狸のお囃子03
「これは……」
一行を出迎えた加賀美は受け取った品をしばらく見聞し、僅かに曇った表情を隠すように眼鏡を押し上げた。
「中に異物が入り込んだようですね。とても小さい、砂利のようなものだと思いますが……」
「取り出せるか」
「専用の道具があれば、あるいは」
可否を断言しなかったは気遣いの表れだろうか。対面してそれほど時間の経っていない加賀美が言葉を濁すほど、彼女の消沈ぶりは痛々しかった。
「……」
四脚を揃えて項垂れていた那由良はとうとう床に座り込んでしまった。テディベアのようにぺたりと尻を付けて、股の間には力の抜けた前脚が垂れている。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。それだけを何度も繰り返して、丸い瞳からぽろぽろと涙を零す。
「大丈夫だよ」
「にい、さま」
そんな妹に万里は鼻先を寄せ、言い聞かせるようにもう一度繰り返す。それは那由良を励まし、自分を叱咤させるための言葉だった。
「僕が頑張るから」
──僕が、頑張らないと。
「……あの笛じゃないと、駄目なのかな」
彼の言葉が過ぎった時には、吟味する間もなく口から滑り出ていた。だって、慣れない長旅も大任に押し潰されそうなのは万里も一緒だって知っている。彼だって精一杯張り詰めていて、なのに妹の不安を拭おうと更に背負い込もうとしている。これ以上は駄目だと、明らかに許容を超えた無理を黙って見過ごすことはできなかった。
突然の問いに、万里の声には困惑が滲んだ。
「その、吹き鳴らした音に妖力を込めるので、意のままの音を奏でるものであれば……」
「だったら代わりになる物を探そう」
ぱっと顔を上げた那由良の前に膝を突いた。床板に出きた小さな水溜り越しに手を差し出す。
「千春さま……」
「那由良ちゃんが諦めたくないなら一緒に探そう。まだ半日ぐらいはあるし、もしかしたら代わりの楽器が見つかるかもしれない」
「……お、おねがい、します」
子狸は涙を湛えた視線を幾らか彷徨わせたあと、ごしごしと目元を擦って頭を下げた。泡を食ったのは傍らの兄だった。
「那由良、これ以上ご迷惑をかけるわけには、」
「いや!」
強い意志の籠もった妹の声に万里が息を呑む。万里は那由良のことを気が弱いと評していたし、彼女がここまではっきりと不承の意を示したのは初めてなのかもしれない。那由良は僅かに震えを残す声で、それでもきっぱりと「役に立ちたいの」と言った。ついさっきまで濡れていたはずの瞳には涙の代わりに強い意志が滲んでいる。
「母さまが庇ってくれたわたしが、不出来じゃないって証明したい。兄さまが背に負うだけの、ただの荷物じゃないって証明したい」
「僕も母さまもそんなこと、」
「わたしが、わたしのことをそう思ってるの」
幼いから、弱いから、愛しいから。向けられる庇護の根底にあるのはそんな温かく柔らかい理由だ。彼女の行き路が平穏で幸福に満ちていることを願い、その歩みを見守る視線はこれ以上ないほどに慈しみで溢れているのだろう。でも、石に足を掬われ転んでしまった時に手を差し伸べられることと、代わりに躓かれるのとでは全然違うのだ。
「誰が思わなくても、何よりわたしが思ってるの」
背負いきれない重荷を肩代わりされても、傷付いた手を背に隠して無事を喜ばれても、そこに生まれるのは決して安堵だけではない。まだそれを許される立場なのだとしても、誰かの犠牲で成り立つ安穏を享受することを何より自分が許せない。強く否定を重ねた子狸のその気持ちが、千春には痛いほどわかった。
「たとえ……千春さまにご迷惑をおかけしてでも、どなたの手をお借りしてでも、最後まで諦めたくないのです」
どうか、お力添えをお願いします。那由良は小さな前足を床上に揃えて深々と頭を下げた。千春は手のひらで掬い上げた彼女の丸い肉球を包む。
「もちろん。提案したのは私だから」
「ありがとうございます、千春さま……!」
そうと決まれば善は急げ。ぴょこんと水溜りを飛び越えた那由良を抱え、退室の挨拶もそこそこに事務所を出ようと立ち上がる。
「待て」
ぴしゃりと短い静止を発したのは、今まで静観を決め込んでいた柊崎だった。
