000_0500 それが罠であろうともⅠ ~リスタート~
波乱はあったものの、修交館学院の体育祭は終了した。
「Пожалуйста, объясните. Причина, мне разрешили связаться с 《Витязя》 из сил самообороны земли.(説明してもらえませんか? わたしを陸上自衛隊の《騎士》に接触させた理由)」
ナージャ・クニッペルは、撤収を呼びかける校内放送や、保護者と帰宅する子供たちのざわめきを聞きながら、校舎の片隅にいた。
校舎隅の壁に背を預けているため、直角度で相対してる、大きな人影と会話するために。
「Что касается нас, его внешность была неожиданна.(我らもあの者が出てくることは、なんら掴んでおらなんだからな)」
「Интересно Вы? Для того, чтобы иметь один и тот же ник.(気になります? 同じ《騎士》の字を持ってると)」
「Не имеет никакого значения. Чем это...
(それはどうでもいい。それより――)」
軽口から軌道修正を図る重々しい男の声に、ナージャは面白くなさそうに軽く肩をすくめて、察している目的についての解答した。
「Я не знаю, как 《ведьма》...Потенциал высокой вероятностью. Хотя вы можете продемонстрировать это еще одна проблема.(《魔法使い》としては未知数ですけど……ポテンシャルは高そうですね。ただ、それを発揮できるかは別問題ですけど)」
「Почему нет?(発揮できない理由があると?)」
「Конечно. Он только солдат. Он не шпион.
Если это не поле боя серьезно он не потушить.(当然でしょう? 彼はあくまで兵士であって、わたしみたいな諜報員とは違うんです。こういう場所での暗闘よりも、戦場での真っ向勝負が本領ですよ)」
「Хм...(ふむ……)」
男の声がしばし考えに沈んだ。
次の言葉が返ってくるのを、ナージャは長く伸びた髪の尻尾をいじりながら、待つ。
(あ、切れ毛……髪そのままにしてバイク二人乗りしたから、どこかで引っ掛けちゃっいましたかね?)
物思いに耽っているだけではないのか、男の沈黙はかなり長い。だからナージャの思考はあちこちに移動した。
(トージ・ツツミ……日本の《騎士》……どういう経緯でこの学校に潜入してるんでしょう?)
とはいえ考えるのはやはり、彼のこと。
修交館学院に潜入しているナージャにとっては、支援部員以外の《魔法使い》がテリトリーにいるのは、大きな警戒だった。
(もし正体がバレたら……わたしののんびり学生生活計画は、間違いなくオジャンですねぇ……)
誘拐襲撃犯の追跡も、実はつばめに頼まれて行ったことではない。背後で沈黙している、所属の違う上司役に指示されてのことだった。
なかなか無茶した自覚はあるため、《魔法使い》だとはバレずとも、裏社会の人間だと匂わせた可能性は否定できなかった。
交戦したら、勝てる自信はあった。ナージャの時空間制御《魔法》は、初見殺しとなって働く。特化した準備なしに対応できる者はまずいない。
しかし実行してしまうと、彼女はここにはいられない。警察や自衛隊、あるいは総合生活支援部による捜査が行われるのは間違いなく、ナージャに手が伸びる可能性がある。言及される前に、姿を消さなければならない。
(でも暗殺とかヤですし……)
それ以前に、コードネーム『役立たず』は、血を見る裏仕事ができないヘッポコという事情もあったが。
(木次さんと知り合いなんですかね……? そんな情報掴んでませんけど、初対面にしてはかなり必死に追いかけてましたが……男のコですねー、うんうん)
髪の尻尾を振り回しながらナージャが考えていたら、不意に分厚い手に乗るタブレット端末が差し出された。
「すまぬ……変な画面が出てきたのだが、どうすればいいのだ?」
「あのー? これ、軍参謀本部情報総局のシステムに繋がる専用端末ですよね? 対外情報局所属のわたしが触るの、いろいろ問題だと思うんですけど?」
日本語に切り替えられた頼みに、ナージャも日本語で困惑した。
