは…?」

 昨日の午前中にやってきた、あの大食漢の亡者はとっくに予約時間なのではないか?

 「うん、来ない。まだ来ないね。」

 先生曰く、彼らのもつ時間の感覚は曖昧なのだそうだ。

 「あら、ちゃんと買えてるじゃないの。お蕎麦もいいわね、先生好きでしょう、山菜お蕎麦。」

 イチカさんが買い物かごの中身に喜んでいるのを見ながら、先生と一緒に診療所へ向かう。

 「今日はあまり患者さんが来なさそうだから、僕は二階にいるよ。」

 渡り廊下を歩きながら、先生が言った。

 「書斎が昨日のままだからさ、片づけないと…。悪いんだけど、受付に座っててくれないか。」

 僕は退屈しのぎに、今まで先生が診た患者のカルテを読みながら、変な人ばっかり来るなァと、不謹慎にも思ってしまった。二階からは、ガタゴトとせわしない音が響き、あーあ、電球…などという独り言まで聞こえてくる。先生の言うとおり患者さんの来る気配はなく、昨日と打ってかわってのんびりとした時間が流れる。

 そういえば、図書館のことはどうなったんだっけ。イチカさんが場所を教えてくれるんだっけ…?地図ってないのかな?

 ふと庭を見ると、芝生の上にキラキラとシャボン玉が降りて来た。もう片付けるのには飽きたらしい。僕は庭に降りて、窓に向かって、先生、と叫んだ。

 「ああ、僕は断じて、サボっているのでも飽きているのでもないからね。ただシャボン玉をしたい気分なんだ。」

 その言いわけを無視して、僕は地図ってないんですか、と聞いた。

 「この町の地図です。」

 すると、大ぶりのシャボン玉と一緒に、無いな…と返事が返ってくる。

 「結構建物の入れ替わりが激しいんだ。町長さんもすぐに入れ替わるし…あっ。」

 いけない忘れてた、大変だ…と、シャボン玉をひょろひょろと吹きながら先生が言った。ちっとも大変そうじゃない。

 「町内会費払うの忘れてた。」

 「ちょうないかいひ?」

 こんな風変わりな町にも町内会があるのだろうか。

 「陸、悪いんだけど言ってきてくれないか。ついでに、新しく住む人間は町長に挨拶するのが決まりがだから、顔見せて来なさい。」

 町内会費。比較的背の高い建物が立ち並ぶ一角を、道順を示したメモを片手に歩きながら、僕は口の中で呟いた。この町で会費って具体的に何に使うんだろう。

 見上げると、向かい合うビル同士に紐が吊るされ、それに洗濯物がかかっている。大人の服から子供の下着まで様々ある割には、今日も人の姿はない。

 現在の時刻は十二時過ぎ。僕は何とか午前中に部屋の片づけを終えた先生と診療所を交代して、こうして外に出てきた。これほど人に合わないというのに、その町長とやらは、本当に存在するのだろうか…?そんな疑問を抱きつつ、人形修理店の角を曲がったところで、とても奇態な音を耳にした。

 ずる、ぴたぴた、ずるずる…。

 驚いて周囲を見回すと、道の端に置かれた瓶ケースの影に、大きなタコが一匹、身をくねらせていた。それもかなりの大物。こちらに向けて伸ばしている足だけでもかなりの長さだ。僕は思わずげっ、という声を出した。

 「何でこんな所に…。」

 どこかの台所から逃げだしたのだろうか?いや、市場通りでは、山菜市の後、海鮮市が開かれるとイチカさんが言っていたような気がするから、まさかそこから脱出した?そんなことを悩んでいると、タコの持つ袋のような頭と、足の付け根との間にある黄色い眼が、一瞬こちらを見た。

 「う、目が合った…。」

 大きいと言っても所詮はタコである。逃げ脚は人間の方が上…のはず。ちょっとずつこちらに近寄ってきていることに気付かないふりして、僕は足早にその場を立ち去った。

やがて背後にその気配を感じつつその界隈を通り抜けると、ちらほらと商店が目立つ場所にやってきた。居酒屋、客二人が黙ったまま座っているカフェ。その中で、看板に「あかりや」と書かれた店の、木製の扉を力いっぱい押した。古めかしい、ぎりり、という音が響く。昼間だというのに店内は薄暗く、日光の代わりに、天井から下げられた色とりどりのガラスランプが輝いていた。

 店の面積は、この町の建物にしては広い方だと思う。ただ、店の真ん中にどーんと鎮座している巨大なタンクが、その面積の半分以上を使ってしまっている。そのタンクには木製の複雑な部品が組み合わさり、何故か蛇口まで付いていた。一体何に使う道具なのか?そして、壁に取り付けられた棚には大小びっしりと詰め込まれた、電球の山…。巨大タンクのそばには、おおぶりのデッキチェアにどっぷりと体を預けたまま眠りこんでいる一人の女性。頭に古ぼけた雑誌を被っているので、顔つきや表情は分からない。目に痛いほどのピンク色の繋ぎ服を、上半身だけ脱いで腰のあたりで結んでいる。本人は何も気にしていないようだが、その…目のやりどころに困る。何せ、タンクトップしか着ていない上に、かなり大きいのだ、胸が。

 こんにちは…と、自分では精いっぱい大きな声を出したつもりだが、起きる気配がない。

 「ンン…。」

 小さく唸ってこちらに向かって体を向けた。そのとたんに、バサッと雑誌が落ちる。胸の谷間が深くなる。

 「あれ…アンタ何…」

 雑誌が落ちたことでようやく目が覚めたのか、その女性は眩しげな表情でこちらを睨んだ。目鼻立ちのはっきりした、異国の血が混じっていそうな顔つきの美人だった。イチカさんとは、まったく違うタイプ。

