010_0100 現代を生きる《魔法使い》Ⅰ~堤十路という学生~
修交館学院高等部三年生・堤十路の、学生生活における目標は、普通に生きること。
「Что с вами? (どうしました?)」
心身健全・学業成就・金運招福、いずれも大成なんて望んでいない。風邪で寝込んでも肺炎で入院しなければOK。百点は無理でも赤点取らなければ問題なし。金持ちになれなくても借金がなければそれでいい。
何事もほどほどで十分なのだ。過ぎた幸福は災いになる。
「おーい? 十路くーん? もしもーし?」
一応は彼女いない歴=年齢に当てはまる。ただし恋愛願望なんてゼロに等しく、草食系どころか絶食系。彼女が出来るのを首を長くして待っていない。
顔の作りは悪くはない。しかし無気力感に溢れ、しかもそんな表情だと目付きが悪く見えるため、モテる心配をする必要もない。
「つんつん」
休憩時間の教室で、菓子パンふたつとパックのオレンジジュースで昼食を済ませた。校庭でミニサッカーをしているクラスメイトたちに、一緒に遊ばないか誘われはしたが丁重にお断りし、顔を隠すようにうつらうつらと意識をまどろませている。
六月のまだ厳しくない陽射しの下、窓際の席で寝そべる彼の姿は、引き締まった体躯と無造作な短髪が相まって、まるで日向ぼっこしている野良犬だった。
「むぅ。無視ですか」
彼は一週間前、この学校に転入したばかり。珍獣扱いされる一大イベントが過ぎ、とりあえず『普通のヤツ』という評価をクラスメイトたちが下せば、後は平穏なもの。
今後は人間関係に致命的な欠陥にならない程度に人付き合いして、ただし過ぎると色々問題が起こりかねないので、ある程度の距離も忘れない。
トラブルはご免したいので、問題が起こりそうな要因は可能な限り事前に排除し、解決不可能なら逃げることも辞さない。
そのように普通の学生生活を送るつもりなのだが。
「てりゃ」
むにゅんと、物体Xが背中に貼りつく生活は、想像してなかった。
「胸押しつけてくんなっ!」
大きさ・温もり・柔らかさ。いずれも申し分なし。背後から抱きつかれ、嬉し恥ずかしな感触を惜しげなく押しつけられた上に、バニラの香りに似たガールズスメルも鼻に届く。
男としては非常に嬉しい状況のはずだが、十路は物体Xの持ち主が、からかっているだけと知っている。苛立って飛び起きたものの、またかと思う程度で――
「…………」
「なに下半身を確かめてるんですか」
「興奮してませんよ?」
彼も年頃の若い男なので、ちょっと来るものがあったらしい。
しかし背後の彼女は、その程度のリアクションでは満足しない。
「たびたびやってると、淡白な反応しか返ってこなくなりましたね」
「あのなぁ? 女の自覚あるのか?」
「そりゃありますよー。だから十路くんにしかしませんし」
「俺に気があるわけでもないだろ……そういうのは相方にでもしてやれよ」
「ヤですよ」
「んぐっ?」
後ろから回った手が、十路の口に飴玉を放り込んで、言葉の続きを塞いだ。
背中に貼り付く女子生徒は、料理研究部員だからか不明だが、甘いものをいつも食べており、大阪在住の年配女性並によく飴をくれる。
「最近の十路くん、面白くないですよー」
物体Xの持ち主が背中からはがれて、前に回って十路の視界に入って来た。
日本人女性平均から頭ひとつ抜けた長身。長袖のカーディガンで覆う白い肌。学生服を押し上げる抜群のプロポーション。アジア人にはない整い方の顔。なにより目立つのは、腰まで流してリボンでひとまとめにしてある、白金色の珍しい髪。
日本語を話すのが不自然なほど、見た目は完璧に外国人だった。
いつもはホンワカした笑顔を浮かべているが、今は子供っぽく唇を尖らせているクラスメイトは、ロシアからの留学生。その名をナージャ・クニッペルという。
