死者は語らず
翌朝。リーエンに割り当てられた城塔の一室に、伝令兵が飛びこんできた。
ウィレス医師が死亡した、という知らせだった。
「……は、なんで? 身許の確認は取れてる?」
覚醒しきらない頭で質問を捻り出すと、伝令兵は現状で判明している内容を簡潔に報告してくれた。全ての疑問は脇に置いて、まず聞き取ることに集中する。
ウィレスの遺体は明け方の路上で、衛兵隊によって発見された。死因は壁に叩き付けられての内臓破裂で、付近の住民が深夜に怒鳴り声と衝突音を耳にしていることから、城塔を出て自宅に帰る途中で何らかのトラブルに巻きこまれたらしい。
平時から貧民街で献身的に治療を施すウィレス医師は衛兵隊にも顔が知られており、複数人によって本人であると確認された。診療所に戻った形跡もない。
近隣住民は関わり合いになるのを恐れて扉を固く閉ざしていたため、犯人の目撃情報はない。凶器その他の遺留品も残されておらず、そもそも治安の維持さえ覚束ない現在の衛兵隊に捜査へ振り向ける人員は残されていない。
「この件への対応について、司教殿がリーエン殿との面会を望まれております。ご案内いたしますので、誠に申し訳ありませんが至急ご準備を願います」
「部屋なら分かる。案内は必要ないよ」
「……司教殿は地下の一室におられます」
「……分かった。すぐに行くから部屋の外で待っててくれ」
まだ頭が回っていない証拠だ。伝令兵が扉を閉めるのを待って舌打ちする。水差しを使ってハンカチを濡らし、顔を拭いた。深呼吸をして気分を切り替える。
「よし、行くか」
兵士の案内を受けながら、思考を巡らせる。
伝染病が蔓延する都市に踏み留まっていたウィレスの死が、人々にどう受け止められるか。特に人望の厚かった貧民街の住人には大きなショックを与えるだろう。それだけで済めばまだしも、思わぬ暴発を招くかも知れない。
例えば〝魔人〟について。彼は伝染病の蔓延を魔人の仕業だと考えていた。それを周囲の人間に話していれば、恩人であるウィレスを殺されたと知った貧民街の住人は下手人をザイアユーネだと決めつけ、復讐を考えるかも知れない。
当然、ただの人間が束になったところで彼女には敵わない。敵意を向けられた魔人がどんな反応をするかは未知数であり、場合によっては惨劇となる。
「こちらです。中へどうぞ」
ウィレスは地下室の寝台に安置されていた。遺体を検分していたペリエスはリーエンに気付くと顔を上げるが、その表情はいつになく厳しい。
「報告を受けていると思いますが、ウィレス医師が殺害されました」
「間違いなく他殺なんだね」
「彼が内臓破裂で即死するほどの勢いで自ら壁に飛びこんだのでなければ」
聞く者が聞けば、司教ともあろう者が不謹慎だと咎められそうな言葉を吐き捨てるペリエス。その様子から、彼が内心に怒りをたぎらせているのが察せられた。
「発見したのは衛兵隊なんだよね。口止めはできそう?」
「おそらく。蘇生に一縷の望みをかけた衛兵が、真っ先にここを訪れたのが幸いしました。早朝でもあり、目撃者もほとんどいません。すぐさまイング議員と連絡を取り、ウィレス医師の死は当分の間、伏せておく方針で同意を得ました」
「貧民街の住人にはどう説明する?」
ウィレスの不在が続けば、貧民街の住民が疑問を持つのは避けられない。
「彼自身も病に倒れ、王都から派遣された医師が治療に当たっているとの情報を流布します。いずれ露見するとしても、現時点で魔人との対立が決定的になるリスクだけは避けなければなりません。復興後のことも考え、泥はこちらで被ります」
「分かった。機会があれば、それとなく広めておくよ」
我先にと逃げ出した議員も多い中、都市に踏み留まって半壊した衛兵隊を立て直したイング議員は、伝染病が収束した後の交易都市レドを率いるべき人物だ。その彼がウィレス医師の不審な死とその隠蔽に関わったと見られるのはまずい。
