070_0000 クルミ割り人形
クルミ割り人形は、有名でありながら、知っている者は限られている、矛盾した物語でしょう。
名が知られているのはバレエ組曲としてであって、児童向けメルヘンとして絵本などで知ってる人、います?
チャイコフスキーが着想を得たのは、現ドイツの作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンが、一八一六年に発表した『クルミ割り人形とネズミの王様』という作品です。
二次創作だってご存知でしたか? あの人形をドイツ旅行のお土産くらいでしか目にしない日本人だと、知らない人が大半では?
内容は……バレエではただの夢オチですけど、原作の童話は『美女と野獣』や『かえるの王様』のような異類婚姻譚に当たるのでしょうか? 日本の御伽草子にはあまり見られないタイプの話です。
ある少女がクリスマスプレゼントに、不恰好なクルミ割り人形をもらい、兄との取り合いで壊れてしまう。
少女はリボンを巻きつけ、人形を看病していると、真夜中一二時過ぎに七つの頭を持つネズミの王が現れる。
それを迎え撃つように、そのクルミ割り人形は、おもちゃの軍団を指揮する。
人形は、呪いで姿を変えられた青年だった。
元々醜いクルミ割り人形になる呪いは、あるお姫様にかけられたもの。青年はお姫様の呪いを解いたものの、今度は自分に呪いがかけられて、しかも人形の醜い姿に嫌われてしまう。
その呪いは、七つの頭を持つネズミの王様を倒すだけでなく、醜い姿でも愛してくれる女性が現れなければ解かれない。
それを知った少女が、人形を受け入れ、剣を与え、ネズミの王は倒される。
クルミ割り人形は青年の姿を取り戻し、少女と結婚し、めでたしめでたし。
異類婚姻譚は、一種の試練。ただしその描かれ方は東西で大幅に異なるようです。
日本のものは抜き打ち試験。『鶴の恩返し』や『雪女』はそうでしょう? なに食わぬ日常が全て試練の時間で、タブーを犯すと即失格。人間と思っていた者との幸せは、人ならざる者との偽り。答え合わせがなされて破局エンド。
比べてこの物語は、登場人物が人ならざる者である事が前提で、それでも愛せるかという、明確な難題が突きつけられる。
……いえ、だからどうしたと言われると、返答に困るのですが。
もちろん私が元は人間だった、なんてこともありませんし。いくら人間的な思考や意識に自覚があろうと、機械であることは重々承知しています。
製造と稼動から半年を過ぎて、私も成長したということでしょうか。
最近少しだけ、思うことがあるのです。
私に可能なのは、走ることだけ。
《魔法》を使えば一時的に機能拡張されますが、オートバイの体に搭載されている私は、走行こそが本懐。
同時に、それしかできない。
腕を持たないのだから、なにかを拾い上げ、抱きしめることは叶わない。
自動二輪車の体に人間的な思考が搭載された弊害なのか、そんな下らないことを考えてしまうのです。
私は特殊作戦対応軽装輪装甲戦闘車両 《バーゲスト》統括およびコミュニケーションシステムVer.20XX-0001-"S"。
合成タンパクの擬似大脳とシリコンの小脳に収められた、管理者と円滑なコミュニケーションを図るために人間的な精神を模造した人工知能。
ここまでくればデータ生命体とでも呼べるのかもしれませんが、正しい生命体の定義からは外れること間違いなしです。
だって私はバイクですから。私というデータが入るコアユニットが収められているのは、合金の骨格と樹脂の皮膚、アクチュエータの筋肉で作られた体です。
どのように考えたところで、無生物にカテゴライズされる存在です。
ですが、人間の思考回路や発想力からすると、どうなのだろうと疑問も抱くのです。
人間としての精神が入っているとしても、クルミ割り人形という無生物を人間のように愛せるのなら。
人間の身でありながら、大脳の一部が生体コンピュータと化し、兵器としての能力を操る存在を、『人間』というカテゴリーに入れてしまうのなら。
ならばもしも。
私というデータが人間の肉体に収められたとしたら。
私は『人間』というカテゴリーに入るのでしょうか?
別に人間になりたいと望んでいるわけではありません。
ただ、もしも、そうなったとしたら。
私は自らの手で、私の望みを、叶えることができるのでしょうか?
