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第04話:エンド・オブ・ザ・ワールド

陽が落ちて月明りが辺りを照らす夜。

相変わらず周囲は静かで、空気は昨日よりも澄んでいるような気がする。なんとも過ごしやすい良い夜だ。


俺とサキはあの川辺の小屋にたどり着き、改めて無人を確認してから荷物を置き休息を取っていた。

といってもサキはもともと最低限の装備すら無かったのでそのままだったが。


先ほどのガラクタ漁りで手に入ったのはかろうじての保存食と、あっても無くても大して変わりのないフォークや布といった日用品だけ。

まあこんなのでも売れば多少の日銭にはなる…尤も、次に訪れるのが取引等ができる"マトモな"街ならばの話だが。


サキについては…大体役に立っていなかったが、それでも思った以上に頭がいいのかもしれない。


なにせ、エレベーターについて俺が本で見た知識を説明するまで知らず、なんならあのコンクリートの建物を見るのも初めてと言っていた…そのくせに、地下に手つかずの領域があることには一瞬で気づいた。

また、彼女はどうやら文盲のようだが、煙草の包装に書かれていたアルファベットを興味深そうに眺めていた。文字が読めないのは珍しいことじゃないが、普通そういう奴はハナから文字なんかに興味を示さない。

とはいえ、やはり彼女には戦前の知識どころか、ここらの地域――"キャピタル"の状況についても知らないことが多すぎる。その奇妙な風貌もあって、彼女はまるでまったく異なる場所からやってきたみたいだ。


ただ、サキが俺にマシンガンの如く話題を振ってくるせいで、それについて尋ねることは出来なかった。

とりあえず、俺がポークビーンズの缶詰が好きだってことを聞いたからには、次はその作り方を聞いてくることだろう。この終末後の世界でポークビーンズを作るなんてとても無理だ、なんて言ったら彼女は悲しむだろうか?


まあそんな感じで、ある意味大変な一日だったが、会話の甲斐あって彼女がやたら未知のものを持ってきたり、未知の場所に突っ込んで行くことは無くなった…気がする。

何か見つけたらまず俺に聞き、問題ないとわかったものだけ心行くまで観察しているようだった。

まあ、基本は悪い奴じゃないんだろう。




◇ ◇ ◇




サキは一日中喋ってはしゃいでとさすがに疲労が溜まったのか、靴を脱ぎそこらへんの棚に腰かけて気だるげに足をぶらつかせている。

俺はというといつも通り、外套を敷いてその上で座り込み、小さな鍋とビニール布をセットしている。

もちろん銃はすぐに取り出せるが敵には見つからない場所…ボロボロに腐食したソファと床の間に隠してある。


「ねぇ…さっき"世界は滅びた"って言っていたけど、どうしてそんなことが起こったの?」


「…帰りに話したことについてか?」


「そう。話を聞く限りだと、あの町とか、そのほかの建物にも昔は人がいっぱいいたんでしょ?ここらへんは見渡すかぎりびるや建物があるけど、それなのに今は人一人いないじゃない。ここに住んでいた人たちはどこへ行ってしまったの?」


両手を座り込んでいる棚につけて脚をぶらぶらさせながら彼女は話す。上がった両肩と緩やかに反った背中が滑らかなラインを描くが、突き出た背中の羽根もピコピコと動いてシルエットをぶち壊した。


「さあな。何しろ昔の話だから、俺も噂で聞くくらいしか知らない。でも、お前の言う通り、昔ここには夥しい数の人間が住んでいたらしい。そいつらは毎日車に乗って何十キロも先に仕事に出かけて、レストランで食事をして、スナック食いながら映画を見ては、シャワーを浴びてベッドで寝ていたとか。今は瓦礫の山だが、あの廃墟にはすべての部屋に明かりが灯っていたらしい。信じられるか?」


昔に人から聞いた話、本で読んだ話、今なお各地に残るボロボロの看板やポスター広告……それらの情報を総合的につなぎ合わせてできた"戦前"のイメージを語る。サキは疲れた様子ながらも、俺の方を見つめて真摯に聞き入っているようだ。


「まあ、それにしても廃墟の数がやたらと多いのは、当時としてもここは特に人が多い地域だったらしい。何しろキャピタルだからな。」


「きゃぴたる?」


「ああ…首都って意味だ。この国の――ここら辺の地域、って意味じゃない。この地平線の向こうのまた向こう…この大陸の端から端までバカでかい一つの国だったらしい。ほら、そこに古い紙が貼ってあるだろ?上の方に書いてある赤と青のやつがこの国の旗だったらしい。」