 「電球欲しいんですけど…デスクライトの球が割れちゃって…。」

 口を大きく開けて欠伸をしながら起き上り、黒くてまっすぐな長い髪を、ぐしゃぐしゃとかきまわした。

 「白?橙?」

 一瞬の間をおいて、その質問が、電球の色について聞いているのだと分かると、念のために、割れてしまった縁球をポケットから出して見せた。

 「これと同じものが欲しいです」

 すると女性は、デッキチェアから立ち上がって、よいこらしょ…とばかりに、腰に結んでいた上着を着る。身長は僕よりも少し高いくらい。そして僕から壊れた電球をひったくり、大股で壁際まで行くと、その大量の電球の中から、いろいろと吟味し始める。

 「あの、それから…歯車先生に頼まれて、町内会費を持って来たんです。あなた、町内会長さん…ですよね。」

 すると彼女は眠そうな目でその会費を受け取りながら、言った。

 「え、あの細長い先生の知り合い?」

 「はい、助手として働くことになって…。」

 へぇそうなんだ…と、この時初めて町長は微笑んだ。自分ではにっこりしたつもりかもしれないが、なんとなく不敵な笑みだ。

 「あの先生変だよね。でもま、頑張りなよ。電球一個おまけするからさ。」

 「え、でも」

 「いいって。それに、アタシよく飲みすぎるんだけどさ、アンタのところでくれる、粉薬みたいなやつ?二日酔いにきくんだよね。」

 そう言われて、昨日会ったあの強面の薬売りの顔をふと思い浮かべる。

 「このタンクって何に使うんですか。」

 僕がそう聞くと、ようやく電球を選び終わった町長が、手の平の中でそれを弄びながら、当然のように言った。

 「地下から汲みあげた光をためておくんじゃない。そんなことも知らないわけ?」

 地下から光を汲みあげる?僕が訝しげな顔をしていると、町長は例のタンクの蛇口部分にひっくり返した電球の金属部分を差し込み、取っ手を捻る。ガタガタと音がしてタンクに備え付けられた部品が動き、やがて電球がほんのりと光った。

 「それで、ライトが付くんですか?」

 「まぁね。」

 「ふーん…。」

 電球二つ分の充電ならぬ、充光が終わったところで、町長は店の外を指さした。

 「あれ何なの?アンタのペット?」

 そう言われて、電球をポケットにしまいながら外を覗くと、例の大タコがでろんと鎮座していた。

 「うわっ、さっきの。」

 まさかついてきたのだろうか?よう、とでも言いたげに、足の先をちょいちょいと動かして見せているところが、腹立たしい。

 「気持ち悪いからさ、ちゃんと連れて帰ってよね。」

 「えー、でも…。」

 「だめだめ、置いて行かれたら商売あがったりだよ。タコなんて縁起でもない。うちは光屋なんだよ?」

 光を売るのとタコがどう関連するのか分からなかったが、そこまで言われてしまってはどうしようもない。ぬるぬるするのを我慢してくびれのところを掴み、ひょいと持ち上げると、以外にも大人しくなった。僕と同じくらいの大きさがあって重い。すると、何かを思い出したように、口からぴゅっと墨をはいた。ぽたぽたと、道路の上にまっ暗い円が出来る。真っ暗だ。光り屋にとって縁起が悪いってこのことか。

 「まあ、いいや。持って帰って食べよう。」

 町長さんが農作業で使う一輪車を貸してくれたので、ポケットには電球を、一輪車には大タコを…といった出で立ちで、僕はようやく診療所まで帰ってきた。庭先で出迎えた先生は、無表情でじっと僕を見降ろしている。

 「君は奇妙なことをやらかすなあ。どうしたんだ、その一輪車…。」

 奇妙なことをやらかす点に関しては先生には何も言われたくない。

 「先生は中身よりもまず、一輪車の方に疑問を持つんですか?一輪車は町長さんに借りたんです。ちゃんと会費払ってきましたよ。」

 「はは、御苦労さん。町長さんグラマーだったろう。で、そのタコは?」

 「拾いました。懐かれちゃって。」

 そこで再び、大タコはびゅ、と墨を吐く。

 「え、タコって懐くかな?感違いじゃないか?ウチでは飼えないぞ、池は淡水だし。」

 まさか、と僕は首を振る。

 「茹でて食べようと思って。」

 「あー、そうなんだ…入るかなァ、鍋。」


 「先生、やはり、怖くて眠れません。」

 それは、僕が蛸を持って台所に引っ込んですぐ、診療所にやってきた患者だった。亡者でもなければ近所の住人でもなく、生きた人間で、正真正銘の心の疾患を抱えた人。

 「ウーン、睡眠薬をお出ししましょうか?」

 違います、そうじゃないんですと、その人は首を振る。

 「体は睡眠を欲している。しかし眠るのが怖いのです。眠りたくないのです。」

 「しかしそれでは、体を壊しますよ。」

 先生にしては困った様子で話をしている。

 「そのご様子だと、食事もまともにされてないんじゃありませんか。」

 「食事なんか…地に落ちた身で、天と地と水の恵みを欲するなんて。」

 するとその人は、ほろほろと涙をこぼした。先生はソファのひじかけを使って頬杖をつく。どうしたものか…と言った具合である。

 「夕べだってそうだ。先生ごらんになりましたか?月が綺麗だったでしょう?」

 先生は、背後に立っている僕に、そうだっけ?と小声で聞いた。

 「私はそれが恐ろしくて、月光に当たらないようにして震えておりました。明け方、ようやくうとうととして…その後、朝外に出てみたら、墓所中に狐の足跡があって!」

 げっそりとした表情でそう訴える患者は、ぼろぼろの長くて黒い服を身にまとっていた。年齢は、若くはないと思う。腰まで伸ばした髪の毛には白いものが混じり始めている。先生と同じように細身で長身だ。 

