魔人ザイアユーネとの遭遇
昼飯時だが人通りはまばらで、道端で干からびているスライムばかりが目につく。雨が降ると復活する可能性もあるので、本来なら乾燥させた上で焼却するのが望ましい。しかし、この日照り続きではその気になれないのか、あるいは追い打ちをかけるような伝染病の蔓延で誰もが余裕を失っているのだろう。
衛兵隊を率いるイング評議員には夜にならなければ会えないという話だった。偵察に出た王国兵の報告を取りまとめるのも早くて夕方までかかるので、しばらく時間がある。それまでに自分の目で見ておくべき場所はどこだろうか。
気になるのは、ペリエスが口にしていたスライムの大発生だ。対応に当たった衛兵が感染したからには、スライムが保菌していた可能性は高い。スライムの出所がどこか分かれば、そのまま感染源の特定ができるかも知れなかった。
「水か……スライムが大発生するほどの水源っていうとネト大河なんだけど」
橋のたもとからネト大河を見下ろす。干魃で水位が下がっているので河岸まで五〇メートルほどの距離がある。高低差も五メートルはあり、土の堤防を含めると七メートルを下らない。当然ながら乾き切っており、大量のスライムが川から押し寄せ堤防を乗り越えて侵入してくる光景はちょっと想像しにくい。
「ここから見る限り、死骸もなし。となると、次はあれか……」
土の堤防は一部が石積みになっている。下水管を通すための補強だ。
本来なら下水管から流れ出た汚水はネト大河にそのまま流れこむのだが、水位が下がって波打ち際までの距離が空いた結果、そのまま堤防の下に堆積して汚臭を放っている。調査の名目がなければ、あまり直視したくない光景だ。
ハンカチで鼻を覆って堤防の上から観察する。思った通り、汚物に塗れてうごめく物体が確認できた。下水にスライムが生息しているのは間違いない。
また、スライムが大量発生しているならドブネズミの類はいないか、いても少数だと思われる。スライムは一定の大きさを超えると、小動物を体内に取りこんで溺死させ、栄養にするのだ。伝染病の運び手として真っ先に警戒しなければならないドブネズミがいないというのは、比較的いい知らせだと言えるだろう。
「ネズミか何かが持っていた菌をスライムが地上に運び、伝染病を広げた……衛兵隊が街中のスライムを駆除した際に運悪く感染し、菌を自宅に持ち帰ったことで家族にも感染、一気に都市全体に広がった……あり得なくはない、かな」
人口が密集する都市部の下水でスライムが生息していること自体は珍しくもない。問題は、どこから上がってきたのかだ。誰も気付いてない抜け道が存在するなら問題だが、大量発生の際にその点が追求されなかったとも思えない。
「うーん、確かに下水はスライムが繁殖しやすい場所だけど、大型のが地上に出てこないよう金網とか鉄格子とか設置してあるはずだよね。それをすり抜ける小型のスライムなら、この暑さであっという間に乾いて死ぬだろうし」
暑さで散漫になりがちな思考をまとめるため、口に出して整理していく。
「やっぱり下水で繁殖したスライムが地上に出てきて伝染病を広げてるって線は除外しよう。けど、そうなると街のあちこちに転がってるスライムはどこから来たのかって問いに戻っちゃうんだよね。さてと、どうしたものかな」
スライムは水分と栄養の両方が揃った場所に多く生息するが、決して無から湧いて出るわけではない。根絶こそ難しいものの、下水からの侵入を防いだり、生活用水に川水ではなく井戸水を用いたりといった対策を怠らなければ、都市内部で大量に発生することは通常であればあり得ないのだ。
「悩んでても仕方ない、か。とりあえず動こう」
原因不明の伝染病とスライムの大量発生。
無関係とは思えないが、最初から視野を狭めるのもよくない。
「そうだ、死体がちゃんと焼却されてるか確かめないと」
伝染病の発生源を特定するのも重要だが、これ以上の拡大を阻止するのも重要だ。通りすがりの旅人に過ぎないリーエン自身はともかく、王命で伝染病対策を任されているペリエスにとっては交易都市が機能を取り戻すまでが任務なのだから。
