再逢の季02
謎の人物が残した謎のメモの住所。検索してピンの立った場所は隣市の交番から少し距離のある、千春の暮らす岐坂市の中だった。降りたばかりの停留所へ取って返し、再びバスに揺られて戻ってきたのは駅前のバス停。同市内とはいえど生活圏からは外れていて、千春は本日二度目の見知らぬ土地に降り立っていた。
駅から続く車線の多い大通り。行き交う人混みの比率はスーツと私服が半分ずつぐらいで、時間帯的に制服を着た学生の姿はほとんど見当たらない。そんな喧騒の中をしばらく進んでから脇道に逸れると、今度は車や人の往来がぐっと減ってざわめきから一気に遠ざかる。高層ビルの立ち並び整然とした駅前のオフィス街に比べ、建造物は総じて低い。薄汚れた雑居ビルには老舗のスナックにけばけばしい花輪で開店を祝うガールズバー、スピリチュアル効果を謳うヨガ教室に見た目だけはゆる可愛い狸が誘う消費者金融と、雑居の名に相応しい多様なジャンルの店が思い思いに構えている。やけに真新しい歯医者の看板を差し向かいで掲げているのは立地を考えた直した方がいいと思う。
「ん?」
何かの気配を感じて視線を向けると、見つかったとばかりに傍らの街路樹がさわめいた。ぷちりと枝から離れた若葉がくるりくるりと千春の周りを舞う。行く手を遮るそれを不審に見えない程度にあしらえば、急に興味を失ったかのように葉っぱは地面に落ちた。今は遊んでいる暇がない。
「ここ、かな」
そんなちょっかいを躱し、やがて千春が足を止めたのはやや年季の入った五階建てのビルだった。良く言えば味のある建物の一階は喫茶店。小さな鉢植えを並べた窓の向こうに優しい色の灯りが見える。看板のロゴはよく見かける鍵のマークではなく緑の葉っぱだが、オススメは緑茶ではなく珈琲のようだ。黒板を一瞥した千春はその脇を抜けてビルの入口の前に立った。
「お邪魔しまーす……」
ギィっと押し開けたガラス戸以外に入口はなく、外からの明るさが届かないエントランスの奥の方に薄闇が蟠っている。漂う雰囲気かどこかひんやりとしているのは薄茶のタイルを照らす蛍光灯の青白い光のせいだろうか。
耳を澄ましてみるが人の気配もそれ以外の気配も感じない。開店休業なのかはたまたペーパーカンパニー的な実態のない会社か。壁に並ぶ銀色のポストの投函口の殆どにはポスティング防止のテープが貼ってあるのに、その中に一つだけ空っぽのままぽっかり口を開けているものがある。経営実態の有無は置くとして、少なくともポストが必要かつ定期的に投函されるであろうチラシの類を破棄できる状態ではあるらしい。
「柊崎、相談事務所……」
ステンレスの表面に刻印されている社名をなぞる。社名だけでは職種の判断がつかない。相談ってどの分野のことなんだろうか。司法か行政か資金繰りか、もしくは。
奥の階段と手前のエレベーターを見比べた千春が呼吸を整える時間欲しさにボタンを押すと、一階に停まっていたエレベーターの扉が開いた。
「はぁ……」
緩やかに上昇する四角い箱の中、預けた背中からは振動を感じる。指の先が酷く冷たくて、血を回して温めるためにぐっぱぐっぱと握って開いてを繰り返した。いざと言うときにかじかんで動かないのでは困るのだ。
少し温まった手でがさごそと整理したのは、手元に戻ってきたトートバックとは別のバックだ。その中には何かに備えて自宅に保管していた物を幾つか忍ばせてきたが、何せ普段持ち歩いていないので使い慣れていない。だから、加減を間違えてちょっと気を失ったり記憶が混乱しても正当防衛の範囲ということにしよう。
(まぁそもそも立証しようがない手段だけど)
もし万が一、普通の怪しい場所だったとしても契約書にサインはしないし壺も布団も買わない。ヤバそうなら一目散に逃げるつもりだ。
(でも多分、そっちじゃないしなぁ)
あのメモの一部が警官に見えなかったということは、つまりそういうことなのだろう。だとすれば尚のこと、取り戻さずに退くという選択肢は存在しなかった。
