39話『豹変』
玄関での一件の後、九条をリビングへと案内した。
九条が買ってきてくれたケーキを一緒に食べるためだ。
ちなみに俺は今、キッチンでお湯を沸かしながら反省している。
いまだに顔を微かに赤めている九条を眺めながら。
「異性を相手に抱きつくのは駄目だな、うん……」
九条の優しさに感極まったせいだ。あと、黒井さんへの恐怖からのギャップもある。
だからといって抱きつくなんて、感情の表現が小学生以下だ。
普通にお礼を言う……だけでは物足りなかったのも事実。
その間くらいのリアクションが最適なのだが、残念ながら朴念仁と噂の俺では思いつかなかった。
そんなことを考えていると、紅茶を淹れるためのお湯が沸いた。
俺はそれをカップに注ぎ入れながら思った。
「あ、九条、ティーパックの紅茶でもいいか?」
俺の家にはそれくらいしかないのだが、舌が肥えていそうな九条は怒りそうだ。
そう思ったので聞くと、彼女はこっちを見て言った。
「貴方が淹れてくれたものなら、私はなんでもいいわ」
間髪入れずに飛び出た答えはこれだ。
それも驚くほど柔らかな笑顔を添えて。
「……天使かよ」
本音がポロリと零れた。
俺の知る九条彩華とは、傍若無人で傲岸不遜、人を人とも思わぬ人斬りだったはず。
それがどうだ。今ではすっかり優しさと愛らしさの権化に成り代わっている。
彼女が本物なのか疑いたくなるほどだ。
「え、今なんて言ってたの?」
「いや、気にするな。ただの独り言だ」
「ホント? なにか気になることがあるなら言ってほしいわ。改善できることなら頑張るから」
そう口にする九条の顔はどこか不安そうだ。
さっきボソッと呟いたのを、自分の悪口かなにかと勘違いでもしているのだろうか。
「大丈夫だ、九条は今までも十分頑張っている」
少なくとも、誰かが化けていると思うほど変わった。
それが良い方になのだから、頑張っていると言ってもいいはずだ。
「そ、そんなことはないわ……」
「いいや、絶対に頑張っている。なにせ今日の九条は一段と魅力的だからな」
シスコンであるこの俺が、妹の姿を重ねて思い出すほどだ。
魅力的でないはずがない。
「み、魅力的っ……そう、貴方はそう思うの……へぇ……ありがと」
見てくれよ。ちょっと褒められただけで、真っ赤になった顔を必死に手で仰ぐ姿を。
少し前までの彼女なら――
『私が魅力的なのは当然でしょ』
『そんな当たり前なことをわざわざ口にしないで』
『そう思うならもっと感謝しなさい。魅力的な主人に仕えられる幸運にね』
ぐらいは言っていたはずだ。
それが今では立派に感謝の言葉まで返してくれる。
これが成長と言わずしてなんだというのだろうか。
「まぁそういうわけだ。今夜は九条の頑張りを祝いながら楽しもう」
俺は紅茶とケーキをテーブルに並べ、九条の正面に座る。
「そ、そうね、貴方がそう言ってくれるならそうしましょう」
それから俺達は楽しい一時を過ごした。
九条がケーキを食べ終え、テーブルをいきなり叩き出すまでは。
「ねぇちょっと! なんでさっきからスマホを見ているの!」
急な叱責に俺の身体はビクリと震えた。
それほどの勢いだ。
確かに俺は定期的にスマホを弄っていた。
何度も来る黒井さんからの催促のメッセージを確認していたから。
それは普通に申し訳ない。ただそれにしても急に怒りすぎだと思う。
「悪かったよ。でもテーブルを叩くほどじゃないだろ」
「貴方がスマホで何をしていたかによるわ!」
「何って……普通にメッセージをだな」
「相手は誰? 女?」
「まぁ……女といえばそうんだが……別に仲が良い相手というわけでも……」
「はい、浮気。死刑ね!」
うんうん、これこれ!
この人の意見などお構いなしの傍若無人っぷりこそ、俺のよく知る九条その人だった。
しかし少し解せないのは、急に豹変したことだ。
少なくともさっきまでは楽しく話していた。
怒り出す雰囲気は一切なかったのが、今の彼女は間違いなく怒っている。
激情に駆られて立ち上がるくらいには。
「スマホ貸して」
「え、嫌だけど……」
「なんでよ! やっぱり見られたらマズいものあるんでしょ!」
「そ、それは……」
ある。黒井さんとのメッセージもそうだが、一番やばいのは会長との電話履歴だ。
もちろん登録している名前は変えているが、なにかの間違いで電話番号を見られるかもしれない。
九条が自分の父親の電話番号を覚えている可能性もあるのだから。
「見せて! メッセージから電話までの全ての記録!」
「プライバシーの侵害だ!」
俺は隠すようにスマホをポケットに仕舞った。
いくら九条でも人のポケットに手を突っ込むような真似はしないだろう。
そう思っての行動だったのだが――
「おい! 人のズボンを剥ごうとするな!」
「貴方がスマホを隠すからでしょ!」
「だからって――おいっ! パンツが、俺の別のプライバシーが!」
「選びなさい! パンツかスマホのどっちを見せるのか!」
「なんだよその二択は!?」
それから俺は必死に抗った。
追い剥ぎにジョブチェンジした九条の魔の手を相手に。
その結果――
「ふふん、どうよ! これが主人である私の力なんだから!」
ソファーの上に立つ九条、その顔は誇らしげで妙に紅い。
そしてその天へと突き出された手には――俺のズボンが握られていた。
「……もう嫌っ」
俺は無様に床に転がっていた。肌寒くなった下半身を抱えながら。
そんな俺の目の前に一枚の紙が落ちていた。
九条が買ってきてくれたケーキ、その紙袋に入っていた紙だ。
涙に滲む視界のまま、俺はボーッと紙に綴られた内容を口にした。
「最高級のブランデーを染み込ませた生地が特徴のケーキです。ふ~ん、ブランデーね……ブランデー?」
確かについさっき食べたケーキからは味わったことのない独特の風味を感じた。
値段からして大人向けだとは思っていたが、まさかブランデーを使用しているとは。
未成年飲酒。そんな言葉が一瞬だけ頭を過ったが、九条が買えたのだから風味付け程度だろう。
それに洋酒ケーキを食べて捕まったなど聞いたこともない。
つまり法律的には問題ない。
あえて問題をあげるとすれば、微量のアルコール分で酔うことだ。
「流石にないか。これで酔う人がいるなら見てみたい……あっ」
俺は見た。いや見てしまった。
俺から奪い取ったズボンに九条が絞め殺されそうになっている姿を。
「た、助けて! 急にズボンが襲ってきたの!」
叫ぶ九条、そんな彼女を見て俺は思った。
「ブランデーケーキって酔えるんだ……」
それから俺は酔っ払った九条との最終決戦に挑むことになるのだった。




