再逢の季07
(人のいないところに……!)
倒れた彼女の安否も気になるし、自分の脊髄にも説教をしたいところではある。しかし今は何よりこの危険物を遠ざけるべきだ。
――腹を満たした面は親になって子面を産む。
とにかく距離を取ろうと目的地もなく廊下を駆ける千春の耳に柊崎の声が蘇る。
女面から成った呪面は女の生気を好んで喰らう。古物商の妻と同僚の女性、その近所に住む高齢女性、今の宿主である女子生徒と、喰われた被害者の傾向からもその性質は明らかだ。
けれど、子面が取り憑いて操る相手は性別を選ばない。それは食糧として、追っ手を阻む肉の壁として、或いは新しい宿主を誘い出すため。だから、彼女と連れ立つ彼の姿を見たとき、何をしようとしているのかすぐにわかった。わかってしまったからこそ、指示を無視して走った。
「わ、っと、ちょ……っ、寝起きのくせに力強いな!」
我に返ったらしい面が暴れ始めた。ゴムボールよろしく中で飛び跳ねているようで、バッグごと飛んで行きそうなのを肩紐を握り締めてなんとか防ぐ。パントマイムのような攻防戦はしばらく続いたものの、ぴりっという縫い目の悲鳴を聞いた千春が誰もいない空き教室にバッグを放り投げたことで決着した。
夢中だったせいで現在地はよくわからないが、普段から使われていない教室のようだ。机と椅子が壁際に寄せられてぽっかりスペースの空いた床にバッグが転がって、ちりちりと御守りの鈴が鳴る。
追って駆け込んだ千春は後ろ手にドアを滑らせ、退路を塞ぐつもりで出入り口を背に位置取った。相手が出てくる前に近くの掃除用具入れから引っ張り出した長柄ブラシを構える。視線の先でごそりとバッグが動いた。
(とりあえずこれで一対一)
ジ、ジジ、ジ、と細切れにファスナーの開く音がする。顔だけの存在にも関わらず自力でファスナーを開いた面が震えながら這い出てきた。彫られた表情は変わらないものの、宙に浮かんだその周囲が陽炎のように揺らいでいる。言葉は無くとも雄弁に伝わってきた。
(ものすごく怒ってるなぁ……)
視界の外側でカタと何かが動いた。一つだけではなく幾つもの何かがカタカタと触れ合う音がする。視線を向けずともその正体はすぐにわかった。バケツ、黒板消し、机、椅子、分厚い教本、辞書、雑巾などなどありふれた学校の備品が手どころか身体もない面の背後に集まり、重力を忘れてぷかぷかと浮いているのだ。
非科学的な特殊能力、所謂異能の類を持つのは何も人間だけに限らない。人外達にもその種族が、あるいはその存在が固有の能力を持っていることは珍しくもなく、まさに今目の前で使われているのは手を使わずに物を動かす念動力である。
当然、浮かせて終わりなわけもない。まず一脚の椅子、それを皮切りにカラーチョークが銃弾のように飛んできた。
「あっ、ぶないな……!」
躱した椅子が壁にぶつかって派手な音をたてる。長柄で叩き落としたチョークは粉々になって床に落ちた。次々に物品を飛ばしてくる辺り、どうやら手数で押し切るつもりらしい。
「ぶっ」
顔に貼り付いた雑巾はしっとり湿っている。わざわざ使用済みを選んだ辺り、仮死状態にされて性根がねじ曲がったらしい。
「おのれ……叩き割って薪にしてやろうか……」
いつもであれば割らずとも火で炙るぐらいはしていた。けれど今回に限っては一存で勝手に損ねるわけにはいかない。かと言って処遇を相談しようにも、張り手の反動で倒れた時にインカムは飛んでいってしまった。
この面を損ねずに無効化できる手段。できることなら後に合流するであろう柊崎達への誤魔化しが効きそうなもの。最適解が浮かばずに攻めあぐね、次々飛んでくる備品を躱し振り払うだけの防戦一方。そんな状態が急転したのは、少し欠けるぐらいはもう致し方ないのでは!? と十分に酸素の回らない思考が自棄になり始めた時だった。
「誰か残ってるの?」
がらり。背後で戸が滑る。そして部屋の中へ問いかける女性の声。息を呑んだ千春の真横を、ひゅんっと何かが通り抜ける。
「──逃げて!!」