「リーエン。貴方は犯人についてどう見ますか」
「……偶然か意図してかはともかく、ウィレスがザイアユーネと接触した可能性はあると思う。その場合、故意なのか事故死なのかが問題かな」
大した脅威でもないウィレスを死に至らしめるというのは、衛兵を軽くあしらっていたザイアユーネらしくないと思う。思うが、リーエンがそう考えることを見越して目に付く範囲では敵対的な行動を控えていた可能性もある。原因の特定に繋がりそうな情報について、心当たりがあるとウィレスが口にした直後であることも考えれば、最初から彼女を容疑者から外すわけにもいかなかった。
「どうせザイアユーネには接触するつもりだったんだ。首尾よく会えたら、この件についても探りを入れておくよ」
「貴方まで死なないでくださいね、リーエン」
「はは、縁起でもないこと言うなよ」
軽く笑って流したが、ペリエスは真剣そのものだった。よく見れば頬がこけ、目が充血している。ほとんど睡眠を取れていないのだろう。早朝からウィレス死亡への対応に追われたのに加えて、昨晩の会議後も雑務を片付けていたのだろうか。
「……ペリエス。時間が惜しいし、もう行くけど。この部屋を出たら、少なくとも昼の鐘が鳴るまで寝台で横になれ。これは斥候としての判断だ、いいね?」
「そんなわけには……」
とっさに反論しかけたペリエスが口をつぐみ、深呼吸をする。
「いえ、そうですね。早急に私の判断が必要な案件はひとまず片付きました。倒れるべきは今ではない……貴方の忠告に従いましょう」
深々と頭を下げるペリエスと分かれ、貧民街に向かう。
ウィレスは他と比べて感染者が少ない集合住宅があると言っていた。もちろん、単なる確率の偏りという可能性もある。しかし医師であるウィレスが他との差を感じたのなら、調べてみる価値はある。そうした直感は馬鹿にならないものだ。
相変わらず、街路は昼間でも閑散としていた。時折すれ違う衛兵たちに愛想笑いを投げつつ貧民街へと足を向ける。予め正確な場所を聞いていたわけではないが、一本の通りを越えたところでここからがそうなのだと気付いた。
看板が立っているわけでも、塀や壁で隔てられているわけでもない。しかし、道路に散らばるゴミの多さや薄汚れた外壁、建物内から感じられる気配の刺々しさが、ここがどういう街なのかを雄弁に物語る。貧民街とはそういう場所だ。
周囲を見回す。人影は見当たらない。
「いるんだろ、ザイアユーネ。姿を見せてくれ」
「ふふ、流石は人族の誇る〝勇者の斥候〟ですね」
「その勇者の斥候っての、やめてくれないかな……」
「なぜです? 貴方の優れた能力を示す呼び名でしょう」
おそらく、わざと気取らせたのだろう。
つまり彼女の方から接触してきたということだ。
屋内で耳を澄ませている人間がいないとも限らないが、貴重な機会を棒に振るわけにもいかない。この場でザイアユーネと会話する覚悟を固める。
「……ともかく、会えてよかったよ。いくつか聞きたいことがあるんだ」
黄金に輝くはちみつ色の髪をツインテールにまとめた少女が街路に佇んでいた。荒廃した雰囲気には似つかわしくない豪奢な黒のドレスを身に纏い、くるくると日傘を回す姿は、どこか現実感を欠いている。初めて会った時とは違う装いだが、周囲と隔絶した強烈な存在感が彼女を彼女たらしめている。
「まず……」
用件を切り出そうとしたところで、何かを期待するような視線に気付く。
「……その服、似合っているね」
「貴方を我らの陣営に招くべく、手を尽くすとわたしは言いました。相手が好む装いを探るのもそのひとつ。ふふ、気に入っていただけましたか?」
「似合ってるけど、そういう趣味はないんだ」
リーエンが言うと、自慢げだったザイアユーネが拗ねるように唇を尖らせる。
「まあいいです。当てずっぽうで貴方の性癖を見抜けるとは思っていません。いくらでも試す機会はあることですし、遠からずわたしの虜としてみせましょう」
