045_0030 【短編】灯に暈ける祭の追懐・肆 行摺
白金髪頭に国民的ネコ型ロボットのお面を乗せて、綿菓子のビニール袋を提げて、チョコバナナを咥えて。
『祭ではしゃいでる外国人』程度には、周囲は気にしなくなる風情で、ナージャは人通りが増えた道を歩いていた。
が、履き慣れぬ下駄でよろめいた。
「あ!」
その拍子に、前方から来た男の上着に、チョコバナナを押し付けてしまった。
「Oh...! I'm Sorry...Are you all right?(ごめんなさい、大丈夫ですか?)」
だからナージャは、男が取り落とした紙袋を拾い上げ、英語で早口に謝罪する。
グローバル社会に対応するため、義務教育で英語を学んでも、外国人から早口の英語で話しかけられれば、大抵の日本人は泡を食う。
「気をつけろ……!」
男は一言だけ日本語で吐き捨て、乱暴に紙袋を取り返し、足早に去っていった。
「二流さんがなにをおっしゃいますやら。こういう技術は手先だけじゃないんですよー?」
その背中を見送り、聞こえるはずのないぼやきを漏らして、ナージャは隠していた左手を袖から出す。
ブランド物の財布を確かめると、ちゃんと紙幣が入っている。あのタイミングでは中身を抜く暇などなかっただろうが。
「お婆さん」
だから、屋台で足を止めていた見物客に近づき、笑顔で声をかける。
「おサイフ、落としましたよ。気をつけてくださいね」
孫と一緒に来た様子の上品そうな年配女性は、外国人に話しかけられ少し面食らったようだが、ハンドバックに手を入れて事態を遅れて理解した。
笑顔で礼を述べる老婦人と子供に手を振り、ナージャは再び歩きながら、携帯電話でコゼットに連絡する。
『はい。どうしましたの?』
「警察に連絡して人を動かしてください。スリの犯行現場に遭遇。目立つのは避けたので、泳がせています。犯人は小野八幡神社付近から通りを南へ移動中」
コゼットがなにか言おうとした気配を見せたが、口を開く暇を与えずナージャは続ける。
「犯人は年齢三〇代半ば男性。身長一七〇センチくらい。中肉中背。ワシ鼻で、向かって左の顎に目立つホクロ。夏なのに薄手の黒いジャケット着用、チョコバナナの染みがついてます。まぁ、『アイラブ日本橋』なんて書かれたネタTシャツ着てましたから、間違えようがないと思いますけど」
『……スリは現行犯以外だと、立証が難しいですわよ?』
正確な犯人像報告に、コゼットは呆れ声になった。確認は一応といった雰囲気なので、なにが行われたか推測したかもしれない。
「持ってた紙袋にサイフが三つほど入ってました。しかもスった直後のサイフをスリ返して、代わりにわたしのサイフを入れてます。お金は大して入ってないですけど、免許証入れてますから、捨てられないうちに確保お願いします」
だからナージャは、電話越しでも伝わりそうなホンワカ笑顔で肯定した。
『それ、違法捜査じゃねーです……?』
「わたしのサイフ以外に証拠があれば問題なしです。それに捜査権限のないただの学生ですよ? 権限ないのに違法捜査なんて、したくてもできないですよ~」
『堤さんみたいな強引な詭弁を……冤罪起こすんじゃねーですわよ』
「了解でーす。お願いしまーす」
明るく返事をし、ナージャは携帯電話を袂に収める。
部活時に身につける腕章は懐に入れたまま、彼女は単独で巡回していた。
本来ならば最低でも二人一組での行動が望ましい。しかし警察の補助とはいえ、たった五人と一台で広い警戒地域をカバーするには、単独行動も致し方ない。異常が起きても《魔法》の機動力があれば、すぐさま駆けつけられるという思惑もある。
そしてナージャが担当しているのは、花火大会の見物客が詰め掛ける海岸側ではなく、小野八幡神社――市役所近くに立つ、オフィスビルに囲まれて立つ神社近隣を歩いていた。
きっと時間からすれば、花火を観る目的で移動しているだろうが、それでもまだまだ人が多い。
だから特定の場所に視点を定めず、彼女は眺めるように視野を広くする。そして言葉にすれば矛盾しているが、人々の顔の向きと手足の位置に注目する。
例えば重要人物の警備把握には、人物がなにに注視し、咄嗟の時に動こうとしているか否かで見破る。それには昆虫のようなものの見方が必須となる。
先ほどもそれで異常を感じて注視し、スリの現場を目撃したため行動した。ぶつかった拍子に紙袋の中身を確かめ入れ替えたのも、全て軍事外交アカデミーで学び、訓練してきたものだ。
(お祭りですか……何年ぶりですかね)
周囲を警戒して歩いていると、先を行く親子連れが見えた。
