八王子城址
夕暮れを過ぎて私達は八王子城址に辿り着いた。
もはや陽光は欠片も存在せず、夜の深い闇が辺りを包んでいる。
手にした懐中電灯ですら飲み込まれそうなほど、深く一寸先は闇である。
「千秋さん、ここって心霊スポットであってますか?」
「あってるよ、観光地でもあるけどね」
八王子城址、辿り着いてみればなんてことはない。
曰くのある滝に関しても随分と小さいと感じてしまうものだ。
「ここの城は兵が出払っている間に狙われてね、残っていた女宗は辱めを受け旦那の前に晒されるくらいならばと自ら命を絶ったとされている。それがこの滝だ」
「こんな小さい滝で?」
「私も詳しくは知らん。ただ観光地として機能している以上悪霊ではないんだろうさ。それに」
かちりとライターを一度鳴らす千秋さん、煙草は咥えていない。
「気付いているだろ?」
「えぇ、パワースポットとも違う……なんですかこれ」
「霊脈とか龍脈って聞いたことあるだろ。当時の人間もそういうのにあやかることは多かった。城ともなればなおさらだ。ここはそれなりの力がある土地なんだろうな」
そう言いながらもう一度ライターを鳴らす。
周囲の静けさに飲まれるようにして音が響くことはない。
「もとより立川断層の近くで、力のある土地、権力者のいた城、女たちの無念と恩讐、どういう風に髪合わさったか知らないが並の霊能者じゃ近寄りたくないだろうね。とはいえ危ないのは夜だけ、昼はなにも起こらないだろうさ。夜にしたって肝試し感覚で来るような馬鹿以外には害はないと思ってよさそうだ」
「どうしてですか?」
「そういう気配なんだよ。悪霊じゃない、ちょっと脅かして帰らせる程度か、人間如きの陽の気じゃびくともしない霊がいるってだけだ」
千秋さんが言いたいことはわかる。
つまるところ霊となると陰の気を持つようになる。
対して生者は陽の気を纏っている。
さらに細かい区分だと男を陽、女を陰とすることも多いが今回は割愛。
ともあれこの陰と陽は引き合うか、反発するかの二択だ。
基本的に陽の気を持ちながら陰と陽に分かれた男女はひかれあうが、陰の気を持ちながら陰と陽に分かれている死者と生者は反発する。
つまるところ相性が悪いと双方に多大な被害が出る事になるのだ。
物凄く強い磁石を無理やりくっつけようとしたら弾かれて壁にめり込んだとかそう言う話である。
人間同士の相性の良し悪しは実のところ大した問題ではないが、死者との相性は良すぎても悪すぎても酷い事になるのが基本だ。
良すぎれば器となり、取りつかれる。
悪すぎれば反発のダメージをもろに受ける。
ネットの掲示板に書かれるような、それこそ命に係わるダメージを受けるのは相性が悪すぎたパターンで、逆に憑りつかれて妙な行動を始めたというのは良すぎるパターンだと思ってもらえればいい。
なお呪物、主に千秋さんがコレクションしている類で、先日の肝試し騒動で持ち帰った鏡なんかは中庸を貫いている。
どんな相手にも一定以上の相性の良さを示せるというのが売り文句になってくるのだが、その問題は誰でも簡単に呪われるよという点だ。
そう言う意味では結局のところ死者と生者は関わるべきではないという結論に行きつくのだが……。
「ふむ、どうしたものか」
三度目のカチリという音が耳につく。
「舞を行うには足場が悪い。下手をすれば彼女たちの二の舞になる。かといって念仏や祝詞は気休め程度にしかならない」
「どうするんです?」
「少々乱暴な手段ならあるんだが……手伝ってくれるか?」
「嫌な予感しかしないんですが……」
「私は相性が悪いらしくてね、さっきから威嚇されてるから春奈にしか頼めないんだよ」
「でも見えませんよ?」
「チャンネルがドンピシャなんだろ、そうなると逆に見えない」
相性をチャンネルと呼ぶのは千秋さんの癖だが、ようやく煙草を咥えて火をつけた。
そのまま煙を空に向かって吹き、足元の土を軽く掘ってから火をつけた線香を置く。
水場の近くを掘ったら濡れて消えるのではないかと思ったがそんなことはなくじりじりと燃えていくそれを見ながら私はただ立ち尽くしていた。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ、カチリと耳元でずっと音がする。
千秋さんのライターは既にポケットの中だ。
金縛り、そう表現するのが一番正しいだろう。
指一本動かない。
「早速来たか」
「あ……かっ……」