「期待はしないで待ってるよ」
「ふふーん。いつまでその余裕が続くか、見物ですね」
どうでもいい軽口のやり取りで、本題を切り出すタイミングを計る。
「で、ザイアユーネ。用事があって会いに来たんだろ?」
「それです。貴方が心変わりするよう手を尽くすとわたしは言いました。言ったからには必ず実現させねばわたしの気が済みません。なれば、どのような策を打つか……思案の末に、はたと閃いたのです。わたしは貴方をほとんど知らない、と」
本気とも冗談ともつかないことを口にするザイアユーネ。
「ゆえにわたしは決断しました。貴方が心変わりするまでその傍らにあり、寝食を共にし、貴方の望みを叶える力になろうと。差し当たっては、ええ、貴方が口にしていた頼まれごととやらを聞かせなさい。即座に解決へと導いてみせましょう」
上機嫌に笑いながら助力を申し出る彼女の真意が読めなかった。昨日の時点ならともかく、魔人への疑いを口にしたウィレス医師が殺された今となっては、その容疑者として最有力の人物であるザイアユーネの言葉を素直には信じられない。
疑う理由はいくらでもある。彼女が伝染病をばら撒いた犯人であるなら、手伝う振りをして証拠を隠滅したり、間違った結論へと誘導することも容易だろう。
そもそも真性の〝魔人〟である彼女は強力な魔法の使い手だが、今回の敵は魔法で焼いて倒せる類いの敵ではない。むしろ一緒に行動することでリーエンが魔人の仲間と誤解されるリスクの方が大きい。あるいはそれが目的なのかも知れない。
「ありがたい申し出だけど……」
「構いません、遠慮は無粋です。人族には高貴なる者の申し出を一度は断ってみせるという奇怪な風習があると聞き知っていますが、わたしは魔人ですからね。素直に感謝の気持ちを示し、貴方はただ、望みのままをわたしに言えばよいのです」
機嫌よく喋っているザイアユーネの目が、わずかに細められる。
「まさか、本気で断るとは言いませんよね?」
断れば、決定的に関係がこじれると直感する。
世界を己の思うがままに歪める本物の魔法使いは、例外なく人格破綻者だ。
表面上はまともに見えても、それは取り繕っているに過ぎない。
機嫌を損ねれば、街ひとつを灰燼と帰せしめるだろう。
「分かった。協力に感謝するよ、ザイアユーネ。これからよろしく」
「ふふ。これは握手というものですね。こちらこそよろしく、です」
こちらが差し出した手を満面の笑みで握るザイアユーネ。細い指はひんやりと冷えていて、肌触りは絹のようにつやつやとしている。
「じゃあ早速だけど、いくつか聞かせて欲しい。昨晩、君に突っかかって返り討ちに遭った男のことなんだけど、憶えてるかな」
「憶えています。戦士でも魔法使いでもない人族と見えましたが、散歩していたわたしに凄い剣幕で詰め寄ってきまして。おかしな遺物など隠し持たれては敵わないと思って、軽く払ってやったら大人しくなりました。それがどうかしましたか?」
「……いや、いいんだ。確認できたらそれでいい」
「待ちなさい。貴方、本心を口にしていないでしょう」
穏便に済ませようとしたのを悟られ、心臓が跳ねる。
頭ひとつ小さいザイアユーネが、間近からリーエンを見上げて唇を尖らせる。
「何度も言わせないように。わたしは貴方の力になると決めたのです。貴方と縁ある人物を殺めるのは本意ではありません。望むなら謝罪もしましょう」
「……いや、謝罪は必要ない。仕事で少し関わっただけの相手だから」
一見して、まともなことを言っているように見える。
だが、申し訳なさそうな表情の裏では常人と違うロジックが走っている。
彼女が口にした〝戦士でも魔法使いでもない人族〟という言葉が、図らずも彼女の価値観を物語っている。言ってしまえば、自身に利益や危害をもたらさない人族の生き死にごときに、魔人ザイアユーネは一切のこだわりを持たないのだ。