そういいながら壁のポスターを目で示す。壁にはかつて政府が国民へ呼びかけるために発行したプロパガンダポスターがボロボロの状態で残っていた。

色褪せながらもカラフルな色彩で書かれたそれには、頑丈そうな金属のアーマー…現代の人間が着る粗雑なものとは全く違う、科学技術の結晶である核バッテリー駆動の全身鎧を身にまとった人物が、巨大な星条旗を掲げてこちらへ指を向けている。

その足元にはイカした字体で「Our Country Needs YOU!」と書かれている。一体何の募集なのか、どうせロクでもないことを市民に強いていたんだろう。


「その紙が書かれた頃は文明が凄まじく発展していたらしくてな。水なんて蛇口を捻ればいくらでも出るし、航空機…空飛ぶ機械の乗り物とかがあって、他には世界中のコンピュータが繋がって遠くの国の奴とも瞬時に会話ができたらしい。そのポスターの人間が着けてるのはどんな攻撃も無効化する防具だとか。」


「へぇ…すごいのね…。」


「そう。でもある時にすべてが変わっちまったんだ。原因は誰も知らないが、よく言われるのはこの国と、もう一つの同じくらい大きな国が戦争をしたという話だな。目で見えるよりもずっと遠く…想像できないほどに遠い場所から互いに爆弾を飛ばしあって破壊したとか。爆弾には放射能ってのが含まれていて、それで今の世界はあちこち汚染されまくっている。まあ、結構説得力ある話だな。」


「そんなことが……。」


「で、それから200年以上経ったらしい。焼け跡でわずかに生き残った俺たちは汚染区域を避け、瓦礫の山から古い物資とテクノロジーを掘り出してなんとか生活してるってわけだ。いやぁ、涙ぐましいね。」


素直に話を聞いてくれるサキを相手に、柄でもなくべらべらと語りすぎてしまった。

なんとなく最後をおちゃらけてごまかそうとするが、サキは真剣な面持ちのままだ。


「まあ世界のあらましについてはそんなところだ。別に聞くべきことでもなかっただろ?」


「ううん、ありがとう。この世界のこと知れて良かったわ。」


サキの真剣な表情になんだか面食らってしまい、視線を手元に移すが半自動水収集機(仮)のセットは終わってしまった。

所在なさげに手をぶらつかせるが何を掴むわけでもなく話に意識を向けざるを得ない。


「……そう…この世界は悲しみに包まれているのね……。もしかしたら私がここに来た理由も……」


「あん?なんだって?」


「いや、何でもないわ。じゃあ次は、あなたがなんでやたら周りを警戒しているか気になるわ。他の人間が滅びてしまったのなら、何をそんなに警戒しているの?」


「ところがどっこい、人間はまだ生きているのさ。かつてに比べりゃゼロといっても良いくらい減ってるかもしれないけど、全滅したわけじゃなかった。で、この土地は汚染のせいで食料も水も足りない。みんなに平等にわけてはいOK、とは行かないんだなこれが。」


「じゃあ……」


「つまりこういうことだ――」




◇ ◇ ◇




わずかに生き残った人類に、それすらも賄いきれないくらい少ない物資。誰しも自分が生き延びるために必死になって、気が付いたら互いに奪い合う関係になっちまったってわけだ。サキは知らないかもだが、昨日コイツと出会う直前に俺を追っていた奴らはそういった略奪者の一団だったのだろう。


略奪者ってのはこの世界を生きるのにそういう生き方もあるって気づいた人間の末路だ。大体は不良か傭兵崩れで、血と暴力に飢えていて、問題の解決は理知的な方法より暴力的で短絡的な方法を好む。

生き残っている人間すべてが略奪者かというとそうでもないが、大体は一方的に略奪者に蹂躙されるのをなんとかギリギリのところで凌いでいる奴らばっかりじゃないだろうか。


「…それに、人間のほかにも野生動物が終末を生きのびたらしいが、さっき言った放射能の影響で狂暴化して化け物のようになってるんだ。まあ元の姿を知らないから本当に放射能の影響なのかは何とも言えないけど、とにかくそういったクリーチャーには会いたくない。」


終末を経て人間が変わってしまったように、動物や植物も変わってしまったらしい。といっても動物の場合は文字通り姿形が変わっているが。大抵戦前のものより巨大化・狂暴化しているらしく、人間を見れば餌として狩りに来ることだろう。

すべての動物が人間を襲うハンターになったわけではなく、一応家畜のように人間と共存している動物もいるが、人間の生存圏外で見る動物は基本的に敵だと思った方が良いだろう。


