1.榊原家の人々
1.榊原家の食卓
かちゃん、と食器が箸とぶつかった。しかし、先ほど同じことをした時には厳しい一瞥を若葉にくれてきた老女は、今嘲笑を浮かべる孫娘と睨み合っていてそんな些細なことには目もくれなかった。
「いつも睨むだけですのね。そんな顔をするくらいなら、言葉で私を言い負かしてみればいいのに」
「お黙りなさい」
「お祖母様が私を黙らせられるような論理的な説得をなさってくれるなら、喜んで口を噤みましょうとも」
榊原麗子は、慇懃無礼な調子で蕩々と続ける。齢七十を越えようかという彼女の祖母ヨシは、老いをまったく感じさせない動作で勢いよく立ち上がった。
「食事中に席を立つのは行儀が悪いと、小さいころ何度も仰ったお祖母様が何をなさっておりますの? 高いところから睨んで威圧しようというおつもり? 本当に、短絡的且つ感情的で呆れかえるばかりですわね」
「それ以上続けるのであれば、出て行きなさい。お客人に迷惑です」
「ふん。お祖母様にしては合理的ですこと。でもお祖母様、まだ先ほどの私の質問に答えてくださっておりませんわ」
一触即発。そんな四字熟語を思い出してしまう息詰まる空気だ。若葉はそわそわと顔を巡らせ、隣に座る友人の申し訳なさそうな視線に気づいた。
「お母様、そのお話は後ほどになさっては……。朝倉さんも困っておりますよ」
控えめな第三の声が、わずかなりともそんな雰囲気を和らげた。祖母と孫娘は同時にそちらを振り返り、榊原文子の弱々しい姿を強く睨め付けた。どちらも気性の激しい性質で、そんな二人の視線をまともに受けた文子は肩を縮めて目を伏せる。
「では、後ほどにいたしましょう。ごめんなさいね、朝倉さん」
「いえ……」
麗子から突然呼ばれて、若葉はびくっとする。だが、ヨシと応酬していたのが嘘のように彼女は穏和に微笑んでいた。
「お祖母様、このお話は食事のあと、お部屋で改めて。失礼します」
「どこへ行くのですか?」
座り直した祖母を振り返りもせず、麗子は障子に手をかけていた。
「こんな所で、これ以上食事などしていたくありませんから」
日本人形のように腰まで長く伸ばした麗子の美しい黒髪が、さっと入ってきた夕方の空気になびく。
ぴしゃりとすぐに障子は閉められ、廊下を歩く足音が遠ざかっていくのを若葉は重い気持で聞いていた。
いったい今は何時代で、ここはどこなんだと言いたくなる。今朝、大学の友人悠紀子と一緒に待ち合わせて電車に乗った時は、間違いなく平成の世だったのだが。おかしくなってきたのは田舎の駅で電車を降りて、ほとんど人が乗っていない古くさいバスに乗り換え、さらに徒歩で十五分ほど山に分け入ってからだった気がする。榊原家は代々ここ一帯を治めてきた家系で、全盛のころよりは資産は少なくなったとはいえ、今でもかなりの土地持ちでお金持ちであるらしい。
夏休みだし、悠紀子がどうしても一緒に来てほしいと頼むものだからこうしてついてきたのだが、若葉はそんな自分の軽い決断を後悔していた。何だったのだ、あの女の戦いは。
「若葉、いい?」
襖の向こうから悠紀子の声が聞こえて、布団の上から起きあがる。
「どうぞ」
声をかけると、パジャマ代わりの浴衣を纏った悠紀子がおずおずと入ってきた。肩口までのばした髪は一度も染めたことがないとかで、黒々と美しい。姉の麗子は凛として孤高を感じさせる美貌だが、悠紀子の顔立ちの美しさは可憐とも言い換えられるたぐいのもので、その親しみやすさが男女から等しく人気だった。性格もお嬢様育ちと聞いて納得できるおっとりしたもので、今までの人生で怒ったことが一度もないのではないかと若葉などは思っていた。
悠紀子は、きちんとした所作で畳の上に座り、うつむいた。つられて若葉も正座する。
「ごめんね、あんな所見せちゃって」
「う、ううん、気にしないで。ちょっとびっくりしたけどそれだけだし」
悠紀子は少しだけ笑ったが、表情から憂いは去らなかった。
「明日になったら秋彦兄さんが来てくれるから、ちょっとは状況が変わると思う。ごめんね、本当に」
「気にしなくていいってば。それより、秋彦さんって?」
「従兄よ」
悠紀子たちの叔母の息子で、今は家族揃って都内で生活しているのだそうだ。叔母夫婦は仕事の関係で都合がつかず、一足先にこちらに向かっているという。
今では榊原家を一人で取り仕切っているヨシという老女は昔ながらの厳しい人柄のようで、年に一度は親族がこの家に集まることを半ば強制しているらしい。悠紀子とその母がこの家では和服を身につけているのもヨシの方針によるものだそうだ。
そんな中で、客分である若葉はともかくとして、麗子が黒いワンピースを身につけているのはやはり反抗心からなのだろうか。
もちろん、疑問に思っても口に出さないだけの分別は若葉にもあった。
「寝るにはちょっと早い時間だけど、どうする? お祖母様はテレビゲームもお嫌いだから、置いてないの」
「あ、気にしないで。本とか持ってきてるし、適当にやるから」
それでもまだ申し訳なさそうな悠紀子を宥めて、部屋に戻ってもらったのが午後九時半だった。
一人になってみると、人里離れたところに立つ一軒家がどれだけの静寂に包まれているのかが身に染みた。
何の音も聞こえない。若葉に与えられた部屋は客間で、家人が寝泊まりする棟とは渡り廊下で繋がっているだけ。窓の外は木々が作り出す自然の帳に覆われていて、昼間でも鬱蒼と薄暗かった。
「うう……」
都会育ちで、重くのしかかるような静けさと無縁の若葉は、友人を帰してしまったことをすぐに後悔した。持ってきた本が『犬神家の一族』だったりするものだから、読書する気にもならない。
「朱鷺弥も強引に連れてくればよかった……」
バイトがあるから、とつれなく彼女の誘いを断った、秀麗な面差しを思い浮かべる。今頃何をしているのだろう。
せめてメールくらいしてみようか、と手を伸ばし、バッグから携帯電話を取り出した。幸いかろうじて電波は届いていた。
他愛のない文面を送信し、柔らかい布団に横になる。
何となく肌寒くて掛け布団に潜り込むと、すぐに瞼が重くなってきた。乗り物に乗ったり歩いたりさっきの諸々があったりで疲れていたのだろう。
携帯電話を枕元に置き、若葉は程なく軽い寝息を立て始めていた。




