025_0040 【短編】王女の休日(妹Ⅲ)
かつてダニュ・アヴァルナ・ノゥンと名乗っていた女性は、ネパールに生まれた。
世界の最高峰ヒマラヤ山脈にほど近いかの国には、幾多の部族が存在する。都市部はともかく地方に行くと、昔ながらの狩猟採集で生活している、貧困の厳しい地域もある。
そんな場所には、カムラリという女児の奉公制度がある。いや、あった。近年になって法律で廃止されているのだが、地方の貧しい村ではまだ残っているのが現状だ。
彼女も七歳から小金持ちの家に奉公へ出され、朝から晩まで働かされていた。本人はもちろん、親も望んだわけではない。しかし貧しい家では、その場しのぎのわずかばかりの金銭でも必要で、養う口はひとりでも少なくしないと立ち行かなかった。
それはなにもない生活だった。毎日水場と家を往復する生活に、新たは発見などない。毎日同じ事を、同じように。
生きたロボットのような生き方を送っていた。
絶望はしていた。未来に希望などなく、年頃の娘らしいことなど一つたりとも行わず、ただ言いつけられた仕事をこなす。死ぬまでそんな代わり映えのない生活を送るのだろうと、子供ながらに彼女は考えていた。
しかし違った。二〇歳近くなり、その奉公から解放された時、彼女はそれを思い知った。
ダニュ・アヴァルナ・ノゥンという女性には、なにもなかった。
教育を受けられらず、自分の名前すら字を書けない。
子供の頃に思い出す、楽しい記憶もなかった。
両親が住むはずの家はなく、帰る場所がないことも知らなかった。
いつしか感情を押し込めて、心が停まっていた事すら、それに気づいた時に初めて思い至る始末だった。
これからどうすればいいか、全くわからない。彼女ができること言えば、ちょっとした家事と、食卓に供する獲物を弓で狩るわずかな腕前だけ。
日本とは事情が大きく異なるネパールにおいても、二一世紀の現代では、まともな社会生活を送れる状態ではなかった。
そんな時、彼女は『ある女』と出会った。
『悪魔』を名乗るその女は、幾らばかりかの金銭と選択肢を与えて。
その結果、彼女はロジェ・カリエールを名乗る場――フランス陸軍外国人部隊へと往くことになる。
△▼△▼△▼△▼
「……ふぅ」
クロエの失踪に、ロジェは苛立っていた。意識して深呼吸しないと、言動が荒くなってしまうのを自覚するほどに。
妹であるコゼットに協力を求めたものの、彼女は空港で合流してから移動した後、神戸中心部に建つビルの喫茶店に入り、動かなくなったからだった。
「コゼット殿下、どうされました?」
そしてそのコゼットはというと、今はなぜかウェービーロングの金髪を広げて、テーブルに突っ伏して動かない。
「なんでもないですわよぉ……」
コゼットは鼻声でヘコんでいた。当人が聞いていないと思っているというか、イクセスの中継を忘れているのだろう。離れた場所で行われている十路とクロエの会話を聞いて、コゼットは肩を落としていた。それは《魔法》を使っているコゼットの脳内で盗聴しているのであって、今は《魔法使いの杖》を持っていないロジェには、会話の内容はわからない。
「そりゃ堤さんに意識されてるとは思ってませんけど……そこまでハッキリ言わなくてもいいじゃないですの……」
「?」
ボソボソと無線の内容をうかがい知れる言葉を呟くが、直接聞いていないロジェには理解できない。
ロジェはコゼット・ドゥ=シャロンジェという女性を、ほとんど知らない。コゼットの留学前、公宮殿では時折顔を合わせる機会はあったが、ロジェが働き始めたのはおよそ二年前と短く、そして一年前にはコゼットは神戸に留学している。
ロジェが知っている彼女のことは、《魔法使い》としての情報であり、直接触れ合って知った情報はほとんどない。
「……コゼット殿下と二人きりなど、初めてですね」
「貴女はクロエに雇われた護衛兼家政婦ですから、クロエを挟まず接することは、なくて当然でしょう」
ロジェに声をかけられ、コゼットは身を起こす。今更かもしれないが、喫茶店とはいえ人前なので、改めてプリンセス・モードをONにして。
