6.六年前
卒業したら結婚しようと、彼は言ったらしい。
だが、卒業間近に訪ねてきて、麗子と二人でその旨を伝えられた途端、祖母は激怒した。
「年端もいかない娘を、しかも教師が誑かすなど! 言語道断です!」
そばで見ていた秋彦や伯母夫婦も身をすくめるほどの迫力だった。それでも麗子は真っ直ぐに、目を逸らさずにヨシを見返した。
「誑かされたわけではありません。それに、お祖母様が心配なさっているような問題も起こしておりません。ここに証拠があります」
そう言って取り出したのは、なんと診断書だった。産婦人科の名前が書かれている。
「私たちが清廉潔白な関係であるという証拠です。卒業してから結婚しようと、先生は――」
「お黙り!」
祖母の平手が、麗子の頬を打った。畳に倒れた彼女を助け起こそうとした男を、ヨシはぎろりと睨みつけた。
「今すぐここから立ち去れば黙認します。二度と麗子にもこの家にも、いいえ、この土地にも近づくことは許しません」
「どうして!?」
赤く腫れた頬を晒したまま、麗子が叫んだ。
「なにがいけないんですか! 卒業してしまえば関係ないでしょう! 法律では女は十六で結婚できることになっています、何が悪いのかくらい説明してください!」
「いちいち教えなければわからないお前が悪いのです! 未成年のくせに、こんな年の離れた男と結婚などと!」
ヨシは、もう一度麗子を打ち据えた。
「世間体の悪い! 教師と生徒がそんなふしだらな関係にあったと知られたら、家族みんなが迷惑します! お前一人の勝手な行動で、私や両親がどんな思いをするか考えなかったのですか!」
麗子は、倒れたまま両親に目をやった。
文子はうつむいたまま膝の上で拳を握りしめ、利明もそんな妻の方しか見ていなかった。
秋彦の見ている前で、従妹の美しい顔に失望と侮蔑が浮かんだ。
「何が悪いのか……説明すらできないお祖母様のほうがよほど愚かで勝手です」
「麗子!」
三度目に振り上げられた腕を、今度は麗子の手がしっかりと受け止めた。
「世間体とやらは、所詮は世の中の多数意見です。なぜそれがいいのか悪いのかすらほとんどの人が考えもしないのに、正しい正しくないと言っているだけのことです。二十歳前に結婚することは、それこそお祖母様のころは当たり前だったでしょう。時代が変わって、多数意見も変わったから、今では非常識と言われるだけだわ」
低く、淡々とした口調だったのに、祖母の金切り声よりよほど抑えた怒りが窺えた。
「先生とのおつきあいということだってそう。私達が別々の学校で教師と学生だったなら、お祖母様だって何も言わなかったはず。いいえ、むしろ歓迎したはずだわ。学校の先生なんて、とても『世間体のいい』職業だもの」
ヨシの唇が、ぶるぶると震えていた。それはしかし、嘲るような孫娘の言動のためではなく、腕を掴まれた痛みのせいらしかった。しわしわの細い腕は、手首から上が血の気を失いつつあった。
「年齢の差が問題だというのであっても、私が二十歳だったら誰も何も言わないわ。喩え一回りも二回りも年が上の人でも、問題にされないのよ。違う?」
ぎらぎらと光る麗子の目は、どこも映してはいなかった。問いかけの形を取っていても、この場の誰からの答えも最初から拒絶していた。
「私は一切、この人とやましいことはしていない。お互いを大切にして、指折り数えて一緒にいられるようになる日を待っていただけ。証拠だってある。なのに、どんな理由でお祖母様は反対するの?」
乱暴に、麗子は祖母の腕を払った。勢いあまって、ヨシは畳に倒れ込む。
「筋の通った理由を提示されない限り、私は納得しません。昔からあるからという多数派の意見なんかに屈しません」
拳を握り、その場にいた人々すべてを見下して、麗子は震えていた。
紅潮した頬。燃える瞳。
息をすることすら苦しかったけれど、秋彦はそのときの彼女を今までで一番美しいと思った。
部屋に戻ってから、若葉も朱鷺弥も口を開かなかった。何かを考え込んでいる風な兄の横顔をちらちらと窺ってみても、彼の心の中は読みとれなかった。
六年前、麗子と家族の間に起きたすれ違いについては、若葉などには明確に意見も答えも述べることなどできそうになかった。むしろ秋彦から話を聞くまで、麗子がなぜと問うたことを疑問にも思わなかった。
彼女の疑問は、未だに解消されていないのだ。この先も解決されないかもしれない。
「俺も……」
朱鷺弥が、ぽつりと呟いた。
「俺も、似たようなことを悩んでいた時期があった」
「え?」
澄んだまなざしが、静かに若葉を見つめた。胸が騒いで、反射的に顔を背けてしまう。
空気が揺らぎ、彼が立ち上がったことを知った。
「調べてくる」
若葉が視線を戻した時、細身の兄の姿は部屋の中にはなかった。