「…で、極め付きはその放射能だな。正確には"放射線"と"放射性物質"の吹き溜まりだが、まあいいだろ。とにかくこの放射能が人間の体に有害なんだ。長く浴びていると血が出たり、毛がごっそり抜けたりして、浴びすぎると死ぬな。昔の戦争のときに使われた核爆弾のせいで今もそこら中に放射能が残っていて、汚染区域じゃまともな植物がほとんど生えないから食料の栽培もできない。」


どうしてこの国が滅亡に至ったかは知らないが、この放射能が人類の破滅に大きく貢献したというのは間違いないだろう。

ただ町が破壊されるだけなら瓦礫を拾い集めて再建できる。食べ物が無ければ農業や狩猟で食料を得ることができる。略奪者が出てくるならこちらも徒党を組んで町を守る、もしくは食料や水と引き換えに取引でもすればよい。

だが、人体に有害な放射能がそこら中にまき散らされたせいで、ほとんどの水源は汚染され、植物は育たない。

もちろん、あらゆることに例外はあるが、奇跡的に生き延びたわずかな水源や植物だけでは生き残った人類を賄いきれない。そのためにほとんどの奴は戦前の保存食を漁ったり、命がけで野生動物を狩って食料を得たり、塵の混じった汚染水を飲み干したりと、今日を生きるのに手一杯だ。




◇ ◇ ◇




ここまで喋ると、サキはショックに打ちのめされたような表情になった。多少の地域差はあれど、どこの土地だってこんなことは周知の事実、もはや常識だと思っていたが…それを知らないあたりもしかしたらサキは噂に聞く戦前のシェルター出身なのかもしれない。

噂ではシェルターは戦争前に建設され、今もずっと扉が閉じたままで、中では当時の人々の子孫が安心安全に暮らしているらしい。まあその話はもはや伝説と化しているし、この理論だとシェルターにいる人間は角や羽根が生えてるのか、っていう議論が始まっちまいそうだが。


「……といったところかな。わかったら、今度からはちょっと会話の頻度を落としてくれ。もしくは、もう少し静かに話してくれるとありがたいな。」


「…わかったわ。ごめんなさい、もしかしたらあなたの身を危険に晒してたのかもしれないのね…。」


「そのことはいい。どんなに頑張って忍んでも嫌な奴らに見つかるときは見つかる。一応身を守る手段だってあるし、やばけりゃ逃げればいい。」


「身を守る手段?」


「銃のことだよ、わかるだろ?…知らんのか?」


能天気に首を傾げる彼女。いやそれは不味いだろ、さすがに銃を知らないのは命がいくつあっても足りない。

先ほど家具の合間に忍び込ませたリボルバーを掴み、良く見えるようにかざしながら話を続ける。


「…こいつが銃だ。鉄でできた、機械仕掛けの遠距離武器。火薬の力で金属の粒を高速で…目に見えないほどの速さで撃ち出すことで、当たれば人間の身体くらいなら簡単に穴が開く。」


「そうなの。恐ろしいわね。」


「ああ。だから気をつけろ。相手がこういう鉄の機械を持っていたら要注意だ。」


「わかったわ、覚えておく。」


「…さて、じゃあそろそろ寝るか。ずいぶん話し込んじまった。」


思えば今日は随分と多く言葉を発した気がする。

常に隣に付きまとってくる誰かさんに根掘り葉掘り、常に止むことのない言葉の攻撃の対処に加え、危険なことをしでかさないか気を張っていたため大分疲れた。

げんなりしながらやり取りを交わすうちに精神力すら持って行かれたのか、気が付けばコイツに対しての警戒心も大分薄れてしまった。


そんなことを思いながらも、疲労を回復させるため俺の身体は勝手に横になろうとする。だがサキはまだ寝るつもりのないようだ。


「あ、ちょっと悪いけど先に寝ててくれるかしら?」


「なんだ、なんかするのか?」


「あ、いや、ちょっと…その…ね…」


なぜだか若干頬を染めて言い淀むサキ。一体なんだと思ったが、ちらちらと小屋の外に目を向けているあたりトイレにでも行きたくなったのかもしれない。なるほどな。


「じゃあなんかあったらすぐ知らせろよ。おやすみ。」


「ええ、おやすみなさい。」


その言葉を合図に、明かり代わりに皿の上で燃やしていた古い本に金属製の蓋をかぶせた。いずれ消えるだろうし火事になる危険はない。

真っ暗になった小屋の中、サキはドアを開けて外に出ていく。


暗闇の中一人になり、思わずふーっと溜息めいて息を吐き出し寝返りをうつ。


そうして数分も経ってくると次第に思考がとぎれとぎれになり、脳みそが休眠を取ろうとする。

心地よい満足感を覚えながら、遠くからぴしゃりぴしゃりと響く水の音に想いを馳せる。

いつだって水は貴重だし、こんな風に音を立てて贅沢に使うなんて久しく記憶にない。戦争前だったら、俺も毎朝きれいな水で顔を洗ったりしたんだろうか……。


ぼんやりした頭であり得ない未来を夢想するが、俺の今までの人生で培ったものが、微かな違和感を訴える。それが何かはわからなかったものの、ずっと思考の片隅に残り続けてあと一歩眠りへと陥らない。なにが俺の眠りを妨げるのか。今も聞こえるこの断続的な水の音…


水の音?


