ことだま
生きた心地のしない夜であった。
ザアザアと振る雨に、思い通りにいかない人生を重ねているようで、自分をバカバカしく感じた。ふと窓の外を見ると、黒い長傘を持った派手な装いの若者が鋪道の傍に捨てられたゴミ袋を蹴って遊んでいた。それが自分の生首を蹴られているように思えてきて、どことなく怒りが湧いてきたのだが、同時に少し愉快でもあった。
腐った正義感を振りかざし、ボロアパートを飛び出した。土砂降りの中を大声を上げて若者に近付くと、彼は差していた傘を放って走り去ってしまった。
逃げゆく彼の後ろ姿に私は「死ね。」と吐き出した。息を荒げながら、ふと我にかえり、自分が青ざめているのが鏡を見ないでも分かる。慌てて辺りを見回すと、向かいのアパートから中年の男性がこちらを見ている。彼の手に持つ携帯から私は終わったのだと分かった。
もはや逃げても無駄であると自分に言い聞かせ、トボトボと家のドアを開けた。警察が来る数分間がとても長くて、あぁ、生殺しとはこのことであるのか、とやけに冷静に納得した。頭の中で「死ね。」の言葉が残響する。私は、言葉というナイフで、人を殺してしまったのだ。
人という生き物は、皮肉にも、発達しすぎた。彼らが紡いてきた言葉というものは、己の首を絞めることもまた容易い。馬鹿と言われれば、その者は途端に頭の鈍い愚者になり、死ねと言われれば先程まで盛んであった生命活動はパッと終わりを迎えてしまう。それは何故だかわからない。世界を牛耳る億万長者も、ニュースでいつも見る大統領も、「お前なんかいなくなっちまえ」と誰かに言われれば、見る影も無く蒸発してしまうのだ。
あぁ、なんと理不尽で、公平な世界であるのかと、目下10mに転がった死骸を見て考える。
それから家に戻って、黒い制服に袖を通した彼らに口輪を穿かされると、私は涙を流した。
言論の自由を掲げて死刑となった虐殺犯は、最後まで自分は悪くないと思っていたらしい。その点私は、これほどまでに罪悪感を抱えているのだから、はるかに人間的であると自分に言い聞かせていた。
あの中年男性に現場を見られていなくても、これだけ防犯マイクの普及した世の中だ。声紋から私とすぐに割れたことであろう。母にはどう謝ろうか。刑務所というのは、満足に風呂に入れるのだろうか。
警官に連れられ、戸をくぐると、若者が蹴っていた自分の生首と目が合った。ひどく笑っていた。