「どこの世界に狸をぶら下げて店先を彷徨く女がいる。保健所に通報されるのがオチだ」
「……それは、そうですけど」
反論に勢いがなかったのは彼の指摘は全面的に正しかったからだ。外を歩くならともかく、狸を抱えて店内に立ち入ることは難しいだろう。今の那由良の精神状況では人化にも少しばかり不安が残る。音楽の知識が乏しい千春では適切な楽器を選べないが、かといって都会に不慣れな那由良を一人で買いに出すわけにもいかない。
「わ、わたしが人の姿に変化すれば」
「弾みで元の姿に戻ったら保健所の代わりに祓人が来るぞ。今度も誤魔化せる保証はあるか」
畳み掛けられる正論に那由良も口を噤んだ。二人して返す言葉こそ見つけられなかったものの、特に千春は大人しく諦めるつもりはなかった。通じるかはさておき実力行使も辞さないという決意が顔に現れていたのか、彼は短く息を吐く。
「その物騒な面を仕舞え。行くなと言ってるだけで諦めろとは言ってない。いいからちょっと待ってろ」
いいから座れと千春達をソファに押しやった柊崎は何やら電話をかけ始めた。かと思えば演奏動画でも観て目星をつけておけとタブレットを渡される。意図はよくわからないながらも万里と那由良を膝に乗せて検索結果を上から再生し続けること約三十分。
「どーも、九十九屋でーす」
そんな挨拶と共に事務所の戸を開いたのは千春の背丈を越さんばかりの木箱の塔だった。
「どこに運びます?」
「ソファの近くまで頼む」
「はいは〜い。適当に下ろしますよっと」
正しくは大きな木箱を五つ乗せた台車で、その向こうから顔を出した若者がテキパキと床の上に並べていく。キャップとダウンジャケットを身に着けた彼の、腰に巻いたウエストポーチには電卓や伝票が突っ込まれている。出で立ちだけなら酒屋の店員のようだ。荷卸を終えた彼は加賀美に小さな箱を、柊崎には紙の束を渡した。
「こんなもんで良かったっすか? とりあえず手当たり次第に持ってきましたけど」
「足りなければまた連絡する」
「粗方掻き集めてきたんですけどね。まぁ一応探しときます」
人間の膝の上でタブレットを覗き込む二匹の狸に言及することもなく、手早く仕事を終えた若者が空の台車を押して出て行く。あっという間の出来事に呆けていると、丸めた紙の束で後頭部を小突かれた。
「ボケッとしてる場合か。ユーリ、箱を下ろして中身を並べろ。お前は狸兄妹と片っ端から試奏してけ」
「あっ、はい」
指示を出すやいなや箱の中身を並べ始めたので千春も慌ててそれに倣う。木箱にみっちりと詰められていたのは数々の楽器だった。多数を占めるのはリコーダーや小型のサックス、トランペット、フルート、クラリネットなどの管楽器だが、その他に鍵盤楽器、弦楽器、打楽器なんかも混じっている。よく見るものだけではなく法螺貝や木魚のような、これ楽器なんだ……という品もあれば、明らかに異国から持ち込まれた名前も使い方もわからないような品まで、それこそ千春が用意したものとは比べ物にならないほどの種類が揃っていた。さっきの彼は楽器屋の人なのだろうか。
「そっちから手ぇつけて」
目録を睨みながら作業を続けるユーリが指した山は主に管楽器で形成されている。箱から取り出す段階で打楽器や明らかに音階の無さそうな物を選別してくれているらしい。
「これとこれは指が届きません。こちらは……少し重いかもしれません」
万里の狸視点からの助言に従って更に選り分けた物を後に回す。探しているのは身体の小さな那由良が本来の姿で楽に取り回せて自在に扱える楽器だ。
「これも駄目です……」
初めて触るはずの楽器で見事に音を奏で、しかしすぐに肩を落とした彼女は次に手を伸ばす。鳴らし方が分からない物はネットで調べ、那由良が首を振る度に線を引いて消していく。
「……」
かち、かち、かち。秒針の音に急かされながらまた一本、線を引いた。陽はとうに天辺を越え、今はゆっくりと高度を下げ続けている。刻限はもうそこまで迫っていた。
◇