帰るのか、それとも花火を観るために場所を移動するのか。三人とも浴衣姿で、母親と父親が少女を挟んで手をつなぎ、明るい夜道を歩いている。
その姿に、思い出す。
父親と、まだ本当の母親が生きていた過去。
幼い頃の、家族との、祭の記憶。
彼女が知る祭とは、当然ロシアのものだ。しかし国の文化色を除けば、楽しげな雰囲気は共通しているため、会話と風景から記憶が蘇る。
隣町にやって来た移動遊園地。日本では廃れた遊園地でも見なくなった、小さなメリーゴーラウンドに乗り、母親に手を振り返した。
設営された大型テントで頬張った、温かいクレープと冷たいアイスクリームの味に笑うと、蜂蜜酒を飲む父が顔を綻ばせていた。
バター祭は春の訪れを祝うとはいえ、まだ雪が残る帰り道は寒かった。だから両親に挟まれ、二人と手を繋いで、それぞれのコートのポケットに手を入れられた。
(わたしにも……あんな頃があったんですよね)
奥底に仕舞い込んで、忘れた頃に取り出して懐かしむことしかできない、埃にまみれた宝物のような、やがて埋もれ朽ちる記憶だ。
もう母はいない。父はあのような笑顔は見せないだろう。
新たに磨かれることは、決してない。
総合生活支援部の場合、きっと誰もが似たようなものだと思う。
《魔法使い》を嫌う国に生まれたコゼットは、両親とは決別状態にあるどころか、肉親の姉と戦ったのは、まだ記憶に新しい出来事だ。
樹里と野依崎については不明だ。入部前、対外情報局による調査でも、両親の名前すらわからなかった。ただし、家族の話が彼女たちの口から出てことはない。樹里にしても、姉とその夫である義兄については話を聞くが、両親の話は一言も聞いたことがなく、存在すら感知できなかった。
十路と南十星の両親は、早世している。
誰もが『まとも』と呼べる家族関係にはない。
やはり《魔法使い》という存在は、当人だけでなく、周囲にも影響を与えてしまう。
その中で、まともな家族関係が築けるか考えれば、まず無理だろうと誰もが予想する。
だから『邪術士』と呼ばれる。
名残惜しむように、ナージャは家族連れから視線をはがす。
そして歩き出そうとしたが、考えを変えて足を止めた。
祭の今日は、どこに行っても人がいるだろう。だから人気のない場所におびき出すのも、容易ではない。
だから懐の小袋から《魔法使いの杖》を取り出し、電源を入れる。
【携帯電話ではなく無線となると、ナージャですか? なにか異常事態ですか?】
PHSよりは大きいが衛星通信電話よりは小さい、奇妙な携帯通信機器を耳につけると、イクセスが応答した。
「いえいえ、そういうわけではないです」
【では、なんですか?】
「いやー、射的でフィバー中でして。そんなわけで、しばらく持ち場離れてお仕事サボりまーす」
【アホかぁ――!?】
合成音声の怒声を最後まで聞かずに、ナージャは明るく言って電源を切り、懐に収める。
苦しい言い訳なのは理解しているが、強引に時間を作るには、これくらいしか方法が思いつかなかった。
「そういうわけなので、ご用があるなら早くして頂けませんか?」
先ほどから一定の距離を開いていた人物に、振り返る。顔には笑顔を浮かべるが、気を引き締めた緊張感を漏らしながら。
人波から頭が突き抜ける巨躯に、黒地の浴衣を身につけた、老年の域に達した男が立っていた。
「師匠」
元軍参謀本部情報総局特殊任務部隊特殊偵察班長、リガチョフ・オレグ・サノスケヴィチ。
彼女のもう一人の父親と呼べる人物であり、師であり――今は敵と評するべきであろう人物。
右袂が頼りなく揺れているのは、一見すれば懐手に思うかもしれない。
しかしナージャは知っている。彼の右腕を斬り落としたのは、他ならぬ彼女自身なのだから。
「伝言を頼まれてな。連絡手段はいくらでもあったが、面と向かって伝えるのが筋と思うたのでな」
ナージャが右腕に視線を向けたのに気づいた節はあるが、それについてはなにも言わなかった。
彼はただ、ごく簡潔に用件を済ませた。
「プラトンが倒れて入院した」
「…………そうですか」
理解が浸透するのにしばし時間を要したが、動揺は生まれなかった。ナージャ自身が驚くほど、返事は冷たい声になった。表情筋を意識すれば、顔になにも浮かんでいないのが自覚できる。
普段の朗らかな彼女しか知らない者が見れば、別人かと眉間に皺を作るだろう、冷酷な無表情だった。
ナージャの正式な名前は、クニッペル・ナジェージダ・プラトーノヴナ。父称のプラトーノヴナとは、『プラトンの娘』という意味がある。
つまり、実の父親の報せに、彼女はこんな反応しかできなかった。