「その、ウトウトされている間に、自分が狐になって外を走り回ったのではないかと?」

先生がそう聞くと、彼は黙って頷いた。

 「昨日も、雷が墓所の近くへ落ちました。亡者が私を罰している。私が人ならざる者になってしまったことを、怒っている。私はきっと、生活のどこかで天地の理にそむいたのです。己の欲望に負けたのか、汚れに触れてしまったのか、正直自分でも分かりませんが、とにかくそのせいで罰を受けたんです。」

 まあまあ、落ち着いて…と、先生は僕が持ってきた貝の吸物とコゴミの天ぷらを勧める。

 「この人はどなたですか?」

僕が小声でそう尋ねると、先生は首をひねりながら、実はお坊さんでね…と囁いた

 「この町の墓所を守りながら、お勤めをしている人なんだ。だから当然信仰心が厚いんだけど…。」

 少し厚すぎるのかな…と、先生は声のトーンを落として言った。

 「夢の中で神様から、『天罰として月夜の晩には狐となって野を駆けよ』って言われたらしい。それ以来、月が出ていると、勝手に体が変化する気がして眠れないし、月の光を浴びるのも怖いって。」

 先生は、再びその僧侶に向き直ると、あまり思い詰めないで下さい、と諭した。

 「きっと、墓所についていた足跡は、野良犬か何だと思いますよ。雷だって自然現象ですし、その時の状況によって、自近くに落ちてくることだって、考えられますから。」

 そうでしょうか…と、僧侶は目の前で深々と手を合わせてから吸物を口にした。

「よいものを頂きました。ありがとう。」

 そう言って、その人は僕を見て微笑んだ。

 「夜眠るのが怖いなら、昼間、少しでも仮眠を取られてはいかがですか…。」

 「しかし、日中は墓石の管理やお勤めが。」

 んー…と唸りながら、長い首を曲げていた先生は、では黄昏時にでも…と提案した。

 「黄昏時なら、まだ月も昇り切ってないし、眠るのにちょうどよい暗さです。それに、その時間帯は最も化物が出やすいそうですから、仲間だと思われて連れて行かれるかも。」

 すると、僧侶は真っ青になってそれは困ります、と嘆いた。

 「そうでしょう。家のなかで布をかぶってぐっすり眠るのがよろしいのでは?」

 ね、睡眠薬を出しますから…と先生は宥めるように言い聞かせる。僕は、壁際に置いてあった引き出しから袋に入った粉薬をいくつか取り出した。それにはあらかじめ「眠」と書かれているので、知識が無い僕でも大丈夫。

 「あの、良ければ料理を食べて行かれたら…?ふらふらですよ。」

 僕がそう言うと、僧侶は薬の入った袋を受け取りながら、しかし…と手を振った。

 「そうですよ、揚げ物は生臭じゃないですし、どうぞ召し上がって下さい…」

 僧は二人の申し出を断れない形で、それでは…と遠慮がちに箸を運び始めた。

 「生臭ってなんですか…。」

 僕が思わずそう聞くと、動物のことですよ、と僧が答えた。

 「我々のように墓所に使える者は、肉や魚を忌みます。死んだ御魂が嫌いますから。」

 僧がそう説明して微笑んだ時、突然母屋の方から、ピアノの音が流れ始めた。

 先生が何故かはっとして、その方向を見る。

 「奥様ですか、あの音色…。」

 その質問に、先生はええ、と曖昧な返事を返した。

 「なんとも、温かいようで、悲しげな…。」

 僕もそう思った。まるでオルゴールのような、シンプルな弾き方と、その旋律。懐かしいような、寂しいような。

 「イチカさんて、ピアノ弾くんだ…。」

 そう、そもそも、そのこと自体が初耳だ。彼女の部屋にも行ったことがなかったし、ピアノがある事も知らなかった。

 「陸…。」

 先生は、珍しく神妙な面持ちで立ち上がると、この人を門まで送っていくように…とだけ言い残して、さっさと母屋へ行ってしまう。一体どうしたものか…。いなくなった方角を見つめていると、後ろからご馳走さまですと声がした。またもや深々と手を合わせ、今度こそ立ち上がって出口へと向かう彼の後ろを、僕は追うようにしてついて行く。靴を履き替える段階になって、彼は靴下を脱ぐと、裸足になってそのまま外へ出た。

