8話『シスコン』
妹の病気を治してくれた会長はまさに恩人。
その娘である彼女が困っていたのだから助けるのは当然だ。
ただ、それでも優先順位というものがある。
少なくとも俺にとって最も優先度の高い事柄は――妹との交流だ。
それ以外は大きく突き離しての二番目。
つまり――
「俺は夜の九時までに妹に電話をしなくちゃならないんだよ!」
「うわ……」
俺の心からの叫びに九条は顔を引きつらせている。
急に大きな声で叫んだからだろうか。
「愛しの妹が家にいるならいいさ。寝る寸前まで無限に電話出来るからな」
「…………」
「しかし現実は病院! 病院というのは数多くの患者が共に住んでいる。それが故に夜九時までしか電話は許されていない! つまり俺は夜九時までしか妹と電話ができないんだよ!」
「シスコンきっも……」
俺が叫ぶ度に九条の表情が曇っていった。
それが何故か分からないが、一つだけ確かなことがある。
「俺がシスコンだと……へへ、まぁな!」
「なに照れてんのよ! 別に褒めてないの!」
「え、だってお兄ちゃん界隈で最も誇らしい称号である『シスコン』って言っただろ?」
「もう嫌……」
なにやら九条は疲れた様子だ。
しかしそれも無理はない。
倒れるほどの恐怖を味わったのだから。
「まぁまぁ、疲れた時は腹一杯食べればいい」
「それは早く食べて早く帰れってこと?」
「……はは」
「やっぱり一発だけ蹴飛ばされてくれないかしら?」
「やめてくれ」
それから九条は苛立った様子のままカレーを完食した。
食事の際に発したのは一言だけ。
「……美味しいわね」
これには俺もにっこりだ。
相手が誰であろうと料理を褒められるというのは嬉しいものらしい。
「それじゃあ、貴方の望み通り帰るわ」
「別にそこまで言っては……」
「なら、まだ居てもいいの?」
「玄関はこちらでございます」
「……ムカつく」
俺は慌てて玄関を開けて外へ誘導する。
九条は不服そうな顔のまま玄関を抜け、そしてくるりと振り返った。
キラリと白銀の髪が光を反射して輝いた。
やはり綺麗な髪だと感心していると、九条がなんと深く頭を下げた。
プライドの塊である彼女が。
「今日は助かったわ、ありがとう」
「お、おぉ……まぁ、困った時はお互い様って奴だ」
「ふふ、そうね。貴方は非常にムカつくけど、恩の受けた事に違いはないわ」
「別にそこまで気にする必要はないけどな」
「いいえ、私は借りっぱなしが嫌いなの。だからもし、なにか困ったことがあれば言いなさい。この私が手を差しのばしてあげるわ」
そう言って九条は微笑んだ。
まるで自分がいればどんな困りごとも解決してみせると言わんばかりに。
「それは心強いな。もしも俺の家にゴキブリが出たら――」
「絶対に無理っ!」
九条は拒否するように凄まじい速度で玄関を閉めていった。
「ちょっとした冗談だったんだが……」
予想以上の反応に俺は反省しつつリビングに戻った。
そして静かな部屋の中、一人寂しくソファーに座って思った。
「家族以外とこんなにも沢山喋ったのは何年ぶりだろう……?」
我ながら寂しい毎日を送ってきたものだ。
そして同時に理解もした。
どうやら俺は本当に――
「普通の学生として生きていいんだな」
推薦を貰うために全てを勉強に捧げてきた。
時間と金を浪費する事から友達は作ってこなかったし、当然学生らしい遊びもやってこなかった。
しかしそんな悲しき学生生活もお終いだ。
なにせ妹の病気は治ったのだから。
「あ、もうこんな時間だ! 一刻も早く妹に電話をしないと!」
俺は慌てて携帯から妹の電話番号を探しだし、そして電話を掛けようとしたその時だ。
――ピンポーン! ピンピンピンピンポーン!