国家防衛の意味においては目的が同じだが、共に秘匿性の高い任務を持つ、異なる組織だ。情報の守秘義務はあって当然のこと。
「わかっておるが……三〇年前にはこんなもの、なかったのでな」
「現場に復帰するなら、IT機器に慣れてくださいよ……今や必須なんですから」
ジェネレーションギャップを埋めるお爺ちゃんと孫娘の会話をしながら、仕方なくナージャは端末を操作する。起動し放題だったアプリをフリックして一部停止させ、使いかけだったコミュニケーションツールをメイン表示させる。
「とりあえず様子見なら、わたしはもう行きますね? なんか呼ばれてるみたいですし」
モスクワの軍参謀本部情報総局本部と背後の人物とで、そんなやり取りがなされていたのが見えてしまったので、ナージャはタブレット端末を返し、背中を壁から離した。
「ナージャー! 片付けに来ーい!」
「はいはーい! ちょっと待ってくださーい!」
学生とスパイの二枚看板は、なにかと忙しく大変なのだ。
ロシア対外情報局を抜け、総合生活支援部に入部した今では、過去形として語れることであるが。
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そのような時間だから、坂道の交通量は一方的だった。つまり体育祭が終わったため、子供も乗せた保護者が運転する車が、山腹の修交館学院から神戸中心部に降りていく。
そのガラガラな反対車線を、ジーンズにオールシーズンジャケットを着たライダーを乗せて、シンフォニー・ブルーの大型スポーツバイクが登った。
横断幕が外された通用門を徐行運転でくぐり、駐車場でヘルメットを脱いで、背の中ほどまでの黒髪を手櫛で整えたところで。
「あら?」
ゲイブルズ木次悠亜は、駐車された箱型トラックを見上げる少女に気づいた。
「フォーちゃん。こんなところでなにやってるの?」
「お前でありますか……」
近づいて声をかけると、赤毛のボサボサ髪と額縁眼鏡でかなり隠れた、感情のない灰色の瞳が振り返った。
夫の『研究成果』である少女とは、一応ではあるが、知り合いではある。市内に住んでいながら、関係者の夫と一切会おうとしないため、用事で学院に来た折に悠亜から会ってみたのが始まりだ。
「なんの用事で学校に?」
「樹里ちゃんがさらわれた件で、つばめに呼び出されて。もー、なんなのよ? 樹里ちゃんはほっとけって割に、色々荷物持って来いとか、ワケわかんないわよ」
顔を見知っているというだけで、それ以上の付き合いはない。だから社交性皆無の無愛想な少女は、早々に愚痴をこぼす悠亜を無視し、コンテナに描かれた『HRING』のロゴをまた見上げた。
「それで。さっきの質問。この車がどうしたの?」
悠亜が持つ社交スキルでは、少女と打ち解けるのは無理だと諦めて、当初の疑問を再度ぶつけた。
「ミス・キスキを鹵獲した、フリングホルニ社の車輌なのでありますが、どうしたものか考えていたであります」
少女が一応の説明を果たした直後、ロックがかかったコンテナの扉がわずかに軋む。一度では済まず、ひと呼吸ほどの間を空けて揺れ続けた。
「車輌そのものもでありますが、捕獲したSセクションの工作員たちの処遇も」
揺れの原因とコンテナ内の状況も、端的に少女が説明してくれた。
「詳しいこと、なにかわかったの?」
「体育祭の最中、手荒な真似はしていられないであります」
「じゃ、終わったから丁度いいわね。私がやるわ」
悠亜はコンテナの扉に取り付き、揺れのタイミングを見て一気に開いた。
すると、作業服の上からガムテープでグルグル巻きにされたミノムシが、高さのある地面まで肩口から転がり落ちてきた。
「……! ……!」
口にもガムテープが貼られていたため、批難も悲鳴も泣き言も洩らすことができない。
「はーい。ちょっと質問があるから、大人しくしてね?」
悠亜は営業用の明るい声を出しながら、その男の胸倉を、細腕一本で掴み上げた。あまつさえ、彼が出てきたばかりのコンテナに再び放り込む。
コンテナ中にはもうひとり、同様の恰好をした男がいた。足も腕も縛られた状態では、やはり立つこともままならないため、寝転がっている。それが普通であって、同じ拘束を受けて尚、体当たりをしていた彼の根性を褒めるべきだろう。
「抜け出そうとする元気があるなら、答えられるわよね?」
コンテナに入った悠亜は、ジャケットの内側に右手を突っ込みながら、投げ捨てられ頭を強打して呻く男の口から、ガムテープを引っぺがした。
