再逢の季01
初恋の相手、昔の恋人、幼馴染はたまた同級生。劇的なな再会を果たす相手は得てして何かしらの運命を感じさせるものだ。では、そのどれでもない相手と極めて特殊な状況で再び遭遇してしまった場合、果たしてそれも運命の再会と呼べるのだろうか。
「あはは……」
「……」
春は出会いと別れの季節。鼻先を掠めた桜の花弁が、そんな使い古されたフレーズを連想させた。
◇
それは図書館から帰る道すがらのことだった。目当ての本を探すのに時間がかかったせいで予定より時間が押していた。
貴重品の入った小さめのバッグに本の詰まったトートバッグと、荷物は少々重ため。一度帰って身軽になりたいが、このまま買い出しに行けば夕方前には帰り着くことができる。天秤は効率の方にかしゃんと傾いた。
「んー」
肉か魚か。夕飯は何にしようかと考えていた千春の足元に、電柱の影からするりと現れたふかふかの毛皮がすり寄る。
「だいふく? どうしたの」
だいふくと呼ばれた白猫が千春の足に顔を寄せた。鼻周りの灰毛と、野良とは思えないほど大きな身体をした猫を文字通り大福のような姿からそう呼んでいる。名付けたのは千春ではないけれど本人、というか本猫も幾つかある名前の中でも気に入っているらしい。
猫にしてはやや短めの脚で千春の背後に回っただいふくは、ふっくらとした太い尾でたしりと地面を叩いた。
「えぇ……私スーパー行きたいんだけど……」
ぶなぁという重たい鳴き声。セールの時間が迫っているのだと少し渋ったのがお気に召さなかったのか、短い前足でたしたしと地団駄を踏んでいる。ここで断っても延々と進路を邪魔されるだろうなと悟った経験者は、腕時計の文字盤から予定を逆算してみた。
春分を過ぎ、昼と夜の長さが逆転したのはつい先日のこと。日没までの時間は少しずつ長くなり始めた。日が暮れるまでにはまだ時間があるし、まぁ少しぐらいなら。
「わかった、わかったから。連れてって」
早々に折れてしゃがみ込むと、満足げに鼻を鳴らしただいふくがぼてぼてと歩き始めた。荷物を肩に背負い直した千春も、小さく溜息を吐いてからその後を追った。
だいふくには目的地までの道案内をしている自覚はあるらしく、ブロック塀の上や民家の庭先を突っ切るようなことはなかった。きちんと歩道を歩いて歩道橋を渡り、交差点ではボタンを押すことこそ千春に促したものの青に変わるまで行儀よく尻を付けて待っていた。きちんと交通ルールを遵守し、そして時折振り返って千春が着いて来ていることを確認する。猫が恩を返す映画でもこんなシーンがあったな。
これはよっぽど大事な用があるのだろうと遅れることなくその後を追っていたのだが、路線バスにしれっと乗り込んだ時には流石にどうするか迷った。猫が化けたバスはファンタジーだがバスに乗る猫はただの無賃乗車である。
「えぇ……」
渋った千春を責めるように白い尾がステップを叩いた。毛皮に埋もれる金の瞳が早く乗れと訴えている。車内の乗客は悠々と乗り込む大きな猫に気付く様子もないし、万が一見つかっても見ず知らずの猫と押し通そうと決めて千春も後に続いた。
幾つかの停留所を経由し、降車し、再び歩いて。
「いや本当にここはどこ……」
当然ながら辺りの街並みに見覚えはなく、ぐるりと見回した住宅街に目印になりそうな目立つ建物もない。澄んでいたはずの日差しは既に橙色へと移り変わり、アスファルトに伸びる背の高い影法師の暗さが際立ちはじめている。つまり、それだけ時間が経つほどの距離を移動したということだ。
何かおかしい、と首元に滲んでいた汗を拭う。ぽかぽかと暖かい日が続くこの頃、蕾が膨らみ始めた標本木の前で今年の開花宣言は間もなくのようですなんてニュースを見かけたのはついこの間のこと。
