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そんな事をしていたらあっと言う間に五カ月。
不本意ながら、私はこの世界で充実した日々を送っていた。帰るのが少しだけ残念に思ってしまうくらいには、この世界に馴染んでしまっていたわけで。
その間、ヴィンセントは私に何か言いたげな視線を寄越してくることも気付いていた。
気付いていて、気付かないフリを続けた。時々敬語が抜けてしゃべりかけてくるその口調も、誰も見ていない時に耳元でこそりと何かを言うことも、全て私を乱すには十分で、彼が私をどう見ているのかなんて聞かなくてももう分かってしまった。
「ヴィンセントさんは…物好きですね…。朝子姉という、最高に可愛い女性が傍にいるというのに」
ある時、そんな風に言ってしまったことがある。だって彼は朝子姉の傍にずっといるわけだ。朝子姉だってヴィンセントに熱い視線を向けているというのにそちらを無視して私なんて。最高に馬鹿じゃないのなんて思ってしまう。
ヴィンセントは私の台詞を聞いて、眉間にしわを寄せた。
そして幾分か乱暴に私の手を掴むと、いつものように耳元で小さく、けれどこの日はいつもよりも低い声で囁いた。
「俺はあなたを尊敬していると言ったはずだ。だが…今はあなたのその態度は憎いな」
「………ヴィンセントさん…困ります…」
「………朝子様は確かに魅力的な女性だ。だがあの人は…別に俺でなくてもいいはずだ」
どういうこと?朝子姉はヴィンセントを心から好きなはずだが…。ヴィンセントは更に低い声で続けた。
「口では何と言っても、月子の方が寂しがり屋だ。強がっているけれどな。俺にとってはその点が凄くいいと思ったのだが…」
意地悪く言い残して去って行ったヴィンセントに対し、私は腰が砕けて床に座り込んだ。ああ、もう駄目だ。この気持ちを抑えておくことなんて不可能かもしれない。
そうやって私とヴィンセントの曖昧な関係が続き、半年が経った。私が戻る日も近い。
「月子は…やはり帰ってしまうのですか?」
ある夜のことだ。自室へ入ると、送ってくれたヴィンセントがそう聞いてきた。
「そりゃ帰りますよ。私は国家資格に合格するという使命がありますし!」
「………」
さらりとそう言えば、ヴィンセントは少し困り顔だ。いつもならば私の部屋に入る事はしないが、この時は部屋に入って来て扉を閉めた。ただならぬ雰囲気に、こちらも緊張した。
ヴィンセントは一歩私に近づく。私も一歩下がる。彼が何を言いたいのか、大体察していた私は再び困り果てていた。
「月子」
ヴィンセントの手がすっと私の頬に伸びた。こんな時でも彼の顔は綺麗で困る。
最初は彼の事は全く意識していなかった。しかしここ最近、気付けば彼の事ばかりを考えていた。理由は簡単で、夜会の時のことがそうであるが、認めるのが嫌だった。認めてしまったら、帰りにくくなるじゃないか。私は医者になる為に、帰ると決めたのに。
しかしそんな気持ちとは裏腹に、私はヴィンセントの腕が私の脇の下を通って抱き締めてくるのを見過ごした。
「……振りほどかなかったと言う事は…期待していいってことか?」
「………ヴィンセントさん…困ります…」
「…とか言いつつ、顔は全く困ってなさそうだ」
唇が重なり合うのは必然だった。
甘い口付けは、熱を帯びて激しさを増す。私も彼の背中に腕を回し、抱擁に応えた。
言葉は必要なかった。互いの気持ちはもう分かり切っていた。夜会の時から、ずっとずっと。
「…帰るな、とは言えない。月子は元の世界で、やるべき事があるのだろう」
「……はい…。私は帰ります…。医者になるために…」
「月子、約束してくれないか」
そう言うと、ヴィンセントは私から離れ、その場に跪いた。そして私の手を取って、手の甲にキスをする。
「!?ヴィンセントさん!?」
「月子、どうか俺の手を取って下さいませんか?そして結婚前提でお付き合いをして欲しいと思っている。あなたが元の世界でやらなければいけない事があると言うのも承知しているが、俺は待つ。だから、どうかまたこちらの世界に来て欲しい」
真摯な交際申込…いや、プロポーズと言うのかこれは。男性にこんな風に告白をされたのが初めてで、とても焦る。
「えっと…その…。私、色々と忙しい身ですが…」
「それも承知している。医者になるということが大変だと、月子は言っていたしな」
「それに…こっちとあっちでは時間の流れが違うでしょう…?それでも良いのですか…?」
「待つ、と言っただろう。俺は結構気長だ。そこは信用してもらっていい」
「……ヴィンセント…」
「返事は?月子」
こんな風に言われて嫌な女がいようか。感極まって思わず涙が溢れる。ヴィンセントは愛しいものを見るかのように笑いながら、今一度私を抱きしめてくれた。
「国家資格を無事に取って、研修を受けて、空いた時間でこちらに来てもいい…?医者になるのは時間がかかるけれど…でもあなたに、会いに来たいです。ヴィンセントさんのこと、好きです…」
正直に告白すれば、また口付けをされた。ああ、人を想うってこんなに幸せを感じることなのか。今まで勉強しかしてこなかった私だから、こんな気持ちを知らずにいた。