「ここで腰を据えていて、よろしいのですか?」
眉間にわずかな皺を作って、ロジェは不満げに問う。
コゼットがテーブルに突っ伏す前、《使い魔》のGPS反応が移動を始めたと伝えた。
だから本当ならば、クロエを追いかけるべきだろう。
クロエの身分を考えれば当然のこと。一国の王女が、書置きひとつで行方知れずになったのだ。場合によっては誘拐されたと考えることも充分に可能だ。そして東京では秘密裏ではあるが、大騒ぎになっている。ロジェが一足早く飛行機に飛び乗ったが、じきに関係者も神戸にやって来て、クロエの安全を確保しようとするだろう。
しかしコゼットは、姉たちを追いかけない判断を下し、この喫茶店に腰を据えた。
「音声から状況は把握可能。後からの判断で行動しても充分……それに堤さんと《使い魔》が一緒なら、なにか起こっても大丈夫ですよ」
それでは困ると、ロジェは口を開こうとしたが、その前にコゼットが言葉をかぶせた。
「そもそもクロエを捕まえようとしても、絶対に逃げるでしょう。目的達成前に大人しく捕まるとは思えません」
「……確かに」
クロエの性格を考えると、絶対に一筋縄ではいかない。しかも都市部では高い機動力を発揮するオートバイに乗っているのだから、レンタカーやタクシーを使って捕らえようとしても難しい。
それにクロエの行動は、掴みどころがなく計画的だ。近くで見ているロジェは当然それを知っているし、コゼットもよく理解している。留学前に殺されかけても証拠が不十分なため、反撃すると問題になるという陰湿なやり方だったので。
「それにクロエはわたくしと違って、名実共に王女ですから」
物語で出てくる、自由に憧れて後先考えずに城を飛び出すような、おてんば姫とは違う。
どちらかといえば、他の者では到底及ばない才覚を持ち、部下に任せるより自分で動いた方が早いという、決断力と行動力を持つ女帝に近い。
そしてコゼットのように、王女という身分に生まれただけの、一般人に近い感性の持ち主とも違う。
だから最低限、自分の身分と行動の影響を考えているだろうと、コゼットは推測していた。
「そんな事情に鑑みて、クロエの気の済むようにさせて、落ち着いた頃に迎えに行くのが一番だと判断します」
「なるほど……」
「貴女が気になるのは理解はできます。ですが半日休暇をもらったとお思いになった方が、精神衛生上よろしいかと考えますけど」
コゼットが姉に対する正当な評価を行い、的確な状況判断の下に動いていることに、ロジェは顔に出さないまでも驚いた。
彼女たちの確執は、当然ロジェも知っている。
同じ両親から生まれた、しかし発現したわずかな遺伝子の違いにより、《魔法使い》とただの人間という、決定的な違いを背負わされた姉妹。
そのため姉は幾度となく妹を殺そうとし、つい先日にはそれが決定的なものとなって、他者を巻き込んだ戦闘にまで発展した。
考え方の合わない、血の繋がりがある『敵』なのだ。
「コゼット殿下は、考えて動いてらっしゃるのですね……私はてっきり、クロエ殿下に付き合う義理はないとお考えなのかと」
「そんな義理ねーですわよ」
コゼットが王女の仮面を脱ぎ捨てて、獣臭を漂わせる不快な歪みを作った。
「冗談じゃねーですわよ。公宮殿にいる時も、この間も、わたくしはあの女に殺されかけましたのよ? 部活だから仕方なく貴女に協力してやってるっつーだけで、なんで親切なんかかけないといけませんの?」
「それは――」
冷たい返事にロジェは、反射的に言い返そうとした。
あの戦闘が終わった後、クロエはロジェに謝ったことを思い出して。
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ロジェ・カリエールは、クロエ・ジュリエット・ブリアン=シャロンジェという人物と、当人たち以外から見れば奇妙な人間関係を結んでいる。
公的には、彼女はクロエの護衛だ。元軍人としての能力を買われて、雇われている。公の仕事を管理も、私生活の世話も行っているが、補佐や身の周りの世話をする人間は他にもいる。片時も離れず、一番クロエと接する時間が長いため、秘書や侍女のような他の仕事も一部行っているだけだ。