叫んだ千春が後を追おうと足を踏み出すより早く、面がくるりと振り返った。ガタガタと何かが震える音が聞こえた後、視界の外側から飛んできた物が胴体に激突した。
「うぐ……っ」
散らばっていた机の山を巻き込みながら倒れた千春を目掛けて、ドスドスドスッと四つ脚の机が串刺しせんばかりの勢いで次々に刺さってくる。幸いにも身体を貫通したものはなかったが、その代わり重なり合った机の脚が鎹になって身動きが取れなくなった。
「こっ、の……!」
ガタガタと机の山を揺らす千春を眺めていた面は、邪魔者はいなくなったとばかりにくるりと向きを変える。その先で、目を見開いた女性教師が腰を抜かし声も出せないまま座り込んでいた。
乱入によって宿主と子面の候補とを一変に失くし、新しい宿を探している人外の目に彼女がどう映っているのかなんて言うまでもない。
するり。
面の裏、何もない虚空から腕が生えた。艶めかしく闇に浮かびあがりそうなほど青白い、先ほど面を外そうとした女の腕。三本、四本、五本と次々に生えてくる腕が絡み合い寄り合わさって伸びていき、形良く整えられた爪が命を求めて互いの肌に食い込む。一本一本が蠢く様は血管が脈打っているようだ。木の幹ほどに太くなった二本の腕が歓びに震え、ぎしりと面の縁が軋んだ。
手を出せば誤魔化せなくなるかもしれない。手を出さなければ目の前で人が喰われる。決断に一秒だって必要なかった。
(予防線を、張ってる場合か!)
右手に握り締めていたポーチの口金をぱちんと弾いて手を突っ込んだ。中を覗き込む必要はない。指先の感覚だけで目当ての品を探し当て、手のひらに握り込む。
「烏は遠く、」
最後まで言い切るよりも、千春が腕を振るよりも早く。気を失った教師に触れる寸前の巨腕へと、伸びる手が見えた。
そして、戸の影に隠れた誰かの手が青白い腕の一本を掴み、みしりと握り潰す。
「めっちゃ腕生えてんじゃん」
張り詰めた空気にはそぐわない、欠片の緊張も感じていない声。ぽかんと口をあける千春の目の前で、同じく動きを止めていた面がずるんっと教室の外へ引っ張り出された。昔話の、一息に引っこ抜かれた大きいカブが過ぎった千春の耳に、硝子の割れる音と何かを叩き付ける音が立て続いて届く。
「腕、もいでいいんすか?」
「やり過ぎて本体を割るなよ」
「へーい」
声が遠のいたことから察するに、面ごと地面に落ちたらしい。
いや誰? ここ三階じゃ? もぐって何? 腕を? 林檎か梨かと勘違いしてないか? 飛び交う疑問符で乱れる思考を、こつりと床を叩く革靴が遮った。
見上げた先にあったのは、苦虫が口の中で爆発したようなそれはそれは渋い顔。何かを堪えるように細く長く息を吐いた柊崎は、それから千春を固定する机と椅子の山に手をかけた。
「あの、女の子、宿主の子が別の教室に、」
「加賀美がついてる。衰弱してるが恐らく助かる」
「先生は、大丈夫ですか。多分触る前だったと思うんですが」
「気絶してるだけだ。二人共本部に引き渡す。むしろ今一番無事じゃないのはお前だ」
ちょっと黙ってろと一喝されて大人しく口を閉じる。却って邪魔になりそうだったので余計な身動きも控えると、手持ち無沙汰に救助を待つだけになってしまった。自由を許されているのは視線ぐらいで、ガタガタと椅子を引っ張り抜く柊崎を観察するぐらいしかやることがない。ぼーっと眺めていると、渋っ面の彼が中々のお顔をお持ちということに気付いた。
辛辣な言葉を吐く唇は薄く、キメの細かい肌に影を落とす長い睫毛。鈍色に見えていた瞳は薄らと青味がかっていて、きんっと冷えた冬の夜空に似ているなと思った。
(第一印象が悪かったからだな)
加賀美のような分かり易い美形というわけでもないし、眉間に刻まれた皺のせいか鋭い視線のせいか怖いという印象の方が強かった。それでも凡庸な千春からすれば充分すぎるくらいに整っている。顔が良い人はどんな顔しても様になるんだなぁ、などと考えながら手のひらに握り込んだ代物はこっそりと戻しておいた。