まるで水を掬って掛けてを繰り返すような音だ。当然、俺の水筒はここにあるし、渇き切った荒野に掬えるほどの水は存在しない。昼間見た、古い川に残っているいかにもクリーチャーが居着いてそうな水たまり以外は――。

それを認識した瞬間、俺はガバっと起き上がった。先ほどまでのまどろみなんて一瞬で消滅した。あのバカ、いったい何やってるんだ!?


急いで周囲の最低限の荷物と銃を手に取り、俺は小屋から出て行った。




◇ ◇ ◇




月明かりが地面を青白く照らす中、一人の女が静かに歩みを進める。

その一挙一動は流れるように上品なもので、それでいて艶やかさを伴っている。それは彼女の纏う雰囲気が、見る者にそう感じさせるのかもしれない。


人間のものではない角と羽根を備えた彼女は古い小屋を出て、近くの水場にやってきた。

しゃがみこんで水をひと掬いして何かを確認すると、立ち上がってするりと衣服を脱ぎ落とす。


何も動くものがない、音さえしない滅びた世界で、月明かりに照らされて水浴びをする彼女の姿は美しいものだった。

黒い大地の上で月明りを受ける眩い白い肌はこの世界で唯一汚れなく、異形の尻尾と羽根があってもなお、彼女が悪魔だと糾弾するものはいない。たった今、この場所だけは、略奪者も、核爆弾も、何者もこの完成された光景を壊すことを思い留まるだろう。


(水場が近くにあってよかったわ。今日は結構汚れちゃったし、この後のことを考えると汗は流しておきたいしね……♪)


だが、そんなことは当の本人は意にも介さない。果たしてこの後に何があるというのだろうか。

それが何なのかはさておき、彼女はぱしゃり、ぱしゃりと身体に水を掛ける。ふぅ、とリラックスした息を吐き出し、濡れた長い髪の毛を掻き上げる。次いで顔を洗おうとした彼女だが、その長い耳が何かを捉えたのかピクリと動く。


はっとして後ろを振り向く彼女。見据える先は何もない。干上がった地面と、遠くに見える建物の瓦礫のみだ。

だが少しの間そのまま見つめ続けると、闇の中からこちらに向かってくる影がある。彼女の旅のパートナー、"漁り屋"の彼だ。


「……サキ?」


手で影を作り目を凝らしながら、彼が恐る恐る、といった様子で語りかける。

対して彼女は――


「きゃぁっ!エッチ♪//////」


どこか嬉しそうにしながらも、急いで自分の腕で自分の身体を隠すように抱いた。




◇ ◇ ◇




頼りない月明りの元、瓦礫で転ばぬよう、音をたてぬよう慎重に歩いた。

辺りは非常に静かで、危険な気配はない。動くものは何もなく、願わくば先ほどの音は聞き間違いだと思いたかった。

いくら常識知らずの女でも、さすがに昼間あんなに近づくなと言った水場でなんかしている訳ないだろう。一縷の望みをかけて、目を細めながら近くの水場へと向かった。


だがその女は見事に俺の望みを打ち砕いてくれたようだ。


俺が近づくのに気付いたのか、水辺に立つそいつは水浴びを止めてこちらに振り向く。しばし状況が理解できなかったのか、あるいは俺の姿が捉えられなかったのかなんのリアクションも取らないまま立ち尽くす。

するとそいつは、何回か瞬きをした後、


「きゃぁっ!エッチ♪//////」


頬を赤く紅潮させて、照れたように身体をくねらせながら潤んだ目で叫んだ。

だが、今の俺にそんなことを気にかけている余裕はない。これ以上ないほど状況は確定したが、なるべく小さな声で怒鳴りながら彼女を池から離れさせようとする。


「なにやってるんだ、すぐ戻れ!水辺にはあれほど近づくなって言ったのがわからないのか!?」


だが彼女はなにが悪いのか、といった表情で返す。


「…聞いたけど、それは放射能?と野生動物がいたらの話でしょう?この水は綺麗そうだし、周りに何もいなかったから…」


「馬鹿!放射能は目に見えないんだ!そこら中に含まれているぞ!それに一見なにも居ないように見えても、水辺には――」


俺はそれ以上言葉をつづけられなかった。ズズズ、と地面を揺らすような、土をかき分けるような音が聞こえたからだ。

ぴちゃりと水面が跳ねる。サキの髪の毛から雫が垂れ、水面が揺れる。だが――それにしては波紋が大きすぎる!