でも、この汗が気温のせいではないことは確かだった。
(誰もいない)
平日の夕方だ。ホワイト社会人でも帰宅するのは躊躇われる時間とはいえど、買い物帰りの女性や学生の姿すらもなく文字通り人っ子一人いない。話し声や鳴き声、窓から漏れるテレビの音に扉の開閉音、足音も自動車のエンジン音も。そういった生活雑音の一切が聞こえない。風はぴたりと止み、木の葉の一枚さえもさわめかない。
喧騒からばっさり切り離された、不自然なまでの静けさだけが満ちるこの場所がどこなのか確認せんとバッグから取り出したスマホは圏外。通信障害でも起きない限り目ぼしい遮蔽物もない住宅地で電波が消失したりはしないだろう。
偶然に起こり得るそれらが同時に発生したこの状況。問題は誰の手によるもので何を目的にしているか。特に重要なのはこちらを害す意志があるかどうかだ。そして、ここまで案内してきた猫が無関係とは思えない。
ねぇだいふくと問おうとして、ついさっきまで前を歩いていた丸い毛皮が消えていることに気付いた。
「あれ、だいふぐぅわぁ!?」
どこに行ったのかと辺りを見回した瞬間、背後に感じた衝撃。油断しきっていた体幹でみっしりと重量のある一撃を支えることは出来ず、食らった勢いのまま前へつんのめる。危機一髪、手をついて顔面着地は免れたものの、代償に持っていた荷物が全部吹っ飛んでいった。
「いっ、たぁ……」
手のひらから肘にかけてと膝、アスファルトに打ち付けた箇所がじんじんと疼く。幸いにも血は出ていない。しかし食い込んだ小さな砂利がとても痛い。何が起きたんだと顔を上げた先でぶなぁと鳴いた白猫が、用は済んだとばかりに尻尾を振りながら去って行く。事情はさっぱりだが少なくとも誰の仕業かは理解した。恩返しはどうした。
「一週間おやつ抜きの刑に処す……」
出会う度にあげていたおやつをしばらくお預けすることにし、呻きながら立ち上がる。辺りを見回せば道路に転がって口の開いたバッグから財布やら手帳やらが飛び出して完全に道を塞いでいた。これはまずい、あ、待ってガレージ開けないで。
タイミング悪く現れ始めた通行人に謝ったり目を逸らしたりしつつ、アスファルトに飛び散った私物を迅速に回収してバッグに突っ込んだ千春はダッシュで踵を返した。当たり前のことながらタイムセールには間に合わなかった。
◇
明けて翌日。千春の顔色は大変に優れなかった。手を付けそびれていた課題を思い出した提出日の朝より酷い顔色をしている自覚がある。あぁ、と呻きながら路肩にしゃがみ込んだ千春をすれ違う通行人が怪訝な顔で避けて行く。よく見なくとも明らかな不審者だったが今はそんなことに構っていられなかった。
今朝になって例のトートバッグが無いことに気付いたのだ。ロゴもなければ柄もない安さと丈夫さだけが取り柄のバッグは図書館で借りた本を持ち運ぶために使っていて、だいふくに遭遇したあの時も肩に提げていた。荷物を回収した後、見ず知らずの土地――地図アプリを確認したら隣の市まで行っていた――からどうにか生活圏まで辿り着いた頃にはとっぷりと日が暮れていて、気力体力を多量に消耗した千春は買い出しを断念して冷凍パスタをレンジに突っ込んだ。つまりどこにも寄らずに真っ直ぐ帰っている。
「絶っ対あそこで落としたんだ……」
なのに家のどこにも見当たらないということはすっ転んだ際にぶん投げ、焦って拾い集めた結果借りたての中身ごと回収しそびれたということだ。だってよくよく思い出せば回収した覚えがない。あの場から立ち去りたいという意識が先行し過ぎていた。
「……」
借りた物を紛失するだなんて。もちろん紛失破損は弁償でそれも複数冊。稀覯本というわけではないけれどその出費は痛い。
そして何より。
(どうして昨日に限って……!)