虫けらの死に、形ばかりの謝罪を述べたところで、彼女の誇りは傷つかない。
そんな相手から謝罪されたところで、ただただ空しいだけだ。
「ふむ……あくまでそう言い張るのなら、それもいいでしょう」
ザイアユーネが意図してウィレスを殺したわけではない。
正当防衛の結果として死に至ったと彼女は主張している。
ここまでが事実だ。ひとまずそれだけを頭に入れておく。
「察するに、その仕事とやらが頼まれごとですか。わたしの侵入を気取った王国が調査と討伐のためにそなたを送りこんだのですね。いえ、皆まで言わずとも構いません。貴方にも人族の中での立場というものがあるのでしょうから」
わたしは気遣いができるのだ、とばかりに胸を張るザイアユーネ。
だったら、こんな人目に付く場所での接触を控えて欲しいものだ。
加えて、やはり過大評価されているのではないだろうか、という懸念が強まる。
王家はペリエスからの報告を受け、慌てて対策会議でも開いている頃合いだろうし、当然ながら調査と討伐のためにリーエンが送りこまれたという事実もない。当の本人に至っては、いつ敵の内通者と見做されるかびくびくしていると言うのに。
「それだけってわけでもないんだけどね」
とりあえずハッタリで返しておく。わざわざ勘違いを訂正してやる必要はないし、ここまでのやり取りから考えて読心の魔法は使われていないと踏んだ。
「ふむ、それも当然ですか。貴方ほど有能な人材であればさもありなん」
納得したように一人うなずくザイアユーネ。切り出すならここだろう。
「……もう気付いてるだろうけど、交易都市レドには伝染病が蔓延している。こいつの感染源を特定し、治療法を見出すのが最優先の任務だ」
リーエンの言葉を受けて、ザイアユーネが思案顔を見せる。
「なるほど、どうしてスライム熱など流行るに任せているのかと思えば、そういうことなら得心もいきます。残念ながら、諸王連合も一枚岩ではありませんからね。他の勢力や派閥が改良を加えたものなら一筋縄ではいかないでしょうし、わたしも迂闊に手出しはできません。助言くらいはできるでしょうけれど」
「……諸王連合と〝スライム熱〟の関係、か」
大きく息を吸って、止める。
ザイアユーネは、ものすごく重要なことを口にした。
彼女は〝スライム熱〟という固有の病名を口にした。つまり人外の領域では既知の伝染病ということで、口ぶりからすれば対策や治療法も存在するらしい。上手く聞き出せれば、一気に問題を解決できるかも知れない。
「助言をくれるって言ったよね、ザイアユーネ」
可能なら、こっちが有効な治療法を持たないことを気付かれずに聞き出したい。知られれば、恩に着せられる可能性が高いからだ。彼女がどうしてもリーエンを諸王連合に引き入れるのを諦めないなら、なるべく借りは作りたくなかった。
さて、どう聞き出すか。なるべく平静を装って切り出す。
「スライム熱への対応として、こっちで知られていない方法はあるかな。もちろん、そっちが知られたくない魔法の情報なんかは省いていいんだけど」
知られていない方法も何も、現状では何も分かっていないのは伏せておく。
「うーん。期待させて悪いのですけれど、かかってしまったスライム熱をたちどころに快癒させるような便利な魔法があるとは寡聞にして知りません。口にする水を煮沸消毒するとか、それが無理ならせめて濾過するとか、そもそもスライムの幼生が混じっていない水源を使うとか、当たり前の方法しかないでしょうね」
思った以上に常識的な答えが返ってきた。
しかし、特殊な魔法や希少な薬草などと言われるよりは希望が持てる。
「……そうか。うん、分かった、ありがとう」
口元に手を当てて考えこむリーエンの様子にザイアユーネが眉を寄せる。