バックの中に個人を特定できるような物は入れていなくても。図書カードにだって名前の代わりに番号が印字されているだけで、そこから個人情報を抜くことは少なくとも部外者にはできなくても。拾い主が図書館の職員なら警察に届ける必要はないはずだから、千春のことを知られている可能性がほとんどなくても。
少しでも鋼に近付けようと、掻き集めた胆力をぎゅむぎゅむと心臓に詰め込めんで硬度を上げた。敵地で頼れるのは己の度胸のみ。
「……よし」
一人意気込んだタイミングでじゃあ行っておいでと言わんばかりに開いたエレベーターを出て、小さなホールに立つ。このフロアにはテナントが一つだけ、エレベーターの真向かいにはドアが一つ。さざ波のような硝子の向こうに室内の明かりが透けて見える。
何度か深呼吸を繰り返し、いざ行かんと握り締めた拳は叩く前に扉が開いたせいで空振った。もしや自動ドアかこれ。
「あ、れ?」
「あ?」
自動ドアではなく室内側から開けられたのだということは、相手の姿が見えてからわかった。その怪訝そうな声に身が竦む。
明るい色の髪から覗く耳に輝く銀色は複数、パーカーもその上に羽織っているブルゾンも中々に派手。めちゃくちゃ控え目に見てもITベンチャー企業の私服勤務でギリギリアウトでは? ぐらいだ。お洒落な若者という感じがしなくもないが、千春の脳裏には別の可能性が過ぎっていた。
そう、例えばドラマでもよくあるような、その筋の事務所に出入りしているチンピラや不良学生なんかの存在が。
「あ、あの」
「……」
除き込んだ彼からじっと突き刺さる視線。後退りそうになる足に気合いを入れて、透き通る花緑青の瞳を負けじと見つめ返す。逸らされない視線に耐えること数秒、身体を起こした男性は上半身だけで後ろを振り返った。
「お客さんでーす」
「えっ」
そう呼びかけた彼に背を押され、くるりと入れ替わるように室内へ。
「ドーゾごゆっくり」
黒革のソファに座る強面の男達、煙草が充満する薄暗い室内、高そうな調度品。建物の外観と退室していった彼の印象に引き摺られ、ドラマで見るような暴力団や闇金融の事務所を想像してしまった千春はただただ拍子抜けした。
部屋の中はとても明るかった。アイボリーの壁と艶のある飴色の床板が清潔で温かみのある空間を作っていて、照明の柔らかな光が観葉植物の葉っぱの上で露玉になっている。一部だけ壁が煉瓦調になっているところがあって、そこに飲食店のような立派なカウンターキッチンがあることを除けば至って普通の、むしろちょっとお洒落なオフィスという感じだ。壁に日本刀や歴代組長の写真が飾ってあったりはしない。
デスクを二つくっつけた塊が二つあって、その内の一つに男性が一人。更に、その奥の少し大きめのデスクに男性がもう一人。ということは在席している二人の他に少なくとも三人はいると想定して、全員同時に相手取るのは無理だなと思った。さっきの彼も社員なのかもしれないし、いざという時は応援を呼ばれる前に逃げよう。
そう算段を付けていると、一番手前のデスクに座っていたグレーのセーターを着た男性が立ち上がった。
「お待ちしていました」
柔和な笑みを浮かべて近付いてきた眼鏡の男性に、バッグを抱く腕の力が強くなる。やたら整った顔立ちに気圧されたのもあるし、笑顔イコール善人とは限らないことをよく知っているからでもある。例えセーターの下で襟元を締めるネクタイのドッドが、近くで見たら肉球柄だったとしてもだ。猫が好きな悪人も多分いる。
「こちらへどうぞ」
手で促され、入って左側の応接スペースと思しき対面ソファに案内された。壁際に大きなテレビが置いてあって、その下のテレビ台に外付けの録画機器やらゲーム機やらが並んでいる。職種は不明ながらとても自由な社風ということは間違いなさそうだ。