ただ、プライベートでも一緒にいることになり、加えて歳も近い女性同士だ。
だから主従の枠を超えた親密さがある。表では王女として毅然としているが、プライベートではBL趣味と変態性を隠すことなくモロ出しにし、ネパール人の彼女が聞いても奇妙な日本語を操り、自分にメイド服を押し付けたクロエとあまり親しくしたくはない気持ちも確かにあるが、邪険にもできない。
クロエは、ワケありの《魔法使い》であるロジェを秘密裏に匿う保護者なのだ。戦争狂というわけではない彼女が、今のように平穏な職に就いていることに、相応の恩を感じている。
そしてクロエ個人についても、ふざけた言動に呆れて無視しているだけで、人格否定まで行っているわけではない。
無条件には従わない。しかし求められたことにはできる限り応じる。
友人関係に近い気安さと、敬愛できる使命感を併せ持つ、奇妙な人間関係をロジェはクロエと結んでいる。ちなみそれは奇しくも、総合生活支援部の部員たちと、その顧問の関係に似ている。
その会話が行われたのは、人工島内で戦闘が終了直後、神戸空港に待機していたチャーター機に乗り込んでから。
傷は痕が残らないまでに治療されても、体力まで回復するわけではない。重い倦怠感で座席に身を沈めるロジェに、隣に座るクロエは、彼女の方を見ないままに声をかけた。
「ロジェ。ごめんなさい」
「……? 突然どうされました?」
「わたくしは、貴女を利用しました」
驚くロジェに、クロエは淡々とした口調で説明する。
今回の来日の、本当の目的を。
全てはコゼットを救うために。《魔法》を嫌う国の王族として生まれた《魔法使い》に、人並みの幸せを掴ませるために。
殺さないように殺そうとし。気取られぬように敵を演じ続けて。
一〇年以上前から仕組まれた壮大な計画に、呆然として聞き入ったロジェは。
「……とんでもない策略に付き合わされたものです」
呆れたように、それだけの感想を述べるに留めた。
誰が死んでも不思議なかった。相対したロジェは当然、助けようとしたコゼットも、戦場のど真ん中にいたクロエも、誰が死んでいても不思議なかった。
それほどまでにギリギリで。それほどまでに懸命で。どうしても成功させなければならなくて。
そんな余裕のない計画だったとわかったから、ロジェの心には、怒りは湧いてこない。
「本当にごめんなさい……謝って済む問題ではないとはわかっていますが……」
「それを明かして、どうしろと申されるのですか?」
「公国内であれば、貴女の身分と生活を保障します。他の国、例えばネパールに帰りたいのでも、できる限りの支援を約束します」
「つまり、わたしは免職ということですか?」
「それを選ぶのは、貴女です」
クロエは寂しげな笑みを浮かべ、絶対的な命令を出すわけでもなく、忠告という形で促すわけでもなく、短く同意する。
都合のいい解釈かもしれない。
しかしロジェはそれを、自分が退職し、クロエの庇護下から離れることを、彼女が望んでいないと解釈した。
ただ、申し訳ないから。これ以上付き合わせると、またロジェが生死をかけて戦うことになるかもしれないから。
(あぁ……この方は、ご自分のことに関しては、とことん不器用なのですね)
当人の性格もあるだろう。どちらが本当の彼女かわからないほどに、裏表を使い分ける。
立場もあるだろう。姉である以前に、王族の公女なのだ。
一〇年もの長い時間をかけて、妹に憎まれなければ、彼女を守る方法はなかった。
しかしそんな自己満足な方法以外を、きっと彼女は考えたことはない。妹と理解し合おうとは思わなかった。
王女の仮面の内側に隠した、自分の気持ちを出すことは、クロエはできないのだ。
内心で苦笑し、トレンドミディアムを揺らして少し考え、ロジェは無表情のままに答える。
「仮にわたしが殿下の護衛を辞めるとして、後釜のことをお考えですか?」
「ハ?」
