30話『怪しげな気配』
九条と出会って既に一ヶ月が過ぎようとしていた。
もう少しで四月も終わり、ゴールデンウィークに突入する時期だ。
この一ヶ月で間違いなく九条とは仲良くなれた。
毎日家に遊びに来るくらいには。
しかし九条の学園生活に変化があったとは思えない。
従者になった俺ですら学園ではたまにしか喋らないし、他の者に関しては喋り掛けることすら諦めている。
つまり九条はまだ孤立している。この状況を打開しなければ未来はない。
「まぁ、まだ焦る時期じゃないか」
学園生活はまだ始まったばかり。約束の卒業までは余裕がある。
俺はそう結論付けながら廊下を歩いていた。
そして――急に振り返る。
「……………………」
背後には誰も居ない。
当然だ、ここは旧校舎。マイナーな部活の部室ぐらいしかない場所だ。
授業と授業の合間の短い休み時間に訪れる者などいない。
「ふむ……」
ならば何故俺がここにいるのか。
理由は単純だ。おびき寄せたかったからだ。
――怪しげな追跡者を。
「そこに居るのは分かっている。だから出てきてくれないか?」
「…………」
「別に俺をつけていた事に怒っているわけじゃない。ただ俺はその訳を知りたいだけだ」
「………………」
答えは沈黙。本当はそこには誰もいない、ただの俺の勘違い。
そう割り切れたら楽なのだが、残念ながら勘違いではない。
昨日だけで何度も背後から気配を感じ、挙げ句に追いかけたら逃げられたのだから。
これはもう気がするではなく、間違いなく誰かにつけられている。
それに何より、階段付近の曲がり角で影が揺らいでいる。
まるで動揺するようにゆらゆらと。
「なんだ、気のせいか」
俺はそう呟きながら靴を脱いだ。
そして全力で影のある方にダッシュした。
靴を脱いだおかげで足音は減り、俺が近づいてくることを察知するのが遅れた。
その証拠に俺が曲がる寸前にやっと影があたふたと動き出した。
そうして俺は曲がり角を滑るように曲がり、逃げようとしていた少女の手を掴んだ。
「掴まえた!」
「……ひゃう!?」
可愛らしい鳴き声を上げたのは、黒い髪の少女だった。
リボンの色からして同じ一年生だ。それも同じクラスの子だった。
「えっと……たしか黒井さんだっけ?」
「あ、あの……えっと……すみませんっ」
急に謝罪を口にする黒井さん。
小柄な身体を直角に折り曲げての謝罪。そのまま下がった頭が起き上がってこない。
「え……それは何に対する謝罪?」
「あ、それはその……すみませんっすみませんっ!」
会話にならない。しかし俺にも問題があったかもしれない。
騙し討ちに近い行動で掴まえたのだから。
目元に深くまで掛かった前髪、オドオドとした様子、引きつったような声。
それらの特徴からして彼女が臆病な性格なのが見て取れる。
そんな彼女を過度に驚かしてしまった俺にも責任はある。
「大丈夫だから落ち着いてくれ。ほら、深呼吸をしてだな」
「は、はいっ! ふぅ……はぁ……」
素直な子だ。本当に深呼吸をして落ち着こうとしている。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
「は、はい……すみません……」
「謝らなくてもいい。俺の方こそ驚かせて悪かった」
「そ、そんな……悪いのは私ですから……」
黒井さんは消え入りそうな声と共に俯いてしまった。
その反応からしてつけてきていたのは間違いなさそうだ。
「それで、なんで俺の後をつけてきたんだ? なにか黒井さんを怒らせるようなことでもしたか?」
恨まれる覚えはないが、後をつけられるなどそれ以外にはない。
「お、怒らせることなんてそんな……私はただ――あっ」
黒井さんの声が詰まった。その直前に階段下から声が聞こえてきた。
「盲点だったわね。まさかGPSが高低差に対応していないなんて」
「……九条?」
聞き覚えのある声に反応した瞬間だった。
「す、すみませんっ!」
黒井さんが素早い動きで逃げた。
瞬間的にまた腕を掴もうとしたのだが、間一髪で潜り抜けるように避けられた。
「性格に似合わずやるな……」
廊下を爆走していく黒井さんを見送っていると、九条がスマホを片手に階段を昇ってきた。
「……あ」
「……よう」
予想外な所で九条と鉢合わせてしまった。
それはあっちも同じなのだろう。
スマホを凝視していた九条だが、俺と目が合った瞬間的、慌てた様子でスマホを背中に隠した。
「九条、旧校舎に何の用だ?」
「な、内緒よ! それよりも貴方こそ何をしていたの!」
「あ……うん、俺も内緒だ」
九条もなにかしらの理由で旧校舎に来たのだろうが、ここはお互いに触れないのがベストだ。
そう考えた俺は階段を降りて、九条の横を通り過ぎた。
「ここで俺たちは出会わなかった。そうだろ?」
俺は遠回しにお互いの詮索はなしと伝えた。
しかし何故か九条に腕を掴まれた。
憐れみを含んだ目を向けられながら。
「貴方……虐められているの?」
「なんでだよ」
「だって貴方、靴を履いていないじゃない」
「……あっ!」
こうして俺は憐れみを感じながらも、ダッシュで靴を取りに戻るのだった。