「サキ!」


事態が手遅れになったことを察した俺は彼女の元へ走り出す。

彼女も傍に置いてあった衣服を掴むが、違和感に気づいたのか後ろを振り向く。俺が駆け出してすぐ、サキの目の前の地面が水しぶきと共に割れ、辺りに泥をまき散らせながら"ソイツ"が現れる。


……身長は人より低い。だがシルエットは決定的に人とは異なり、黄緑がかった表皮はガチガチに硬い。

虫のような節で構成される胴体といくつもの脚は硬い殻で覆われ、横には2本のでかい鋏をもっている。戦争前には突然変異前のこの生き物がペットとして飼われていたらしいことが未だに信じられない。

こいつは水辺に棲む甲殻類で、遭遇頻度も高いことからこの地域では略奪者を除き1、2を争う勢いで恐れられている。

性格は獰猛かつ執拗。満腹のときはおとなしいらしいがそんなことはまずなく、獲物を見つけたときと自らのテリトリーを脅かされたときはその巨大な鋏で敵を切り刻もうとどこまでも追ってくる。中の肉は結構美味いらしいが、生半可な装備じゃまずこっちが奴に喰われるのがオチだ。


そんな生物――"マッドラーカー"の寝床に、俺とサキは不躾に踏み込んでしまったのだ。

そいつは安らかな眠りを妨害されたことに激怒しているかのように、身体を震わせ鳴き声をあげた。


「ゃ…なにこれ!?」


「逃げろサキ!」


なんとか奴より早くサキのもとで辿り着くことができた。サキの腕を引き、すぐに逃げようと後ずさりする。

しかしサキが戸惑っていることと足場が悪いことにより思うように後退できない。そんな俺らを前に、マッドラーカーは両の鋏を横に広げ、ガチガチと音をあげながら、その躯体に見合わない俊敏さでこちらに迫ってくる!

反撃は全く考えていなかったが、このままもたもたしていた末の未来を予期した瞬間、俺は左手でサキを引き寄せるとともに、右腕で腰元から銃を抜いて突き出した。


そして躊躇うことなく引き金を引いた。


「きゃっ!!」


バンッ、と辺りに眩い閃光と、一瞬遅れて爆音が鳴り響く。右手の中で小さな爆発が起こるが、反動を抑え、いなす。

超至近距離まで近づいたからか、弾丸は奴の外殻で覆われていない顔面に命中した。肉片と体液をまき散らせ、キュゥゥ、と気味の悪い甲高い鳴き声を上げる。

しかし、奴は鋏で顔を抑えて立ち止まったものの、致命傷には至っていないようだ。


「サキ、走れ!」


「…っ!!」


硝煙漂う銃を持ったまま彼女の肩を抱き、共に走り始める。今の銃声がきっかけとなったのか、背後の水辺からいくつも泥を弾き飛ばす音がする。おそらく、何体もいたであろう他の個体も起こしてしまったようだ。


俺は彼女を誘導しながら、川辺のボロ小屋――ではなく、川の土手にある金属製の扉へ向かった。昼間小屋の周りを調べたときに見つけた、おそらく戦前の下水道用のメンテナンスドアだ。

あれだけの数を相手にあんな掘っ立て小屋じゃあとても攻撃を凌げない、こっちの方がいくらかマシなはずだ。


靴まで脱いでいたためにモタモタしているサキを半ば抱きかかえるようにして走り、メンテナンスドアに辿り着く。

前回ここを使用した何者かがドアに鍵をかけていたら一巻の終わりだったが、それは杞憂だった。錆びついたドアを力任せに開き、月明りさえない文字通り真っ暗闇へ飛び込む。

下水へ入ってすぐに、背後の扉を締める。念入りに備え付けの鍵までかける。どういう意図なのかわからないがこの扉はやたら分厚く、おそらく奴らの鋏では壊すことはできない。


「はぁっ、ハァっ、はぁ…」


その場で止まって荒い呼吸を繰り返す。

分厚い金属製のドア越しでは外の様子はわからないものの、カシャカシャと音を立てて奴らがドアの前に押し寄せている光景が想像できる。その証拠に、くぐもった小さい音だがゴンッとぶつかるような音が聞こえ、ガリガリと何度も引っかくような音も聞こえる。

