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2.死体発見



 目を醒ましてしまった要因がのっぴきならぬ生理現象だったために、若葉は真っ暗な廊下を恐る恐る歩いていた。厳密には申し訳程度の裸電球がぶら下がっているが、都会の明るさに慣れた目には辛い薄暗さだ。

 客間のあるこの別棟には、本棟とは独立したトイレがしつらえられている。トイレまで古式ゆかしいのでは、と恐れた若葉だったが、予想に反して綺麗な水洗だったのでなによりだった。

「うう、早く戻ろう……」

 トイレを出て、格子窓のある廊下を歩いている時だった。

 話し声が聞こえた気がした。

 榊原家は広く、家人達の住む棟は全部で九つの部屋があり、北側から南側に掛けて二列ずつ並んでいる。悠紀子の部屋は客間のある棟に通じる渡り廊下から向かって左側で、右側は彼女の両親達の部屋になっている。


□←ヨシ□←榊原夫妻

□←空き□←悠紀子

□←麗子□

(以下それぞれ六部屋)


 廊下を渡りきってしまうと、何か様子がおかしいと感じた。

 すすり泣きと、動揺した気配。

 いやな予感がして、若葉はさらに先へ進んだ。

 ヨシの部屋の前に、榊原家の姉妹がいた。悠紀子は廊下に座り込んでいる。顔は真っ青だ。

 そして、麗子。

 夕食の席と同じ黒いワンピースを纏い、真っ直ぐ伸ばした背筋しか、若葉には見えない。

「若葉……!」

 悠紀子が彼女を呼ぶ。それと同時に後ろで襖の開く音がして、利明と文子の夫婦が現れた。

「あの……何かあったんですか?」

 たじろぎながら問いかける。だが、すでにその答えを彼女は見てしまっていた。

 肩越しに振り返った麗子の向こうに。

 反対側の廊下に面した襖の紅葉絵を背景にして。

 赤い紐で首を括り、天上からぶら下がる老女の姿が、そこにはあったのだ。

 悲鳴を上げていたらしい。悠紀子と文子が大きく震えて、初めて若葉は気がついた。口元を掌で覆い、それ以上感情の高ぶりが音とならないように防ぐ。

 文子の口から、嗚咽が漏れた。

 つられたように、悠紀子も両手に顔を埋めた。

「お父さん。お母さん達を居間へ。私が警察と救急に連絡します」

「あ、ああ……」

 麗子だけが、変わらない冷静さを保っていた。

 あるいは冷淡なのか、冷酷なのか。

 音を立てず廊下の先へ向かう美しい黒髪を目で追ううち、若葉の視界が歪んだ。

 人が、死んだ。

 青黒く変じ、膨れあがった顔。

「さあ、君もこちらへ」

 促されて歩き出すと、涙がぼたぼたと音を立てて廊下に落ちた。



 警察が来たのは遅かった。

 変死の場合は警察に連絡しなければならないのだと、若葉はこのとき初めて知った。

 榊原家の近くの駐在所にまず連絡が行き、一人だけ巡査がやってきたのだがとても間に合わず近隣の比較的大きな街から応援を頼んだものだから、ヨシの遺体がおろされて事情を説明するまでに何時間もかかってしまった。

 放心している悠紀子、妻を宥めるのに手一杯の利明、そしてどうしていいかわからずにいた若葉という面々に指示を出し、警察が来るまで場を切り盛りしていたのは麗子だった。食事時に大喧嘩していたとはいえ、身内が突然こんな形で亡くなったとは思えないほどの冷静さ、手際の良さだった。

「夕食の時に、あとで話があるとあなたはヨシさんに言ったそうですね?」

「ええ」

 頭の薄くなりかけた中年の刑事に質問されても、麗子の落ち着きは揺らがなかった。

「お話とはどのような?」

「妹に関することです」

「妹さん?」

 若葉にも、どんな話をしようとしていたのかは見当がついていた。だから遮ろうとしたのだが、麗子はためらいなく答えていた。

「妹がおつきあいしている方との交際を、なぜお祖母様はお認めになるのかとお訊きしたかったのです」

「ほう……。すると、あなたは反対だったのですか?」

「いいえ。その方は昔から存じておりますが、なかなか人柄のよろしい誠実そうな方ですわ」

 刑事は、戸惑った顔で視線を彷徨わせた。

「ええと……あなたもお祖母様も、同じご意見だったんですよね?」

「私が祖母に聞きたかったのは、どうして私の時には反対したのに、妹の場合は賛成なのかという理由です」

 文子がはっと顔を上げ、悠紀子はいたたまれない様子で目を伏せた。麗子は母と妹には一瞥もくれなかったが、かわりにさっと立ち上がった。

「ここでお話しするには差し障りがありますので、こちらへ。お父さん、あとはよろしくお願いします」

 刑事達を従えて部屋を出て行く様は、威厳すら漂わせていた。若葉は呑まれたように一言も発することができないまま、一人残った若い刑事に簡単な事情聴取をされたあと、部屋に戻る許可を与えられた。

 だが一人になってしまうと、沈黙と静寂が重苦しくてたまらなくなった。悠紀子はまだ部屋にも戻っていないようだし、時折思い出したように警察関係者が立てる歩き回る物音も、静けさを際だてて恐ろしいばかりだった。とうとう彼女は布団を頭からかぶってきつく目を閉じた。

 ヨシとは、この家に来てから数時間しか過ごしていない。面識すらなかった。言動の端々から滲む古風で厳めしい人柄を恐ろしいと思っても、親しみは感じなかった。

 けれど、あの顔は。

 青黒く、半分瞼を見開いて人とは思えないほど膨れあがったあの顔。

 また悲鳴を上げそうになり、歯を食いしばった。

 老女の呼吸を戒めたであろう、あの赤い紐。人の死んだ場所に相応しくない凄惨な鮮やかさが、頭にこびりついて消えてくれない。

 若葉は、携帯電話に手を伸ばした。メール作成画面を呼び出し、うまく動かない指で必死に文章をつづる。

 アドレスを探し、入力。

 送信ボタンを押した。

 完了という文字が出るまでが、やけに長く感じられた。返信のメールが来るまでの時間は、それ以上。

 やがて軽やかな電子音が、部屋の静けさをわずかなりとも打ち消した。

 画面を凝視する。期待通りの文面を目の当たりにして、ようやく若葉は肩の力を抜いた。

『すぐにそちらへ向かう。心配するな』

「朱鷺弥……」

 力強い言葉ごと、思わず携帯を抱きしめていた。


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