第一話 風の精霊と、青い角の魔獣
王都アステリアは、白い石造りの塔と、尖塔屋根の並ぶ美しい都だった。
中央には王城がそびえ、その背後には古い森が広がる。森は王家と神殿の加護を受けた“精霊の森”と呼ばれ、古くから風や火、水、土の精霊が棲むと伝えられている。
その森に最も近い屋敷に住むのが、リディア・ヴァルローズだった。
彼女は侯爵家の令嬢でありながら、社交よりも精霊との対話を好む少し変わった少女である。
「セレス、今日は風が穏やかね」
窓を開けると、薄青い光がふわりと揺れた。
それは彼女の契約精霊――風の下位精霊セレスだった。
姿は小鳥ほどの大きさで、羽のような薄膜を持ち、淡い光をまとっている。言葉は持たないが、風の流れや温度の変化で感情を伝えてくる。
今日の風はやわらかく、少し甘い花の匂いを運んでいた。
「森の奥で、何か咲いたのかしら?」
セレスはくるりと回転し、肯定のように風を揺らす。
リディアは外套を羽織り、庭へと降りた。
侯爵家の庭は広く、魔法薬草や精霊が好む花々が植えられている。魔獣除けの結界も張られているが、完全ではない。
この世界では、魔獣は恐れるべき存在であると同時に、自然の一部でもあった。
凶暴な個体もいれば、精霊の影響を受けて穏やかな“成獣”へと変化するものもいる。
神殿では、成獣は「浄化された存在」として研究対象にもなっていた。
「お嬢様、また森へ?」
振り返ると、幼なじみであり王家の分家にあたる令息、エドガーが立っていた。
剣の稽古帰りらしく、額には汗が滲んでいる。
「少しだけよ。今日は風が良いの」
「それ、理由になります?」
「なるわ」
即答に、彼は小さく息を吐いて笑った。
「では、僕も同行します。護衛として」
「護衛なんていらないわ。セレスがいるもの」
するとセレスが得意げに風を巻き起こし、エドガーの前髪を乱した。
「はいはい、頼もしいですね」
そんな軽口を交わしながら、二人は森へ足を踏み入れる。
精霊の森は、不思議と静かだった。
鳥の声も、木々のざわめきも、どこか澄んでいる。
森の奥へ進むにつれ、風の流れが変わった。
セレスが突然、鋭く旋回する。
「……セレス?」
空気が、ひやりと冷えた。
低い唸り声。
茂みの向こうから現れたのは、一頭の魔獣だった。
鹿に似た体躯。だが額には青い結晶の角。
瞳は濁り、荒い息を吐いている。
「青角鹿……?」
エドガーが剣に手をかける。
「待って」
リディアは一歩前に出た。
青角鹿は本来、温厚な魔獣だ。
だが今は、魔力が不安定に乱れている。
「暴走しかけている……」
セレスがリディアの周囲に風を集める。
彼女は静かに息を吸い、両手を広げた。
「怖がらなくていいわ。あなたは、悪くない」
言葉に応じるように、風がやわらかく魔獣を包む。
青角鹿は角を震わせ、地面を蹴った。
突進する――
その瞬間、リディアは風を螺旋に編み上げた。
荒々しい魔力を包み込むように、そっと。
セレスの光が強まる。
風が、青角鹿の角を優しく撫でる。
やがて。
魔獣の呼吸が、ゆっくりと整った。
濁っていた瞳が、澄んだ琥珀色に戻る。
角の青は、透き通るような淡い色へと変わっていた。
森に静寂が戻る。
「……成獣化、した?」
エドガーが信じられないという顔で呟く。
リディアはそっと青角鹿の額に触れた。
「大丈夫。もう苦しくないわね?」
青角鹿は小さく鼻を鳴らし、森の奥へと歩いていった。
風が、祝福のように揺れる。
だが。
その背を見送りながら、リディアは小さな違和感を覚えていた。
暴走は、自然発生ではなかった。
あの魔力の乱れは――
どこか、外から“揺らされた”ような感触だったのだ。
セレスが、不安げに風を震わせる。
遠く、王都の方角から鐘の音が響いた。
神殿の正午の鐘。
いつもと同じ音。
けれど今日の風は、ほんの少しだけ、冷たかった。
「……何かが、変わり始めている」
リディアの呟きは、森に溶けた。
まだそれが、小さな波紋に過ぎないことを、
彼女自身も知らなかった。