だが、とりあえずは安心して良いだろう。


「はぁ…はぁ…はぁ…………ふぅ…。」


「ぁ…。」


いつのまにかしっかり抱き上げていたサキをその場に下ろし、コンクリートの地面に座り込む。サキの残念そうな声が聞こえたが気のせいだろう。

それよりこいつの無事を確認すべきか。


「…サキ?大丈夫か?」


「―――――?ぇ…ぁ…?」


「サキ?おいサキ!」


「わ!ちょっ、いきなり////…え?なに?あれ?ちょっとまって、声が…」


声を掛けても反応がない彼女に声を荒げ、暗闇で手を伸ばして肩っぽい場所を掴むがまともな返答がなくじたばたと暴れるばかり。なんだ?錯乱しているのか?


「おい!落ち着け!もう大丈夫だ、奴らはいない!」


「――え?なんて言ったの?痛っ、まって、耳っキーンってなってる…!」


「耳?」


その言葉に思わず手を止めるとサキが動いて肩から手が外れる。しまった、そういうことか。

先ほど咄嗟に発砲してしまったが、位置が近かったせいで一時的に耳が聞こえなくなっているのかもしれない。

顔を寄せて大きめの声で話してやる。


「おい!聞こえるか!?」


「なに?聞こえるわ!どこ?遠くにいるの?待ってよ、置いていかないで!」


「ここだ!ここにいる!目の前にいる、落ち着け!ほら、な!?」


耳が聞こえづらくなってる上に急に暗闇に入ったから、言ってみれば2つの感覚を一度に失ったようなものだ。パニックに陥る可能性も十分ある。

こんなところで唯一の同行者にパニクってもらっては困る。声をかけ続けながら、手探りで彼女の小さな手を何とか探り当てて握ってやる。すると間髪入れずに握り返してきて、それどころかその手を頼りに俺の身体のほうに突っ込むように倒れ込んできた。


「ねぇ?いる?ここにいるの?」


「いるだろ!目の前にいる、落ち着けって!お前耳が聞こえなくなってるだけだよ、だから――」


急に距離を詰められて思わず一歩後ずさりするが、彼女はそれよりも早く両腕を回して抱きかかってきた。

そしてひと言。


「だからお前――」


「――行かないで…」


「っ……。」


そのひと言を最後に、俺に抱き着いたまま何も言わなくなった彼女に言葉が出てこなくなり、後ずさっていた脚も動きを止める。


(………なんなんだよ、こいつは)


その後数分間、暗闇の中妙な姿勢のまま立ち尽くすことになった。




◇ ◇ ◇



「…で、大丈夫か?」


「…ええ。大丈夫よ。お騒がせしました!うん、びっくりしただけ。怪我はしてないし。大丈夫です!!」


「そうか。耳聞こえるか?目は?この指何本に見える?頭は?」


「もうばっちり聞こえるわ。少し痛みというか違和感はあるけど…って、暗闇でそれやっても見えないじゃない!」


その後、いつ終わるとも知れない静寂を彼女の静かな言葉が打ち切り、どうやら大きい声を出さなくても意思疎通ができるようになったと分かった。


ここまで叫べる元気があるなら大丈夫だろ。耳のほうもどうやら復活したみたいだし。

拳銃とはいえ近くでいきなり発砲しちまった結果、聴覚に障害を残した可能性を考えると少々バツが悪い。といっても四の五の言えた状況じゃなかったし別に後悔はしてないが、というか元はといえばコイツが悪いようなもんだし、そもそも銃声一発程度でパニックにならないで欲しいもんだ。いままで銃を見たことすらないらしいから耳が慣れてないとかそういう感じかもしれないが。


そんなこんなで比較的落ち着いたコイツと俺は暗闇の中、硬いコンクリートに座り込んで適当に会話を交わしていた。深刻なダメージも無いようだしそろそろこれからのことを考えなきゃいけない。


「……ところでねぇ、さっきのあれは何?もしかしてあれが野生動物?」


「"マッドラーカー"だ。水辺に住み着く野生動物で、奴らは執念深い。俺たちがここに入ったのを見たからしばらくはドアの前で見張っているだろう。ここから出たら俺たちは奴らの晩飯だ。」


やっぱりというか奴らのことを知らなかったらしい。片手で頭を抱える。


「ああ…水辺には近づくなって言わなかったか?」


「…ごめんなさい。」


呆れからか低いトーンになってしまった俺の言葉に対し、彼女は申し訳なさそうに謝罪する。


「はぁ……。」


さあどうしたものか。ようやく今いる場所について情報を整理することができるが、この場所は暗く、俺たちの他には一切の物音がせず、におい、温度、風の動きといった何かの気配は感じられない。しばらくここに居てもとりあえずの危険はなさそうに思える。

