はい喜んで、とはもう言わない
はい喜んで、とはもう言わない
「佳乃のために言うけどさ。俺たち、この婚約を一度白紙に戻したほうがいいと思う」
日曜日の夕方、野村佳乃はスーパーの袋を両手に提げて帰宅したところだった。玄関には婚約者の桐山翔太が靴を履いたまま立っている。袋の持ち手が指に食い込み、底に入れた豚肉のパックから冷たい水滴がジーンズに落ちた。
「……今、何て言ったの?」
「白紙に戻したいって言った。佳乃は何を頼んでも『はい喜んで』って引き受けるだろ。俺の実家の法事も、妹の引っ越しも、部署の持ち寄りパーティーの料理まで。俺もそれに甘えて、自立できなくなってるんだよ」
翔太の足元には、佳乃の知らない店の紙袋があった。薄い口からリボンの結ばれた箱が見え、甘い香水の匂いがする。佳乃は先週、翔太が「同期の真奈美にもらった」と言って持ち帰ったみかんの箱を思い出した。送り状には翔太の名前と、知らないマンションの住所が並んでいた。
「これからのことを考えたら、痛みを伴う決断も必要だろ。俺は佳乃のためにも言ってる」
佳乃は買い物袋を持ち直した。翔太に頼まれた仕事を断るたび、「困ってる人を放っておけるんだ」と言われた。引き受ければ、翔太は礼を言い、次の頼み事を持ってきた。その繰り返しを自分でも止められなかった。
「真奈美さんと、どういう関係なの」
「今その話をする? 俺たち自身の問題だろ」
「答えて」
「……付き合ってる。でも、佳乃を傷つけたくなかったから、ちゃんと順番に話そうとしてた」
翔太は紙袋の取っ手を指に掛けたまま、佳乃の顔を見た。玄関の照明に照らされた頬には、ひげを剃ったあとの赤みが残っている。今朝、その頬を見ながら佳乃は、弁当に入れる生姜焼きの肉を漬け込んでいた。
「あ、今日の夕飯、生姜焼きだろ? 真奈美も下で待ってるんだ。せっかく買ってきたなら、二人分持っていってもいい?」
佳乃の指から袋が落ちた。キャベツが転がり、底にあった卵のパックから小さな音がした。十個入り百九十八円の特売品で、一つでも割れると袋の中が汚れる。しゃがんで確かめようとしたが、膝が曲がらなかった。
「ふざけないで」
「食材を無駄にするよりいいだろ。佳乃だって、料理を褒められるのは好きじゃないか」
「あなたと、その人の夕飯まで作れって言ってるの?」
佳乃の声が玄関に響いた。翔太が身を引く。怒鳴った自分の声に佳乃も驚いたが、今度は声を小さくできなかった。
「法事のとき、私が台所に立ってる間、あなたは親戚とお酒を飲んでた。妹さんの引っ越しでは、私が休みを取って荷造りした。先月の料理だって、食材を買いに行って作ったのは私よ」
「だから、そういうのをもうやめようって話をしてるんだろ」
「やめたいのは、私のほうだった」
口にしてから、佳乃は息を止めた。頼まれるたびに断りたいと思い、結局「はい喜んで」と答えてきた。そのことを翔太には一度も伝えていない。自分の声で聞くまで、佳乃はそれをはっきり認めることもできなかった。
「今日は帰って。荷物のことは、あとで連絡する」
「ここ、俺の家でもあるんだけど」
「賃貸契約は私の名義。今は顔を見て話せないから、帰って」
翔太は「急に怒鳴るなよ」と言い、紙袋を持ってドアを開けた。廊下から女性の声がして、翔太が低い声で何か返す。二人分の足音が階段のほうへ遠ざかってから、佳乃はようやくしゃがんだ。
卵は二つ割れていた。袋の内側を伝う黄身に、キャベツの外葉が貼りついている。佳乃は流しからボウルを持ってきて、無事な卵を一つずつ移した。最後に指についた殻を洗い流しても、豚肉のパックはしばらく袋の底に置いたままだった。
翌朝、佳乃はいつもどおり会計事務所へ出勤した。仕訳の数字を二度打ち直しても合わず、三度目は伝票の日付を間違えた。所長の佐伯が席まで来て、佳乃の前に置かれた書類を伏せた。
「野村さん。少し休みましょう」
給湯室で冷たい緑茶を渡され、佳乃は紙コップを両手で持った。佐伯に「何かあった?」と聞かれ、最初は寝不足だと答えた。だがコップの縁に口をつけたところで、昨日割れた卵のことから話し始めてしまった。翔太の交際相手が階下で待っていると言われたことまで話すと、緑茶はすっかりぬるくなっていた。
「私にも、断る機会はあったんです。法事だって引っ越しだって、嫌だと言えばよかった」
「そうね。これからは断っていいのよ」
佐伯はそこで話を止め、佳乃が顔を上げるのを待った。佳乃はコップを握り直した。自分で言い出したのに、翔太と同じように「断ればよかった」と言われると、昨日の玄関へ戻された気がした。
「でも、昨日の婚約破棄も、相手の夕飯を作れという頼み事も、あなたが引き受けなくていい。二人で買った物や住まいのことは、先に記録を確かめましょう。賃貸契約書と、支払いが分かるものはある?」
「あります。家計簿アプリに、家具のレシートも残してます」