「私の可愛い妹を拉致った経緯、知ってる限りのこと、教えてくれない?」
自由を取り戻した口が吐こうとした言葉を、悠亜は笑顔で突っ込んだ黒光りする銃口で押し返す。
彼女が片手で握るのは、MAG-7――南アフリカ共和国・テクノアームズPTY社が短期間のみ製造した、ポンプアクション式小型散弾銃だった。銃身は短く銃床が排除された、短機関銃のような外見と使用目的を持っている。
脇に吊るしていた様子はなかったのに、実際悠亜の懐から出てきた得物は、大口径拳銃を上回る凶悪さを持つ。引金を引けば生まれる惨状と、若い女はそれを笑顔のままやるであろうことを理解し、男の瞳に恐怖が浮かんだ。
「コシュも手伝って」
ささやかな抵抗も諦めていた、寝そべったままの男の相手はというと、ガションガションという機械音の数秒後に現れた。
「……!?」
コンテナ内部視点で見れば、いきなり入り口いっぱいの異形に覗き込まれれば、肝を冷やすだろう。『頭』がないのに覗き込まれるのだから、尚更に。
しかもタイヤの足で器用に段差を乗り越え、サスペンションがひと際縮んで揺れ、コンテナの中に入ってこられれば。
変形した《コシュタバワー》の、細型マフラーの指で掴み上げられた男の気分は、いかほどのものか。
「フォーちゃん。つばめにここにいること、伝えといてくれない? あと防音かけるから、ドア閉めて」
「……了解であります」
体育祭が終わったからいいようなものだが、学校の片隅で作られる非日常な光景に、なにか言いたげな逡巡を少女は見せた。しかし結局は拷問室と化すコンテナの扉をそっと閉めた。
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「う……?」
堤十路が目を覚ましたのは、赤みを帯びた光が透けるカーテンに囲まれた、ベッドだった。
枕元に置かれていた、携帯電話の時刻表示は、記憶する時間から三時間ほど経過していた。
そして違和感に気づく。
(……体が軽い?)
具体的にはわからないが、注入された毒は時間と共に分解されるような成分ではないだろう。体外に排出されるまで影響があり、少なくとも昼寝程度で回復しないないはず。
なのに体が快調すぎた。任務続きでたまっていた疲労感までも消し飛んでいた。
例外は、どこかでぶつけたのか、部分的に熱を持っている頭部のみ。
首を傾げながら、十路はベッドから降りた。服装に変化なく、運動着姿のままだった。
カーテンを開けると、事務机やテーブルだけでなく、身長体重計や薬品棚が目に入る。
反射的に医務室だと十路は思ったが、場所と設備の貧弱さに、ここが初めて目にする『保健室』と呼ばれる場所だと思い至った。
「あれ? 目が覚めてた?」
遠慮なく音を立てて引き戸を開いた人物が、突っ立っていた十路を発見する。
長久手つばめの姿は、日中見たレディーススーツから変わりない。ただしその手には、傷だらけの黒い追加収納ケース――十路の空間制御コンテナが提げられていた。
「…………状況説明、お願いします」
記憶は屋上でプッツリと途切れている。しかしオートバイのリアシートから落下する直前までは、はっきりと覚えている。
だから苛立ちを押さえた不機嫌声で、つばめに頼んだ。
「ジュリちゃんはヘリで空輸されてそのまま。行方はわかってないけど……」
つばめはテーブルにケースを置き、更に地図が表示されたタブレット端末を置く。
「ジュリちゃんの空間制御コンテナに仕込まれてるGPSの反応が、今もここからずっと動かない」
そして表示されているアイコンを指した。
「携帯電話のGPSは?」
「そっちは反応なし」
「ヘリの行方、航空管制か会社の運用記録かなんかで、追ってないんですか?」
「もちろん追跡した。そしたら着陸したのは、ここ」
ちゃんと爪が手入れされた、大人の人差し指が液晶の上を滑る。
頭痛に耐えるように額に指を当てて、十路は言いたいことを整理して言葉をしぼり出した。
「…………怪しすぎだろ」
GPSが示しているという場所は、神戸港の一角。
ヘリが着陸したという場所は、人工島内にある公共施設・神戸ヘリポート。
十路の常識からすれば、事態発生から数時間たってもGPS反応があること自体が異常だった。
民間用でも数百キロの航続距離を持つヘリコプターが空輸したにすれば、着陸地点があまりにも近すぎる。
真っ先に罠という発想に至った。