ただ、次第に目が慣れてきたものの、それでもこのメンテナンス用の通路は暗すぎて何も見えない。


通路を進んでいけば明かりや休息を取るのに適した場所があるかもしれないが、さすがに手探りで進むのは危険だし、そもそも進んだ先に何があるかも不明。

かといってこのドアを開けるなんて論外だ。どうやら今日はここで夜を明かすことになりそうだな。


俺が何も言わずにいたからか、サキは再び謝罪の言葉を口にする。


「………本当にごめんなさい。」


「…いや、大丈夫だ。別に怒っちゃいないさ。」


半分は嘘だが。まともな寝床でゆっくりできそうだと思ってたらこれか、という安寧を奪われた本能的な怒りはどうしたって沸く。

とはいえ、これだけ無知な彼女の動向を注視しなかった自分のミスに対する憤りのほうが大きい。それに、ここで怒り散らしても事態が好転するわけでもない。

だが彼女は再三の謝罪を行う。


「……ごめんなさい。あなたの言うことをもっとちゃんと聞いておけば…。」


「…はぁ。」


よく考えれば声しか聞こえないわけだから、俺がそんなに怒ってないということが伝わってないのかもしれない。

仕方ない奴だ、と思いながら暗闇に手を伸ばし、少しでも安心させようと彼女の手を掴む。

すべすべした手をしっかりと握ると、彼女の方からも両方の手で俺の手を包みかえしてくる。


「…!」


「いいか、大丈夫だ。あいつらは馬鹿だからこの分厚いドアは開けられないし、昼に調べた感じじゃあ誰もこの下水道を使ってなさそうだった。ここで一晩凌いで、明日の朝になったら外にでて小屋に戻る。それで何も問題ない。誰も怪我してないし、何も失っていない。わかったらもう謝るのはやめろ。」


「…わかったわ。」


「…ま、そんな感じだな。」


「ちなみにだけど、他に方法はないの?この洞窟を進んでみたりとか、さっきの"銃"を使ってあの生き物を追い払ったりはできないの?」


「誰も使ってなさそうとは言っても真っ暗なトンネルを歩くのは危険だろう。で、銃の方は残念ながらさっきので弾切れだ。」


「…そう。」


硬い地面の上で少しでも楽な姿勢を取ろうと身じろぐと、彼女の濡れた髪が腕に触れた。

そういえばまだ服を着てないんじゃないだろうか?それに、握った手は冷たくふるふると震えている。クリーチャーとの遭遇に怯えている、というよりも体温が低下しているのだろう。このままでは良くないことになりそうだ。


服を着るにもまず濡れた身体をなんとかしないといけないだろう。ただタオルなんて上等なものは持っていない。このまま一晩過ごせば最悪命の危険があるし、かといって濡れたまま服を着ても同じように体力を消耗する。


俺はあることを決めると、熱を求めて俺の手に縋りつく彼女の両手を無理やりほどいた。


「あっ…。」


「とりあえずは服を着ないと身体が冷えてやばいぞ。ただ、まだ身体が濡れてるだろ。ちょっとまて。」


俺は自分の外套を脱ぎ、それを彼女に渡す――ことを考えたが、これは取っておいた方が良い。

くそ、まさか他人のためにこんなことをするとは。などと考えながら俺は自分の服を脱ぐ。まあまだ肌着を着ているから大丈夫だ。多分。

吸水力のある専用品でない上にいつ洗ったのか定かでもない服は身体を拭くのには最も適さない事だろう。正直こんなものを渡すのはどうなんだと思いつつも、いや死ぬよりましだと言い聞かせて手を止めない。そうしてぼろきれのような服を彼女に手渡す。


「それで身体を拭けよ。まあ、なんだ、あまり上等なタオルとは言えないけど無いよりマシだろ?」


「……これ。」


「みなまで言うな。正直嫌かもしれないけど、身体を冷やして死ぬよりましだ。我慢しろ。」


「いや、そうじゃなくて、これ…。」


ぽふ、と布が何かに当たるような音が微かに聞こえ、すんすんと空気を吸うような音が聞こえる。

暗くてよくわからないが、彼女は受け取った布を顔に当ててるようだ。

…おい、なにしてんだ。


「これあなたの服じゃない!そんな、身体を拭くなんて…!」


「いいから、それで拭けよ!汚れてるかもだけど、濡れたままの方がヤバイだろって!」


「そうじゃなくて!あなたの着るものを奪って自分の身体を拭くなんてできないわ!」


あ?まさかそんなことを気にしていたなんて。

自分の体臭を気にしていたわけじゃなかったという安堵と、この状況でも他人を優先する人の好さへの感心と呆れ、それから若干のめんどくささを感じながら、俺は彼女を説得する。