「転入したての頃は、もっと面白い反応をしてくれてたのに……」
「ナージャが気配を消して背後を取ろうとするから、過剰反応してただけだ……」
「顔を真っ赤にして、うろたえてくれてたのに……」
「あれは反射的にナージャを殴り倒しそうになって、焦ってたんだが……」
「あの頃の純真な十路くんはどこに行ったんですか!?」
「……おけ。わかった。了解。忘れた純真を取り戻す努力をする。だからチと黙レ」
口の中で飴を転がしながら、十路はナージャを軽く睨む。
日本語が流暢+ハイテンションな性格=まともに話していると疲れる。けれども転入生の十路はなにかと世話になるため、あまり無碍にもできない。
「今日もお昼は菓子パンですか? 栄養偏りますよ?」
「男の一人暮らしだと、弁当作るのも面倒だからなぁ……」
「学食は?」
「人ゴミ苦手って言ったろ……」
「でしたら、わたしがお弁当作ってきましょうか? ご飯の上にハートマーク描いたのを」
「……そうだな。料理研究部員のナージャならお手のものだろうし、頼もうかな」
「…………え?」
気のない十路の言葉に、軽口を叩いていたナージャが、笑顔のままで固まった。
「顔赤くしてモジモジしながら可愛いハンカチに包んで渡してくれば尚良し。一緒に同じおかずの弁当広げて『あ~ん』とかやって見せつけような」
「十路くん、色恋沙汰に興味ないとか言ってましたよねぇ!? なのにそんなこと求めるんですか!?」
「嫌がるなら最初から言うなよ……」
胸を押しつけたり、腕を組もうとしたり、軽い肉体的接触は平気でやるのに、こういう話題を出すと顔を赤くしてナージャはうろたえる。
日本人以上に日本人なのに、その辺は日本人の感覚とは違うんだろうかと考えつつ、十路は机の上に再度グデーっと伸びる。
「いいなー。十路はよー」
いじけた声に顔だけ上げると、いつ学食から戻ってきたのか、前席の椅子を反対に座り、脱力している男がいた。
染めたウルフヘアを軽く固めた野性味のある頭が特徴的。しかし顔立ちはどちらかというと整った女顔。なぜこの男子生徒は、この外見に相応しい中身を持っていないのかと、十路は常々思っている。
「やぁ。『高遠くん』」
「十路ぃぃぃぃっ!? 他人行儀になるほど話しかけられたくないのか!?」
「そこまでは言わんが、ナージャと和真が揃うと、やかましいんだよ……」
高遠和真。彼もまた十路のクラスメイトで、転入生の十路はなにかと世話になるため、あまり無下にはできない相手第ニ号だった。
「ナージャって、十路にえらく構うよな~? 俺には全然そんなことしないのによ~?」
「だって和真くんより十路くんのほうが、からかい甲斐がありますし」
ナージャは気紛れな猫タイプ、対し和真は構って欲しさ全開の犬タイプ。クラスメイトという一点を除き、共通点があまりなさそうなのに、なぜかこのふたりはよく一緒にいる。
「いまだに関係がよくわからんのだけど、ナージャと和真って付き合ってるわけ?」
「それはもちろん――!」
「いいえ? まったく? これっぽっちも?」
「三重否定……」
意気込んで肯定しようとした和真と、すぐさま明るく否定するナージャの差が、十路の目に痛い。
「……念のために聞くけど、和真。どこまで本気なんだ?」
「そりゃどこまでも本気さっ!」
和真はサムズアップでイイ笑顔を浮かべる。
「……念のために聞くけど、ナージャ。和真のこと、どう思ってるわけ?」
「お友達としては面白い人ですけど、それ以上は遠慮したいですねー」
ロシア人がアメリカナイズに、肩の高さに手を上げて首を振る。
温度差どころかベクトルが違う。すれ違いどころか完全一方通行だった。
「……まぁ、和真と付き合うのは、俺もどうかと思うけど」
「Why!? なぜ!?」
「節操ないから。バカだから。ドMだから」