とにかく何としても昨日の場所へ行かなければとバタバタ家を出てきた。行きは連れられ帰りはダッシュで場所は全然把握できてないけれど、場合によっては刑を撤回しツナ缶を献上してでも聞き出さなければならない。
そう意気込んで、まずはだいふくに呼び止められた場所へと向かっていた千春のスマホが着信を知らせた。画面には番号だけが表示されている。つまり登録していない固定電話からだ。
「はい、佐倉ですが……」
誰だろうかと耳に当てると、電話の向こうの男性は警察だと名乗った。すわ詐欺かと目を剥いて身構えたが、告げられたのは家族の事故でもカードの不正使用でもなかった。
「はい……はい、ありがとうございます……」
その後、いくつか言葉を交わしてから通話を切った千春はすぐさま踵を返した。地図アプリと時刻表を頼りにバスを探し、辿り着いたのは軒先に林檎飴のような赤色灯がぶら下がるとある交番だった。引き戸を引いて中に入るとカウンターの向こうの警官がどうしました? と尋ねてきた。
「あの、先ほどお電話いただいた佐倉ですが」
「あぁ、はい。身分証はお持ちですか?」
千春が提示した免許証を確認した警官は、ちょっとお待ちくださいと言って部屋の奥に消え、トレーを持って戻ってきた。その上にはとても見覚えのあるトートバッグが乗っている。
「こちらなんですが」
「あ、はい! 中に図書館で借りた本と貸出カードとかが入ってたと思います」
「借りられた本のタイトルは覚えてますか?」
「はい。ええと……」
言われた通り借りた本のタイトルを暗唱していく。三冊目を読み始める前にもう大丈夫ですよと声をかけられた。一緒に入ってた貸出カードから図書館に連絡が行き、すでに本人確認も済んでいるので念の為にということだったようだ。受け取りの書類手続きを経て戻ってきたバッグの中を確認すると、本が数冊と貸出用の図書カードが無くした時のまま入っていた。
わざわざ届けてくれてありが、た、い……。見知らぬ誰かへの感謝でいっぱいだった千春の動きが徐々に鈍くなっていく。反対にがさごそと中身を探る腕は慌しく。
(ない……ない、ない、ない)
「あの、これの他には何も届いてませんか」
「届いてないですね。もしかして何か足りないですか? だったらその中に、」
そんなまさかと本を引っ張りだす。何かを言いかけていた警官がぎょっとしたのがわかったがそんなことに構っていられない。中身を全部出して薄っぺらくなったバッグをひっくり返すと、ヒラリと何かが落ちた。
「これは……?」
「メモを残してくれたみたいですよ。他にも落としてたら困るだろうから、拾った場所を書いておきますってね」
親切な人ですねと笑う警官に、全くですね同意しながら目を走らせる。手帳の頁を切り取ったであろう紙に、やや角張った字が伝言を残した経緯と拾った場所のことを簡潔に綴っていた。
「……届けてくれたのって、どんな人でしたか」
「それが拾得者の権利を放棄されるとのことでしたので、個人情報についてはお教えできない決まりで」
「そう、ですか」
折り畳んだメモを握った千春は、警官にお礼を言って交番を後にした。
「……」
すたすたと少し歩いて、人気のなくなった場所で立ち止まってから手の中のメモをもう一度開いた。落とし主に返却する以上、警官は目を通しているはずだ。対応してくれた警官の視力がどんなに悪くても見落とすほど小さな文字でもない。彼の視力が行を移る間に暴落したのでなければ、恐らく見えていなかったのだろう。
紙の中央にバランス良く書き付けられた数行に渡る丁寧な伝言。その下部の余白に付け足されたであろう一行。
“足りない物は預かっている。下記の場所へ”
厄介事の気配を感じ取った千春は小さく溜息を吐いた。どうやらこのメモを残していった誰かは、ただの親切な人というわけではなさそうだ。