「…そういうことなら、俺は大丈夫だ。外套がここにあるし、実はもう一枚着てる。」


そういうと彼女は何も言わずがしっと俺の身体を掴んできた。そのままペタペタと体中を探る。


「おい、ちょっ、なにし、てんだっ!」


「…ほんとだ。ちゃんと着てる。」


「…俺が嘘ついてたとでも?」


さすがにそこまで嘘言ってまで他人を助けようとする献身性は俺にはない。俺の言葉が嘘ではないことがわかったはずだが、彼女はまだ俺から手を離さない。


「…おい、離せよ。」


「……暖かい。」


「だろうな。お前に比べりゃ。ほら、いい加減身体拭けって!俺まで濡れちまうだろ!」


そこまでいうと彼女はしぶしぶ俺の胸から手を引き、身体を拭い始めたのか静かに布の擦れる音がする。

深く溜息をついて、彼女が拭き終わるのと布面積の少ない服を着るのを待つ。

頃合いを見計らって、俺の着ていた外套を彼女にかぶせる。


「わっ!」


「着終わったか?どうせ服着ても着てないようなもんだしな。それ巻いて寝とけ。」


「…でもあなたが」


「俺は平気だって言ったろ?」


そこで会話を打ち切るように、俺はわざと大きな音を立てて地面に寝転ぶ。

彼女は何も言わないことから納得したのだろう。俺が身動き一つせずにいるとしばらくがさがさと布擦れの音がし、おそらく俺同様に寝やすい体位を探している。


しばらくの間無音だった。特に何も考えることなく瞼を閉じていると、後ろからまたも音がして、背中に俺の体温よりやや冷たい柔らなものが押し付けられる。


「ねぇ、やっぱり寒いでしょ。」


「…寝ろよ。」


「ほら、やっぱり少し震えてる。ここまでされたら気になって眠れないわ。」


「じゃあどうするんだ?お前が外套無しで寝るか?」


「まさか。私だって寒いわ。それに返しても受け取ってくれないでしょ?だから……♪」


彼女の指摘が図星でつい言葉に棘を乗せてしまうが、彼女からの提案は俺が考え付きもしないことだった。

彼女の手が有無を言わさぬ動きで俺の身体を振り向かせる。何を、と考えていると、彼女はいつの間にか地面に敷いていた外套の上に俺を寝かせ、その上に――つまりは俺の身体の上に倒れこんでくる。

俺の身体に密着する柔らかい肢体と、かすかに香る甘いような匂いに身体を硬直させていると、それをいいことに彼女は俺の腕を取ってその下にもぐり込んでくる。そして仕上げに外套の余った布地を上に被せる。


傍から見れば、俺が彼女を抱きしめて寝転んでいるような姿だった。


「ふふ♪」


「…………」


まさかこんな提案をしてくるとは。今まで人と触れ合うこと…ましてや無防備になる睡眠時に他人を近づけることなんて無かったから、この発想はなかった。

俺の上に覆いかぶさる彼女の身体は水気がしっかり取られており、髪の毛はややしっとりしているもののそこまで不快ではない。先ほどまで若干俺より低かった体温は既にほんのり暖かく、確かにこれなら二人が同時に最も暖を取れるだろう。


「はぁ……♪」


「…………」


俺の胸に顔を埋めて頬ずりする彼女はなにやら満足げな声を出している。リラックスして身体から力が抜けたのか、より彼女の身体が俺に密着する。


…いや、そうじゃないだろ。


たしかに暖かいが、そういう話じゃないだろう。なにかがおかしい。

そう激しく思うのだが、口を開いても言葉が出なかった。心臓はさっきより早く脈動しているし、すべてを俺に任せきっている彼女の身体の感覚もよくわからなくなってきて、彼女の肌に触れる腕を下手に動かすことさえしてはいけないような錯覚に陥る。

先ほどマッドラーカーから逃げたときは生き延びるのに夢中で何を感じることもなかったというのに、なにがどうなってるのか、俺の頭は静かなパニックに陥りそうだった。わずかな抵抗として、深く息を吸って吐き出すが、その空気の中にも彼女の甘い体臭が微かに混じっている気がしてもうどうにもならない。


「……ありがとう。守ってくれて。」


「あ、ああ。」


「おやすみ♪」


「…………」


彼女は大きく息を吐いて、間もなく意識を手放したようだ。俺は真っ赤に茹だった頭で何を考えることもできず、ただ意識が闇に落ちるまで、やけに大きく早い自分の鼓動が下水道に響くのを聞いていた。







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