「落ち着け、無理にしゃべるな、息をすることに集中しろ」
千秋さんの言葉通り呼吸に集中する。
生きているものの特権、そして体内の気を循環させるのに必要不可欠な呼吸。
それを行う事だけに集中する。
数秒、いやもしかしたら数分かもしれない。
霊に関わると時間間隔が狂いやすくなるのは有名な話だが、どれくらい経っただろうか。
ようやく深呼吸できるようになったと思うと同時に再び耳元で音がした。
カチリ……いや、違う、大きく聞こえるのがそれというだけでコツッやカチャッという音も聞こえる。
いったい何の音だろう、そう思い耳を澄まそうとして塞がれた。
千秋さんの手だ。
「聞かない方がいい。同調しすぎると連れ帰ってしまう」
珍しく真面目な千秋さんの声が手のひら越しに聞こえてくる。
そして耳から手が離れたと思うと同時に背中を思いっきり叩かれてよろけた。
そのまま川に手がつかる。
しまった、そう思ったがそもそもの原因が千秋さんであることに気づいてビキリと額に青筋が浮かんだのを感じた。
「このっ!」
「革には古来より悪しきモノや憑いてきたものを流す習慣がある。それはさっき多摩川で話したが、ここにいる霊も同様だ。というよりも滝になじみがある分水に触れれば流れるようになっている」
「え? あ!」
身体が動く、呼吸が容易い、あの音も消えた。
いったい何があったのか……いや、今は聞かない方がいいのだろう。
「千秋さん」
「帰るぞ。吹上トンネル行こうと思ったがさすがに疲れた。今の状態で行っても返り討ちに合うだけだ」
そう言って踵を返した千秋さんの後をついていく。
「煙草、吸っておけ」
「はい」
言われるがままに煙草に火をつけて煙を吐き出す。
すっと体が軽くなった気がした。
「で、何だったんですか?」
「何がだ?」
「あのカチリって音です。てっきり千秋さんのライターの音だと思ってました」
「あぁ……刃物の音だよ」
「刃物……」
「あんな小さな滝では身を投げても、それこそ頭から落ちても死ぬのは難しい。なら致命傷を負ってから滝に集まったと考えるべきだろ。その際に使われた刃物が何だったかはわからないが、それを抜く音、刺した音、骨に当たった音、落ちた時に折れた音、他にも追手の鎧の擦れる音や武器がぶつかり合う音なんかもしていたが……春奈に聞こえたのは喉を貫いて骨に当たった音だろう。他のは軽くしか聞こえていなかったのを見るにチャンネルがしっかりあっていたのが一人いたんだろう」
ゾッとする話だ。
要するに憑りつかれていたに等しい。
というかほぼ同義だ。
「とはいえ、それだけで済んだのならうらやましい限りだがな」
「え?」
「知らなくてもいい事もある。それでも聞きたいなら話すぞ」
「……教えてください」
不思議と、今回ばかりは知っておかないといけない気がした。
もしかしたらまだ、残滓のようなものが残っているのかもしれない。
あるいは憑りつくまではいかなくとも連れてきて影響を受けているのかもしれない。
そうだとしても、これは知っておかなければいけないと思った。
「断末魔……逃げ遅れた奴らのだ。そして戻ってきた男衆の怨嗟の声、気分が悪くなるよ、まったく」
あの千秋さんが幽霊に当てられてぐったりしている。
それほどに強力な場所なのだろうか。
「あぁ、何を考えているかはよくわかる。場所としては強力だが、一番やばいのは幽霊よりもその場に残った残滓……あー、なんていうんだ? 残留思念だな。肝試しに面白がって来るような馬鹿が痛い目を見るというのは言った通りだが、ここは洒落にならない。敵と認識されたらどうなることやら」
軽く身震いをした千秋さんが煙草の煙を吐き出す。
「なんにせよ、これから毎年来ることになるわけだから早めに受け入れてもらわないとな。次はお神酒でも持ってくるか」
そんな風に、神妙な顔つきでバックミラーを見ながら車を走らせた千秋さん。
彼女にしては珍しく、霊的なもので楽しむようなそぶりを見せなかった。
いや、思えばこの仕事を引き受けてからずっと、八高線高架下でも拝島橋でもそうだった。
ずっと真剣なんだ。
ただ、その被害が私に及ぶこともあるというだけで……いや、やっぱ最低だな?
「千秋さん、一人でやるべきだったんじゃないですか?」
「私だっていつどんな風に死ぬかわからないからね、弟子に教えられることは教えておきたいのさ」
そんな風に笑みを作ってみせたが、その眼の奥には哀愁が漂っていた。