私とヴィンセントはこの夜、色々と語り合って一夜を過ごした。「やっと月子が振りむいてくれた」と安堵していたヴィンセントが面白くて、声をあげて笑ってしまった。
***
だが次の朝、姉が真っ赤な顔をしてドグラスの部屋にいる私のところへ乗り込んで来た。
「朝子姉? どうした……っ!」
何事かと問おうとした素瞬間、姉はバン!と私の頬を平手打ちにした。叩かれたということがその時は分からず、呆然として朝子姉を見上げる。
「ちょ…朝子様!」
ドグラスの焦った声が聞こえる。
朝子姉は顔を真っ赤にさせて怒っていた。
「どうして余計な事をしたのよ!?あちらの医術の知識を広めるなんて…!おかげで‘聖女がいなくても助かる’なんて巷では言われているのよ!?」
何を言っているのか当初理解できず、呆然として姉を見つめた。姉は止まらずに更に続ける。
「貴族の間でも、‘聖女は必要ないかもしれない’って言う人までいるのよ!? あちらの世界の知識を広めるなんて…どうなるか考えなかったの!? それとも自分は頭がいいってひけらかしたかったの!? おまけに…ヴィンセントと恋人同士になったんですって!? どうして月子なのよ! 彼は…あの人は私のことを…想っていてくれると…! どうして月子は私から奪っていくの!? 最低よ! あんたなんか…連れてくるんじゃなかった…! そしたらこんな嫌な想いしなかったかもしれない!」
わあああと泣きだして床に座り込んだ姉を、ドグラスは白けた目で見ていた。あ、ドグラスって姉が苦手なタイプなのだね。今の視線で理解したよ。
私もそうだよ。姉みたいなタイプ、本当に苦手だよ。
朝子姉に言い返したい事はいくつかあったのだが、泣き喚く姿を見て、一気に気分が萎える。
ああもう。本当に私と姉は合わない。考え方も違う。いや、違うなら違うで全く良いのだ。でも討論もしないで、一方的に叩いて言いたい事だけ言って。腹の中で湧いてくる不快感と苛々。
でもここで私まで怒鳴ったら何も進まないし、傍にいるドグラスが困るだろう。
深い溜息が出そうなのを我慢して、私は姉の前に膝をついて腰を下ろした。泣き続ける姉の背中にそっと手を置いて軽く撫でる。
「朝子姉…。私、自分のしたことが悪い事だとは思っていないよ。朝子姉の‘癒し’とかいう力が、全ての人を癒せるなんて思っていなかったし…」
姉は返事をしない。しかしちゃんと私の言葉を聞いていることは分かった。
「それと…ヴィンセントさんの事だけれど…ええと…」
けれど姉はバッと泣き顔を上げると、私に向かって「何も聞きたくない!月子は最低だ!泥棒!」と言い残して部屋から出て行った。残されたのは呆気にとられたドグラスと、疲れた私。
「…朝子様は…えっと……」
「…ドグラスさん、何も言わないで。ああなった朝子姉はとっても面倒だから…」
ドグラスは承知したと言わんばかりに頷いたが、逡巡した後、「君とヴィンセント殿が恋人になったとは知らなかった」とニヤニヤ顔になったので、思わずドグラスを睨んでおいた。
ややあって慌てた様子でヴィンセントも部屋にやって来て事情を聞き、溜息をつきながら「任せておけ」と短く言った。
「実は…朝子様から想いを告げられたのだ。しかし俺は月子と恋人になったと伝えてしまって…。それで朝子様は怒って月子のところに来たのだろう」
「……そうですか…。朝子姉から想いを伝えるなんて…ヴィンセントさんのこと、本気だったのですね」
朝子姉は基本的に男から告白されるのを待つタイプだった。
いや、告白するように仕向けるというか。だと言うのに自分から告白したと言う事は、ヴィンセントのことが凄く好きだったという証拠だろう。
ヴィンセントは私に一つキスをすると、慌てて部屋を出て行く。
朝子姉のお守役も大変だなと同情してしまう。
ヴィンセントが朝子姉を選ぶなんて思っちゃいないから心配はしていないが、暴走した朝子姉が何か予想外の事をやらかすのではないかと不安になっていれば案の定、二日後には姉とヴィンセントが婚約をするという話が流れたのだ。
「成程…強行突破ということか…」
聖女と護衛騎士は結ばれるという慣例の下に、朝子姉が話を通したに違いない。
私とヴィンセントが恋人だということを知っている人は少ないから、承認されれば私には成す術もない。さてさて、私はこのまま元の世界に帰ってもよいのだろうかと妙に冷静になっていると、焦った様子のヴィンセントがやって来て、私を人気のない部屋まで引っ張って行った。
「ヴィンセントさん…ちょっと…っ!」
暗くて狭い部屋でヴィンセントは私をぎゅっと抱き締めた。
息をするのが苦しいくらいに。普段の落ち着いた大人のヴィンセントの姿はそこになく、途方に暮れたと言うか、困っていると言わんばかりだった。
「月子…!俺は絶対に月子以外の女を見ない。それは信じてくれ!」
「…分かっています、分かっていますから落ち着いて…」
「落ち着いていられるか!聖女と王族の言う事は絶対だ!朝子様が俺を望み、王家が承認してしまったら…俺は朝子様と結婚しなくてはならない…!」
「………分かっていますから。だから納得のいくように、解決策を探しましょう?ね?」
ヴィンセントはのろのろと私から身体を離し、こっくりと頷いた。なんか怒られた後の少年のような反応をしているので、思わず笑ってしまった…が、そんな事を考えている場合ではない。