そんなくだらないことを考えてしまうだけの話です。
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『她去哪啦!? (どこに行った!?)』
『不知道! 看不見! (わからない! 見えない!)』
それを直接見た者は、物理法則を無視していると思っただろう。それもひとつの分野だけではない。航空力学・材料力学・構造力学・物性物理学エトセトラ、複数の分野に跨っての異常な行動だった。そこまで理解できる者はきっといないが、『ただの異常』ではなく『すごく異常』なのを感じ取った者はきっといる。
レーダー画面上で、中乃華夏人民軍空軍最新鋭ステルス戦闘機、殲撃二〇型が軽くあしらわれていた。
行われているのは名目上、演習となっているが、実際のところ模擬戦とは言い難い。
『相手』は模擬弾を搭載し、火器管制装置によるシミュレートで撃墜判定を出す。しかし殲撃二〇型は実弾を搭載しており、本当に撃墜するつもりで攻撃している。
もちろん判定にインチキがあるなんてことはない。そもそも『相手』はまだ一度も『撃って』いない。背後を取り、ミサイルのロックオンを仕掛けてくるが、撃墜判定は出ない。
殲撃二〇型が回避機動で振り切ったのではない。視程外射程からのアクティブレーザー誘導中距離ミサイルも、視程内射程での赤外線誘導短距離ミサイルも、殲撃二〇型の攻撃は易々と回避されているのだから。ステルス機の特性も簡単に看破されている。
そんな能力の持ち主が、何度も攻撃を外すとは考えにくい。
地上の管制室では、最新鋭戦闘機とそれを操る精鋭戦闘機乗りが、完全に弄ばれていることにどよめく。
「『那個孩子』怎么看也在玩吧?(『あの子』、遊んでますよね?)」
「到底像了谁才会这样...(誰に似たのか……)」
違う感想を抱いているのは、部屋の全体を見渡せる位置に座る、男女ふたりだけだった。
場違いなふたりだった。機器の前に座る者たちは迷彩服、後ろから見守るものはダークグレーの軍服を着ている。明らかに軍事関係者たちが集まる場なのに、ふたりは普通のスーツなのだから。男が着ているフォーマルなビジネススーツはまだしも、側に控える女が着ているワインレッドのレディーススーツは浮いている。
身長や体格は立派に大人だが、顔立ちは若さというより、幼さと呼ぶべき年齢不詳さある女だった。故に濃いアイシャドウや口紅が、似合っているとは言い難い。
少女と呼ぶのは確実に違う。しかし女性と呼ぶにも違和感がある。まだ子供扱いされる年齢の少女が、着飾って化粧して精一杯の背伸びをしてるような、チグハグな雰囲気がある女だった。
「如果没出全力也这么强,已经可以算是完成了吗? (『本気』を出さずにこれなら、もう完成と思っていいですか?)」
「毕竟是个试做品似的、可不可以叫完成到还不一定。 (試作機のようなものだから、完成と呼んでいいかは微妙だが)」
「不会卖嗎?(どこかに売ることはない?)」
「卖不出去。即使做了廉价版、也没地方会採用。(売れない。ローコスト版を作っても、どこも採用しないだろう)」
部屋の様子を眺めたままの、互いの顔を見ない会話だったが、ここで初めて女が男に振り向いた。
「だったら、アレちょーだい?」
男の耳元に赤い唇を近づけ、切り替えて囁いた。変わったのは言語だけでなく、態度も媚びたようなものになった。
この場にいる者からすれば外国語ではあるが、隣国の言語だ。会話には使えずとも、片言程度ならば操れる者がいても不思議ない。
そういった理由から声を潜めるならまだしも、笑顔を浮かべて態度を変える必要はない。事実、その様子を目にした軍人が、嫌悪の表情を浮かべた。男女平等が世界的に叫ばれる昨今、女性もいるにはいるが、やはり基本肉体労働の軍隊は男の職場という空気がある。そんな場所に『女』を――仕事の必要性ではなく私的な理由で連れ込んでいると見られ、好ましくないと思う者もいるだろう。
「どうするつもりだ」
耳元で生温かい息を吹きかけられた男は、言語を切り替えただけで態度は変えない。眼鏡をかけた、さしたる特徴のないアジア人男性の顔は、むしろより冷淡になったかのようにも思える
「もちろん、日本に」
女の顔は、笑みがより深まる。動物的な、完全なる肉食獣の笑みだ。
「狙いは?」
「色々?」
男の目がハッキリと、より冷たくなる。動かしていない無表情が、能面のように印象が変わる。
それは侮蔑の表情だった。
「母さんはもちろんだし、《千匹皮》も、獲れるなら獲るつもりだけど……見てみたいのよね」
けれども変わらない、隠せていない楽しさを湛えた女に、男の瞳に怪訝な色が乗る。目で先を促している。
「あの部隊――面白そうじゃない?」
女の態度も顔も、オモチャを見つけた動物そのものだった。それも猛獣が、小動物を弄ぶような興味に近い。
威龍相手に空で暴れている『怪物』は、きっと彼女に似たに違いあるまい。
「ねぇ? 全部手に入れたら、そろそろ認めてよ――お父さん」