「………………誰だよ」
凄まじい速度で俺の部屋の呼び鈴が連打されている。
まるで近所の子供がイタズラで鳴らしているぐらいの連打力だ。
しかしここは高層マンション、少なくともイタズラをするようなクソ餓鬼が住んでいるとは思えない。
ならば宅配? いいや、宅配の方がここまでの連打を披露などしないだろう。
それなら勧誘? それともトイレを貸して欲しい人? まさか近くの部屋で何かトラブルがあったのか?
そんな疑問を打ち消すように、人の部屋の玄関、そのドアノブがガタガタと回され出した。
怖い。疑問よりも恐怖が勝っている。
「はぁ……勘弁してくれよ」
俺は微かに痛む気がする頭を振った。
分かっている。目を反らしてきた可能性を受け入れる時だ。
俺は重たい足取りで玄関に向かい、そっと玄関の扉を開いた。
そしてそこには――
「遅いっ! なにをやっていたの!」
何故か怒っている九条がいた。
「ちっ……どうしたんだ九条?」
「それがね……って、え……今舌打ちした?」
「ははは、そんな訳ないだろ」
「そ、そうよね? こんなにも綺麗で可愛くて美しくて可憐な私が部屋を訪ねてきて、舌打ちをする愚かな人間なんていないわよね?」
「ちっ! 当たり前だろ……ちっ!」
「二回したわね!? この私に舌打ちを二回も!」
どうやら俺の舌は正直者らしい。
しかしそれも仕方がない。
「なぁ九条よ、俺はさっきなんて言った?」
「え、それは……九条様は誰よりも美しい……とか?」
「さようなら」
俺はそっと玄関の扉を閉じようとしたが、その寸前に必死な声が聞こえてきた。
「う、嘘よ、ごめんなさい! 貴方は今から妹さんに電話するのよね?」
「そうだ、それが分かっていながら、なんでまた来た?」
「だって……」
「だって?」
「ゴルサンの使い方が分からないの!」
「はぁ……」
俺はなんだか馬鹿馬鹿しくなって扉から手を離した。
そして不安そうな九条の横を通り抜けた。
「時間がないからさっさと済ませるぞ」
「え……あ、えぇ! 流石は私の従者ね!」
「誰が従者だ……」
突拍子もない九条の冗談に呆れながらも、俺は九条の背中を追って部屋に入った。
そして見た。
「な……なんじゃこりゃ~~!!」
綺麗に片づけたはずの玄関先がまたもゴチャゴチャと散らかっていたのだ。
まるで泥棒に荒らされたかのような惨状だ。
「ち、違うのよ? これは仕方がないの!」
「……なにが?」
「だって、ゴキサンを使用する際は棚などの密閉された場所を開放しろって書いていたんだもの!」
確かにゴキサンの殺虫効果を最大限に発揮させるためにはそれらの手順は必須だ。
だからといって――
「どうして棚や靴箱を解放するだけで、こんなにも散らかることになるんだよ!」
「靴箱とかにゴキブリが隠れている可能性があるでしょ! だから私はこのつっかえ棒で開けようと……」
「その結果がこれか」
九条彩華。彼女はまさしく才色兼備という言葉が似合うハイスペック少女だ。
だからこそ彼女の学園生活をサポートとする依頼も、苦労しつつも当然のようにこなせると思っていた。
しかし現実の彼女はゴキブリ一匹に泡を吹くほどのビビりで、そのくせ自信だけは一丁前、プライドも高く、他者との関わりを嫌っている。
そして黙りこくっている俺を、それはもう不安そうに見つめる彼女のその姿はまさに子供。
能力と思考が釣り合っていない。まさに才能に振り回される暴走美少女といったところか。
「どうやら俺の――普通の学園生活はまだ先のようだな」
それから俺は本日二度目の大掃除を開始するのだった。
気まずそうに突っ立っていた九条と共に。