それから数時間が経って、移動をしなければ間に合わないギリギリまで粘っても代わりの楽器を見つけられないまま、加賀美が手配した車の後部座席を倒して広げた楽器の選別を続けながら移動し、はたと気付いた時には広い河川敷にいた。春のうららでお馴染みの隅田川である。この川の両岸は都の事業の一環で綺麗に整備されていて、水辺の散策路としても人気のスポットだ。そんな場所で歩くわけでも遊ぶわけでもなく棒立ちする三人は中々に悪目立ちしていたが、幸いにも辺りに人気はなかったので視線が刺さることはなかった。
千春達の目の前にはとある一本の株立ちの樹木が生えていた。先端まで丹念に夕焼けで塗られた枝の向こう、穏やかな風景の中に酷く目立つ不自然な箇所が一つ。大きさは両の手のひらを広げたぐらい。無くしたパズルピースの如く景色が抜け落ちた、幹と枝が偶然作った歪な三角形の中に狸の兄妹が飛び込んでいくのを今し方見送ったばかりだ。
ステンドグラスさながらに色を変えるそこから覗くのは化物道――あちら側の世界である。
「めっちゃ集まってんな」
「間違っても中に入るなよ」
「わぁってるっつーの」
夕焼けを殆ど飲み込んでしまった藍色の空と背の高い葦原。その中にさわさわと揺れる葦が切り払われて広場のようにぽっかりと空いた場所がある。中心でぱちぱちと爆ぜるのは橙色の火の櫓。揺れる焚火が浮かび上がらせているのは化狸の宴会場だった。
宴そのものは既に始まっていて、大きな笑い声が火薬玉のように至るところで弾けていた。膳に並ぶ朱塗りの銚子と盃、団子やら果物やらが積まれた大皿、その横の姿造りは既にお頭と尻尾だけになっている。あちらから抜けてきた風からは出汁の匂いがしたのでうどんもあるのかもしれない。
「日没までは十分もない」
腕時計を確認した柊崎の言葉を聞いて、あちら側の藍色が一層深まった気がした。太陽の代わりに顔を見せた月に欠けはなく、今夜のあわいは狸囃子に相応しい満月のようだ。
様々な形の太鼓を抱えた狸達がよっこらせと位置についていく。その中に混ざる二周りも身体の小さい狸の緊張は遠目にもひしひしと伝わってきた。観客のざわめきが消えていくのに反比例して、辺りに満ちる期待は風船が膨らむように大きくなっていく。
「始まるぞ」
──カカンッ。
静まり返った化物道に響き渡る桴の音。軽やかな打音が囃子の始まりを告げたのち、甲高い笛の音が空を裂いた。その出処は子狸が構える小さな笛。力強い音が抑揚をつけて吹き鳴らされて、大太鼓と鼓がドンッと弾ける。大小様々な鼓を打つのもそれぞれの一族を代表する狸達だ。金属の鉦は小気味良く拍子を刻み、腹に響く打音は重なることで迫力が増す。
「あっ」
年嵩の熟練の奏者に万里の音が飲まれかけて思わず声が漏れたけれど、那由良の音を受けてすぐに盛り返した。彼方まで響く鋭い音と、それよりもまろやかで暖かな音。色の違う二つの音が高らかに伸びて重なり、賑わいのままに走り出しそうな打楽器を纏め上げて更に高揚を煽っていく。
ドンツクドンツクピーヒャララ、陽気な囃子にあっそれあっそれと合いの手が入る。楽器を持たない狸達はポコポコと腹鼓を打ち木の枝で杯を叩き、かと思えば赤ら顔の一匹がくるくると踊り出した。どこの工事現場から拾ってきたのか、頭にはネクタイの代わりに虎柄のロープが巻いてある。
「酒の席に種族の違いはないな」
呆れの混じるこちら側とは違って向こう側は大盛り上がりだ。金扇子を両手に広げた狸が腹回りの大きな達磨に化け、受けて立った別の狸が丸尻尾の生えた鶴になる。それを皮切りに化狸の七変化幻術合戦が始まった。巨大な独楽の上で招き猫が小槌を振り、赤瓢箪から打ち上がる八尺玉。満月だった金のくす玉が割れて、小判と鯛が泳ぐ夜空には宝船が浮いた。縁起物の在庫一層大売り出しのような景色の中で二匹の子狸がくるくると回る。跳ねる伊勢海老とトラロープを巻いた獅子舞の間を抜け、踊りながら笛を吹く。
楽しそうな二人の様子にほぅと息を吐き、無意識に握り締めていた拳を解いた。囃子の楽器は欠けることもなく、朝まで耐久地獄のダンス選手権が開催されることはないだろう。行方不明については柊崎達が手を回しているだろうし、この囃子に誘われてしまうのはもう仕方がないだろう。何とか落着したことに安堵しつつ、それはそれとして屋島に行くことがあっても事前に連絡するのは止めておこうと強く思った。