「朝起こすのを誰かに任せるのは止めた方がよいかと。締まりない顔でヨダレ垂らして腹丸出しでボリボリかいて、百年の恋も冷める寝相ですので」
「そんなに悪いです!?」
「そもそも基本、私室にはわたし以外の人間は入らないので、今後使用人たちの間でどのような噂が飛び交うか、想像したら少々怖いものですが。いつも部屋では色気の欠片もないネズミ色のスウェットで過ごしておられますし」
「いやだってアレが一番楽な格好ですし!?」
「一番問題なのは、殿下の変態性に理解を求められる人物が、いるとは思えないのですが?」
「変態って!?」
「書斎の本棚に資料っぽく大量に仕舞われた薄い本のことは? 個人的嗜好の範囲であれば、ホモセクシャルを否定する気はないですが、そんな同人誌をニヘニヘしながら見ておられる殿下は、大変大層非常にはなはだ極めてすこぶる気色悪いです。しかも公務の途中に読んでますから、何度ド突いてやろうかと思ったことか」
「本気!? 本気でド突こうとしてた!?」
「あと。クローゼットの一番奥に仕舞われてる秘蔵の一品、どうにかならないのですか? あれを見た時はドン引きしました」
「なぜカギのついた引き出しの中身を知ってるザマス!?」
特殊な日本語が思わず出るほどのなにが入っていたかは不明だが、それはさておき。
「ロジェもだんだん遠慮なくなりましたね……!」
「殿下との付き合いも、それなりに長くなりましたので」
日頃その手のことに関して無反応だが、心の奥底では相当に溜まっているらしい。遠慮ない言葉にクロエが怒りで肩を震わせるところに、ロジェは更に言う。
本人も自覚しないまま、無表情を綻ばせて、小さく笑って。
「下手な人間に後釜を任せると、殿下の恥は世界中に広まりそうですし……仕方ないので、もう少しわたしがお世話させて頂きます」
「…………フンっ。勝手になさい」
そんなことをロジェに笑顔で言われては、拳を振り上げようにも下ろす場所がない。不機嫌そうに、嬉しそうに、窓の外へそっぽ向く。
感情表現が不器用だと一層わかる姿だった。
△▼△▼△▼△▼
不敵で油断ならない主であると同時に、憎めずどこか放っておけない友人。
それがロジェにとってのクロエであり、そんな彼女の理解者であろうと、彼女はあの時に決めた。
だからコゼットの言葉に、ロジェは反論しようとした。
「仮に、わたくしがあの女を理解して、なにか問題が解決しますの?」
「…………」
しかし続くコゼットの言葉に、ロジェは口を閉ざした。
彼女たちの違いは、絶対的なものだ。問題の解決としてよく挙げられるように本音で語り合えば、あるいは青春ドラマのように殴り合えば、理解し合えるような話ではない。
「ダニュ・アヴァルナ・ノゥン――」
そしてロジェ・カリエールと名乗る女性が、もう使うことのないであろう名前を、コゼットは持ち出したために。
「ネパール出身。フランス外国人部隊に所属し、二年前にクロエに雇われた、国家に管理されていない《魔法使い》」
コゼットが以前、十路の主導で調べられた内容は、彼女も後で知ったのだろう。
小声で呟くと、ロジェの全身から発する気配が、細く鋭く尖っていく。不用意に話したら、鷹の嘴で突き刺すと言わんばかりの殺気だった。
「それ以前の貴女が、どういう生活を送っていたのか知りませんけど、どーせマトモな生活は送っていないでしょう?」
「えぇ……」
どんな話が出てくるのか警戒しながらも、ロジェは険しい顔で小さく頷く。
しかし彼女の表情変化は小さいものなので、コゼットは気づかなかったのか、それとも気づいて無視しているのか。構わず話を続ける。
「今から誰かと理解し合えば、これまでの事なかったことにできて、なにも知らなかった子供の頃に戻れますの?」
「…………」
ロジェは答えない。代わりに、わずかに目元に入れていた力を抜いた。
そんなこと、できるはずはない。過去はなかったことにはできない。
仕方ないとは理解している。今の歳になれば想像できる。それが彼女の運命だったのだと。