「むう、貴方の力になると宣言した矢先にこの体たらく。待っていなさい、貴方が望むなら体内からスライムを駆逐する魔法を開発してご覧に入れましょう」
「いや、それには及ばないよザイアユーネ。君がもたらしてくれた情報はとても参考になった。君の方こそ組織の中での立場があるだろうに、あえて諸王連合との関わりを示唆してくれたんだ。感謝の言葉を述べないといけないだろうね」
「うむうむ、構いません。わたしもこの程度で恩に着せようとは思っていませんので、今後もわたしの声を聞きたくなったら気軽に意見を求めるとよいですよ」
本当に感謝している。これで謎の伝染病の感染源と対策に仮説が立てられる。
一刻も早くペリエスに飲み水の分析と死体の解剖を依頼したいところだが、まずはザイアユーネと自然な流れで離れるべきだ。焦りを見せれば、そこから逆算してリーエンが何に気付いたのかを聡明な彼女に悟られかねない。
気をそらすため、適当な話題を探す。
「ところでザイアユーネ。仮に勇者の斥候を仲間に引き入れたとして、ダクエル要塞を一緒に越える方法はあるのかな。魔人である君だけなら強行突破も可能だろうけど、こっちはただの人族だ。見つかれば確実に殺される。運よく通り抜けても人族の裏切り者として刺客を送りこまれる、みたいな事態は避けたいんだけど」
人族の領域と人外の領域を隔てる天然の要害にして最終防衛線。それが西方のダクエル山脈に築かれたダクエル要塞だ。人族が持てる技術の粋を凝らした防衛兵器が配備されているし、兵と指揮官も優秀な人物が多い。山脈の要所に配置された砦群と連携した監視網は厳重で、密輸や密入国は計画だけで死罪が申しつけられる。
「ふむ、少しは興味が湧きましたか? ですが安心しなさい、楽勝です」
ザイアユーネが腕を組み胸を張ると、豊満な胸が強調される。
「すごい自信だね」
「わたしと貴方が組むのだから、不可能など存在しない。そうでしょう」
当然、という顔で言い放つザイアユーネ。
「そんなわけないだろ」
思わず言下に否定してしまった。
「ほう、わたしの力量が疑わしいと言うのですね」
「誰もそんなこと言ってないだろ。力量が怪しいのはこっちの方だ。失望しないうちに諦めて、期待外れだったって諸王連合に報告するのをお勧めするけど」
「そうでしょうか。貴方は卑下が過ぎると思うのですけれど」
ものすごく不満げだった。頬を膨らませ、細目で睨まれてしまう。
「君が耳にしたのは〝勇者の斥候〟の尾ヒレが付いたうわさだろ。現実はそんなに華々しいものじゃない。地べたを這いずり回り、ない知恵を絞って、どうにかこうにか勇者を敵のところまで連れて行って、戦うための場を整えただけだ」
ムキになっている、という自覚はあった。
勝手に評価させておけばいいのに、なぜ否定せずにはいられないのか。
「なんだ、貴方の言う通りなら誤解や行き違いは存在しないではありませんか。諸王連合は貴方の斥候としての働きを正しく評価していますよ」
「……運がよかったんだよ。いや、そうじゃない。最後は運に見放されて、それが元で勇者は死んだ。目的地まで導けなかったんだから、斥候としては失格だ」
「ふむう。わたしの知る話では、かの勇者は最後の戦いに貴方を伴わなかったと聞いています。貴方の与り知らぬ場所で勝手に死んだのですから、死んだところで貴方が責められるいわれはないと思うのですけれど?」
「そうは思わない人族もいるってことさ」
感情を抑えられず、吐き捨てるような調子になってしまった。
その瞬間、ザイアユーネがはっと気付いたような顔をしたかと思うと、一転して優しげな表情になる。あ、これ知ってる、という内心の声が聞こえた気がした。
「貴方が有能であることは、かつて敵対していた諸王連合が一番よく理解していますよ。なればこそ、わたしたちは必ずやよき関係を築けると思うのです」
