すり抜けのコツ
すり抜けのコツ
俺はいつも左側を抜く事にしていた、同一方向に走っていれば左側に歩行者さえいなければ交通違反とはならないからだ。
今は危険行為として検挙される可能性も有るが、道路の幅がそこそこ広ければ安全性が高い。
よくセンターライン右側をはみ出して追い抜け続けるやつがいる、確かに対向車さえいなければその方が早い事は確かだが、そのかわりおまわりさんに見つかれば減点2は免れない。
それに山道が好きな俺は道の広さが確保できていない場所でカーブなどに差し掛かれば右側を抜く行為は危険だと思っていたからだ。
細い峠道で対向車にトラックが来れば自分だけじゃなく周りのドライバーにまで迷惑を掛けることになるからね。
ちなみにこの頃の大垂水峠はかなりすり抜けが難しい峠道でもあったが、しょっちゅう走りに行っていた俺達はカーブの幅も熟知していた為、相模湖を過ぎてからは車が渋滞していてもかなりのハイスピードですり抜け走行する事が出来た。
ちなみに車の左側を抜くときは併走する車がやや動いている時がベスト、その理由は完全に車が止まってしまうと、後ろを見ずにドアを開けるドライバーが若干いるのだ。
それを避けるためやや動いている状態を好んで抜く事にしていた。
走行中なら不意に車がドアを開ける事が無いからね。
八王子市内に入るとそこからは渋滞も殆ど解消され普段の混雑と体して変わらなくなる。
日野に差し掛かったあたりでファミリーレストランを見つけ俺達は昼食を摂る事に。
このときにはすでに雨もやんで空には大きな雲が流れていた。
「あ~つかれた~」
「でも割と早かったよな」
「ああトンネル出てから相模湖まではやばかったけど」
「やっぱ何回も走っていると抜きどころも分かってくるよな」
「りゅうちゃん達さっきの山は何回も来てたの?」
「ああ夜が多いけどな」
昼間は交通量が多いため峠道のワインディングも中々気持ちよく走る事ができないが。
夜は交通量が激減する為走り屋たちは夜に大垂水峠へと集ってきていた。
この頃からローリング族という言葉が流行りだす、俺たちもその中にはまっていた。
この時代ローリング族がメインロードにしていたのはここ大垂水峠ともう一つ奥多摩周遊道路の2択。
ただし奥多摩周遊道路は夜間通行止めとなるため、自由に走ることはできなかった。
ファミリーレストランではこの先のことも話すことになった。
「りゅうちゃん大型って?」
「750ccのバイクに乗るには限定解除が必要なんだよ」
「ホウクちゃんより大きいバイクがあるんだ」
「ホウクちゃんって、まあそういうことだよ」
ミクは俺のバイクに名前を付けて呼ぶ、確かにHOWKと書いてある。
「でも限定解除は平均受験回数30回だっていう話だぞ」
「一年じゃ難しいか…」
「高志は限定解除しないのか?」
「その前に自動車の免許が先になるよ」
「あ~そうだよな」
高志の場合工業系の大学を卒業した後は外部に就職することにはしているが、うまく就職先が見つからなければ親の仕事を継ぐという話から避けられない。
それに18歳になったところで親からも金を出すから自動車の免許を取れと言われているらしい。
アルバイトとはいえ仕事場では普通自動車はもとより小型特殊などの特殊車両の運転もしなければならず、アルバイトとはいえ運転できるのとできないのではえらい違いがあるのも事実。
もしかしたら高志はどちらかというとトラックやバスの運転の方へと向かっていくのではと、このころ俺は思うようになっていた。
日野市内のファミレスでやや遅めの食事を摂ったあとは、国道もそれほど込み合わず、俺達は家路へと無事帰り着くことが出来た。
総走行距離(往復)500k、1泊2日、この頃のガソリンはレギュラーで90円前後。
250ccの燃費はやはりリッター20k以上あり俺のバイクは2ケツでの運転の為少々燃費も悪いが、高志はリッター25kを越えたと喜んでいた。
高志とは途中で分かれ俺はミクを乗せたまま彼女の家の近くへ、当然だが家まで行けば本日お休みな彼女の父と顔を合わせることが必至になる。
俺はそれでも良いと考えてはいたのだが、そうすると俺の予定は数年早まる事となる。
この頃のヤンキーや不良といえば10代での出来ちゃった婚は当たり前、彼女の親も10代での結婚なわけで、俺は10代で結婚しパパになろうとは思っていなかった。