調査を請け負った以上、依頼人の期待には応えたい。
どうにも手に負えなさそうなら逃げるつもりだが、それはそれだ。
墓地は交易都市レドを守る市壁の外に設けられている。人口が多いので、一部の富裕層を除けば教会に併設された墓地には葬ってもらえないのだ。
レド大橋が架けられ、王都へと続く新街道が整備されてからは行き交う人々も減った旧街道沿い。そこにレドに住まう人々のための墓地はあった。
銘を刻んだ立派な墓石もあれば、朽ちかけた木の十字架や、それすらないただの土饅頭もある。普段から人通りが少なく、寂れた印象の場所だが、今はその様相を一変させている。門を潜り、壁を抜けた瞬間、それは否応もなく目に入る。
「これは……酷いな」
山のように積まれた遺体。暑熱で腐ってぐずぐずになって、強烈な腐臭が鼻をつく。墓掘り人はとっくに逃げ出したのか、死体は尊厳の欠片もない状態で乱雑に積み上げられ、放置されている。直視するのも憚られる凄惨な光景だった。
「ここにもスライム……」
新鮮な死体は栄養と水分の塊だ。ハエ、ゴキブリ、ネズミにカラス、そしてスライム。墓地は死肉喰らいどものおぞましい饗宴が繰り広げられる場となっていた。
これでは墓掘り人が逃げ出し、遺体を葬りに来た人間が放り出して逃げ帰るのも無理はない。リーエンも、仕事でなければ一目散に逃げ出しているところだ。
「この状態じゃ、何もわからな……ん?」
死体の山、その頂上に積まれた真新しい死体の腹部が不気味にうごめいているのが目に付いた。死後、時間が経ってガスが発生したとも考えられるが、外観からはそれほど腐っているようにも見えなかったのが気になった。
しばらく観察していると、腹部の膨らみは時間をかけて胸から喉へとせり上がり、やがて口へと達した。顎をこじ開けるようにしてどろりと流れ出たのは、生物の血肉を取りこんで成長した、赤黒いブラッドスライムだった。
「うへえ……」
死肉を喰らって成長するブラッドスライムは忌み嫌われる。
足元に注意しながら観察すると、墓地の周囲には赤黒いシミがいくつもあった。おそらくブラッドスライムの残骸だろう。死体を糧に成長したはいいが、やはりどこにも行けずに乾いて死んだものと思われる。また残骸はどれも墓地周辺に留まり、市壁の近くには見当たらない。乾いてひび割れた土地が間に横たわっているためだ。
つまり、墓地で増えたスライムが都市に流入したわけではない。
伝染病が最初に発生したのもここではない。ここにある死体の山は、伝染病で死人が増えた結果として築かれたものだからだ。死体を糧として増えたネズミやカラスへの対処は必要だが、根本から絶たなければ死者は増え続けるだろう。
「……くそ、どうしろってんだよ」
おそらく無駄だろうとは思いつつ、魔法水を口にしてから呪文を唱える。
〝屍よ、清めの炎を纏え〟
死体の山が一瞬にして炎に包まれる。
ぶすぶすと黒煙が上がり、驚いた死肉喰らいどもが一斉に逃げ出す。
しかし長くは続かなかった。水分が多過ぎて、火勢はすぐに衰えてしまう。
「やっぱりか……薪がないと無理だね」
魔法とは、個人の認識を世界に押しつけるもの。
少なくとも、リーエンが知る限りではそういうものだった。
なので、自分自身が無理そうだと感じてしまうと途端に威力が落ちる。
水気が多くて燃えなさそうだな、と思ってしまったが最後、どんなに魔力を注ぎこもうとも死体の山ひとつ燃やせなくなる。燃やすためには、薪を組むなり油をかけるなりして、これなら燃えそうだな、と自分を納得させる必要があるのだ。
当然、そこまで準備したなら普通に火を付ければ事足りる。
生粋の魔法使いならそのような制約は受けない。彼らは幼少時から個人の認識によって世界を歪ませる訓練を受け、ある種の狂った認識を裏付けるための全能感を育む教えを受けている。総じて人格に難はあるが、扱う魔法は強力だ。