 「あの、靴は…。」

 「我々は履かないのです。こうして、地面をじかに感じて生きねばならない。」

 「え、だって、痛くありませんか。」

 「それも修行です。草と、土と、岩と、水の流れで我々は生かされている。そして、やがて肉体はそこへ帰って行く。そのことを常に肉体に感じさせておかなければ…おや…。」

 僕の足の裏で、温かな芝生がざわっと音を立てた。チクチクしてくすぐったい。すると、その様子を見てその人は笑った

 「はは…無理はいけません。こんなことは我々だけでいいのです。あなたは先生の甥御さんですか?」

 陸は、門まで一緒に歩きながら答えた。

 「いいえ、身内ではないですが、先生の助手です。」

 「なるほど、良い助手さんを持ちました。」

 彼はそれ以上のことは聞かなかった。その代わり、門まで来た時に、ぽつりとこんなことを漏らした。

 「歯車先生はいい方です。私のように困った者を、いつでも受け入れて下さる。ただ…」

 「…ただ?…」

 僧はふと俯いた。乱れている髪を、初夏の風が揺らしている。その風にのって、ピアノの音が流れてくる。

 「あの方は、とても…罪深い人です。」

 「先生が…罪深い?」

 すると、彼は深く質問されるのを避けるように静かに頭を下げ、帰って行った。


 その日の夕食は、先ほどあの僧に出したものと同じメニュー。つまり、貝の吸物に、山菜の天ぷらだ。イチカさんは、珍しく箸を進めている。といっても普通の人の何分の一しか食べていないが。僕も、おそらくは、初めて食べるだろうコゴミを口にする。形はワラビに似ていて癖がなく、ほのかに甘さがあって美味しかった。先生は筍の刺身が食べたかったようだが、えぐみが強くて無理だったので、ワカメとの煮物になった。それから、例の出所不明の蛸。塩ゆでにした後は、ドレッシングで野菜と合えて、サラダにした。こちらも、美味しい。

 イチカさんは、その蛸が、赤く茹で上がったのを見た時、生きているのが見たかったと悔しそうだった。しかし美味しそうだという言葉はなく、サラダも野菜だけを食べている。そして、吸い物の代わりに、先ほどから何杯もの水を、美味そうにガブガブと飲み続けているのだった。どの料理が塩辛いという訳でもないのに、どうしたものか。

 先生は、表面上は僕と同じく山菜を堪能していたようだが、イチカさんの様子に関しては、触れようとしない。先ほどピアノの音が聞こえた時、先生は母屋へ行ったけれど、一体何を話したのだろう。

 先生は、罪深い方です。

 ふいに、先ほどの言葉が思い浮かんだ。

 神や死んだ御魂は、肉や魚を忌むものなのです。

 イチカさんが、再び水差しからカップに水を注ぐ。氷がカランと音を立てる。その清々しい音とは反対に、僕の心の中はもやもやしていた。何か…すっきりしない何かが、この家の中にある気がする。


 「よし、ぴったり。」

 先生が、僕が買ってきた電球をデスクライトにはめ込んで、スイッチを入れた。ちゃんと、明かりが付く。周囲を見回すと、一応片付けは終わっていたようだったが、本の並びがめちゃめちゃのままだった。とりあえず押し込んだだけって感じだ。下の診療所はすでに片づけを終えて、鍵を閉めて来た。今日作った分のカルテは先生の部屋に持ち込まれている。後から聞いた話では、僕が町内会費を払いに行っている間に、亡者を一人、治療したらしい。しかしそれは女性であり、結局昨日の亡者は姿を見せなかったそうだ。

 「ところで、イチカのことなんだけど…ちょっと君に相談したいことがあって…。」

 部屋の中にあった小さな椅子に僕を座らせると、改まってそんなことを言う。しかし、自分から切り出した割には、なかなか話を進めない。

 「実は、彼女にも疾患があってね…。普段何でもないように暮しているんだが…。」

 その想像もしていなかった言葉に、僅かな衝撃をうける。食後に見た、鼻歌を歌いながら洗い物をしている彼女の横顔を思い出した。

 「病気…って心の?」

 そう…、と先生は頷いた。むやみに心臓がどきどきする。緊張感のような、不安感のような。もしかして、普段全然食事を取らないのは、ベジタリアンでも小食でも無くて、拒食症とか…?

 「彼女は…簡単に言うと、逃亡癖がある。」

「とうぼうへき…?」

 先生は足を組み変えながら説明する。

 「時々…発作的にこの家を出て行ってしまう。本人いわく、突然ここではない、どこかへ…行かなければならないと…そんな強い思いに駆られるんだそうだ。」

 どこかって…家はここにあるのに?

 「本人も、どこへ行くべきなのかは分からないらしくて…これが結構、大変なんだよ。前に、僕が気付かないうちに家を抜け出して、この入り組んだ路地裏の街に迷い込んで、帰って来られなくなって…。」

 イチカさんが…あの、イチカさんが…?

 僕がずっと見ていてあげられれば、いいんだが…と先生は首を曲げる。

 「そうはいかない。君も分かると思うけど、ここには何時でも患者が来る。生きている者もそうでない者も。僕は彼らに合わせなくちゃならない。その間にもし彼女が行ってしまったらと思うと、気が気じゃない。ただ…。」

 「ただ…?」

 「彼女の逃避行には、前触れがある。それが、例のピアノだ。もともと弾くのは得意なんだが、発作が起こりそうになると、決まって先ほどの曲を弾く。」

 あの、切ないような懐かしいような、単調なメロディ。あれはなんていう曲だろう。

 「それから、水だ。飲む量が異常に多くなる。逃亡癖と一体何の関係があるものだか、僕としても、ずっと考えているところだ。そこで…君に協力してほしい。」

 「え…僕に…?」

 「彼女は、一度家を出ると言ったら、どうしても出なければ気が済まない。僕が何を言っても聞かない。だから…もし、僕の手が空かない時に、彼女が行動を始めたら、一緒について行ってやって欲しい。」