しかし、ダニュ・アヴァルナ・ノゥンから、ロジェ・カリエールになりたかったと問われると、やはり首を振る。わずかな金で自分を他所の家へと出した父親に、なにも恨みがないと答えるのは嘘になる。
「クロエとのことも、そういうことですわ。それに仮にあの女との確執がなくなったとしても、父様や母様との問題もありますもの……」
それを語るのは、コゼットも心の整理がついていないのかもしれない。彼女は無表情とは違うが、表現はしがたい複雑な顔を作る。
王女の側に仕えていたのだから、コゼットの両親――国の象徴たる公王とその王妃の公私を、当然ロジェは見知っている。
彼らを言い表そうと思えば、『普通』としか言い様がない。
彼女たちの国は立憲君主制――日本における天皇家のあり方に近く、王は政治には直接は携わっていない。戦国乱世の絶対王政国のようなカリスマ性や指導力を発揮させる要もなく、国の象徴として存在している。つまり王は王でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。個性を発揮して『賢帝』『暴君』『愚王』などと呼ばれるようになることはなく、公では『普通』としか言い様がない。
私的な部分においても、彼らは『普通』としか言い様がなかった。一般家庭と異なる部分は多々あったが、彼は父であり、彼女は母であった。
ただ、それだけだった。役割を名札に書いたように、親としての役割を最低限こなしていただけ。
コゼットが《魔法使い》という新人類に生まれたことについて、積極的に問題解決を図ろうとはしなかった。問題を表沙汰にしないよう動いたことだけは、積極的だったと言えるかもしれない。
「……さすがに実の親から、幽閉か死か選べって言われた時には、ショックでしたわ……」
それがあるから、いまだ心の整理がついていないだろう。コゼットは先の騒動の際に両親から、それも直接ではなく録音した声だけで、言われた。
ただの醜聞とは違う、国家の根底を揺るがしかねない存在なのだから、公王夫婦の選択は理解できなくもない。
しかし親が子に言い放った言葉としては最悪だ。その方針に従って戦ったロジェでも、同情の念が沸く。
「ま……貴女たちと戦って、ひとまず解決したことですし、今はあまり考えないようにしてる問題ですけどね」
話に蓋をするように、コゼットは冷めかけた紅茶に手を伸ばした。
釣られてロジェもティーカップに手を伸ばし、それを一口すする。
店の赴きからすると、メインは紅茶よりもコーヒーのようだが、なかなかの味だった。紅茶専門店を謳うならばともかく、そうでない喫茶店としては上々の部類だろう。
ただ内心では、自分ならもっと美味く淹れれるとも思う。クロエも紅茶をよく飲むが、仮にも王女にも出すもの淹れるロジェも、腕前は一級以上だ。
「……ところでコゼット殿下」
ロジェはカップをソーサーに戻して、今さらのことを問うた。
「なぜ我々はここで、腰を据えなければならないのでしょう?」
「クロエの性格をわかってるなら、ここが一番だろうってことは、理解できるでしょう?」
「そこは理解していますが……」
言葉を濁して、ロジェは店内を見渡す。
フランチャイズのカフェなどではない、ジャズの流れる落ち着いた喫茶店だ。一言で言えば『渋い』雰囲気の、おしゃべり目的の主婦など、かえって入ってこないような空気がある。
しかし実際には、店にはそぐわない客もいた。そういった意味ではロジェたちも若い女性二人連れで、年配男性が好みそうな雰囲気の中では浮いているのだが、それとは意味が異なる。
「コゼット殿下……あの隅の方たち、あれが普段着ですか?」
「クールジャパンの影響で、最近じゃゴスロリファッションも、国元で増えてきたんじゃありません? というか、ロジェは他人のこと言えないと思いますけど?」
「わたしは着替える暇がなかっただけです」
どちらかといえば男の雰囲気がある店内に、アンティークドールのようなゴスロリファッションの女性たちは浮いていた。
「コゼット殿下の背後でコッソリ広げられている薄い本は、クロエ殿下の書斎で見かけたものと似ているのですが?」
