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38話『ケーキ』

 俺は家で一人、スペアキーを握りしめて悩んでいた。


 もちろん、その原因はストーカーこと黒井さんだ。


 俺と九条の関係を知っていた彼女は、それを皆にバラさない代わりに合鍵を寄越せと言ってきたのだ。


「何に使うつもりなのだろうか……」


 俺の不安はそこだ。合鍵を渡すのはまぁいい。恋人や仲のいい友人に渡す例もあるというから。


 しかし相手はストーカーだ。なにをするのか全く想像がつかない。


 家には侵入してくるだろう。そのための合鍵なのだから。


 ならその先は? ストーカーなのだから、少なくとも俺に対して好意を抱いているはず。


 好きな相手にすること……。


「うん、考えるのはやめよう。不安しかない」


 俺は恐ろしい未来から目を背け、黒井さんに連絡した。


 合鍵の用意ができた。そんなシンプルな内容を送信した。


 これでもう後はない。もしもここが――高層マンションじゃなかったら話だが。


「甘いぜ黒井さんよ。このマンションのセキュリティは盤石だ!」


 俺はポケットから新たな鍵を取り出した。


 家の鍵とは形の違うそれは、エレベーター用のオートロックキーだ。


 この鍵を差し込まないと、エレベーターのボタンが反応しないようになっている。


 つまり、部屋の鍵があろうとも、この鍵がなければ部屋にすら辿り着けないということだ。


「悪いな、この世界は騙されるほうが悪いんだ――うわっ!?」


 部屋で一人勝ち誇っている時だ。


 誰かの訪問を知らせる呼び鈴が鳴った。


「ま、まさか……」


 最悪な想像が頭をよぎった。ありえない、そんなわけがない。


 連絡したのはまさに今。そしてモニターが真っ暗なことからエントランスからではない。


 つまりは部屋の前にその訪問者はいる。


 エントランスの暗証番号を入力し、エレベーターの鍵を持ち、そのうえで部屋の鍵を持っていない誰か。


「いやいやまさか……」


 黒井さんのはずはない。だが、合鍵の用意ができたと連絡した直後というのが気になる。


 ありえないとは思うのだが、万が一ということもある。


 しかしこのまま出ないというのも怖い。答えがずっとわからないままだから。


 だから俺は玄関に向かった。震える足で静かに。


 そして玄関の穴を覗くと、そこには――


「九条……か」


 俺はそっと胸を撫で下ろす。


 冷静に考えれば、俺の部屋を訪れる者など九条の他にいなかった。


 完全にただの杞憂だった。


「しかし何のようだろ?」


 今の時刻は午後八時。夕食を狙ってくるにしては遅いし、かといって大事な用事あるのしては焦った様子はない。


 そもそもラフな服装からして風呂上がりか? というか本当にラフ過ぎる気がする。


 まるで寝るときに着るようなワンピースだ。ネグリジェというものだろうか?


 それに何やら緊張した様子だ。長く伸びた白銀の髪、その先を指で永遠に弄っている。


「ま、黒井さんじゃないなら、なんでもいいけどな!」


 不安から解放された俺は勢いよく玄関を開いた。


 すると硬かった表情から一転、まるで花が咲いたかのような笑顔が浮かんだ。


 そしていきなり手に持った紙袋を突き出して言った。


「こ、これ、あげる! 隣町駅の有名なケーキよ!」


「隣町駅ってことは……まさかあの洋菓子店のケーキか!?」


 もしもそうなら飛び跳ねるほどの品だ。


 なにせそこは超人気店でありながら、一切の予約を受け付けておらず、凄まじい長蛇の列に並ぶしか手に入れる方法がないのだ。


 それとシンプルに高い、大人向けといってもいい値段設定だ


 つまり俺が口にすることはないだろうと思っていた一品。


 そして九条はそれがここにあると言わんばかりに頷いた。


「そうよ、その店のケーキよ」


「マジか!? あれ、でもそれって……あの列に九条が並んだってことか?」


「えぇ、一時間くらいだったからしら。でも、そのおかげで買えたわ」


「買えたって……なんでそこまでして?」


 甘党の俺と違って九条はそこまで甘いものを好んでいないはず。


 そんな彼女が一時間も並んで買うなど、相当な理由があるはずだ。


 それが気になって聞いた。


 すると九条は頬を紅く染め、ボソッと恥ずかしそうに呟いた。


「貴方が喜ぶかなって……」


 それを聞いた瞬間、俺は九条のことを抱きしめていた。


 突き出した紙袋を避け、その寒そうな格好の彼女を全力で抱きしめる。


「――ふえっ?」


 間の抜けた声がすぐ側から聞こえるが関係ない。


 俺は今、猛烈に感動している。


 昔の妹との出来事を思い出すほどだ。


 あれはまだ妹が病院で入院していた時だ。


 急に妹が病院から抜け出したのだ。


 大事な用事があるのでお出かけします。そんな置き手紙を残して。


 当然俺や両親は全力で探した。しかし見つからなかった。


 警察に連絡するかを話し合っていると、妹が帰ってきた。


 開口一番に謝る妹。心配をかけてごめんなさいと。


 妹は理解していた。いきなり抜け出したら家族に心配をかけることを。


 それでも抜け出した。その理由は妹の手に握られた紙袋だ。


 妹は両親からのお叱りの言葉の後、涙目のまま俺を見て笑った。


『いつもありがとう――お兄ちゃん!』


 手渡された紙袋の中身はケーキだった。そしてその日は俺の誕生日だったのだ。


 そう、つまり妹は両親に怒られることをわかっていながら、俺のために誕生日ケーキを買いに行ってくれていたのだ。


 弱り切った体や心を酷使して、それでも俺のために行動した。


 妹のあの日の行動を忘れることはない。


 そんな俺が断言する。


 あの日と同じとまでは言わずとも、それに近いぬくもりが俺の心を温めた。


 黒井さんの件で震えあがった俺の心は今、間違いなく九条の優しさで満ちた。


「ありがとうな、九条はやっぱり最高の主人だよ」


 俺は抱きしめる力を強めながら、心の中で誓った。


 黒井さんの件は絶対に一人の力で解決しようと。


「ん……?」


 そう誓った時だ。ポケットに入れたスマホが震えた。


 俺は九条を抱きしめたまま、チラリとスマホを確認する。


 メッセージだった。それも黒井さんからの。


 そしてその内容は合鍵を用意したことに対しての感謝の言葉。


 それと――


『エントランスの暗証番号とエレベーターの鍵もよろしくお願いしますね?』


 俺の温まった心を冷やすには十分な内容だった。

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