また、魔法の素質を持った人間が敬虔な信仰者でもあった場合、一種の奇跡として魔法を使えるようになることがある。ペリエスが用いる治癒と解毒、限定的な蘇生がそれだ。彼は飄々として見えるが、その信仰心は本物だった。だからこそあの若さで司教という地位を得られたし、王命を受けて動く立場にもある。
それと比べて、後天的に魔法を身に付けたリーエンのような人間は、たとえ素質があっても培ってきた常識や学んだ知識が邪魔をする。魔法でなくとも実現が可能な、小規模かつ低威力の魔法しか扱えないことが多いのだ。
「貧弱な炎ですね。何かの冗談でしょう?」
「うわっ、え、誰?」
すぐ背後から声をかけられ、とっさに横へ飛び退く。
腐臭に満ちた日暮れの墓地にはふさわしくない、涼やかな女性の声。
振り返ると、青紫のドレスとヴェールに身を包んだ小柄な少女がそこにいた。
こちらを品定めするような翠玉色の瞳と、薄く透き通るようなヴェールを通してなお輝かんばかりの金髪。高貴な人物を思わせる装いでありながら、にやにやと歪む口元が妙に似合っている。これほど強烈な存在感を放っていながら、いつでもその形を変え、幻のように消え去ってしまいそうな印象を受ける少女だった。
「挨拶代わりに、お手本を示して差し上げましょう」
薄笑いを浮かべたまま、少女は手にした扇を開き、軽く振るう。
詠唱も何もなく、ただそれだけで業火が巻き起こった。あちこちに築かれた死体の山が眩い光を放つ火球となり、瞬く間に灰へと変じていく。燃焼と呼ぶにはあまりに速い。まるで現象を加速しているかのような燃え方だった。
吹き荒れる熱風と眼を焼く光線から目をそらすと、燃えているのは死体の山だけではないことに気付いた。リーエンの魔法で逃げ出した死肉喰らいが、次々と発火して声もなく灰になっていく。数え切れないほどの対象を、明確に選んで燃やしているのだと気付いて戦慄する。見たこともない精度と規模の魔法だった。
全てが焼き尽くされるまで、五秒もかからなかっただろう。
再び扇が打ち振るわれると、今度は突風が巻き起こって灰を運んでいく。
積もった灰が天高く舞い上げられ、綺麗に清められていく。
地面に残された焦げ跡だけが、そこに何かがあったことを物語っていた。
「君は……」
「待ちなさい、じきに衛兵どもが駆けつけます。焼いても構いませんが……」
少女が首をかしげて、尋ねる。
「貴方はそういうのを好まないでしょう?」
「まあ、そうだね」
リーエンの返事を聞き、はちみつ色の髪を持つ少女は薄く笑う。
「わたしはザイアユーネ。また会いましょうね、リーエン」
門から衛兵が出てくると、ザイアユーネと名乗った少女はリーエンの返事も待たず、かき消えるように姿を消す。前触れも何もなかった。
二人組の衛兵は駆け足でやってくると、周囲を見回して困惑する。
「妙な光が見えたんで確認に来たんだが、あんたここで何してるんだ」
「さっき、もう一人いなかったか? それより死体の山はどこへ行った」
どう答えるべきか迷って、結局は素直に答えることにする。
「信じて欲しいんだけど、青紫のドレスを着た少女が死体を跡形もなく焼いて去っていったんだ。偶然この場に居合わせたんだけど、すごい魔法だったよ」
衛兵たちは驚いた表情を見せたものの、すぐに魔法が行使されてこうなったという事実を受け入れて難しい顔になる。少し予想外の反応だった。
「驚かないんだね」
「心当たりがないでもない。それより、あんたは?」
「……墓場に用事があったんだ。名前はリーエン、旅人だよ」
適当な墓標に視線をやると、年嵩の衛兵は勝手に察してくれた。
「ああ……分かった。それから少女については他言無用で頼む。現在、衛兵隊により捜索中なのだ。もし見かけたら、政庁の臨時詰め所まで知らせてくれ」
「彼女は危険な人物なのか? 埋葬も火葬もできない死体の山を、不潔なネズミやスライムごと綺麗さっぱり片付けてくれたようにも見えたけど」
「自らの所業を隠すため、証拠隠滅した疑いがある」
吐き捨てるように言ったのは、若い方の衛兵だった。