 「一緒にですか?僕で大丈夫なんですか?」

 それは、とてつもなく不安な仕事だった。あのイチカさんに、誰の言葉も届かなくなるなんて。それだけでもショックなのに。

 「大丈夫、行くなとさえ言わなければ、言うことは聞くはずだ。つまり…あんまり遠くに行き過ぎないようにして欲しい。そうすれば、後は満足してここへ帰ってくる。」

 僕は、ハァ、としか答えられない。もちろん今の話が本当なら、先生としてみれば、僕にそう頼みたくなる気持ちも分かる。

 「分かりました…。それじゃあ、なるべく、イチカさんに注意を払っておきます。」

 「悪いね、妙な仕事を…。」

 いいえ、と僕は首を振った。断ることは出来ないし、イチカさんがいなくなるのは、もっと困る。

 「それじゃあ、最後にもう一つ…。この『路地裏の街』の奥には、行かないようにしてくれないか…。前に話したように、ものすごく入り組んでいるから、道に不慣れな君とイチカじゃ、きっと帰ってこられなくなる。僕だって、あの辺りはあんまり歩いたことがない。迎えに行って探し出す自信が持てない。」


 翌日眼が覚めたのは、随分早い時間だった。季節柄、夜明けの時間が早いらしく、すでに建物には陽が差し込んでいた。着替えて下の階に降りると、さすがに先生の姿はない。母屋の方に行っても良かったのだが、何となく診療所の鍵を開けて靴に履き替え、外へ出た。ちょっと、雲の量が多い気がする。もしかしたら、このまま曇るかも…。

 そんなことを思いながら、外にある小さな水道で、ざぶざぶと顔を洗う。ああ、しまった何か拭くものを持ってくるんだった。仕方なく両手で水を拭い、何となく伸びて来たような気がする髪の毛をかきあげる。

 実は、夕べ布団に入ってから眠るまでの間、昼間見聞きしたことについて、色々と考えてみた。特に、イチカさんのこと。『ここではないどこか』って、どこ?いや、そもそも、イチカさんはここに来る前どこにいたんだろう。先生だってそうだ。最初からここにいたわけじゃない。

 「んー…?」

 そういえば僕は、最初に彼女と会った時から、何か、小さな違和感を覚えていたのではなったか?熱が下がって目を開けた時、イチカさんはベッド近くの丸椅子に座って本を読んでいた。でも、あの時は確かに、一瞬前まで、椅子には誰も座っていなかったはずだ。

 同じことは他にもあった。

 青が薬を置きに来たとき、彼女はいつの間にか灰皿を持って僕らの脇に立っていた。あの時、歩み寄ってくる気配も、母屋から人が出た気配もなかった。もちろん、僕が気付かなかっただけ、と言うこともあるけれど。

 「……。」

 神や墓所に使える者は、肉や魚を忌む。死んだ御魂が、それを嫌う。これは、昨日あの変わった僧侶から聞いた言葉。確かに彼は、吸物の汁を飲み、山菜も食べたが、具の貝は食べなかった。

 『イチカはベジタリアンな上にものすごく小食なんだ。』

 これは最初の日に、先生が言った言葉。 「………」

 まさか、まさか…イチカさんは…。

 脳裏に、先生の部屋で起こった出来事が浮かぶ。勝手に回転する椅子、部屋の中を飛びまわる本。そして唐突に浮かぶ、先生は罪深い方です…という、僧侶の言葉。彼は、どうしてそんなことを言ったんだろう。

 「陸、おはよう。」

 ぎょっとして振り返ると、すでに洗濯物を干し終えたイチカさんが、籠を持ったまま、庭の木のそばに佇んでいた。

 「あ、おはようございます。早いですね。」

 口ではそう話したが、今しがた考えていたことが見透かされたような気がして、内心かなりドキドキしていた。もちろん、そんなわけはないのだけど。

 「目が覚めたの。先生はまだ寝てる。」

 「そう…なんですか…」

 こうして話していると、イチカさんはいつもと何も変わりがない。突然出て行ってしまうなんて、先生の冗談のようにも思える。

 「見て、ここ。」

 僕は、言われるがままに近づいて行く。すると、その木には、小さな雫形の実が僅かについていたが、小さくて固そうだ。

「これは枇杷。すっかり皮をむいて種を取って、ゼリーにしたものが先生の好物なの。」

 ふうん、と僕はその木を見上げてみる。口の中に味や香りのイメージがわかない。食べたことが無いのかもしれない。

 「でも、今年は不作ね。いつもはもっとたくさん実をつけるし、もう食べ頃だもの…。」

 「じゃあ、市場に行ったら探してみましょうか季節のものなら、出回っているかも。」

 実をつけなかった枇杷の木。すっかり昇り切った朝日が、それを照らしている。一見して清々しい情景だが、僕には何だか、いつも当たり前にそこにあったものが、ふと消えてしまうことへの予兆のようで、不吉だった。

 「青くても、煮てジャムにするとか?」

 妙な気持ちを払うかのように、僕がそう提案した。すると、イチカさんは、そっと首を振る。髪の毛がサラっとゆれる。

 「見て。」

 指を刺したところには、大ぶりのジョロウグモが、枇杷の実を覆う形で巣を張っていた。

 「あ、僕が退治します。棒か何かで…。」

 僕がそう言って歩き出そうとしたのを、イチカさんは、ダメ…と言って引きとめた。

 「え、どうして…。」

 嫌いだから巣を払わなかったわけじゃないのか?