「似たようなものですわよ……というかクロエは、BL同人誌を書斎に置いてますのね……」
二人は横目で、家に帰る前に戦利品をチェックを眺めて、別の人間を思い浮かべる。さすがに堂々と広げない辺り、彼女たちも常識をわきまえているようだが、ロジェの位置からでは、内容も見えてしまっていた。
この店の中には、普通の街角ではなかなか見られない、独特の雰囲気の客が数名いる。
彼女たちがいる喫茶店は、サンセンタープラザという大型商業施設の西館――アニメ・マンガ・ゲーム関係の店舗が多く入居した、いわゆる『オタク街』に入っている店だった。
そのビルの中には、女性向けの薄っぺらい本――禁断の愛などというものを具体的には男同士の恋愛をテーマにした本を取り扱う店もあるため、貴腐人ならばここに寄るだろうと、コゼットは網を張っているのだが。
「我々は注目を集めていませんか?」
「わたくしたち、イタイ外国人の女二人って思われてるでしょうね……」
あからさまではないが、チラチラと彼女たちを見て、連れと内緒話をする光景が見て取れる。
彼女たちの名誉を守るならば、決してイタイ扱いはされていない。
ロジェが着ている給仕服は、安っぽいコスプレ衣装ではない。人前に出るための制服でもあるため、それなりの布で仕立てられた高級品だ。
コゼットは気軽なドレスといった風のワンピースを着て、権杖のような《魔法使いの杖》を持っている。
金髪碧眼白皙を持つ本物の王女と、オリエンタルな魅力を放つ本物のメイドが、向かい合って一緒にお茶しているのだ。なにも知らない者が見れば、彼女たち二人の姿は絵になる。
ただ、やはり異質だった。
「…………ん?」
突然コゼットが、カップを傾けたまま動きを止めた。
「コゼット殿下?」
ロジェが不審げに問うと、コゼットは彼女の顔を指差す。その仕草に意味はないのだが、人前だから大規模に《魔法》を行使せず、ロジェの耳元に《魔法回路》のスピーカーを形成させた。
そこから聞き慣れた女性の日本語と、聞き覚えのある男性の声が耳に届いた。
『あぁ、この香り……クセがあるけど堪らないザマス』
『クロエ王女……』
十路の呆れ声はあまり平素と変わらないが、クロエの声は妙に恍惚として、艶を帯びていた。
『ムッシュ・ツツミ……ダメ? ちょっとだけですから、いいでしょ?』
『まだ満足してないんですか? 仮にも王女サマが意地汚い……』
『王女だって人間ザマスよ……もう我慢できなくて』
『……正直この状況、俺はちょっと恥ずかしいんですけど』
『気にする必要はないザマスよ』
『…………言っても無駄っぽいですけど、強引なんですよ。こんな場所に俺を引っ張りこんで』
『あ、これ、すごい……』
『話すら聞いてないし……』
『あら? わたくしが相手ではご不満って意味ザマス? 身内以外でこんな姿を見せるのなんて、ムッシュ・ツツミが最初ザマスよ?』
『光栄です、とでも言っておきましょうか?』
『不満そうザマスね?』
『いやだって――あっ! それはやめてくださいよ!』
『ねぇ……貴方のこれ、欲しいザマス』
『いや、そんな強く引っ張ったら――』
『あっ』
『あーあぁ……』
『ん……この白くてドロドロしたの……』
『なに舐めてるんですか……』
なんだか妖しい会話だった。
「……………」
「……………」
無線を通じて聞こえてくる二人の会話に、コゼットもロジェも無表情になる。ロジェはいつも無表情だが、今は感情の一片すら感じさせない紙のような顔だった。
「……コゼット殿下。ムッシュ・ツツミと殿下はどこにおられるか、わかりますか?」
荒鷹が狩りへと宙に飛び立つように、ロジェが静かに、しかし雄々しく席を立つ。
「えぇ……ここからだと少し離れてますけど」
寝そべっていたのは昼寝ではない。獲物に近づくために茂みに潜んでいただけ。そんな獅子のオーラを出し、コゼットが立ち上がった。
そして釣りは不要とばかりに紙幣をレジに叩きつける。その音に変わった外国人たちを見ていた店内の客はビクッと震え、檻に入った猛獣を見るような目で、二人の背中を見送った。




