奥多摩珍騒動②
千寿氏の家に着いた時、私は荷台から飛び降りて側溝に向かって嘔吐した。
車酔いではない、明らかな悪意とやばい気配にだ。
旧吹上トンネルはその場にいるだけで気分を悪くした程度だった。
だがそれはこちらに悪意が向けられていない、ただ悪い物のたまり場だったからだ。
例えるならばチンピラが沢山いるけれどこちらに興味を示していないのが旧吹上トンネル。
対して千寿氏の家は反射組織の事務所で全員が凶器を片手にこちらを取り囲んでいる状態と言えばいいだろうか。
「ここまで近づけば流石にわかるか」
背中をさすりながら千秋さんが耳元で呟く。
おそらく千住氏に気づかれないように小声なのだろう。
「お連れ様は……」
「あぁ、慣れないオープンカーに酔ってしまったみたいです。この子片目が見えないので三半規管とか弱いんですよ」
「それは申し訳ない事を……帰りは助手席に乗ってもらいましょうか?」
「いえ、これでも助手なのでこういう事にも慣れてもらいたいと思っていますので荷台で構いませんよ」
こういう事、というのは車ではない。
悪意に対することだろう。
できるならば今すぐこの場から逃げ出したいくらいだが、駅から随分離れてしまっている。
ここ数日の浄霊で随分と足腰を酷使した今、走って逃げられる距離じゃない。
「千秋さん……」
「わかっている。こいつは想像以上だ」
「なんですか、これ……」
「荷台で話した通りだ。家系にまつわる問題だな。狐憑きなんて生易しい物じゃない。恐らくは……」
そこで言葉を濁した。
もっとおぞましい何か、ということ以外は理解できた。
一通り胃の中身をぶちまけたら少し落ち着いたが、今度は獣臭が鼻を突き再び気分が悪くなる。
「この匂い……」
「やっぱり霊方面に特化しているな。私はあまり気にならないが辛いようなら先に事務所に戻ってもいい。今回はそれくらいやばい」
千秋さんがここまで言うという事は相当やばいのだろう。
少なくとも、私が知る限り今まで嬉々として人を心霊スポットに連れて行くような人がこんな事を言うはずがない。
旧吹上トンネルでさえ鼻歌交じりに向かうレベルだったのだ。
「……ぶっちゃけた話をしようか。旧吹上トンネルはそんなにやばくない。その奥にある旧旧吹上トンネルが最悪だ。日本の心霊スポットでも屈指のレベルだが、今回はそれに匹敵する」
「あれよりもやばいって……いやその奥は大丈夫だったんですか? 何もしてないですよね」
「幸い手前の方で抑え込まれてる。例えるなら満員電車を通り抜けようとするようなものだったからな」
なるほど、すし詰めになっているからこそ本当にやばいのは出てこられないという事か。
逆に言えばそのすし詰めが解除されてしまえばやばいのも解き放たれると……。
ってことはなにか? 今回はそのレベルでやばいのと直接対決しなきゃいけないのか?
「何を考えているかはわかるが、とりあえず水を飲め。それと煙草を吸っておけ。奴らはそれを嫌う」
「相手が何かわかるんですか?」
「おおよそ見当はついている。証拠こそないが、十中八九あたりと思っていいだろう。ただ問題があるとすれば、私はその対処法を知らない」
「え?」
「呪術の類としてはポピュラーな部類だ。だが対処法としてコレと言った物が無い。今回ばかりは真面目に取り組んでもどこまで耐えられるかわからん」
「どうするんですか!?」
あの千秋さんが冷や汗を流しながら顔をしかめている。
それだけやばい相手という事だ。
しかも対処法が無いと来れば……。
「私達霊能者なんてのは碌な死に方をしないと言われている。当然だがな」
ぽつりと、また呟くように口にした千秋さん。
「浄霊というのは心残りを薄めて黄泉路を歩ませる行為だ。だが除霊というのは無理やり黄泉路に蹴り落とす行為、言いかえるなら霊を殺しているようなものだ。そんな奴らがまともに死ねるわけがない」
ゾッとするようなことを口にする。
思えば今まで私が除霊に直接関与したことはない。
それこそ霊との対話や、心霊スポットの調査なんかがメインだった。
浄霊ですら千秋さん主導で、私は見学だったくらいだ。
「教えてください。そこまで覚悟を決めるような相手って……一体何なんですか?」
「……犬神だよ」
忌々し気に、その言葉を口にした千秋さんは過去に見たことが無いほど怒っていた。