 「小さい生きものは尊いものよ。小さければ小さいほど、大切にしなきゃ。」

 「そう…なんですか?」

 すると、イチカさんはふふっと笑った。

 「この世界にはね、体のつくりが単純で弱い生き物と、私たち人間や他の大型生物のように、体の作りが頑丈で複雑な生き物がいるでしょう。もちろん、その中間だって存在するけど…。」

 そう言いながら、唯一クモの巣がかかっていない枇杷の実を、そっともぎ取って籠に入れる。他の実に比べれば、比較的黄色い。 

「でも、この世界の厳しさは、どの生き物にとっても平等じゃない?だったら、体が丈夫で複雑に出来ている生きものより、細い手足に、簡単な作りの体で一生懸命に生き抜くほうがずっとすごいことだわ。」

 もちろん、私個人の考えよ…と、イチカさんはちょっと困ったようにして笑った。

 「命の重さや生きることの大変さに、体の構造や大きさは関係ないものね。」

 僕は…たぶんだけれど…そんなことを考えたことはないと思う。金魚は金魚だし、蛸は蛸だ。そう思っていた。イチカさんの感覚は、ちょっと変わっている気がする。

 「一生懸命生きるって、いいわよね。水面の照り返しを見たり、生え始めた草を踏んだり、争ったことに悲しんだり…。」

 僕は、傍らに立つ彼女の横顔を見た。ずっと遠くを見るような、ぼんやりとした目つき。それでいて、とても悲しそうな…。

 「誰かを傷つけたり、病気になって寝込んだり…人を愛したり、子供を増やしたり…」

 滔々と、そんなことを呟き続けるイチカさんの腕から、次第に力が抜けていく。どうしたんだろう、様子がおかしい。先生を呼びに行こうか?でもその間に何かあったら…。

 やがて、ずるっと音がして、持っていた籠が滑り落ちた。中に入っていた枇杷が、ごろりと転がり出る。

 「陸、私、行かなくちゃ…。」

 「行くってどこへ…?」

 分からないの、と答えたイチカさんの声は震えている。

 「でも一人で行くと、決まって帰って来られなくなって、先生に叱られてしまう…。」

 そう話し終わる前に、イチカさんの足はすでに門へと向かって歩き出していた。

 「あ、待って…ぼ、僕も行きますから。」

 その足取りは、とても速かった。いつものように、足音を立てることなく、黙々と歩く。

 「まって、待って下さい。」

 それはまるで、何かに向かって突き進むような歩み方。僕はそれを追いかけるのが精いっぱいだった。でも、運よくその方向は路地裏の街の奥ではない。いつも使っている通路とは違うけれど、市場通りの方角だ。

 「イチカさん!」

 何の反応も見せない彼女に、何か話しかけなければと、僕は一生懸命考える。

 「ど、どうしてイチカさんって歩くのが静かなんですか?」

 すると、突然ピタリと歩くのをやめて、こちらを振り返った。息が全然乱れていない。こちらはずっと小走りだったものだから、すっかり息が上がっているというのに…。

 「私、そんなに歩くのが静か…?」

 「ハイ、とっても…。」

 「そう?私ね、先生と結婚する前はバレエを踊っていたの…。」

 僕はええっと大きな声を上げる。バレエ。バレエって、爪先で立って回るやつ?

 「でも、関係ないと思う。踊る時は静かだけれど、歩く時は普通だもの。」

 そして、スッと自分の手を差僕に向かって差し出した。

 「え?」

 「手をつないで行きましょう。はぐれないように。平気よ、先生には黙っててあげる。」

 その細くてすべすべで温かい手は、どうすべきか迷っていた僕の手を引っ掴むと、引きずるようにして再び歩き始めた。そう言えば、慌てて出て来たから、先生に何も書き残して来なかったけれど、大丈夫だろうか?イチカさんはどれくらい歩いたら、診療所に戻ってくれるんだろう。

 やがて路地を通り抜けると、僕が予想した通り、そこには市場通りが広がっていた。今日は食べ物の匂いはしていない。人ごみを、まるで魚が水草を避けて泳ぐように、すいすいと進んでいく。僕はイチカさんの手を離さないように苦心しながら、周囲の様子を観察する。布をロールで持って歩く人、ボタンや針を選ぶ人。ふと機械と油の臭いをかいだかと思えば、それはミシンの修理工。太陽光を反射して煌めいているのは、ビーズ売り。しかし、目の前を泳ぐイチカさんはそんなものには目もくれない。

 「待ってイチカさん、あんまり行ったら帰れなくなる!」

 すると、次第に店も人も減り始め、見たことのない場所に出た。イチカさんもようやく立ち止まって、周囲を見回している。

 「ここ、もしかして…。」

 「市場通りを抜けたのよ。」

 僕の頭の中に、前に先生に書いて貰った地図が浮かぶ。『一本の道路が路地裏の街を避けるように二つに分かれ、町を通り過ぎた辺りで再び一つに合流する』。つまり僕は、その紡錘型をした街の先端の、どちらか片方に立っていると言うわけだ。

「僕、初めて街を出たと思います。」

「そう?」

合流して再び一本となった道の右手側には、雑木林が広がっていた。左手には白くて長い海岸線が広がり、一本道はそれに合わせて湾曲するように伸びている。また、その向こうには、まるで小山に突き刺さったような煙草のような、白い灯台。