「こちらで少々お待ちください」
言われるがまま腰を下ろした千春の前に、案内してくれた男性と入れ替わりで別の人物――奥のデスクに座っていた男性が現れた。ダークグレーのスリーピースを纏う姿はさながら仕事の出来るビジネスマン。しかし浮かべる表情は営業スマイルとはかけ離れていて、インテリ系のその筋の方と言われたら疑いもなく納得してしまいそうだ。黒い髪をすっきりと分けた髪型のせいで、眉間の皺の主張が殊更に際立ってる。
慌てて立ち上がった千春は頭を下げた。
「あの、初めまして、佐倉です」
「……」
「ええと、佐倉千春と言います」
「……」
「……あの」
「…………座れ」
たっぷりの沈黙を決め込んでから一言だけ発した男性が向かいのソファに腰を下ろしたので、千春もおずおずと元の体勢に戻る。低い声からは怒りというより機嫌の悪さを感じた。一応招かれた立場である千春に対し、さっきの胡散臭くも好青年然とした人とは対極に振り切った愛想のなさだ。絶望的に客商売に向いていないと思う。
「呼ばれた理由はわかるか」
「と、届けていただいた、落とし物の件ですよね? その節はありが、」
席順的にもこの人が所長で、座ったからにはきっとあのメモを残していった謎の拾い主なのだろう。そう当たりをつけて一応告げようとしたお礼は、そんなことよりと容赦なく遮られた。
「所属は」
「へ……?」
しょ、ぞく? しょぞく、所属か。所属? 初対面の第一声で問われる所属って何だ。営業で来たわけじゃないんですけど。
「ええと、その……今は無職ですけど」
「はぁ? なめてんのか」
「えぇ……」
捻り出した答えは正解ではなかったらしい。千春の反応がお気に召さなかったのか、更に眉を寄せた所長は内ポケットから何かを取り出した。
「読め」
ずいっと差し出されたのはごく普通の名刺だった。横向きの台紙に黒色で印字されただけのシンプルなものに見えたが、よく目を凝らすと花のような意匠の透かしが入れてある。意味がわからないまま、指示通り受け取って読み上げる。
「CCP岐坂支部、柊崎相談事務所……所長、柊崎悠佳……」
CCPってなんだ、支部ってことは本部があるのか、怪しい家電の説明書みたいに新しい情報がポンポン増えていくな、なんて思いつつ文字を追っていた目が、ぎしっと縫い止められる。
(あー……)
悪徳業者でなければその界隈から、という予想はやはり当たっていた。しかし思っていた感じとは大分ズレていた。もっと対個人を想定していたのに、背後に何かしらの組織がありそうな気配すら漂っている。とするとやや力技に寄り気味の手札を切るのは後始末的な意味で躊躇われた。この後はどう動くべきだろうか。
対応に迷ったのを見透かされたらしい。向かいから飛んできた「続けろ」という指示には有無を言わせない圧力がこれでもかと乗っていた。圧が強い。取り繕った心臓が早くも凹みそうである。
「……幽霊、妖怪、神霊……その他怪異や超常現象に関する相談承ります……」
住所と連絡先、隅に記された六桁の数字を読み上げ、名刺を裏返したところで所長──柊崎にもういいと遮られた。名刺から視線を上げると、遮った本人は眉間を揉みながら深々と溜息を吐いている。
「…………文字の他には」
「その、花というか、家紋? みたいな模様が」
「それだけ視えてて無所属だと? ふざけてんのか」
「ふざけてませんけど……」
一体何だと言うのか。初対面の人間から受け続ける理不尽な罵倒に対して自分でも驚くほど腹が立たないのは、困惑の方が勝っているからだった。自分の状況も相手からの追及も何一つ理解できない。いっそ人違いでは? とすら思っている。とりあえず客商売の看板は早々に降ろしたほうがいいと思う。
出す物出してもらえばとっと退散するんだけどなぁ。家探しは流石に。
「どうぞ」
物騒な方向へ滑り始めた思考を引き戻したのは、ふわりと鼻を撫でた珈琲の香りだった。