演技であることは明白だった。だが自然な距離の詰め方、親愛や信頼の情に満ちた仕草、可憐で魅力的な外見に心が揺れるのは否定できない。彼女に褒められ、華のある笑顔を向けられれば、誰だって悪い気はしないだろう。
思わず口元が緩みそうになって、唇を噛む。有能であると認められたい。それは確かにリーエンという人間を形作る要素のひとつだった。そんな心の柔らかいところを無造作に突かれたようで、しかも決して悪い気はしないのが恐ろしい。
彼女がコミュニケーションの取れる相手だからと言って、気を許してはいけない。流されれば、ふと気付いた時には後戻りできなくなるだろう。
「……ザイアユーネ。君は重要な部分を伏せている。そこが明らかにならない以上、どんなに評価してくれようと手放しに信用するわけにはいかない」
彼女は、次代の勇者が現れた時にリーエンが斥候を務めるのを防ぎたいと口にした。だが、それだけなら引き抜きや殺し以外にも方法はいくらでもある。それこそ、洗脳魔法の使い手でも連れてくれば済む話だ。
「君が言った通りに諸王連合が能力を正しく評価する組織なら、当然だけど有能な人間をただ手元で腐らせたままにはしておかないはず。だから問おう、君たちは〝勇者の斥候〟をどう使うつもりなんだ?」
痛いところを突いたつもりの質問だった。だから、問われたザイアユーネが我が意を得たりとばかりに口元を緩めるのを見て警戒を強める。
「やはり貴方は好ましい。自らの分を弁え、俯瞰の視点で世界を捉えるがゆえにそのような発想に至るのですね。自らの存在で世界を塗り替える魔法の才と引き換えに得たのであろう、その視線こそ……わたしが真に欲するものです」
「ザイアユーネが? それはどういう……」
「ふふっ、嬉しさのあまり、つい口が軽くなってしまいました。我が大望……いずれ話すつもりですが、今はまだその時ではありませんね。では、リーエン」
「待て、その時って何だ。君は何が目的で……」
立ち去ろうとする気配を感じて、慌てて引き留める。
その様子を見て、ザイアユーネが目を細めた。
「わたしのために世界を敵に回す覚悟ができたなら、教えてあげますよ」
とんでもないことを言い残して、彼女はかき消えるようにその場を去った。
*
いくつかの疑問が解消された代わりに、新たな謎がいくつも提示された。
ザイアユーネへの対処は頭の痛い問題だが、今は目前の伝染病への対処が先決だ。当初の目的であるウィレスの診療所を目指す。簡素な石造りだが、周囲の掘っ立て小屋と比べれば立派な建物がそれだった。
離れていても、かすかに血と糞便の臭いが漂う。敷地内にある井戸の周りでは、汚れた衣類を洗って干している人の姿もあった。血の色というのは洗っても中々落ちないものだ。くすんだ赤に染まった大量のガーゼやシーツが風に揺れている。
診療所に入ると、ウィレスの代理としてペリエスが派遣した医者がさっと視線を向けてくる。その目には明らかに疲労と落胆の色があった。
「もしかして、使いの方ですか?」
「え? ああ……」
「ウィレス医師はどこで油を売っているんです? まさか逃げたんじゃないでしょうね。患者たちがウィレスさんはどこだ、彼を出せと騒ぎ立てるんですよ。そのうち戻ってくるからとなだめるのにも限界があります」
「……そのことで、話したいことがある。ちょっとこっちへ来てくれ」
どうやらウィレスの死は伝わっていなかったらしい。かいつまんで事情を話すと、医師は首を振って頭を抱えた。かなり精神的に参っているらしい。
「なんということだ。患者に何と説明すれば……いえ、伝えられませんね」
診療所に目を向けると、医師とリーエンの様子を伺ういくつもの視線とぶつかった。彼らにウィレスの死を伝えれば、情報はすぐに広まって大混乱になるだろう。
「悪い知らせばかりじゃない。もうすぐ解決の糸口が掴めそうなんだ。そのために確認しておきたい場所がある。他と比べて明らかに感染が少ない家があるってウィレスから聞いてるんだけど、患者の話から心当たりはないかな」