 「行きましょう、陸。」

 しばらく呆けていたイチカさんが再び歩き出したので、僕も慌ててそれに従った。

 「い、イチカさんが行きたいのは、この道の向こう?」

 「そうよ。この道をずっと行ったら、行きたい場所に出られる気がするの。」

 市場通りの喧騒とは打って変わって、非常に静かな通りである。目を凝らすと、林の向こうにはまた別の町が垣間見えた。

 「この海岸はね。」

 ふと、その歩みを緩めたイチカさんが、海の向こうを見ながら言った。

 「広く遠浅になっているから、つい油断して沖近くまで行ってしまうけど、ある場所から急に深くなるんですって…。おまけに流れが速いから、気をつけないとね。」

 やがて、小さかった灯台が大きくなるにつれて、右側に広がっていた林も途切れた。再び市場通りに似た喧騒が聞こえてくる。

 「あ、ここにも商店街が…。」

 少し行った先に、市場通りと比べれば小さいけれど、物を売っている通りがあった。僕とイチカさんの位置からでは良く見えないが、魚介類や生鮮野菜が売られている。

 「寄ってみましょうか?枇杷があるかも。」

 何とかこれ以上歩みを進めるのを止めようとして、僕はそう提案する…が、悲しいことに、慌てて出て来たのでお金を持っていない。

 「そうね、行ってみましょうか…。」

 以外にも、イチカさんはその提案を受け入れた。あの小さな商店街の中に、イチカさんの行きたい場所は無いような気がするが。

 その時、どこかでぼおおお、という大きな音が鳴った。

 「列車の汽笛?」

 イチカさんがはっとしたように、音のする方向に顔を向ける。そこには小さな駅舎があり、古びた機関車が一台停車していた。がたん、と一度大きく車体を揺らし、やがて、あの独特のリズムで走り出した。イチカさんはまるで見とれるかのように、その様子を見つめている。

 その時、どっと強い潮風がふいて、僕たち二人の背中を押した。その周囲を、同じく風に乗ったカモメが数羽、悠々と旋回する。

僕はその光景を、匂いを、高鳴る動悸と共に感じとっていた。

 僕は…まさか僕は、この街を知っている?

 ふいに胸の苦しさを覚えて、僕はハッと息を吸った。呼吸を忘れるなんて、そんなこともあるのか?すると、今しがた感じていた既視感とでもいうべき感覚は、すでに収まってしまった。そこにあるのは、すでにどう頑張っても、見た覚えのない小さな海辺の町に過ぎない。深呼吸をして胸の動悸を抑え、今度は僕がイチカさんの手を引いて、その商店街へと歩き始めた。


 「見たかった風景って、この町ですか?」

 すると、相変わらず手をつないだままのイチカさんが、黙ったまま首を横に振った。

 「ここじゃない…。」

 その歩みは、先ほどのように、切羽詰まった突き進み方ではなかった。いつもの通り、静かにゆったりと歩いている。

 「そうですか…あの、ここ、僕らの街とは少し違いますね。」

 その商店街は、路地裏の街や市場通りのようにレンガ造りの街並みではなく、木造や白壁の建物が多かった。道幅は広く、ところどころに旬の商品を宣伝するノボリが立ち、ゆったりとしたスピードで人々が往来している。

 「イチカさん、もう手を離しましょうか。人も少なくなったし。」

そばにあった店の女性店員に、くすくすと笑われたのに気が付ついて、僕はぱっと手を離した。不思議なことに、こんなに長い間手をつないでいたのに、汗をかいていない。

 「あそこ、見て行きましょうか。」

 そう言われて顔を上げると、少し行った先に、果物のノボリが立っていた。店頭に並べられた商品を除いてみると、昨日食べたような山菜と共に、青果物が並んでいた。しかし『枇杷』と書かれた籠には、何も入っていない。隣にいたどこかの主婦が、あら、枇杷は?と聞く。店主は、店に出ているだけなんですよ、と答えた。

 「不作なんです。気候が合わないようで。」

 それを聞いて、僕はほっとした顔で言った。

 「うちの枇杷の木だけじゃないんですね。」

 「そうね…仕方ないわね、こればかりは。」

 「あ、もうこんな時間なんだ…。」

 偶然目を向けた先には木造の時計塔が立ち、十時半を指示していた。陽が昇ってすぐに家を出たから、随分長く家を開けたことになる。

「帰りましょうか?先生が」

 心配しているから。そう言おうとした言葉を、見知らぬ女性の声が遮った。

 「枇杷、お分けしましょうか?」

はっと後ろを振り向くと、店の間に伸びる狭い路地に、一人の女性が立っていた。ブラウスにロングカートという出で立ちで、身長は僕より少し大きいくらい。髪形はショートボブだが、前髪が少し長めだ。年齢はおそらく二十歳を過ぎたくらい。

 その人はやがて、片足を僅かに引きずるように、こちらへと歩み寄ってきた。とても綺麗な顔立ちだったが表情が暗く、伸ばした前髪の間から、火傷の跡が垣間見えた。僕はその女性に、一瞬…本当に一瞬だが…何かを言おうとした。何かを…。