「十路まで三重否定かよ!? てかそれは否定させろ! どこが節操ない!?」
「部長と木次にも、それっぽい声かけてただろう」
「どこがバカ!?」
「その上でナージャに言い寄ってどうなるか、学習能力があるのか疑う」
「どこがドM!?」
「そして転入生の俺でも見慣れた、いつものやりとりになるから」
そこまで和真に説明して、十路はナージャを指差す。人差し指では失礼なので親指で。
「試しに今ここで、ナージャに男らしく告白してみろ」
「応っ!」
こういう場合、普通は躊躇するものだと思うのだが、高遠和真という漢は違った。
「ナージャ! 好きだ! 付き合おう!」
少なくないクラスメイトがいる昼休憩の教室だが、しかし衆人の姿は彼の目には入っていない。伝えた想いはこれ以上ないほどに真っ直ぐだった。
「かは――っ!?」
真っ直ぐには真っ直ぐと言わんばかりに、往年のプロレスラー、アブドーラ・ザ・ブッチャーの十八番、喉に突き刺さる地獄突きが応えた。
「けほっ……! ごほっ……! それほど嫌なのか……!」
「いい加減にしてくださいね? 和真くんとお付き合いする気、ないですから」
床でのたうち回る和真を見下ろし、ナージャはため息をつく。
ちなみに教室にいる誰もが、このやりとりに一瞥以上の注目はしない。和真が剣道部員のために喉への打撃に慣れていると思われ、しかも一〇分もすれば復活しているので、心配する意味がない。そして明日には、また同じことを繰り返すと思っているから。
「和真くんとお付き合いするくらいなら、まだ十路くんがいいです」
「ガッデェェェェッムッ!」
「……ん、まぁ、別にいいけどな? だけどその強調はモヤモヤするんだがな?」
ともかく十路のなにが気に入ったのか、なぜかこのふたりは絡んでくる。親しくしてくれるのはありがたいが、こうも賑やかで振り回してくれると非常に疲れる。
ふたり合わせて、『普通の学生生活』という十路の目標を妨害する要因の、三つある理由のひとつとなりつつある。
「あ。そうそう。十路くん」
床でのたうつ和真は無視する構えらしい。ナージャが顔を覗き込んでくる。
「放課後、時間あります? ちょっと買い物したいんですけど、行って帰ってくると時間がかかりますから」
「で、俺を足にしようって?」
「いえ、国際免許は持ってますから、足を貸してもらってもいいんですけど」
「あのな、ナージャ――」
十路が文句を言おうとしたその時、きっと誰もが一度は聞いたことのある映画音楽が鳴り響く。ちなみにこれは十路の趣味ではなく、家族に勝手に設定されてしまって以来、変えるのも面倒なのでそのままにしてある。
机の上で脱力したままスラックスのポケットを探り、携帯電話を確認すると、メールが着信していた。
タイトルは簡潔極まりなく、たった二文字だけだった。
「『部活』ですか?」
「あぁ……なんか六限にやるっぽい。公休扱いにするから出ろって」
「十路くん、転入したばっかりなのに、授業サボって大丈夫なんですか?」
「まだ追いついてないけど……六限は物理か? まぁ、なんとかなるか」
「得意科目でしたっけ?」
「前の学校でそれができないと、致命的だったからな……一応高校レベルは最後まで勉強させられた」
「わぉ」
それが今の学校で『普通の学生生活』という、十路の目標を妨害する要因の、三つある理由の二番目。
彼がこの学校で所属し、入部が転入の条件でもあった部活動だった。
「大変ですね、《魔法使い》さんは」
「ま、これがこの学校に転入する条件だから、仕方ないけどな」
そして『普通の学生生活』という、十路の目標を妨害する要因の、三つある理由の最後。
その部活に所属する者たちが、《魔法使い》と呼ばれる特殊な人材であり、十路自身もそう呼ばれる者であること。
ただし彼の場合は少々特殊で。
堤十路は、『出来損ない』を自称していた。