「ああ、その家なら……もう誰もいないはずですが、それでもよければ」
医者は苦い顔で首を振ってから、場所を教えてくれた。
誰もいないという理由が気になったが、追求している時間が惜しい。
「分かった、ありがとう。交代の人間も寄越すように手配するから、もう半日だけ踏み留まって欲しい。それから、確定じゃないけど井戸水が怪しい。使う前に必ず煮沸して、難しいならせめて粘膜に触れたり、直に飲んだりはしないように」
リーエンの言葉を聞いて、医師が顔をしかめる。
「井戸水が汚染されていると? お言葉ですが、それは少々考えにくい。この都市にいくつ井戸が存在するのか不明ですが、少なくとも百は下りますまい。それらが一斉に汚染されたとなると、人為的なものとでも考えないことには……」
はっとした様子で口をつぐむ医師。
彼の肩を掴んで、軽く揺さぶった。しっかりしてもらわないと困る。
「伝染病が人為的に広められたと決めつけるのは早計だ。仮に口にしたとしても、必ず感染するとも限らない。頼むから、落ち着いて行動してくれ」
ウィレスがいなくなり、代理として来た彼までパニックを起こせば、貧民街に住む人々が恐慌状態に陥りかねない。そうなれば、感染症以外で死人が出る。
「今、この場で患者たちを助けられるのは君だけだ。分かるだろ?」
「……ええ、はい、そうですね……すみません、取り乱しました」
「交代は必ず寄越すと約束する。それじゃ、もう行くから」
「はい。お互いに最善を尽くしましょう」
医師に別れを告げ、教えられた通りに道を進む。目指す家はすぐに見つかった。診療所と同じく貧民街の中では比較的しっかりした作りで、これなら雨漏りや隙間風もないだろう。感染者が出なかったのは、やはり偶然だったのかも知れない。
奇妙なことに、扉は開け放たれていた。医者がもう誰もいないと言っていたのと関係があるのだろうか。いつでも剣を抜けるよう警戒しつつ、足を踏み入れる。
静まりかえった屋内で最初に目についたのは、おびただしい流血の痕だった。誰かが争ったというより、複数人で相手に抵抗する暇を与えずなぶり殺しにしたような印象を受ける。だとすれば、斬られたのはここの住人だろう。
都市中で伝染病が蔓延する中、この一家だけが感染を免れていたのなら、あらぬ誤解を受けたのだとしても不思議はない。病を癒やす薬を隠し持っていると疑われたか、あるいは感染症を撒き散らした疑いをかけられたか。
不思議ではないが、気分が悪い。
手早く捜索を済ませて、この場を立ち去りたかった。
幸いにも、見るべきものはそれほど多くなかった。めぼしいものは略奪され、そうでないものは破壊されているからだ。死体も見当たらないので、住人は斬り付けられながらも逃げ延びたか、あるいは心ある人に運ばれたかしたらしい。
簡素な台所があり、風呂はなく、寝台はふたつ。食料庫として使われていたのだろう半地下の小部屋と、屋内に井戸があるのが特徴と言えるだろうか。
人々が密集して暮らす都市では、地下水位の低下を抑制するために個人が勝手に井戸を掘るのを禁止していることが多い。ここの住人は都市に対する何らかの貢献や業績が認められて井戸の個人所有を許可されていた、ということか。
「あるいは勝手に井戸を掘っていたのがバレて、妬まれたのか……」
恨みや妬みというのは、最初から違う世界に住んでいる人間には向きにくい。身近だからこそ、自身の置かれた状況や境遇との差が浮き彫りになり、なぜこいつだけが、こいつはズルをしているから何をしても構わない、という負の感情を生み出す。
浄化した水を入れていた革袋が空になりかけていたので、井戸水を採取する。透明で清浄な水に見える。少なくとも、外見上は他の井戸水と変わらない。
「よし、戻るか」
そろそろ、この伝染病騒ぎにもけりを付ける頃合いだろう。