 「あれ…。」

 しかし、それがどういう言葉で、どういう感情によるものだったのか、たちまち忘れてしまった。それは先ほどこの町を見た時の既視感にも似ていた気がする。

「うちの枇杷、豊作なんです。どこも駄目だというのに、不思議です。」

 彼女は僕をじっと見つめながら、そんなことを言った。イチカさんは、限りなく無表情のまま、その女性を睨んでいる。

 「もしよろしければ、ウチに来て、好きなだけ持って行って下さい。どうせ私一人では食べきれませんもの。」

 彼女は滑らかなトーンで、そう提案する。

でも知らない街で、こんな知らない人に…ついて行くわけにはいかない。

「あの、お言葉は…嬉しいですが…」

 僕がそう言うと、女性は細い腕を持ち上げ、僕の髪の毛に触れようと手を伸ばした…。

 「触っちゃだめだよ。」

 突然誰かが、横から手を伸ばした。そして、その折れそうな手首を掴んで、ぎりっと上に持ち上げる。

 「…ッ…」

 女性は恨めしそうに唇を噛み、その男性を睨みあげた。

 「うちの助手なんだ、あなたに手を出されては困る。」

 「先生…。」

イチカさんが最初に声を上げた。そこには確かに、白衣の変わりに例のジャケットをした先生が、女性を見下ろすようにして佇んでいた。口調は穏やかだが、目も表情も笑っていない。

 「どうしてここに! 何も言わないで出て来たのに…。」

 そう叫んだのは、僕。仕方ないさ急だったんだろう、と先生は早口で僕に言う。

 「起きたら誰もいないからさ、ああ、これはイチカが出て行ったなと思って、追いかけて来たんだ。服飾市で、君らがこっちに来たのを見た人がいてね。」

 それだけ言うと、眼鏡の奥で、ちらりとイチカさんを睨んだ。

 「これはどういうことです、先生。どうして…この少年が、ここに…」

 静かに、けれども妬みのこもった声で、女性が言った。すると、先生は掴んでいたその腕を、より強く持ち上げる。

 「あなたには関係ない。彼は記憶を失ったまま、倒れていたんだ。今は僕の助手をしている。それだけだ。記憶が戻り次第、親元に帰すよ。」

 それはいつもの先生じゃないような、強い口調だった。女性は、口もとを釣り上げるようにして笑った。

 「親元に帰す、ですって?」

 あの、と僕は二人の間に割って入った。どうにも雰囲気が険悪だ。男女がいがみ合っていては、目立ちすぎる。

 「知り合いなんですか?」

 その言葉に、手首を持っていた先生の手がふと緩んだ。

 「この女性は柏木真琴さんといって、ウチの患者さんの、お姉さんに当たる方だ。」

 先生からようやく解放された手が、だらり、と垂れさがる。僕がその顔を見つめると、少しだけ泣きそうな表情になって、目を伏せてしまった。この反応は一体何だろう?

 「もしかして…あなたは僕を知っている?」  

すると柏木真琴は、何か言おうと口を開いて…すぐに首を振った。

 「いいえ、人違いです。似ているように思っただけ…。」

 そうですか…と僕は返事をする。でも、本当に?

 「真琴さん、君はどうしてウチに顔を見せないんだ。」

 先生が、相変わらず冷えた声でそう話した。

 「そろそろ点滴パックだって無くなる頃だろう。ウチに用意してあるんだから、後でちゃんと取りに来なさい。」

 すると彼女は、すみませんと小さく頭を下げ、近いうちに…と呟いて、そのまま灯台のある方角へと去って行った。

 「悪かったね、陸。大変だったろう?」

 帰り道、右側に海岸を望みながら、先生が言った。

 「いえ…。」

 本当は足が疲れ切っていたし、お腹も減っていたけれど、頭の中がこんがらがって、それどころじゃない。あの女性のこと、それから僕のこと、イチカさんこと…。全部ひっくるめて、先生は何かを隠しているんじゃ…。

 「ごめんなさい…」

 イチカさんは、前を行く先生の背中に、ぽつっと謝った。

 「いいさ…僕が迎えに行ける範囲だったし、今日は陸もいてくれたんだから。」

 「先生、さっきの人は誰ですか?僕のこと知らないって言ったけど、でも…。」

 真琴さんは…と、先生は僕の話を遮るように言った。

 「彼女は、とても重いものを抱えている。もう一年以上前になるけど…海岸沿いの道路を馬車で走っていた時、突然馬が暴れ出して、そのまま海に…。」

その話を聞いて、真琴と呼ばれたあの女性の、額の傷や足のことを思い出した。おそらく、どちらもその時に出来たものなのだろう。

ほらあそこ…と先生が指を刺した先には、

灯台より向こう側に設けられた、山沿いの道があった。確かに、踏み外したら海に真っ逆さまだろう。

「よく生きていられましたね…あ、遠浅になってるんでしたっけ。」

それは先ほどイチカさんに聞いたばかりの情報だった。そうそう、と先生は頷く。

「そのおかげで、大きな怪我はしたけれど、命を落とすほどではなかった。ただ…一緒に乗っていたお兄さんがね…と言っても血は繋がっていないのだけど。離れた土地で家の事業を継いでいたんだが、両親が突然亡くなられてね。それをきっかけに、家も会社もみんな処分して、機にこちらに越して来たんだ。」

 その時、三人の頭の上をカモメが数羽、鳴きながら飛び去った。みゃあみゃあという声からして、あれは海猫だ。

 「そのお兄さん、亡くなったんですか?」

いや、と先生は首をふる。

「頭に大きな怪我をおってね。ずっとこん睡状態のままだ。一応点滴はつないであって、真琴さんが定期的にそれを交換している。僕が時々様子を見に行ったり、必要最低限の経過観察は行っているんだけど…。」

 こん睡状態?

 僕は、あの女性が立ち去った、例の灯台のほうを振り返った。先ほどよりも風が強く、大気に湿り気がある。沖の方は既に厚くて暗い雲に覆われており、何だか不穏な雰囲気だ。

 僕はそそれを見ながら、ああ、今朝の僕の天気予想は当たったな…と思った。


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