「待て、そうと決まったわけじゃない。本人に話を聞いて、全てはそれからだ」
年嵩の衛兵が諫めるが、若い衛兵は収まらない様子だ。
「あれだけあった死体の山を燃やしたり、衛兵隊の追跡から一瞬で消えてみせたり、そんな魔法が使える人間なんて聞いたこともない。やつは〝魔人〟ですよ。毒か呪いか知らないが、伝染病もやつのせいに決まってる。屋根の上から人々を物色するような目で見たり、井戸を覗きこんでぶつぶつ言ったりしてるのを目撃したって情報もあるんだ。さっさと捕らえて、拷問にかけてでも治療法を吐かせないと!」
「おい!」
年嵩の衛兵はリーエンにちらちらと視線を向け、気にしている様子だ。
「大丈夫、誰にも言うつもりはありませんよ」
「すまんな」
彼は肩をすくめると、若い衛兵を大音声で叱りつける。
「おい、言うだけ言って気は済んだか! ならさっさと巡回に戻れ、駆け足!」
不満げな表情を隠しきれないながらも、若い衛兵は反射的に直立して敬礼、その場を駆け去った。年嵩の衛兵も、リーエンにラフな敬礼を投げてそれに続く。
それを見送ってから、ふと思いついて口にしてみる。
「……ザイアユーネ、まだいる?」
少しだけ期待していたが、返事はなかった。
風が吹く。充満していた腐臭すら焼き清められたのか、相変わらず汗の噴き出すような暑さではあるが臭いはなかった。ひとまず二次感染の危険性はなくなったと考えていいだろう。新しく生まれる遺体については、ペリエスか衛兵隊に頼んで、何とか火葬するか、無理でも埋葬だけはしてもらうよう手配しておけばいいだろう。
「わたしを呼びつけますか、リーエン」
「っ……いたのか」
来ないかと思った矢先に現れたので、反応が遅れる。
「その顔は何ですか。貴方、呼んでみただけ、などと申せば容赦しませんよ」
可憐、と言ってもいい整った容貌に、性悪そうな笑みを貼り付けて少女は言う。
可愛らしい容貌であっても、彼女は魔法使いだ。まともそうに見えても人格破綻者であることに疑いはなく、その気になればリーエンを一瞬で焼き尽くせる相手であることを努めて無視しながら、まずは会話を試みることにした。
「……ダクエル山脈の西側から来た〝魔人〟ザイアユーネ。君が声をかけてきた理由を尋ねたい。まだ殺されていないところを見ると、怨恨じゃないんだろう」
「ふふん。衛兵の言葉を真に受け、わたしを魔人と呼びますか。貴方なら、魔人なる呼称がいかなる経緯で生み出されたものか知っているでしょうに」
「大戦に負け、最後に残った人族の王国がダクエル山脈を越えて逃げ延び、東の果てにあるエイデン半島に封じこめられたのがおよそ百年前。王家の言う〝人族の領域〟を守るため、山脈の向こう側に広がる〝人外の領域〟に生きる人族をまとめて〝魔人〟と呼んでることは知ってる。実際にこの目で見てきたからね」
王国が忌み嫌い、一匹残らず殲滅すべしと唱える諸族と――ゴブリンやオーク、コボルトにリザード、不死族でさえ――共存する人族は少なからず存在する。
人族でまとまって村落を形成したり、個人や少人数で商人や傭兵として活動したりする者も少なくない。リーエンの知り合いにも大勢いるし、勇者の死後に匿ってくれたり、人族の領域へと戻る手助けをしてくれたのも彼らだった。
だが、王国の国是と相容れないがために魔人と呼ばれる彼らと、ザイアユーネとでは明確に異なる点がある。だからリーエンは彼女を〝魔人〟と呼んだ。
「ザイアユーネ、君は純粋な人族ではないだろう? 血が混じってるのか、契約したのかは分からないけど、本来の意味での〝魔人〟――それが君だ」
「ほほう、よく見抜きましたね。流石は〝勇者の斥候〟というわけですか」
「見抜いたというか……」
本気で感心した様子のザイアユーネに、思わずため息が出る。
「……人の耳はそんなに尖ってないからね」
エルフの血に由来すると思われる長耳でヴェールを持ち上げている少女は、心の底から不思議そうに耳元を押さえるのだった。
*
「リーエン、わたしと共に来てくれませんか」