「では、それを整理して。金銭的な請求ができるかは、弁護士に相談しましょう。今日は入力を代わるから、午後は帰って休みなさい」
佳乃は「はい、喜んで」と言いかけ、紙コップの縁を見た。佐伯は書類を引き受けてくれたのだ。佳乃が何かを返さなければならないわけではない。
「……ありがとうございます。午後は休ませてください」
佐伯は「そうして」と答え、給湯室を出た。
部屋へ戻る途中、佳乃はドラッグストアで卵と食パンを買った。玄関には、昨日自分が片づけたはずの翔太の靴がまた置いてあった。リビングに入ると、クローゼットの扉が開き、何着か服がなくなっている。テーブルには鍵と、「必要なものは持っていった。残りは後日」と書いたメモがあった。
佳乃は鍵を引き出しにしまい、クローゼットの中を写真に撮った。翔太の荷物はまだ多く残っている。勝手に送ってしまえば、何が入っていたかでまた争うだろう。佳乃は賃貸契約書を取り出し、入居時に翔太を同居人として届けた書類を見つけた。
その夜、仕事用のノートに項目を書き出した。家賃は月十一万円で、引き落としは佳乃の口座。敷金と礼金、冷蔵庫、洗濯機は佳乃が払った。テレビとソファは翔太が買った。二人で半分ずつ出した食卓だけは、レシートの裏に互いの名前と金額が書いてあった。
棚の上には、二重底の弁当箱が置かれている。翔太の外回りが増えたとき、冷めたご飯を嫌がる彼のために買ったものだった。生姜焼きは薄い肉を短い時間で焼き、冷めても硬くならないようにして詰めた。帰宅した翔太が「今日のはうまかった」と言う日は、佳乃も翌朝の弁当を作りやすかった。
佳乃は弁当箱を手に取り、ふたを開けた。洗ったつもりだった溝に、乾いたご飯粒が一つ残っている。翔太が好きだったのは、弁当を作る佳乃だったのか、それとも佳乃が作った弁当だけだったのか。考えても答えが出ず、シンクでふたの溝を洗った。水気を拭いてから、自分の茶碗の隣に置いた。
翔太からは、夕方にメッセージが届いた。
『昨日は言い方が悪かった。でも、佳乃も今まで断らなかっただろ。俺だけ悪いみたいにしないでほしい』
佳乃は返事を書きかけて、消した。断らなかったことは事実だ。だからこそ、これからどうするかは、自分で決めなければならない。代わりに「残りの荷物を引き取る日時と、家具の扱いを決めたい。連絡は文章でお願いします」とだけ送り、ノートにその日付を書いた。
法律相談では、婚約に至る経緯や同居の費用、翔太とのやり取りを順に聞かれた。佳乃は家計簿と契約書の写しを出し、婚約破棄に伴う請求については、どの事実を確認できるかも含めて相談した。真奈美の公開投稿は保存していたが、それだけですべてが決まるわけではないと言われた。帰りの電車で佳乃は、作ってもらった確認事項のメモを何度も読み返した。
翔太の荷物は、日時を決めて引き取ってもらった。佳乃は友人に同席してもらい、玄関から運び出した箱の数を確認した。翔太がソファを持っていき、食卓は佳乃が使うことになった。互いに立て替えた費用と家具の分け方は、あとから書面でも確かめた。
「こんな細かいことまで書く必要ある?」
翔太は食卓を指した。二人で選んだ日には、店の展示品に並んで座り、狭い台所に入るか寸法を測った。佳乃はその天板の傷を見てから、手元の紙を翔太に渡した。
「あとで、言った言わないになるのは嫌だから」
「佳乃、こんな人だったっけ」
「今、決めておきたいの」
翔太はそれ以上言わず、紙を読んだ。最後の箱を持って廊下へ出るときも、佳乃はいつもの調子で「重いから気をつけて」と言いそうになった。友人がドアを押さえていたので、佳乃は箱が通るだけの幅を空けた。
その後も翔太は、何度か「ちゃんと話したい」と連絡してきた。佳乃は必要な費用の確認には答え、それ以外には返信しなかった。二人の間の金銭の整理が終わるまでには、思ったより長くかかった。翔太がいなくなった部屋でも、家賃の引き落とし日は毎月来たし、佳乃は働いて、食べて、洗濯をした。
土曜日の朝、佳乃は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。以前なら翔太の昼食を考えながら起きた時刻だ。布団の中で献立を探し始めてから、今日は誰にも弁当を作らなくていいと思い出した。
台所には、先日買った食パンが残っていた。佳乃は一枚をトースターに入れ、フライパンで卵を焼いた。翔太は黄身の固い目玉焼きを好んだが、佳乃は火を早めに止めた。白身の端が少し縮れ、黄身は箸を入れれば流れ出る。
焼けたパンにバターを塗り、食卓の自分の席に座る。棚には洗った弁当箱があり、来週は残り物を詰めて職場へ持っていこうと思っている。今日は使わない。
佳乃はパンをちぎり、まだ熱いところを口に入れた。溶けたバターが指につき、トーストの端が皿に落ちる。ティッシュを取りに立つ前に、佳乃はもう一口食べた。誰も出勤しない土曜日の朝に、パンが冷めるのを待つ理由はなかった。