改めて訪問の目的を問われたザイアユーネは、そう切り出した。
「勇者の斥候を務めた貴方の能力は高く評価されています。諸王連合はあらゆる遺恨を水に流し、魔人を束ねる王の側近として貴方を迎えたいと考えています。要するに次の勇者が現れる前にその目と耳を奪いたい、という話ですね」
あけすけに話すザイアユーネ。
人族を裏切れ、と彼女は言っている。
彼女ほどの実力者を送りこんできた以上、断ればその場で殺されることも覚悟しなければならないだろう。どことなく嗜虐的に吊り上がった笑みは強がりでも何でもなく、断られる不安など微塵も感じていないのが読み取れる。
「……誘い出して殺すための罠じゃない、という保証は?」
時間稼ぎに捻り出した問いかけに、ザイアユーネはきょとんとした顔をする。
「ふむ、言われてみれば。そうですね……強いて挙げれば、先に貴方も口にした通り、さっさと殺さずに話をしていることが証左となりませんか」
ザイアユーネの言う通り、リーエンを殺すことなど彼女にとっては容易い。彼女が暗殺者ならば、最初に出会った時点で殺されていたに違いない。
「まあ、そうだね。それにしても、諸王連合か……」
その一員となった自分を想像してみる。魔人リーエン。少しだけ魔法が使え、変わった知識があり、臆病ゆえに目端が利くだけの、人族の裏切り者。次代の勇者に見つかりでもしたら、一刀の下に斬り伏せられそうだった。
つい、口元がほころんでしまった。
その拍子に、深く考えることなく言葉が流れ出た。
「おもしろそうだけど、今は無理だよ」
「ほう、なぜですか?」
笑みを崩さず、目を細めるザイアユーネ。
「頼まれた仕事がある。それに誰かと組んだり頼られたりはもう嫌なんだ。なるべく他人には関わらず、気楽に生きたい。それだけが今の望みなんだ。次の勇者に加担する心配なんてしなくていいよ。頼まれたってお断りだ」
「そうですか」
扇を口元に当てて何事か思案するザイアユーネ。
次の瞬間、火達磨になって死ぬ覚悟を固める。
「分かりました。ならば無理強いはしません」
「いいのか?」
あっさり引いたザイアユーネの言葉が意外で、つい聞いてしまう。
「なんですか、是非にと請われて売値を吊り上げる算段でしたか」
「そういうわけじゃないけど、その気になれば気絶させて連れ去るくらい朝飯前だろ。こっちの事情を斟酌してもらえたのが意外だっただけさ」
「強引に誘拐されるのがお好みなら、それでも構いませんが……」
当然のことを述べている、といった体で喋っていた彼女が、ふと首をかしげる。
「違いますよね? もしや、期待していましたか? でしたら今からでも……」
実はそうだ、などと答えたら次の瞬間には抵抗する間もなく気絶させられ、気付いた時には人外の領域まで連れ去られていそうだった。
「もちろん違う。他人に強制されるのは真っ平だよ」
慌てて答えるリーエンに、ザイアユーネはにんまりと笑顔を向ける。
「ふむ。認識が一致したようで何よりです」
「けど、勧誘が目的なんだろ。君はそれでいいのか?」
「貴方の抱える事情は斟酌します。こちらから話を持ちかけた以上、当然です。しかし、それはわたしが諦める理由とはなりません。ただそれだけ、何も不思議なことはありません。貴方が心変わりするまで、わたしは何度でも会いに来ましょう」
そして、いいことを思いついたと言わんばかりに笑みを深めて続ける。
「そうですね。オウムの如くただ同じ台詞を囀るのもおもしろくない。次に会う時は貴方が承諾したくなるよう、わたしも手を尽くさせてもらいましょう。ええ、これは愉快な思いつきです。貴方も心待ちにしているとよいですよ」
魔人にふさわしい、狡猾で邪悪な笑顔だった。
「待て、それはどういう……」
リーエンの言葉を待つことなく、ザイアユーネは手にした扇を振るう。
風が巻き起こり、どこからともなく現れた青紫の花弁が彼女の姿を覆い隠す。
「さらばです、リーエン。また会いましょうね」
そんな言葉を残して、彼女はかき消えるように去っていった。




